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【58】感情の揺らぎ


 全身が何か暖かいものに包まれているような気がする。


 何というか、温かい風呂にどっぷりと浸かっているみたいな心地好さだ。全身にこびりついていた深い疲労が体の外側へ溶け出していくような感覚。


 それに引き上げられるようにして、俺は意識を取り戻した。


『ぅ……ここは……? 俺ってば、えーと……?』


 今まで何をしてたんだっけ?


 何で寝てたんだ?


 夢現の中、そんな疑問に答えを出す前に、


『――アクア様ッ!!』


『……ネイア?』


『良かった……!! 気がつかれたのですね!』


 頭の中に響いた言葉に、意識が覚醒する。


 それから「空間識別」を自分の周囲へ展開して、状況を確認した。


 そこは俺が居候している海底神殿の中だった。


 ネイアが祭祀場と呼んでいた神殿の一番奥まった場所で、海霊石と呼ばれる、青く輝く真球の巨大な岩が置かれている広間のような空間。


 なぜか俺は、その海霊石の前で大勢の人々に見守られていた。


 すぐそばに浮かぶネイアが、俺へ向かって両手を翳している。その手のひらからは白くて暖かい柔らかな光が、俺に注がれていた。


 何か気持ち良かったのは、ネイアが俺に魔法――おそらくは回復魔法をかけてくれていたから、なのだろう。


 回復魔法は『聖魔法』という稀少な魔法によるもので、アトランティスでも使えるのはネイアの他に何人もいないのだとか。


 それがなぜ、こんな場所で治療を受けているのかは分からないのだが。


 いや、治療を受けている理由は思い出したんだ。俺はさっきまでサハギンの大群と戦っていて、限界を迎えて気を失ったんだよな。だけどなぜわざわざこんな場所で? この場所じゃないといけない理由が何かあるのだろうか?


 そうだ。それにあのサハギンどもはどうなったのだろう?


 俺が気を失う寸前、まだ100体くらいは残っていたはずだ。その時にネイアの声が聞こえた気もしたが……。


『なあ、ネイア。サハギンどもは……って、ネイアッ!?』


 俺はネイアに状況を尋ねようとして――――悲鳴のような声をあげた。


 俺の意識のない間、触手はただ海の中を揺蕩うだけである。傘の動きに揺らされるまま、周囲に漂うだけである。


 だからこそ、そんな俺の近くにいれば、必然、触手に触れることは避けられない。


 それは俺のそばで治療をしてくれていたネイアも例外ではなかった。


『擬態』によって無害化されていない、無意識に漂っていた触手がネイアの柔らかな肌に貼りつき、刺胞から飛び出した極小の針が突き刺さって毒を流し込んで、ネイアを傷つけていた。


『あ、ぁあ……ああっ! ネイア、ごめん……!』


 慌てて自分の触手を操り、ネイアから引き剥がす。


 その瞬間、触手が剥がれる際に痛みが走ったのか、ネイアがわずかに苦痛に顔を歪めた。


『ん……ッ!』


『ぁあ、あ……! ごめ……っ、ごめん……!』


 彼女の白い肌が蚯蚓腫れのように、赤く無惨に腫れ上がっている。その光景に、俺は自分でも驚くほど狼狽してしまった。


『ごめん……っ! ごめん……っ!!』


 なぜかは分からない。


 でも、俺はこの時、2000体のサハギンどもを前にしても感じなかった恐怖と震えに支配されていた。


 無意識に触手をネイアへ伸ばそうとして、慌てて引っ込める。俺が触れたらネイアを傷つけてしまう。無意味に触手を震わせて、俺はただひたすら同じ言葉を繰り返した。


『ごめん……っ! ごめん……っ!』


『アクア様、落ち着いてください』


 しかしネイアは、激痛が走っているはずだというのに、柔らかい笑みを崩さなかった。その笑みを浮かべたまま、魔法を止めるとこちらへ近づいてくる。俺は恐怖した。


『危ないッ!!』


『アクア様、落ち着いてください』


 ネイアに触れないように触手を丸め、遠ざける。


 そんな俺にネイアは躊躇なく手を伸ばし――――抱き締めた。


 傘が引き寄せられ、彼女の両腕の中に収まる。


 その状態のまま、彼女は幼子をあやすように、もう一度続けた。


『アクア様、落ち着いてください。わたくしは大丈夫ですから』


『ごめん……っ! ごめん……っ!』


『はい。大丈夫ですよ』


『ごめん……っ! ごめん……っ!』


『はい。これくらい、何ともありませんから』


『ごめん……っ! ごめん……っ!』


 俺が落ち着くまで、ネイアはずっと抱き締めてくれていた。



 ●◯●



 自分でもなぜあんなに狼狽えたのか、理由は分からない。


 ただ、自分の意思でやったことではないとはいえ、ネイアを傷つけてしまったことで何かが恐くなってしまったのだ。


 俺が人ではないから、魔物だから、人を傷つけることに過剰に反応してしまったのかもしれない。


 人を傷つけたら、ネイアたちに嫌われたら、もうここには居られないと思って恐怖したのかもしれない。


 俺の記憶の中にある前世の自分と比べてみても、それは違和感のある過剰な反応だった。確かにネイアを傷つけてしまったら深い罪悪感を抱くだろうが、あそこまで子供みたいに狼狽えることはなかったはずだ。


 精神と肉体の乖離が、俺の精神に予期しない変容を生み出しているのだろうか。


 それは想像するだけで不安になるような考えだったが、ネイアを傷つけて大きなショックを受けた感情は、この自分のものだという確信もある。


 人ではないモノになったからと言って、人間性を失っているとは思えない。


 そうでなければ、ネイアを傷つけたことにあれほど狼狽えることはなかったはずだ。


 ならば、たとえ精神の一部が変容していたとしても、それは俺にとって不都合のある変容ではないのだろう。……今のところは。


 ――それよりも。


『うぅ……待たせて、すまん』


 子供が泣きじゃくるように動揺してしまったことが、どことなく気恥ずかしい。


 海底神殿の祭祀場に集まっていた者たちは、俺が落ち着くまで何も言わずに待ってくれていた。


 そこにいるのはネイアとサーチャ、それから俺が助けたイケメンと、彼が率いていた兵士たちが十数人。全員で20人くらいだ。残りの兵士たちは治療か、それとも別に仕事があるのか、ここにはいないようだった。


『アクア様が謝ることではございませんわ。それに、わたくしももう、何ともございませんし』


 何となく微笑ましげな笑みを浮かべて、ネイアは『ほら』と、赤く腫れ上がっていた腕を掲げて見せた。


 痛々しい蚯蚓腫れがあった白い肌は、元の滑らかな肌に戻っている。


 というのも、ネイアが自分で回復魔法を使い、癒したのだ。


 そりゃそうだよね。回復魔法使えるんだし、自分で治せるよね。


 まあ、治ったからといって、罪悪感が消えるわけでもないんだが。


 それでもこれ以上気にするそぶりを見せるべきではないだろう。


『うん…………そっ、それで!? 俺が気を失った後、どうなったのか聞いても良いか?』


 俺は気まずい空気を払拭するように、ことさら声を大にして問うた。いやまあ、気まずいと思っているのは俺だけかもしれんが。


『はい。では、私から説明いたします』


 そう言って前に出てきたのは、イケメンだ。


『お、おう。頼むね』


『はい』


 どこか生温かいようにも感じられる表情で、イケメンは頷き、あの後何があったのかを説明し始めた。




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