【37】残念! リヴァイアサンからは逃げられない!
「空間識別」は展開した領域内のすべてを認識する魔法だ。
だが、俺の意識――というか、俺の処理能力では領域内のすべてを一度に認識することはできない。そのため、都度、領域内の一部に意識を向けて「見る」ことになる。
その視線とも言えない曖昧な意識の集束に、リヴァイアサンは視線を合わせてきた。
――――見られている。
こちらを見られている。
ぞわりとした。
本能が全力で逃げろと叫んでいる。
確証などなくとも本能で確信できた。リヴァイアサンは俺の『鑑定』を察知し、俺の存在に気づいたのだと。
(――俺は馬鹿か!)
シードラゴンですら、自分が鑑定されたことに気づいたのだ。それよりも遥か格上と思われるリヴァイアサンが気づかないはずがない。
それなのに軽率に鑑定などしてしまった自分を罵りたくなる。
しかし、そんなのは後だ。
今はこの場を脱することが先決。「空間識別」で見ているだけだから、島の反対側にいるのだから、俺のいる場所に気づくはずがない? いや、そんなのは何の根拠もない希望的観測にすぎない。
(逃げろ逃げろ逃げろッ!!)
遥か数百キロ離れた楽園小島に設置した「座標」から「空間識別」を展開。続いて、転移場所の安全を確認する暇も惜しいとばかりに、俺はすぐさま「空間転移」を発動させた。
転移特有の浮遊感が体を包み込む。
MPのある限り、常に自分の周囲に展開している「空間識別」が、領域内に映す「視界」を変えたことを知覚して。
(良し!!)
俺は思わず喝采をあげた。
それが、間違いなく転移が発動した証拠だからだ。しかし――
(――――え?)
「視界」の中に映し出された光景が、見慣れた場所ではないことに気づいた。
というか、海の中ですらない。
その領域内しか把握できないという「空間識別」の性質上、俺は一瞬、そこが何もない空間だと錯覚してしまった。陸がない。海水がない。地面がない。海底がない。何もない?
いや、今も浮遊感を感じている。
そして本当に何もないわけではないのだと気づいた。空気はある。つまり、ここは空中で、なぜか俺は落下中で。
(あああああああああああああッッッ!?!?!?)
混乱する時間は長くなかった。
すぐに、何かに叩きつけられる凄まじい衝撃が俺を襲ったからだ。
そして叩きつけられた何かより、さらに下へと沈んでいく感覚。もう視界は見慣れた光景を映し出している。すなわち海中。
俺は空から落下し、海面に叩きつけられ、そして海中に沈んだというわけだ。
海面への衝突でダメージを負ったはずだが、すぐにそれを確認しようとは思えない。それよりもまずは、ここが何処かを把握しなければ。
転移の座標がズレた。
こんなことは今まで一度もなかった。
再び混乱と恐慌に陥りそうになるが、そんな場合ではないと気を奮い立たせる。
自らを中心に展開している「空間識別」の外縁に「座標」を設置していき、「空間識別」の範囲を拡大していく。
それが半径数百メートルにも及んだところで、俺は自分が何処にいるのか理解した。
(は、はわ……!!)
――――見ている。
海中に落下した俺を覗き込むように、巨大な生物の顔が、俺よりも遥かに大きな金色の瞳が、海上からこちらを覗き込んでいたのだ。
つまり、ここはリヴァイアサンの傍というわけだ。
俺が転移先座標の指定を間違えたのか?
いいや、違う。いくら慌てていたとはいえ、あの時にはリヴァイアサンから意識を楽園小島の座標へと移していた。ゆえに、指定を間違えたとしても意識していないここへと転移することはあり得ない。
ならば、どういうことか?
答えは簡単だ。
干渉されたのだ。リヴァイアサンが俺の転移魔法に干渉し、転移先をここへと変えたのだ。
そんなことができるのか、という疑問には意味がない。現実に俺は今、ここにいるのだから。
そしてそれを証明するかのような出来事が起こる。
俺はもう一度、楽園小島に転移しようとしたんだ。諦め悪く「空間転移」を発動しようとしたんだ。
だけど――――発動しなかったよ。
今度は発動さえしなかった。魔法行使のために体外へ流れ出した魔力が、外部からの干渉によって吹き飛ばされるのを知覚したから間違いない。リヴァイアサンの巨大すぎる魔力が、俺のちっぽけな魔力を吹き飛ばし、魔法の構成を粉々に打ち砕いたのだ。
ほへー、そんなことができるんだぁ。
勉強になったなぁ。
だからもう帰してくださいお願いしますッ!!
できることなら土下座でも何でもして許しを乞いたいが、残念ながら意思疎通を図るための手段がない。ゆえに、俺はこちらを覗き込むリヴァイアサンの巨大な顔を、静かに見つめ返すことしかできなかった。
転移を邪魔された以上、逃げるという選択肢をとることさえできないのだ。
しかし。
緊張に満ちた沈黙の時間は、予想外な形で終わりを迎える。
『――――お主』
――え?
『お主、何者じゃ?』
突如として俺の頭に――いや、俺の意識に「声」が響いた。空気を震わせる肉声とは違う、不思議な性質の声だ。
しかし、はっきりとその声は聞こえたし、はっきりとその言葉は理解できた。
直後。
俺の前方数メートル、海中に、蛍のような淡い光の粒子が無数に発生し、そして渦巻き、凝集した。
光はすぐに、半透明な像を結ぶ。
人間の、大人の、それも飛びっきりに美しい女性の姿を。
(だッ……誰……?)




