08話:オレ、今世の過去を振り返る。
彼女は。
前世を思い出したオレの、今世の身は、色無しが占める地域の色無しの家庭に唯一生まれた色持ちだった。
平民、所謂庶民の類いは姓を持たない卑しい身分だ。生まれた場所に留まり、朴訥と肉体労働に一生を捧げる。
読み書き算盤程度さえも覚える必要など全くない彼らは、咒力の片鱗すらない。従って咒法が何たるかを知る機会もない。
人知を超えた力というものは教会の説法にしか出てこない非現実的な絵空事に過ぎない。
無い無い尽くしの閉鎖的な地域に瞳と髪に咒力を有する兆しが現れたのは、はっきりいって異常事態だった。
この恐ろしい事件に恐れ戦いた実の家族は、赤子を忌み子として隠蔽する。
名無しの彼女にとっては窓もない暗い一室が世界の全てだった。
時折、床まである革布の端が開いて食べ物が落とされる。ただそれだけを待っていた。
ある日、というよりも、土壁の隙間が眩しい頃、部屋の外が騒がしくなった。
騒音が近づいて、出入り口を塞ぐために打ちつけられていた革布が釘ごと剥がされ、“食べ物を落とす何か”ではないものが来た。
その誰かは暗闇で育った子供の腕を引き、“食べ物を落とす何か”達を怒鳴り、尚も隠そうと縋り付く愚かな大人達を殴った。
驢馬の引く荷車に乗せられて、彼女は生まれて初めて外というものを知る。
家より大きいお屋敷に連れて行かれて、“荷物”が碌に歩けないと知った下男はまるで麦束でも抱えるようにそれを運んだ。
お屋敷の中で、生まれて初めて椅子に座らされ、対面する誰かが「確かに、純化だ」と言った。「咒法はどうか」とも聞かれた。
その時は言葉の意味が分からず、返事の仕方も知らず、その“誰か”が当主様だとも知らなかった。
御貴族様は存じ上げないが、この世界での家事は例え貴族の傍系(差配人)のお屋敷でも当主の母親や妻が家事を担っている。
にも関わらず当主様は卑しい身分の幼子に名を与え、屋敷では必要のない女中の役目を与え、暫くの間は家へ留め置く事に決めたらしい。
コーラル=ティールは、この屋敷で生まれて初めて身を清められ、服を着せられ、そして自分の名を持った。
彼女の仕事は簡単だった。部屋や廊下を箒で掃いて、雑巾で拭く。
ガリガリに痩せ細った幼子には重労働だが、満腹の食事を得られるのだから、むしろ喜ばしい。
しかし学の無い彼女は家事使用人の決まり事を知らなかった。
主人や主人の家族がいる部屋に立ち入ってはならぬ事も。
清掃中の部屋に万一彼らが足を踏み入れた場合は、何よりも優先して速やかに壁際へ向かい、彼らが立ち去るまでそこで壁に対面したままでいる事も。
不必要な使用人など雇う事のなかった家人は、幼い女中が働く上で知っておくべき事を知らない、という事を知らなかった。
その日、その朝。
コーラルは細く短い手足をぎこちなく動かして、広い邸宅の何倍も広い敷地の端にある井戸で水を汲んでいた。
彼女は誰にも告げた事はないが、木立が疎らに影を作る裏庭が嫌いだった。
勝手口を出ると放し飼いにされた驢馬やガチョウがいて、それらは思い思いにコーラルを追いかけて服の肩や袖をかじるのだ。
近くの厩舎で馬や豚を世話している下男は、家畜や家禽に弄ばれるコーラルの様子を見止めても、家に運び入れた時のようにひょいと抱えて持ち去ってはくれない。
だから、バケツに水を半分ばかり入れたくらいで、鳴き声を上げて騒がしく寄って来る家禽を見たコーラルは、とても焦った。
つかまっては仕事が遅れてしまう。仕事が遅れてもぶたれはしないが、昼食の時間にずれ込むとごはんが減る。
女中はコーラルしかいないが、屋敷に住み込みで働いている、台所の奥の狭い部屋で食事を取る人はコーラルの他にもいるから。
ふやけたトレンチャーが悪い訳ではないが、ここ数日、肉にありつけていない。
念入りに焼いた豚肉の硬い欠片を噛み締めたい一心で、彼女は家禽の群れの背後にある勝手口へと回る手間を惜しんだ。
主人や家人は日中、執務室やホールに居る。今日は来客の予定もないから、正面玄関の前を突っ切っても、問題は起こらない。
はずだった。
その日。
邸宅の正面に広がる庭園には、乳母に連れられた、コーラルよりもっと幼いオディロン様がいた。
不躾な女中と目が合ったオディロン様はガチョウに似た足の運びで両手を頭の横に上げて一直線にこちらへ来て、そのまま胸元に抱きついた。
バケツがコーラルの手から手から離れる。
水が淡い青色の花を付けた木にかかる。
その日。
自分の事を『おぢろん』と呼ぶ子供が、鮮やかな紅桃色の瞳をくすんだ青緑色の髪で翳らせた女の子に一目惚れをした。