10話:ゲーム脳のオレは猛烈にBキャンセルがしたい
網目のような川が張り巡った、地平線まで見渡す限りの平地。
そこにぽつぽつと家々の塊が点在し、周辺に畑があり、村落の外は荒れ野と手付かずの原生林。
遥か彼方の一部には霞む山脈が視界を僅かに狭くする程度で、あとは天穹がいっぱいに広がるばかり。
オレの今世であるコーラルの生国は、そんな場所だ。
現在の住居は、レーヴェ地方の中でも抜きん出て風光明媚な場所に建つ邸宅とは違う。
オディロン様が差配する村落の北側に位置する、日本でいうとこの庄屋さんの小規模Ver.的な(親が建てた20年ローンの一軒家に住んでいた身からしたら立派な部類に属する)家だ。
家令の仕事の一つに荘園管理がある。とは言っても、然う然う頻繁には訪れない。
領土があまりに広く、点在する村落や町の距離があまりに遠いからだ。
その為、町の名主や村の差配人達から治安と作物についての定期報告を受けたり、彼らが徴収した税の穀物を倉庫へ入れて主たる貴族に報告したり、月に一度ほど現地に訪れて裁判を開き、或いは名主や差配人の判決が適切であるかを調査するくらいが関の山。
名主や差配役は通常、地元の郷士が受け持つが、レーヴェ家では伝統的に嫡子が一部の村落や町を直轄する。
現当主であり、オディロン様の父であるウヴァル=アルマン・フォン・レーヴェ様も、やはり若い頃に名主役を体験済みだった。
まず現場の空気を知り、経験を積む。御貴族様が御帰還の際は邸宅へと戻り、父と母の仕事を学び、然る後に跡目を継ぐ。
その為の住居としてここを与えられた。身の回りの世話をする女中と共に。
女中ってオレだよ!!
身の回りって床の世話しちゃったよ!!!
何を隠そう前世の記憶を取り戻す前の単なる家事使用人の女中だったオレは、ある日坊ちゃまの御手付きとなったのだ。
ある日ってここ来た初日だよ!!!
ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛
落ち着こう、落ち着くとき、落ち着かねば。
午前中に実子の命名をしたかと思えば、オディロン様は午後早くには仕事を果たしに出て行った。
だだっ広い土地の、草がないだけの地面が剥き出した踏み分け道を馬の背に跨ってポクポク揺られて移動して、村落周辺の境界を見て回る。
悪路を通って遠方へ向かうとなると、一角だけでも、村落のほぼ中央に位置する差配人の家から昼に行って帰るだけでも日が暮れる。
全部の境界線が異常ないか調べるのに五日はかかるほど。
他にも道すがら田畑と農夫達の様子を観察し、週末には酒場とパン屋と粉引き小屋で聞き取り。
また、不測の非常時には家令の家へ走り指示を仰ぎ、病人や重傷人が出れば町へ出て医者を呼ぶ事まで責務に含まれる。
田舎暮らしは暢気そうに思えて、内実は常に多忙だ。
農村ってのはだだっ広い。
土壌の肥沃度は、フィース・デュ王国におけるズワイテ大陸平地は他の陸地よりも比較的ミネラル分が豊富な部類に入る。
しかし現代日本に比べると低い。というか根本的に化学肥料とか存在してない。そういう便利なチートアイテムないです。
村の際を流れる川下辺りに各ご家庭からうんこを回収して堆肥にする職人がいるからそれ撒くけど普通に量は圧倒的不足状態です。
うんこ少ないと回収に来たおっさんに文句言われる。コーラルは言われてた。差配人の家族に文句垂れるなんて恐れ知らずや……。
人口密度だって低いから、農業従事者もやはり少ない。
灌漑工事は理想論。現実は土耕して、種バラ蒔いて、後はお天道様任せ。
雑草? まあ、農家の子が親の手伝いとして届く範囲で抜く事はあるけど、それくらいで、残る大部分は麦の生育と一緒に放置だ。
こんな農法だと、例えば種籾を蒔いて、どんなに手厚く世話を焼いたとしても、3倍ほどの収穫にしかならない。
しかも農家のみなさんには豊作でも不作でも関係なく人頭税として50kgの脱穀小麦を納める義務がある。
成人ひとり当たりパンを年間120kgくらい消費するから、麦換算で90kg。内の9割以上がライ麦だ。
夫婦に子供三人の家庭をモデルケースにすると、村落内での手数料を含めてライ麦420kgに小麦30kgの合わせて450kgは欲しいところ。
人頭税で1人50kgの脱穀小麦を納める事が要求され、家族5人だと250kg。
自家消費の小麦30kgに年貢の250kgをプラスして小計280kg。収穫に必要な種籾は来年分のものも含めて125kg。
ライ麦も420kgの収穫に対して来年用の種籾含めて185kg。
小麦とライ麦で合計約310kgを蒔く。
1世帯が要する土地面積は、カーレンプフルクと呼ばれる耕耘器具3台と、それに繋ぐポニー6頭を差配人(=オディロン様!)の家で有するこの村では凡そ1ha。
村全体で20世帯。全てがモデルケース通りの人数ではないが、過不足を平均しても大体20haに収まる。
毎年同じ畑を使えればいいが、連作障害等の懸念から、三圃式農業が採られる。
ついでに先ほど述べた通り土地の肥沃度が低くて二毛作なんてやれば畑はゴリゴリ痩せていくので、大きく三箇所に分けられる。
小麦やライ麦を育てるスペース、亜麻や野菜類などを育てるスペース、休耕畑。
休耕畑を除いた40haを20世帯で管理する。余りにも広すぎて、何処が誰の農地というのは、実は厳密には決まっていない。
村落は一丸となって作物を育てている。
そりゃそうだ。家ごとに土地が定まっていて、そこだけ世話をするというのでは、大黒柱が大病でも患ったら一家丸ごと飢え死に一直線。
リスクヘッジ大切。
みんなで協力して作っても、小麦なんて1家で125kg蒔いて頑張って420kgくらい収穫しても250kg取られるんだからキツい。五公五民もビックリの年貢率。
しかも残った170kgのうち3分の2以上に当たる135kgは食べられない。種籾だから。
従って貢租徴収の役目を担う差配人の心情はどうしたって悪くなる。
村に住みながら農業には殆ど従事せず、主食は農家の皆さん頼りなので仕方なくはあるのだが、いつの世も中間管理職は肩身の狭い思いをするものだ。
農民達の鬱憤を晴らすのに一役買うのが酒場である。だから、村落における本当の中心地は酒場だ。
これもオディロン様付きの家庭教師の弁であるが、大抵の村や町は、酒場とその隣に建つ教会を基に展開している。
酒場、教会、家、畑。川のそばに粉引き小屋とパン窯場。住民はこの狭い社会の内側で完結する。
生まれて、8歳頃には大人の後について働き始め、地を耕し家畜を世話し、結婚して、子を産み、40代で草臥れて死ぬ。
労働者としての必要性と、身体の成熟が未発達だと母子共に死亡する確率が高まる関係から結婚は20代前半に行われる。
多産で多死でサイクルが早く、長老と呼ばれる存在は殆どが酒場のご隠居だ。
暮らす上での不満は尽きないが、村のしきたりを知る生き字引は今の体制に好意的で、苦労自体も一族郎党が処刑される危険を冒してまで反旗を翻すほどの事ではない。
家庭教師は『領民を平等に扱い、過度に甘やかさず、締め付けず。適度に褒めて、尻を叩く。この見極めが家令及び差配人達の手腕です』と締め括る。
それを世界の情勢や家業への心構えについて教鞭を揮う時の、終いの合図として良く使っていた。
オディロン様はどうだろう。良くやれてるか。
……わからん。
今の時代はまだ電球が開発されるほどの技術の発展がなく、行灯の油や蝋燭の類は高価であるため、夜の訪れが早い。
みな仕事は夕暮れ前に終えて帰るのが常だ。それでも家に着く頃には暗闇に足元が溶けてしまう。
旦那様(仮)が家に現れたのは、やはり、そんな薄明の頃。
「帰ったよ、コーラル。フリージアを見せておくれ」
「ええ、オディロンさま」
今日の執務を終えた旦那様(仮)が、寝室と居間を隔てる簾的な革のカーテンを上げて告げる。
赤ん坊を手渡せとジェスチャーしてきたのでその通りにするとフリージアを抱きかかえてスッタスッタと軽快に行ってしまう。
おいおいおーい。どこ連れて行くんかーい。そしてオレは放置かーい。
こちとらオマタ裂けとったんやぞーい。常時鈍痛不規則激痛やぞーい。
くっそ戻って来やしねえ。覚悟決めるしかないのか。
うごおぉおお、イチチチ……
摺り足で、たった数歩。されど数歩。いや8歩くらいか。10歩? いいやもう数えんのめんどくせえ。主体そこじゃねえし。
それだけの短い距離がとんでもない苦行に思える。
脂汗でドロドロになりながら寝室を出て居間に入ると、高価なはずの蝋燭に火を点していたオディロン様は目を剥いて吃驚仰天した。
オレも吃驚仰天した。
「だ、大丈夫かい?」
その心配は何にかかってるのだろうか。
割けて縫われたばかりの股から走る激痛を押して歩いてきた妻への言葉か。
それとも旦那様(仮)の隣で、我が身から生まれたはずの赤子を抱いている女を目にした母への言葉か。
「も、もうし、わけ、ありま、せん、……ですが」
隣の女は誰ですか、と問う言葉はゼヒューでゴヒューな荒い呼吸コミコミである。
オディロン様は疲労困憊な様子のオレを見兼ね、手を引いて近場の椅子へと誘う。
「ああ、なんだ。この人はフリージアの乳母だよ」
は!?
はあ!!?
はあ!??!?!?!!!?
いや、おま……はあ??!??!!!?!!?!?!?!?!?!?!?
ニコニコ笑顔のオディロン様に対する認識が(糞)へと変化した瞬間である。
・・・おや!? 旦那様(仮)のようすが・・・! おめでとう!旦那様(仮)は旦那様(糞)にしんかした! 的な?
ふざけんなオメーそんなもんBボタンだBボタン!
全力で拒否&阻止るわ!!
「い、い、い」
「い?」
「いやです!!」
自作農家の四番目に生まれた女。そして幼くしてレーヴェ家には本来不必要な女中として召し上げられた、コーラル。
その口から、完全なるオレの意思で突いて出たのは、強烈な拒絶だった。