ドーベルマンの眼差し 上
傷口はワセリンなどで潤し上からラップなどで貼り乾燥させないで治す。
4.ドーベルマンの眼差し doberemans eye
★★★アラディス・レオールノ・ラヴァンゾ エリッサ警察署署長、柔道訓練師範
丁度隣のスレン警部補がロッカーから胴着を出し、扉を一度閉めるとまだ不機嫌な横顔をしていた。
相変わらずロッカールームは無人に等しい。全く、ほぼ時間ギリギリにしか来ない。俺の柔道訓練時間は実に人気が無かった。
「まだ怒っているのか?」
ベストとネクタイを置きシャツを脱ぎ、胴着を出しながら言った。
「あんたは独占欲が強すぎだ」
「さあね」
色っぽい目で鋭く横目で睨んで来て、俺は無視してトラウザーズを脱ぎ胴着ズボンを履いた。
腰を両手で引き寄せられた為に帯で首を締め、スレン警部補が待ったを掛けて帯を放った。
胴着を黒長袖の上に着ると帯を拾い締め、髪をサイドに流した。
スレン警部補も胴着に着替え帯を締めると、腰を引き寄せて来た。
「なあアラディ」
ドンッ
「い、て、」
俺は手を払い歩いていき、スレン警部補は床に倒されたまま、腕を立て立ち上がりスパニッシュで悪態をついた。
口笛が聞こえ、俺はその方向を見た。
「おらさっさとしろジェーン!!」
「………」
スレンが角で俺の背後から肩越しに顔を覗かせ微笑し声の方向を見ては俺を見て、俺は睨んでから道場側へ歩いて行った。
まさか、レディージェーンを男子柔道で鍛えさせるつもりじゃあ無いだろうな……冗談じゃ無い。
スレン警部補はいつもの様に一度更衣室から出て他の逃げて行く人間達を捕獲しに行く。慣れたものだ。そのスレン、グリは九歳の頃から既にアジェ・ラパオ・ルゾンゲでサディストボーイとして契約者だったようだ。
ルゾンゲは現在四十六の年齢で、二十歳の時に莫大な資産でアジェ・ラパオ・ルゾンゲを世界各国に三つ建てた。リーデルライゾンと、スペインと、パリの三地点だ。スペインとパリはルゾンゲ一族の持つ古城を倶楽部にしたのだが、リーデルライゾンは一からエステスパ屋敷と共に地下に倶楽部を建設したという。その後、二十年前にはロサンゼルスと、十五年前にはリゾート地の南国に倶楽部は建設された。
グリは元々、スペインのアジェ・ラパオ・ルゾンゲの未成年契約者だったようだが、スペインの富豪夫婦が専属的に買い、その夫婦がビジネスの為に渡米し、この街へ来た際に十五歳のグリも連れてやって来るとトアルノッテの本部に入り、不運な事にはその富豪夫婦がグリの二十一の年齢の時に汚職で逮捕された。
何を思ったか、本名の戸籍をルゾンゲから預かると、警官になったようだ。今やどちらが副業かは不明だが、当初六年前にグリの正体を知った時はどんなに驚かされた事か。あちらは俺以上に驚いていたのだが。まだその頃は俺が同性しか受け付けないことまでは知られては居なく、それを勘付かれたのも三年前の事だ。というか……つい耐え切れずにグリを襲ったのは俺だったのだが。そのせいで、グリまでバイに目覚めてしまった。それまでは奴隷とマゾ達の調教師としての冷たくドキツいサディストトレーナーだった。
そういう目覚めたグリも余りにも魅力的なのだが、二度しか関係を持っていない。キスはよく交わすのだが、基本的には性質が多少異なる同士だ。相手はサディストだし、俺もそうで、互いを虐げたいという関係でも無い為に成り立たない。
第一グリは弱った目を一切見せない。激痛を受けた瞬間鞭のような目になる。俺は弱った顔が見たい。
「ううう、ううう、」
「めそめそするんじゃねえ!!!」
「ひいいっ!!」
哀れにも婦警のレディージェーンが連れてこられ、ガルドがいつもの様に俺の目の前に来て腰に手を当て背向きに仁王立った。
「………」
「………」
「ううう、ううう、」
くるっ
「この不人気があああ!!!」
「煩い」
ビシッ
「アウチ!!!」
常に、三十秒前にならなければ結局は道場は物気のからだった。いつも人の目の前に突っ立つ邪魔なガルドを蹴り退けさせると、レディージェーンが胴着姿で手の甲で顔を押さえ泣いていた。
「ううう、ううう、ラヴァンゾ署長助けてください、ううう、」
ガルドは師範代の為に、半分の量の警官達を躾る。
「あなたは彼からの指導を受けなさい」
「恐いんです! ガルド警部に毎回追い掛け回されて!」
「この白黒のなあ!! 署内の悪魔の方がなあ!! キュートでエンジェルな俺よりもよっぽどなあ!!! おっかねえん」
ビシッ
「声が喧しい。柔道前は精神を統一させる事から教えないのかお前は」
ガルドが覆い被さるように怒鳴って来て煩い為に無視して歩いていき、ジェーン巡査を引き起こした。
「もう一人の師範代にマザレロ巡査部長がいる。彼から今日一日は指導を受けなさい」
「駄目だ駄目だ駄目だ!! マザレロのじじいなんかにはぜってえ触れさせねえなんの為に俺がここに連れて来たと思ってるんだぶつぶつぶつ悪魔の恐怖に陥れるための」
「ううう、ううう、」
十五秒前になろうが集まらない為に、指を打たせ、五秒してどやどや扉が開いた瞬間物の見事に一瞬で埋め尽され、そして誰もがその刹那、婦警ジェーン巡査をザッと見た。
「ひいっ」
やはりあの小動物の様なハンス巡査はサボっていて、これで五回連続のサボりだ。一度だろうがサボるもの、見つけられないものの居ない中、スレン警部補でさえ連れてこれ無い程何処かへ逃亡するのはハンス巡査だけなのだが。
レガントなどは持っての他で、一度も道場で姿を見たことなど無い。
柔道の訓練が始まり、警官達の熱気が闘志と共に異常な程溢れ、共にジェーン巡査の叫び声も響き渡っていた。
まるで女嫌いとしか思えないガルドが鬼の様にハンス巡査を見つけ出し床に投げつけていて、ジェーン巡査が逃げ回るのを首根っこを掴み投げ飛ばし、もはや鬼の形相で指導に当っている。
その内ハンス巡査が情けなくも気絶し、また医務室へ運ばれて行った。
手荒いガルドの護身術はどうやら、この二ヶ月程でガルドに叩き込まれたようで、ジェーン巡査は負けん気な瞳の奥だけは変らない目許で構えていた。
訓練が終了し、いつもの奥から二番目のドアを開け、着替えを置き、服を脱ぎ腰にバスタオルを巻くとシャワーカーテンを開け
「………? キャアアア!!」
俺は目を引きつらせ、真っ青になった。
「失礼」
咄嗟にカーテンを閉め、素肌に胴着の上下を着て帯を締め着替えなど持ち外のドアを締めた。
「………」
「………」
「………」
ジェーン巡査の叫び声に咄嗟に何ごとかと駆けつけた警官達、頭に泡をつけていたり、半裸だったり、胴着姿だったり全裸だったりする者達が無数の拳銃の銃口を向けてきていて、俺だと分かると、なんとも付かぬ顔をされて銃口が下がって行った。
俺は既に顔が真赤になっていて、気まずすぎた為に咳払いし、髪を掻き上げ早めに歩いて行き列に並ぶ嵌めになった。いつでも余りに俺は不人気な為かは不明だが、いつも使用する奥から二番目はがら空きだったのだが……。
「?」
誰もがそわそわし始め伸びだとか、身体捻りだとか、ストレッチなどをし始め視線を彷徨わせていて、俺は不機嫌になって前に向き治った。だが実際、既にロッカーに胴着だとかを全て置きタオルだけ巻いたり、下着だけでシャワーを浴びに来るのが普通の男達の為、つい体の線や腕、背、首筋、耳裏、腰回り、それや……見てしまうのだが。俺をちらちら見て来て、不審に思われる前にドアだけを見た。
「署長。お先にどうぞ」
「結構だ」
警官の顔を見て、ヘソまで視線がなぞり、目を見た。
「私に構う事は無い。どうぞ」
「っと、それでは……」
早足で警官が入って行き、ドア前でドア下部を見た。
「………」
目許を引きつらせ、あたりを見た。
誰もがバッと顔を背け、俺はまた向き直った。
駄目だ。半裸の男達に囲まれていると、ままならない。男の裸は見慣れてはいても手が出せないと分かっていると、余計な事ばかり考え始める。
前の警官が長く、俺は多少苛立って来てドアを開け進んだ。
シャッ
「早くしろ。あと何人いると思っているんだ」
警官は振り返ると顔を真赤に俺を目を丸く見て、慌ててシャワーを止めた。
「ど、どうぞ、」
「急がせて悪いな」
「とんでもない」
胴着を脱ぎシャワー室へ入った。
バタンッ
?
シャシャッ
いきなり凄い勢いで突っ込まれ背をタイルに打ちつけ、刺されたかと思ったがそうでも無かった。
男は気を失ってだらんと腕と首を反らして気絶し動かなくなった。
「………」
美味しそうだ……。可愛らしい山羊のようにぐったりなって……。
首筋に舌を這わせた。
「……、」
ハッと我に返り、首を振った。
まさか、噛み付こうと? まさか。
シャワーカーテン向うに蹴り出し、顔を出した。何やらどやどや集まっていたから顔を引きつらせた。
「連れて行け。留置してもいい」
急いで二人が気絶した警官を運んで行き、俺は無人の状態でドアが締められるまでを見ていた。
ドアがしまり、ようやくシャワーを浴びると出て、素早く身支度を整えるとドアを出た。
「お待たせして申し訳無い。どうぞ」
「それでは、入らせていただきます」
足早に警官が入って行き、俺はロッカーへ戻り整えると来ていた胴着を持ち身を返した瞬間肩に手を置かれた。シャツの肩にジャケットを掛け首を傾げたスレン警部補だが。
「悲鳴が響き渡っていたが、何か?」
まさか知らずに女性の入っているシャワールームへ入ってしまったなどとは、ジェーン巡査の威信にもかかわる為に言えなかった。
「いいや」
謝りに向かうのもジェーン巡査が気まずがるだろう。せめて署長室に戻った後に電話でさっと詫びる事にする。
ロッカールームを出て颯爽と歩いて行き、呼び止められた。
「先ほどは申し訳なかったです」
「目覚めたのか。気をつけろ」
身を返し歩いて行ったがついてきた為に横に並んだ男を見た。
「まだ熱が冷めなくて……」
「氷嚢でも乗せておけ。では」
しつこく腕を掴まれ振り返った。
群青色制服上の甘いマスクの焦げ茶の髪と茶色の瞳を見る。唇が赤く大きめで、乳白色の肌は白山羊のようだ。いつも真横にシェパードを連れている凛とした警察犬捜査班のヨルダイ巡査部長だ。こういう可愛い目許に見えてトレーナーとしては一流だ。
「あなたから冷静さを奪うには何をすれば?」
「知らない」
腕を払いエレベータは危険だと思い、階段を上がって行った。
ガチャリ
え。
ガチャリ
二十数年ぶりかに味わったこの慣らされた感覚に、背を壁に付けられた。茶色の瞳が俺を見つめて来た。
「どうか……」
「嫌だ。拘束を解いてもらおうか。規律の無い奴だ」
俺は気配にそちらを見た。
視線を上げると段上にビュー女史が口許を抑え立ち止まり、俺は肩で止めさせ、警官は背後を見て咄嗟に手を俺の腕から離した。こうやって見ると、ビュー女史の特徴によく似ている。兄弟の様に似て思えた。ビュー女史には甘さは無いのだが。確か二人とも人種が同じだ。
警官が俺の背後の手錠もそのままに階段を駆け降りて行き、俺は瞬きして口を閉ざした。
ビュー女史が苦笑して降りてくると、彼女の持つ手錠の鍵を出した。
「よく殿方に襲われますのね」
「誤解だ」
壁を見て、きっと俺自身が気が緩んでいるのかもしれないとも思ったのだが。
「あなたはとても魅力的ですもの」
「………」
肩越しに見ると、手錠を持ち手首から腕と背から俺の目に視線が上がって来て、微笑んだ。俺は顔を戻し、さっさと解けと思ったが革靴横に進んだハイヒールを見ると、ゾッとして肩越しに見た。
「悪いんだが、早く解いてくれ」
意地悪っぽく彼女が微笑み、手錠に視線を落とし鍵を差した。外れると一息ついてから向き直った。
「どうもありがとう。あなたが通り掛かってくれたので助かった」
「どういたしまして」
手錠を受け取り、早めにその場から離れたかった。
「婦人には先程の事、ご内密にしておきますから」
思わせぶりに微笑むと、ダークレッドのマニキュアにレッドの大小煌くラメが珍しく塗られたネイルの爪先を見つめ、目が反らせなくなった。
赤い夕陽時に満天に輝く赤の星群の様に影の中煌いて、共に満面に煌く赤の海面のようで、それ自体が乳白の尾を引く情熱的な流星に見え、その手を引いていた。
同じ色の唇は艶めき、頬に手を当てキスをした。薔薇の甘さが広がり、手錠が落ちた。
俺はハッとして口を噤み、手錠を拾うと「失礼」と言い、階段を上がって行った。
科学検査機関の階で一人巡査を捕まえ、ヨルダイ巡査に手錠を渡すように頼んでからエレベータに乗り込んだ。
エレベータが開き、進んで行く。
「コーヒーを入れてくれ。デミタスで」
「かしこまりました。訓練指導お疲れ様です」
「ああ。では頼んだ」
署長室へ入り、秘書が持って来たコーヒーを飲み、女の味を消した。
何故キスをしてしまったんだ。全くわけが分からない。女というものに対して惹かれたわけじゃ無い。あの赤だ。
血と同じ赤だった。
ワイングラスの中の血と……
調子が悪くなる前に、青の海を見つめた。
「………」
波音は聴こえないが、綺麗だ。
白いカップの中の黒のコーヒーを傾け書斎机に戻すと、一息ついた。
しまった。ジェーン巡査にお詫びの言葉をいわなければ。二十一の若さでいきなり可愛そうにも恥じをかかせてしまい、今更思い出したくも無いのかもしれないが、申し訳無いことをしてしまった。
受話器を取りファイルの中の電話に掛けると、すぐにあの声が聴こえた。
「ジェーン巡査」
「署長」
「先ほどは実に申し訳なかった。大変な失礼をしてしまって」
「いいえ。大丈夫です。いきなりの事で驚いてしまっただけですので」
けろりと言うので、安心しておいた。
「あの、ところで署長」
「はい。何か?」
「見間違えかとは思うのですが、気になった点が……」
「………」
受話器を取り落としかけ、咄嗟にしっかり持った。
胸部のコブラだ。
「何か?」
「ああ、いえ。何も。わざわざご親切に連絡いただいて、ありがとうございました」
「いいえ。こちら側の不注意だったので。今後、無いように気をつける」
「あまり気になさらないで下さいね。プールで泳ぐことは好きなので」
俺は笑い、ジェーン巡査がちゃめけのある声で笑うと徐々にがやがやという音が響き始めた。
ガルドの声が怒鳴り散らしていて気絶して目覚めたらしいハンス巡査の声が続いた。
「あ。警部達が帰ってきた様です」
「そのようだな。今日は訓練ご苦労様。女性の身でガルド警部の訓練を耐え抜いた事は実に立派だった。しっかり身体を整えて職務を続けてくれ」
「はい!」
「それでは。本日は本当にすまなかった」
「いいえ。こちらこそ」
「では」
「はい」
「コラアア!! 何秘密のコールしてやがる愛人直下命令下しやが」
ガチャッ
全く。
TULLL
「はい」
「部下に手出ししていいと思ってやが」
ガチッ
デスクに仕舞い、鍵を掛けた。
うなされて、だが悪夢から目覚める事が出来なかった。
十代の頃の自分だ。ミラノの雨の降る暗い路地裏。石の壁にぶつかり走っては、目を堅く閉じうな垂れ、堰を切ったように走り出した。
水が激しく足許で跳ね靴の中も、裾も重くずぶ濡れにして水が靴下の足を撫でバシャバシャ音を立て、走っては指や手は冷たくも滑らかな石の壁に触れては走って行く。
走り過ぎてのどの奥が痛い。干上がるように痛いのに、雨が顔に打ち付け喉を絶え間なく潤しつづけ、涙も全て溶かしていく。
喘ぎ苦しんで堅い石畳に膝と手をつき、額を付けて号泣した。
拳で地面を叩き、顔を掴んで雷が背の上で駆け巡り泣き叫び、耳をイカズチが劈く。
口に指が入り強く噛み血が雨に濡れて石畳の溝に濃く流れ熱が溢れ、その場に倒れた夢……。
俺は目覚めたと共にベッドから落ちた。
「………」
「………」
瞬きする目に、髪が掛かって掻き上げ、俺は驚いて男を見た。
何故だ。覚えていない。麻薬をやったのか? 分からない。
ヨルダイが心配そうな顔で俺を見た。悪夢を見ていたから魘されていたのかもしれない。
辺りを見回して、悪態をついた。
署長室横の仮眠室だ。
時計を見ると、八時だった。
「出て行け」
「嫌です」
ヨルダイは膝で立ち、立ち上がった俺を見上げたが俺は首をしゃくった。
「早く」
ヨルダイが俯き、ドア前で立ち止まり、身体を向けた。
俺は暗い照明の中を身を返し奥へ歩いて行った。
「やっぱり嫌です」
石のテーブルに腰をつけた。
「異常な魘されようだった」
「なんでもない」
自分の唇を噛んだ血の味が口に広がった。血の味、血の、渇望――。指が伸びていた。
首筋に触れ、焦げ茶の髪に触れ、一瞬ヨルダイの視線が固まった。
逃さないように項を引き寄せ下にし、斜めになる石テーブルに恐怖に彩られたヨルダイの顔が写り、その目がふっと、閉じられた。
殴られると思ったのだろう。その可愛く怯む顔に微笑していた。足許に転がる椅子を蹴り退かした。
肌の質がいい。微かに野性的な香りは調教する犬関係だ。犬が芝に転がるために、野草の香りもする。犬が突進力があれば、ヨルダイにも突進力や勢いがあった。しなやかな肉体は、嗅覚の鋭い犬のトレーナーの為に、一切の煙草や麻薬関係には手を出さない為、毒されてはいない。
まだ年齢も二十三の若さだし、血肉の芳しさもある年齢……。
胸部、鳩尾、腹部。一瞬後で、ヨルダイが叫び声を上げた。血が噴出した味が広がり、ヨルダイが痛がり俺の項に爪を立て、その手を剥がし床に叩きつけ、噛み千切った。
血が口から流れ吐き出すと、ヨルダイの身から血が溢れ出し、涙に暮れる顔が可愛らしくてそそられた。
「可愛い……」
頬に触れ舌を噛み千切ろうとしたが、一気に吐き気が襲い、俺は走って行った。
サニタリーで咳き込み血を吐き出し、わけが分からなくて真っ青になった。
何だ?
何だ、あのさっきの時間は……。
何故だ。
俺は水で口をゆすぎ膨張する視野を見て、首を振って顔を押さえた。
自分が壊れて行く。わけが分からない。絶対に駄目だ。
崩壊するわけには行かない。
目を開け背を戻し、吐き気のする胃の部分を掴んで、急いで戻らなければならなかった。
ヨルダイは、逃げようとドア前で行き倒れていた。三分の一程やられてしまった為に、力が入らないようで、血も線を引いて居た。
酷い事をしてしまって。
俺はそこまで行き、ヨルダイは泣きながら首を横に振りドアを背に、腰が完全に抜けてしまっていた。
「治療する」
ヨルダイは首を横に振り続け、触れ様とすると弾かれたように壁際に逃れた。
俺は気絶させる事にし、項の後ろを攻撃した。
ぐったりしたヨルダイが倒れ、………
凄く美味しそうだ……。凄く。
………。
俺は瞬きして口を閉ざし、一瞬で目に入った円卓上のペーパーナイフから、視線を反らした。
治療具なら揃っている為に、止血と共に、俺は携帯電話を手に、即刻ルゾンゲに連絡を渡し、専属医師を来させるように言った。
しばらくして、スーツの目許にサングラスを嵌めた男が入って来て、気絶したヨルダイを見ると俺を見た。
「ミスター。何故、あなたが」
「分からない」
しつこくされて噛み千切ってやっただけだ。などと言う気分でも無かった。
「今すぐ取り掛かります」
俺はソファーに座った。
スーツを脱ぎ白衣を着ると、ゴム手袋を嵌め熱湯処理した器具で治療を素早くして行った。
直ぐに済み、包帯が巻かれると医師は頷いた。
「ありがとう。悪かったな」
「礼には及びません。……大丈夫ですか。顔が蒼い」
「大丈夫だ。俺よりもこいつが被害に遭ってさんざんだったからな」
医師は立ち上がると、俺の前まで来てから目を覗き見て来た。
「やはり顔色が悪い」
「そんな事は無い」
「そうですか?」
俺は頷き、医師は相槌を打つと戻って行きバッグを手にした。
「感謝する。請求書はまた俺の口座に」
「伝えておきます」
医師は帰って行き、俺はテーブルの上からヨルダイを綺麗なシーツのベッドに横たえさせ掛け布団を掛けた。
額を撫でた。
「悪かった……」
焦げ茶の髪を撫で、開かれた瞳を見た。
「俺が帰らなかった戒めに?」
「そうじゃない」
「しかし……」
ヨルダイが腕を回して来て抱きついてきた。
「あなたがうなされていたので……ずっと傍にいたかったんです」
「しばらくここを使え。明日、明後日の欠席は麻薬科の部長に出しておく」
「共にいてください」
「分かった。一週間で治るだろう。それまではここにずっといてやるから」
「約束して下さい」
「分かった。出かける事はあるが夜は帰る」
「本当ですか?」
「その変り、ここから出るな。拘束されたくは無いだろう」
「約束を守ります」
俺は薬を出すとそれを渡した。
「抗生物質と痛み止めだ。水無しで飲める」
ヨルダイが飲み、俺を見上げた。
「横で眠って欲しい……」
俺は相槌を打ち、横に来ると一度頭を抱き寄せた。
悪夢なんか見たく無い。人肉も嫌だ……。
深い眠りへ入って行った。
目を覚ますと、この所の事で四時半だった。レガントが四時半の為に、身体が適応してしまっている。
ヨルダイはくーくーと眠っていて、可愛かった。
女がいるのかまでは不明だが、今に連絡を入れる事だろう。
スペースが出来た為にヨルダイがごろごろ寝返り、シーツにまみれてくーくー寝息を立てると、そのままずるずるとベッド下に上半身が落ちた。
まだ幸せそうに眠っていて、引き上げてやると、寝息を立て肩に抱きついてきた為に女と間違えているようだった。
ベッドに戻すと腕を解かせ、だが手を引かれて枕代わりにされた。
事ある毎に避け方や隙をつく事が上手い為に機敏で、寝ていてもするすると引き寄せられ下敷きにされていた。
抜け出すと、ヨルダイが目をこすって目覚め、ぼやけた目で俺を見た。
「署長。おはようございます」
「ああ」
「本当にいてくれたんですね」
「痛みは無いか?」
「ありません。噛まれる痛みには元々慣れているので……」
「噛み付かれるのが元は人間じゃ無く、獰猛なドーベルマンやシェパードだからな……」
だがどう見ても、ヨルダイの身体は一度でも噛み付かれたことなど無い綺麗な肌だった。そんなに詳しくは全身を見てなどいないのだが。
「いつもジムで鍛えるのに、しばらくは無理ですか?」
「三日もすれば傷も塞がるだろうから、軽いストレッチでもしてろ」
「……署長は柔道も強ければ射的も、犬達の調教もプロフェショナルですね。それは惚れますよ。男性としてですが」
「当然だ」
「しかし、身体の関係を持ったのは成り行きです。俺があなたが帰られる前に押し掛けて、秘書は先に帰って行って、俺が余りにもいい寄る為に署長は即刻帰ろうとしたのを俺は仮眠室へ入って鍵を締めて、そうすれば去るわけにもいかないでしょう。なので、スペアで鍵をあけた署長が入って来た時に咄嗟に倒したんです」
「………」
俺は目を白くヨルダイを見て、ケロリと悪びれも無く言うために、あきれ返ってソファーに座った。
俺は首を振ってサニタリーへ向かった。ヨルダイが起き上がってついてきた為に、放っておいた。
水を飲もうとしたために留めた。
俺は新しく歯ブラシを出してやり、ヨルダイがニッと笑った。
「妙な奴だ。怒らないなんて」
「ああ、中には犬に全て噛み千切られた不運な奴も見るので」
「不運な……」
「俺と同期のガルドっているでしょう。あいつはバイセクだから毎回犬に喚きたてられて行って見ると、大体は男と木陰でやってるんですから、全く警官の風上にも置けないのは奴ですよ」
「元からアレはそうなのか……」
「どうでしょうね。俺はあの危険地帯出身では無いので、詳しくは分かりません。署長は潔癖な方だからああいう放蕩癖は分からないんでしょうね。俺も人間は彼女一筋なので……浮気なんて元々性格的に出来ないんですよ俺は」
「………」
鏡から白い目で大口を開け歯を磨くヨルダイを見て、呆れかえって口をすすぎ始めたからカウンターに背を向けた。
ヨルダイが背を伸ばし、顔を洗い始めたから俺は出て行った。人前で歯を磨く事が嫌いな為に、終るまで待つ事にした。
すぐ出て来ると入れ替わりで歯を磨いた。あちらでヨルダイは脱ぎ始めていた。
「シャワーなら軽めにしておけ」
「署長はバスに?」
「ああ」
「………」
俺はバスルームのドアを締め鍵を掛けた。
「署長! シャワー浴びさせてくださいよ!! 酷いですよ!!」
ドンドンドアを叩いて来るから、可哀相だし入れてやることにした。
「ああもう驚かせないで下さいよ」
俺はシャワーノズルを引き出すと渡し、シャワーカーテンを締めた。
「………」
シャッ
「見るな!」
「そこまでして見られたく無いんですね普段から。胴着の下も黒の長袖着ているし」
押し出しシャワーカーテンを閉め、シャツとテラードと下着を置くと顔を出した。
「体を洗わせろ」
「………。処女の女性の様な方ですね。恥かしがるなんて」
「煩い」
シャワーヘッドを奪って髪と身体を洗うとバスタブも洗い、湯を溜め始めた。
すぐに溜まり、いつもの入浴剤を入れて黒くした。
シャッ
「何だ一体今度は」
「なんか綺麗な香りがすると思いまして……、黒!! 湯まで、黒……、」
俺は顔を戻して憮然とし、入って来たから顔を引きつらせて目の前に来た顔を見た。
足だけで俺の両足を挟み立ち、俺の胴横の縁に手をつき、ニッと笑って来た。縫合部分は、はっきり言えば見られたものではない。先の部分が手術で見るからには円型に皮がぐるりと縫合されて行き、短く管が通され傷口が変に塞がらないようにされていた。
「入墨格好いいですね!」
「………、か、軽い……」
俺はがっくりうな垂れ、トレーナー時の厳しさや鋭さも無く、あっけらかんとしているので、まさか頭でも打ったんじゃないだろうなと思った。
俺は顔をあちらに向けさせると血流がよくなって血を出させる前に出るように言った。
ヨルダイはシャッとシャワーカーテンを開け、外に出ると縁に足を組み座ってから口笛を吹き縁に手をついた。
「今日明日辺りで出て行けそうだな」
「やせ我慢ですよ」
肩越しに見て来てた。
zみからかボロボロ涙を流している。
「止めないでください」
「いつまで続けたい気だ」
「体が元通りになるまで」
「ならない」
「何故噛み付かれたんですか? 食べられて殺されると思った。ナチュラルボーンキラーの目をしていた」
「………」
俺は俯き、湯から出て行きタイルを巻いて出て行った。
今に、制御できなければ刑務所に押し戻される事になる。四人の仇を討つどころか、まさか自分が……。しかも部下を負傷させた。
ヨルダイが身体を拭きズボンを履いてやって来ると、俺の前に来た。
「泣かないで下さい」
「泣いてはいない」
「犬の目を見ていると、考えていることが分かるんです。犬は滅多に涙を流せないから。でも心が泣いているとすぐに分かる」
「痛いのはお前だろう。噛み切られて、酷いことをして悪かった」
「理由など無い事は分かっています。本能的な物で噛み付くというのは、俺達が犬にも叩き込む以前に備わった事で、ただ、いつそれを行なうのかは後天的に仕込まれる事です。あんなに真っ青になって吐いて、それはそうもなるでしょう。でも、何故体が動いたんですか。あなたはクローダの幹部だったんですか? クローダには俺も生まれる前、食人鬼のイデカロという有名な右腕の古株がいた。あなたも食人を? イタリア時代にマフィアに一時期でも加わっていた方が実力と出世大国のアメリカで署長になれないわけでは無いが、なんというか……、昨夜は恐くて……。俺は署長を尊敬しているので、恐いんです。変るはずの無い方が変ることの恐れを知っていますか? 人は従順な犬とは違う。どこかに絶対に崩れて予測つかない自己を変えられない時があるんです。それが、犬の様に野生の部分があるとは訳が違う。理性を残したまま、狂って行くなんて、あなたを見失えば、どんなに皆が悲しむか」
茶色の瞳が近づき、瞳を見た。
「良かったです。光が戻って……」
犬をあやすように髪と背を撫でて来て、ずっと、きっと甘えからか、撫で続けられていたかったのか、包括されつづけていた。
「まるで狂犬のような人だ」
ヨルダイは小さく言い、俺の髪と背を撫で続けた。
ずっと痛みで泣いているヨルダイの頬から涙が流れて、首筋を濡らした。
★★★アラディス・レオールノ・ラヴァンゾ ラヴァンゾ一族御曹司
プライベートで、バートスクに来ていた。
職人の店が軒を連ねている地帯であり、一気にレトロな趣深い場所になる。
石畳を進んで行き、其々に趣向の凝らされた看板が下がり、どこかへ迷い込んだような装飾の際立つ低層建築様式が続き、渦巻き型の様にい小さな広場を中心に路地が青空を描いている。
中心地には老人の気の良い音楽隊が楽器を奏でていた。ヴァイオリン、セロ、バグパイプ、フルート。巨大な街路灯が今は照らされては居なく、美しい透かし装飾青銅で覆われる六つの球体の中の硝子は青空を透かし、その下の其々の方向を示す透かし彫りとエナメルの華麗な装飾プレートが金文字の踊る上に美しい。獅子や人魚、蝶、孔雀、薔薇、女神などが美しく彩られている。
其々路地にはモザイクタイルで、タイルの獅子の方向なら豹モチーフなどの植物のラインのうねる中に動物、人魚ならグリフォン、ドラゴンなどが金から草アカンサス装飾のうねる中に幻獣、蝶なら世界中の蝶が風や花装飾の中に飛びかい、ペイントされた孔雀ならゴクラクチョウやコンゴウインコ、ブルージェイなど描かれ鳥類が舞い、薔薇なら百合、ジャスミンなどが草木や装飾の中に、女神なら路地の芯を並ぶ六角形の紋の中にモザイクで其々の顔が記されている。
石畳は広場に来ると中央の巨大な木のようなつくりに見える街路灯を中心に、女性が大喜びしそうな露天が囲っている。織物やビロード、硝子細工や仮面、帽子、シャンデリア、様々な小物入れなどが綺麗な露天テント下に並んでいる。その奥にはそれらを造った職人達が優しく微笑んでいた。
甘い蕩けるような菓子を売る職人の店も各路地には点在し、チョコレートや飴細工、ケーキやドルチェ……。それらは香水や紅茶の店とはそれぞれが離れて置かれていた。
今日は、漆細工の店に来ていた。
群青ビロードに金内の背の広いアームチェアに身を預け黒のビロードクッションに肘を乗せ頬をつき、漆の仮面が下がる垂れ幕下に座り、様々な道具な並んだり立てかけられたりするブロンズ作業台の上で作られている物と、ルーペを目に嵌めて作業している職人の手先を見てた。漆の四角い宝石箱で、シェルで風の女神を装飾させている最中だった。その周りには、濡れ硝子ラインストーンやサファイア、シェルなどが置かれている。
狭いが落ち着く店内は、ランタンがそこかしこで燈り、蝶の剥製が針金で浮いていたり、古いシャンデリアの蝋燭が溶けていたり、猫がスツールの上や、漆の丸い小物入れや時計、万年筆、万華鏡などが並ぶアンティークなショーケースの上にいたり、五匹位がいる。古い革の装丁の並ぶ漆の本棚や、円卓の下には犬が寝そべり、上には小物やティーセットなどが置かれていた。
天井からはいろいろな物もぶら下がっては、アルミの星も下がり、中から蝋燭が燈っては光っていた。
どの職人の老人もいつでも俺が来ると、作業を見せてくれた。
手先の細かい作業や、職人技を見ていると心が落ち着く。美術品や工芸品、芸術品が精巧に、無骨な大きい手で創り上げられて行く。彼等の頭の中には緻密なデッサンと設計図があり、出来上がって行く。
貴金属や素材、形、置く場所によって全く異なって来る職人達のつくる物は美しい。
魂が入る行程を見ていると、楽しかった。
細かい器具の一つ一つも美しい。全ての物がアンティークであり使い古され華麗な装飾がなされ、愛されつづけているものばかりだ。人は物を愛するために美しく創り上げ、それら道具をつくる職人もいる。そして、それらの材料や資材を摂る男達もいて彼等は、時に命さえ掛けて地球からの物を少しだけ、いただいてくる。少しだけ。
職人は、二件隣のレース職人の老婆が刺繍師の老婆と共に仕上げさせた赤と青と黄色の尾の長い鳥が草木にとまるものを出し、そこで初めて設計図を捲くった。その下には優雅な字で二人の老婆の名と店名が記され、細かい指示が書かれている。
一つの依頼の品をつくるにあたり、時には其々の店毎にそれらを任せてひとつの品になる。
内側のビロード生地を提供する店、そのビロードに金の草木模様を華麗に打つ職人、それらを止める金の細工を華麗に作る職人、様々だ。蓋の内側はビロードの中、金枠でエレガントな鏡がはめ込まれていた。
職人はレースと刺繍のされた先ほどのものを、その鏡の斜め下に繊細につけ始めた。角度や、その場所や糸の種類、色、いろいろと書かれている。
宝石箱の本体には、金の綺麗な脚がついていて、その箱の底にも象嵌が施されている。中はシルク綿を含ませたビロードが敷かれてあり、外側も美しい象嵌だ。本体に蓋を、金の綺麗な浅彫り蝶番で固定していく。
そして、スコープ職人から受け取ったその華麗なスコープを、その中に収めた。そして、蓋が閉ざされた。
サファイアの石が金の風の中を光り、濡れ鴉色のクリスタルが粒子と裾を引く優雅な風の女神だろうか、微笑している。頭に金のアールヌーボーな装飾をつけ草木が下がり、揺れていた。四隅に彫りこまれた中に彫られた珠が揺れるように入っている。
女神の顔立ちは清涼として美しく、男の神なのか、本当に女の神なのかは不思議と分からない。
星を見ることが好きな女性に贈られるものだろうか。
職人がルーペを置いた。
「素晴らしいな」
老人が微笑み、俺も嬉しくてそれを見つめた。
「ルジクくん。何かケーキを食べるかい」
俺は顔を上げ、頷いた。
「ありがとう」
「ルーチャに持ってこさせよう。待っていなさい」
しばらくして老人が戻って来ると、椅子に座った。
「今度、夏休みにミラノに留学に行っている孫が帰って来るよ」
ルジク美術学校に行っている孫娘の事で、つい最近まではまだまだシャイな少女だった。マストネ・バル=エファーナが教壇で鞭の様に棒を振るう講義を受けていれば、この九ヶ月で性格も少しは逞しくなって帰ってくるのではないだろうか。
「楽しみでしょう」
「ああ。手紙での話も充実していて、楽しんでいるようだよ。早く顔を見たい」
「二年前は将来あなたを継ぎたいと言っていた。すごく真剣な眼差しだったな」
「あの子は繊細な子だ。小さな頃から彼女なりの創り上げるものは女性らしさを増していく。それも嬉しいことだ」
「今に、共同作も見られるんだろうな」
老人が嬉しそうに満面に微笑み、頷いた。
「はい。ルジクくん。ケーキ作ったんだけど、食べてもらえるかしら」
「美味しそうだ。ありがとう。いただくよ」
「どうぞ。フフ、この前ね。マリアから電話があって早くあなたに会いたがってたわよ」
「珍しい」
「意気揚揚としていたの。南イタリアの海で少し泳いでくるみたいだから、あの子も黒くなって帰って来るんじゃないかしら」
「黒い陽気なマリアか」
思い浮かべてみたのだが、どうも繊細なシェル顔が漆の黒さになる風が浮かばなかった。
老人が笑い、続けた。
「あの子は君に連れて行ってもらったクルージングから海が好きになってね」
「あの時はまさかマリアが泳げるなんて思わなかったから驚いて俺も海に飛び込んだんだ」
「そしたらあなたより上手だったでしょう」
「そうそう……。ウニまで俺にとって帰って来たんだ。素もぐりで。マリアが」
しかも初めて海で泳いで初めてのウニ摂りだと言うのだから、エリッサ室内水泳団も顔負けだった。
バートスクに来ると元気になる。最近、何故か食欲的な部分での偏りで悩んでいた俺も、気が落ち着く。
彼女はミラノに経つ前に、俺に黒漆に銀で獅子頭の象嵌された銀のリングを作って贈ってくれた。旅立ち前の家族内での見送りパーティーで、照れたように微笑んだ顔が愛らしかった。
「君の事が初恋の相手だからね」
「え?」
俺はコーヒーを置いて瞬きした。
「大丈夫よ。ルジクくん。将来の結婚相手にとあの子も思っているわけじゃ無いの。憧れというものね」
「そうか……。全く知らなかった。俺には既にリシュールがいるから」
「彼女は最近広告塔になっていたね」
そこでベルが店内に響いた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
客が来て、俺も顔を向けた。
「あら、珍しいわ。ミスターラヴァンゾ。ご機嫌麗しく」
トアルノッテのマダムだった。
「ごきげんよう。アルベラ婦人」
「本日はね、あたくし依頼させていただいたものを見に来たのよ。ミスターもサロンキャビネットに飾られた漆のデカンターを気に入ってらしたわよね」
「ええ」
丸く薄い漆に長く硝子筒が出ているデカンターで、漆部分に銀で蝶と孔雀が象嵌された代物だ。円の周囲の硝子部にも金で蓮のラインが施されて、孔雀下に硝子から掛かり漆部にも葉や睡蓮も華麗に伸びている。漆のトップがついた栓は滑らかなつまみになっている。
「今持って参りますね」
老人が中へ引いて行き、タッセルを引き上げるとビロードが上がり、大切そうに棚の中から一つの箱を出した。
金枠のされたビロードの台の上にそれを乗せる。
金の木になった支柱の枝一つ一つに、丸い漆に其々のものが象嵌されたものが吊るされた綺麗な置物だ。
「愛らしいわ! あとは金の鹿が番で置かれるだけね。見せていただいて宜しいかしら」
「もちろんですマダム」
微笑み綺麗な瞼で覗き込み繊細な指が空気を撫でた。
「一つ一つが実に凝っているわ。本当に素敵」
「どうもありがとうございます」
「楽しみにしているわ。ミスター。これはね、姉に贈るものなのよ」
誕生パーティーの招待状が届いていた。
「それでね、一つ一つが漆のアクセサリーチャームになっているの」
「なるほど」
「イヤリングとか、ネックレスとか、ブレスレットなどにつけられるの」
「それは愛らしい」
「姉はクールな内にも愛らしい物が大好きだから」
「とてもお喜びになるでしょうね」
「ええ。今回はとてもいい物が見れて良かったわ」
そしてそのチャームスタンドを覗き込む俺の横顔を見て、マダムが微笑んだ。
「本当、ニコニコ笑った顔が可愛らしいわねミスター」
「………」
俺は瞬きし彼女を見て、老夫婦が微笑んでから俺にウインクした為に、俺もおどけておいた。
マダムはコーヒーを傾けるとフォークを綺麗な指に持ち、ケーキを食べてから言った。
「まあ美味しい。本当、奥さんお上手だわ。今回はオレンジリキュールが利いているのね」
「そうなんですよ。チョコレートとコーヒーによく合うように」
「本当幸せ」
「奥様に喜んでいただいて光栄です」
ガラガラガラ
「たのもー」
………。
俺は顔を引きつらせ、肩越しに見ると慌ててビロードを引き寄せ仮面を当てたかったが遅かった。
「やあダイラン」
ガルドが何やら紙をひらつかせながらやって来ると、俺を見て背後から顔を覗かせて来た。俺は顔を極限に背け、またガルドが逆側から覗き込んで来た為にまた逆側に背け、上目で頭上のガルドを見た。
「ラヴァンゾじゃねえか! どこの貴公子かとおもったらまさか俺様への献上の品をオーダーしに」
「違う」
ルシフェルが来た為に、マダムは顔をさっと白くし、俺は彼女の手を取りそっと包んだ。マダムは頬を染め小さく微笑み、肩の力を抜いた。
マダムに恐がられている事を気付いていないガルドは彼女の横に座り、老人に紙を見せた。何やら事細かい事が記され、性格に似合わず報告書でもそうなのだが、几帳面なほどの文面と指示書と指定が書かれていた。それと共に、首を傾げたくなるほどの、わけのわからん画が記されている。緻密な文を見れば形は浮かぶのだが、画が酷い。
老人もマダムも夫人も覗き込み、マダムが首をやれやれ振った。
ガルドは美人に気付くと、ころっと変ってその手を取った。
「あんたにこれを作ったら上げてもいいんだ。美人だなあんた」
「旦那もあなたには随分と贈り物をするようね。ルシフェル・ガルドくん」
「………」
俺は片眉を上げガルドを見て、ガルドは子猫に目の前で猫騙しをされ驚いた雄獅子の様な顔で、口を一文字に結ぶと老人に向き直った。
「作れるか?」
「そうだな、一度デッサンに起こしてみるから、違う部分があったら言ってくれ」
「明日あさってあたりにまた来る」
「分かったよ」
「もはや、シルエットも不明だな」
「うるせえな……俺は実際の造形が糞下手なんだよ」
「頭の中の思い描く物だけはいろいろ浮かぶらしいんだけどね。この子は周りにそれを作り出せる人がいないと」
思考回路と同じということか。
「それでこれは何の指示書なの? ルシフェルくん」
「………。俺にはダイラン・G・ガルドという名が……」
俺の横のガルドがマダムを見ると、マダムは瞬きをしてガルドを見た。
「デーモンという名前があるの。あなた」
「ダーイラーン」
「デエモーン」
「ダーイ」
「ダーエモーン」
「ラララララー!!!」
「ラララ~~」
オペラ歌手波にマダムが発生するので、夫人が笑って老人も可笑しそうに首を振った。
発音が難しく、聞き流すとデーモンに聴こえる名前だ。
ガルドはいじけていきなり俺にキスしてこようと慰みを求めてこようとした為に鉄扇で頭を叩こうとしてガルドがマダムに抱きつき肩越しに俺を睨んだ。
「誰にあげるの?」
「ジェーン……」
ぼそっと言った声に俺は目を丸めてガルドの横顔を見た。
「年鑑」
「おい。毎年取り寄せてそうだなお前……」
ガルドは俺に舌を出し、ナイフで穴を空けてやりたくなった。専門家や政府人が軍事産業・輸送や軍艦航空機などのデータ、情報源にするイギリスのジェーン社発行の年鑑だ。この元かも不明な犯罪者が、どんな規模で実は何をしてきていたのかは、FBIで調べ回っているらしい。ボスのこいつはこうやって街に拘束し、カトマイヤーが監視し続けている。
「どういう贈り物なんだ?」
珍しくガルドが子供の様に笑った。
「白い子山羊」
「………」
「………」
………。
俺はそれ以前にガルドの笑顔にやられてしまていたのだが、仔山羊とはどこの部分をどう見るべきなのか不明だった。
その画の化け物は、どう見てもメドゥーサの髪とコブラの頭を持ち、蠍の前脚と蜘蛛の体に八本の脚を持ち、カジキマグロの背鰭、そしてチンパンジーの両足を持つのに猫の尻尾の戦車にしか見えなかったからだ。
指示書には、レモンを小さくしたような形の耳が二個だとか、目の光彩に縦の瞳孔があるだとか、爪が脚下部の割れた先に二本付きだとか、尾はケツの穴の上につき上向きだとか、四本ある脚は女が後ろに腕を回した時のような角度だとか、単なる「白の子山羊」で済む事が事細かに百項目に分けて書かれてあったのだ。例えば口の形は釣り針の長い部分を二つ合わせたような形だとか。それが。原子記号のPtで記されているので、プラチナ製にするようだ。
老人に頼みたい部分は、その子山羊が立つ台座の野原部分らしい。俺がさっきキャタピラ部分だと思ったものだ。
漆の台座の部分には山羊の横にスタンドが立つようで、その上から小振りの円盤から百合だとか、ジャスミン、ガーデニア、白薔薇などがしなだれ、下の漆に鮮明に映るという寸法らしい。漆の歯車の円盤は回転するらしく、白エナメル加工の花も回転するという。
ともに、その漆の歯車からは翡翠の小粒石が幾つも葉の様に花と共に吊るされる。漆の支柱部分は四つの雫を逆さにしたものを連ねた感じの透かし彫りで歯車を支えさせるようで、てっきり俺が蠍の挟み部分と思ったのは、愛らしい白山羊の頭部の耳だった。コブラの頭部とメドゥーサの髪と思ったのは、歯車と回転する花々だったのだが……。子山羊と花々をそう思う俺の方が頭に支障をきたし可笑しいのでは無い。この悪魔ルシフェルの描くデッサンがまずありえないのだ。
「仔山羊の首に婚約指輪を……」
「何」
俺は驚きガルドを見ると、ガルドはバッと俺を目を最大限に開け口を真っ直ぐにし、まるでミーアキャットのような顔で威嚇してきたため怖くて泣きそうになり顔を引きつらせた。
何ごとも無かったかの様に顔を図面に戻したガルドが説明の補足を続けた。
子山羊の足許斜め下にプラチナ透かし彫りの宝石箱を置くらしく、その模様は百合だそうだ。留め具の部分にエメラルドの粒をあしらわせると言っている。それと、その宝石箱に黄色エナメルの蝶を停めるのだと。
女性の喜ぶためなら何でも思い浮かんだらそうするという性格らしいので、今までこいつの周りにいた女達も随分と派手にしてきていたようだ。実行出来るこいつがいたから。そして想像以上の享楽悦楽を呼び覚まし表現したから。豪快に絢爛に。
プラチナの職人と、エナメルの職人と、宝石の店には、デッサンが完成後にガルドからのゴーサインが出て連絡をするらしい。
「付き合いが長そうだな」
「ダイランの爺さんが凄くいい人でね。気の許せる人さ。ここら辺の職人達も心が通じ合える。よくいろいろと差出もしてくれてね」
「ダイランのお父さんもよくこの後ろのアジェン地区が遊び場所で、この先の広場では友人達と楽器を聴いていたのよ」
「そうそう。写真とかあるんだ。ジジイに連れられたチビ時代の親父とかが広場で写ってるが、途中から一緒に写ったのあまりねえんだ」
「遊びに夢中だったのよあの子も」
ガルドが棚の中から一冊抜き取り、それを開けてアルバムを見せてきた。
「ほら」
そこには、少年達や老人達、職人達やこの街並、男達や女達が写っていた。作業中の職人達の手並みや、作品の数々、バートスクで行なわれる職人祭りの様子や、参加者達。明りがぼうっとともる夕暮時や、ステンドグラスが透かす昼の時間、赤く燃える夕刻や、星を背後にする広場のシルエットの繊細な群……。
金髪に銀掛かる水色の瞳を持つ、鋭い顔つきの長身の男がしゃがみ、金髪に緑の目の小さな子供と共に写っていて、少年は頭に何か、狼の帽子をかぶって肩からもそれをかけていた。仮装らしく、その長身の男がその帽子の位置を微笑み直して上げていた。少年が腰から大きな尻尾を下げていて、カメラに気を取られポーズをとっているために、狼の帽子が傾いている。
肩を超える程度まである髪を一つにまとめている男は白のシャツに黒のベストとスラックスで、変装はしていないが、その横顔は、限りなく惚れ惚れする程の男前だ。鋭い目許作りだが、限りなく微笑みが優しい。
「ジジイと親父だ」
ガルドを見て、また写真を見た。男の人種が不明で、そういえば血が繋がらない関係だという事を思い出した。
ガルドは父親を失っている。その後は、この長身の男が保護者代わりだという話を聴いていたが、実際そのガルドの保護者の老人には会ったことは無い。
めくって行くと、確かにガルドの父親という少年は途中から別路を行き始めたらしかった。男子供というものはそういうものだ。
長身の男は快活な風としっかりした顔つきで、年を重ねるごとに渋さや空気感を深くしていく。姿勢がどれも、目を惹きすぐに写真の中の何処にいるのかが分かった。最低限のものしか身につけていないシンプルさだと言う者を、洒落ている。仕草や、小物、手つきやふとした所を捉えた視線の一つ一つや、微笑みが。
俺がずっとそのガルドの保護者だという男を見ていたので、ガルドが怒った様にバッと取った。
「俺のジジイだからな!」
「嫉妬深いのよ。この子は」
「ミスターマルセスはカードゲームもお強くてよミスターラヴァンゾ」
「お前などこてんぱになってジジイに負けてしまえい」
ガルドを黙らせてから、アルバムの続きを見た。
「これはお前か。可愛いな……」
ライオンの赤ちゃんのようなのが、年齢が年嵩になった長身の男に抱き上げられていて、丸い腕と手で男の首にがっしりしがみついていた。その足許に、ホワイトブロンドに水色の瞳の少女が写っていて、バグパイプを持った楽団の白髪の男に手を繋がれていた。
ガルドの親父だという人物は太陽の様に笑い、ガルドの小さな頭の上に手を乗せていた。
「可愛いだろう。ヴァイオリン持ったのがこのじいさんなんだぜ」
俺が老人を見ると、確かに愛嬌のある顔が老人だった。
「このヴァイオリンも漆塗りで象嵌が施されているんだ」
「まあ、本当。とても素敵な楽器ねえ。黒いヴァイオリンだわ」
その周辺は色とりどりの織物職人が織った布が風にはためいていた。青空や、ここの街並を背景に……。
「………」
地雷撤去に向かった先の異国の葬式を思い出す。
自由の女神から広げた恋人達の弔いのカラーテープも。
「……アラディス?」
ガルドが名前で呼んで来て顔を覗き見て来て、俺は顔を向けた。泣いてはいない筈だ。
「何だ?」
「……可愛い俺に惚れそうなんだな!」
夫人が可笑しそうに笑い、コーヒーカップを傾けた。
ガルドがバンバン背を叩いて来て、俺は「ああそうだな。良かったな」と言っておいた。
「ジジイは豪華客船でよくカジノホールのバカラだとかをやるんだ。チェスも好きで、じいさんはなかなか勝てないもんな」
「強いのなんのって。時々わざと負けて奢ってくれるが、鮮やかなものさ。お手並みは確かだよ」
俺もこの男とチェスを一局さして見たいものだ。
ガルドも色男なら、その保護者も男前だった。この男も随分と女性から声を掛けられる事だろうが、女の姿が見られなかった。婚歴は無いようだ。
「うっ!」
派手さに目を痛め、目を手で覆った。
再び見ると、ド派手な軍団が写っていた……数年前までの、十代の頃のガルド達一段だ……。広場を埋め尽くす、ド派手な色のガルド、皆仮面をつけていて、女達、少女達、男達、派手な車両やバイク、ハードなアングラ集団達が爆竹や花火で騒がせ酒を傾けはしゃいでいるのだ。ホワイトスネーク団なのだと分かる。まるでライオンの鬣のような褪せたブロンドを腰まで揺らし、白蛇の革パンに裸の素晴らしい肉体の上半身を、孔雀、コブラ、蛇の入墨で彩らせ、額と髪の間際に角を付けさせ白の硬質アイマスクをつけ、不敵に微笑する悪漢が、彼等のリーダーガルドであって、その手に腰を引き寄せられる黒アゲハアイマスクのグラマラスな黒ボンテージの妖しく微笑する鋭い女が、メイズン・レナーザであり、チームの参謀だった女だ。
今は二年半の投獄の後、親の権力で保釈され、ともに連行された妹とともにヨーロッパだという。
広場の祭りの中を幻想的に浮かぶ艶めかしい団体は、妖しげな悪魔のような軍団だ。
悪漢時代の今の貴公子の様なガルドの見かけとは一切重ならない。
アルバムをめくって行き、俺は口を閉ざし、一枚の写真にひきつけられた。
胸が鳴ったとはこの事だった。
十五歳位の青年二人の写真だ。
対照的な二人だが、凄くよく似合う。ガルドと、後一人はユダヤ系の青年だ。
ガルドは金髪と緑の瞳で、若々しい肉体と、なんとも天使のような爽やかな笑顔が白い太陽の下眩しく、エメラルドの瞳も光り、もう一人の青年はスレンダーな肢体が多少浅黒く、エキゾチックな色っぽい目許が黄金掛かる焦げ茶とが涼しげで、薄い唇が微笑み、焦げ茶の髪を風に艶めかせ翻させている。場所は、この奥にあるジュルッサの丘のようで、まだ夕陽の参拝という時間帯でも無く、白のラム皮露天のみが出ては、スラム地区の若者達が艶めかしく踊っている眩しい草原と、青の空の下。
気付いたガルドが真赤になりいきなりバッと俺からアルバムを取り本棚に戻した。
「? 何だ。一体」
「じゃあ、俺そろそろおいとまー。三日後ぐらいにまた来るからよろしくな」
「ああ。分かったよ」
ガルドは俺達に手を振り、外につけたバイクに長い脚で跨ると、もう一度手を上げゴーグルを下げ、走らせて行った。
俺は不可解で首を傾げると、また向き直った。
「結婚を考えているとは……」
その化け物を見てからそう言い、マダムが首を傾げながら言った。
「あのジェーン一族のヒース婦人は、どう言うかしらねえ……」
確かに、あのレディージェーンの母親は、かなりキツい性格だ。一度だけ宴で会った事がある。婿養子にジェーン一族に入った優しい紳士のミスターレジェルトと、その妻であり一族長女のヒース婦人は、まるで対照的で、婦人は顔つきからして冷たい。娘のレディージェーンとはまるで姉妹の様に若々しく綺麗な母だ。自己の母ローザも若い年齢での出産だった為に、恋人に見られる事もあり、本当の夫である父が、稀にむっとする時もあったのだが……。父は母をとても愛している為に、きっと嫉妬というものかもしれない。
入れ替わりにレバー職人の男が箱を持って入って来た。
金山羊のシルエットが入る漆のハンドルや、蓮華の形のノブなど、桃色の石菊丸の中心に金羊顔のノブ、丸い漆に蝶や牡丹が貝や金で象嵌されたもの、様々が入った箱の蓋を開け、老人が手に取りルーペを持ち頷いた。
「まあ素敵!」
「どれも其々可愛い」
ノブ職人は微笑んで俺も微笑んだ。
しばらくは手を触れずに一点一点を俺達も見回した。
カラクリ時計がボーンと鳴り、午後の一時を告げた。
「あたくしもそろそろおいとましようかしら。ミスターラヴァンゾ。お話が出来て楽しかったですわ。奥さん。美味しかったです。ごちそうさま。ご主人、仕上がりとても心待ちにしております。よろしくね」
「ええ。お任せを」
「また食べにいらして下さいね」
「玄関までお送りしましょう」
「ええ。どうもありがとう」
婦人が玄関まで来ると、フフと微笑んで横目で俺を見てから身体を向けた。
「可愛らしい部下の方をお持ちね。いい方向へ行く事をお祈り致します。それでは、ごきげんよう」
「ごきげんよう。お姉さまにもよろしく」
「ええ。では」
婦人は豊かに微笑み執事が開けた車両に乗り込み、俺達に手を振り車両を進めさせた。
俺は彼等を振り返った。
「俺もそろそろ帰る。長居をしたな」
「またいつでもいらっしゃいよ。そうだわ。ケーキ、良かったら奥さんにも持っておいきなさいな」
「どうもありがとう」
夫人が奥へ引いて行き、レバー職人がハンチング坊を一度引き上げ、笑顔で歩いて行った。あの彼はいつでも言葉少ない職人で、それでも人が良かった。老人もずっと店のドアに消えるまでを手を振っていた。いつでも、ノブ職人の店のドアを開ける前に職人は振り向いて帽子を取り頭を下げてから入って行く。寡黙だがやはり仕事は確かだった。
夫人がケーキの入った包みを渡してくれた。
「ルジクくん。最近、街が事件で忙しいようだけれどしっかり体力をつけてね。どこかしら、来た時は顔色も白かったけど、ちょっと赤味が差して来たから嬉しい」
「ここに来ると元気が出る」
「あたし達はいつでも美術や職人達を愛するあなたが大好きよ。また、元気になりたいときはいつでも来てね。あの子が国に帰った時も会いに来てあげてね。喜ぶわよ」
「そうだな。また来るよ。今日は本当にありがとう。気遣ってくれて。ケーキもいただいて、感謝するよ」
「ええ。またね」
「帰りを気を付けて」
俺は二人に微笑んで手を振り、路肩角の漆黒のフェラーリに乗り込むと、彼等に手を振ってから走らせて行った。
元気も出たので、久し振りに肉料理をしっかり食べる事にした。鳥と逢引きで豚の肉を選んでコックに料理させる為に、連絡しようと思った。
Tulli
「?」
記憶に掠めるが、誰なのかが分からない番号だった。
「はい。もしもし」
「署長」
「どうした。腹が空いたのか?」
「署から今出ていて、腹ごしらえを考えているんですが、出かけましょう。肉食べに行きましょう」
「………。今どこを歩いて?」
「L字路です」
L字路というのが、エリッサとバートスク交点の場所だと分かっていた。
「バートスクに向かえ。適当に拾って行く」
「分かりました! 俺の犬も連れているので、入れる所にしましょう」
「ボディーガードか」
「ハハ! そうです」
「そうか……」
視線の先のバートスクストリート上に、シェパードコリントとドーベルマンシャーム連れのヨルダイが歩いていた。歩き方がぎこちないのだが。
俺はバートスク職人街から出ると、犬の毛が車内につくのは勘弁してもらいたかった為に、七丁目角の地下パーキングに駐車させた。
俺をドーベルマンに噛み付かせるために連れて来たのだろうか。
二匹を連れヨルダイも地下に降りて来て、キーを差すと俺は背を伸ばし、ヨルダイと二匹を見た。
全般的に警察犬は俺には普段は絶対に近づかない。そう躾ている。このごろは麻薬関係も触れていない。
愛嬌のあるものの、一番に麻薬関係に鋭く賢いシェパードを連れていて、ドーベルマンの方は一番大人しいが一番執念深く集中力がある奴を連れていた。
犬を大人しく外で座らせておき、ケーキを出した。
「食前に買収しておく為じゃ無いが、頂いたから食べろ」
「え。いいんですか? 奥さんにあげるものだったのでは?」
「食事中に保存する場所が無いから、チョコレートが溶ける前にどうぞ」
「ありがとうございます!」
ドーベルマンとシェパードが上目で主人を見ていて、ケーキなどの甘いものは与えられないために、俺の方をちらちら見ていた。
「美味しいですね! どこの店のですか? 優しい味というか」
「知り合いの女性が」
「まさか……、愛じ」
「違う。世話になっている職人の夫人だ」
「驚いた」
すぐに平らげてしまい、生チョコレートのついた指を舐めてニコニコ笑っていて、可愛かった……。
賢いシェパードが横に回りこんでいて、自分も食べたいと窓をカリカリ叩いて来ていた為に、振り返った。窓越しに利口そうな顔で手を掛けていて、しっかり爪はしまわれていた。今に笑った様な顔で舌を出すだろう。
顔を戻すと、ドーベルマンが辺りをリード分だけ徘徊して、様子を窺っていた。
俺は肘を掛けていたシートに背を戻し、横目でヨルダイが見上げて来た。
「進め!」
犬を呼びヨルダイも歩いてきて、俺の横に来た。
犬は稀に薬品の匂いのする主人の腰周りをくんくん嗅いだりしてはまた歩き出し、耳をぴくぴく立てさせていた。
時々俺をシェパードがちらちら見て来て、ドーベルマンの方はじっと俺を見ながら歩いていた。
「襲わせるつもりか?」
「あなたが発作を起こしたときだけです。俺を襲って血の匂いがしたら」
「ヨルダイ」
「そうしたら噛み付くようにしましたが、普段は彼等はあなたに懐いているので、いきなりゴーサインを出しても彼等は襲わないし、あなたも一喝すれば直ぐに彼等は物陰に逃げる程あなたを恐がっています」
「食欲が失せた……」
「署長。野生動物が捕食するのも、共食いするのも、食が得られない時です。他の肉をだべればいいんですから、一緒に肉友になりましょうよ。うまい店知ってるんですよ。手ごろで」
「分かった。二匹の餌を持っているのか?」
「ステイビスケットがあります」
「この前ガルドが手の中に溜めて食べていたな……」
「あいつはロジャーが飼い慣らせる範囲なので……」
彼女の場合、一度鞭を持ち出したら犬達も地獄で何百キロキャンプ訓練時には犬達がへとへとにされるというトップの鬼トレーナーだったという。元々軍用犬育成の為に他州にいたのだが、数年前に故郷のリーデルライゾンに帰って来て麻薬取締り斑の刑事になり、警察犬指導も行ったヨルダイの先輩だった。それまでは、犯罪者を見ると見事に逃げていた警察犬軍だったが、俺が署にやって来ると鬼の様に軍並みにしごいてくるし、ロジャーも加わると同じようなのが二人も増え、機能する警察犬とトレーナー育成で一番に成果を上げたのがその頃新人だったヨルダイだった。
今ではロジャーは男関係を持ってからは、まるで骨を抜かれた様に訓練に身が入らなくなり、鬼も落ちた様になってしまった為に、左遷させられていた。不倫相手が直属の上司だった為に警部も左遷されたのだが。
第一に、普段は色っぽい彼女はどこかしらの何かが備わっている。さばさばした鋭いきつさ以外に、崇拝的な事だ。
エレベータに乗り、犬が大人しく座った。
扉が開き、俺は歩いて行きヨルダイと二匹も続いた。
ドーベルマンが俺の横まで来てじっと横目で見て来ていて、完全にマークしていた。こいつは一度噛み付くと、相手が降伏するまで許さない。
「街中でお前を襲うわけが無い」
「緊張感は大事ですよ。追い詰められて、その欲望の部分こそが崩壊して、そして普通の肉に貪りつくんです」
「病的な」
「危機感と飢餓感があれば、木の実もご馳走ですからね。その味は忘れられなくなるかもしれません。それが今までは逆の場面を取り、人だったのでは?」
「ヨルダイ」
「名前で呼んでください……」
「………」
俺は身を返し、明るい中を歩いて行った。
「私服、素敵ですね」
「………」
「始め、署長だとは気付きませんでした。紳士服じゃ無かったし、優雅で、髪も下されていたし、ピアスも色っぽい」
俺は早足で歩いて行き、ぎこちない歩き方のヨルダイを肩越しに見ると、電信柱に泣きついていて、シェパードが足許をくんくん嗅ぎ、ドーベルマンがリードを引き真横にいた。
ドーベルマンを目で主人の下に戻らせ、ドーベルマンはじっと俺を見ながらあちらへ歩いて行き、俺は戻った。
六月の風はこの街は心地良い。空の色も青みを増す。
俺はヨルダイを振り返り、ヨルダイは店をきょろついていた。
「ここです。入りましょう」
オープンカフェにつき、俺は路上の眩しさにサングラスを嵌めると犬が大人しく座った。
シェパードの場合は、他のハウンドを見て笑ったような顔で舌を出していた。ドーベルマンは警察犬以外の他の犬には内気で、上目でマルチーズやチワワを見てテーブル下に隠れた。
主人がリラックスしていると分かると、どうやらそれがプライベート時だと分かったようだ。
ヨルダイが肉サンドイッチとチーズ焼きをオーダーし、俺はコーヒーとトーストを
「肉食べてください。被害は免れたいので」
「分かってる。鶏のハーブ焼きで」
「ビーフシチューのセットで」
ヨルダイがそう言い、向き直った。
シェパードはドーベルマンとじゃれあいはじめていた。ヨルダイが大人しくさせると、並んで口も閉ざし大人しく座った。
「お前の恋人は同年か」
「ええ。同じ地区内の幼馴染で、もう十回は別れたりくっついたりしていますね。また別れるかも……」
「また戻るんだろう」
「分かりません」
視線が上がって来て、俺はカップを置きサングラス越しに見た。
横のマダム、白の麻の眩しいワイドパンツと、Vネックの黒のノースリーブ、サングラスにボブパーマのその初老の女性が、ヨルダイを横目で見た。
「大人しいわねえ。おたくのわんちゃんは、躾がよくされているのね」
女性はベージュのマニキュアとペディキュアに金のアクセサリーが光り、赤の鋭い唇で微笑んだ。
「ミスターラヴァンゾの愛犬ですの? 本当、ドーベルマンがお似合いねえ」
「この二匹は署の所有する犬だ」
「僕の警察犬です」
「まあ」
ラフな装いで全く気付かなかったが、マダムはリゾート野外プール・テニス場王の婦人だった。
「それじゃあ、噛むの?」
「彼なら噛みます」
「………」
俺は憮然としてカップを傾け、マダムが可笑しそうに笑ってから言った。
「面白い事を言う部下の方をお持ちなのねミスター」
「まあ……、事実に沿う事かもしれないので」
「相変わらずおかしな事を言うのねミスター。フフフ」
マダムの連れているのはミミセンザンコウで……、テーブル支柱の下で丸くなっていた。リーデルライゾンは個体数を増やすための動物繁殖をさせ自然に返させる活動に取り組んでいるので、住民は学校で専門飼育を学ぶのが一般的だ。爬虫類を連れいているマダムだとも思わなかった。娘のセンザンコウだろうか。散歩だろうか。
ドーベルマンは完全にセンザンコウをじっと見つめていた。初めてみた生物だからだ。シェパードはずっと尻尾を振っているドーベルマンのその尻尾を笑ったような顔で見つづけていた。
夜十一時、仮眠室へ帰るとヨルダイが眠っていた。黒シルクに皺が綺麗に寄り、シェパードとドーベルマンのリードを手に持ったまま眠り、二匹も其々のベッド周りで眠っていた。
スーツジャケットを椅子の背に置き、円卓に拳銃を置くと腕時計を外し、ドーベルマンが顔を上げ、俺を見た。
シェパードは眠った体制のまま、視線だけで上目で俺を見て来る。
ベッドに上がり、後姿を見つめた。
シェパードが顔を上げ、そちらを見ると上目になり、俺は身体を動かしたヨルダイに顔を戻した。
黒シルクの差されたベストの胸部に手を当てた。シェパードがベッドに手を掛け尻尾をバタバタ振り、気を引こうと俺のテラードの裾を引っ張って来る。この半日で、俺に近づかない事を撤回したらしい。それでもドーベルマンはずっと上目でじっと離れた場所から見つづけていた。
肘をつき、ベッドから離れるとシェパードがベッドに上がりこみ吠えて来た。
「降りろ」
シェパードが耳を伏せさせベッドから降り、伏せた。
サニタリーでリングやブレスレットを外すと、髪を整えなおしてから出た。
いきなりドーベルマンが真横にいた為に、口を閉ざし見た。
「シャームを着かせる事にしました。緊張感が出るでしょう。お宅へも連れて行っても構いません。コリントよりはドーベルマンなら毛も抜けにくいですし、余所見もしないので」
「妻が恐がる」
「しかし、映画では五匹のドーベルマンの調教師をしていましたよ。散歩では八匹を連れてサンタバーバラを颯爽と歩いていました」
確かにそうだ。妻は犬好きだ。
だが屋敷のベッドサイドには麻薬が。即刻嗅ぎ付けて噛み付いて来るだろう。
「ずっと着かせるように手続きを取りました。署長の護衛犬と言っておいたので、快くトレーナー長も承諾を」
俺は相槌を打ち、ドーベルマンを見ると、丸い目でじっと見つづけていた。
解放されたシェパードが駆け回る姿が床に映り、ドアを開けてやると暗い署長室を駆け回り始めた。その内、仮眠室と八の字で回り始め、ドーベルマンはじっとそれを俺の真横に座り見つづけていた。
俺が「行け」と言うと、一緒になって駆け回り始め、俺は一人掛けソファーに沈み目元を抑え息をついた。
「食欲の方は?」
「無い」
「食べてください」
「もう深夜に入る」
「人の肉は食べたがるかもしれないでしょう」
「だから帰って来たのかもな」
「冗談が恐いですね」
「怒るな」
「………」
酒は署内の為に一滴も無い。円卓上の箱から煙草を出そうと思ったが、空だった。
「コリントが気付いて即刻バラバラにしてしまったので、ありません……。すみません。高級な奴でしたよね」
「構わない」
包帯の巻かれた部分がどこか哀れで、歩いて行った。
「新しく消毒はしたか。薬は」
「五時間ぐらい寝ていたようなので」
「見せろ」
包帯を解くと消毒液を綿で塗り、ガーゼを貼り包帯を巻いた。
両膝を立て背後に手を付き、上目で見つめてくる為に視線を上げ、そらし包帯を切ると鋏と包帯を収め蓋を閉じた。
真横にメスでもあれば、刺して来そうな目許だ。
離れていこうとした手首を掴まれ、肩越しに見た。
「凄く排泄痛いんです。血が滲んで、ビリビリ痺れるし、熱持ったように熱くなって真赤になるし、水分は直接飲まなくてもやはり出るので痛いです。直接痛み止めを打ちたいぐらい」
「だろうな」
「治りますよね? しっかり機能しますよね?」
「医師が良いから問題は無い」
「あれ。請求書はいくらでしたか?」
「もう払った」
「え。本当ですか! 何だか申し訳無いですね……」
ドーベルマンがシェパードとじゃれあいだして、あちらでゴロゴロ転がった。月光が差していて、今の時間は一望する夜の海面も、プラチナに光っている時刻だ。(夜のサファイアの海
二匹の影が伸びていた。
そちらへ行き、ヨルダイも黒のパンツを履き歩いて来た。
ハイバックに座りオットマンに足を交差しておくと、月光の降り注ぐ海原と、床に伸びて万弁に差す月光を見た。ヨルダイの肌も白く照らされ、流れる艶の視線が銀の様に流れた。
「綺麗ですね。オーシャンビューだから。あなたの瞳も月光で綺麗だ。鋭い氷の流れのようで……」
アームに座ってヨルダイが俺の肩に手を置。
銀の光りが闇に透明に充ちる中。
瞳を開き、ドーベルマンに気付いて視線を横に落とした。シェパードは俺の足に頬釣りをし始め、その伸ばす足の上に顎を乗せ上目で見て来た。
天井が透けて宇宙になったかのようだった。二匹は狂った様に吠えている。
俺は吠え疲れた二匹がゼーゼー言うのを見てから、仮眠室へ入って行った。
「名前で呼んでくれませんね」
「………」
俺はふいっと顔を反らし、ヨルダイが「やっぱり!」と大声を出した為にシェパードがここぞとばかりに駆けつけて来てドア前で吠え立ててきた。
シェパードが上目でウーウー唸ってから、主人が無事だった為に、尻尾を丸めドーベルマンの横へ戻って行った。
「名前で呼ぶ必要は無い」
「部下だからですか」
「ああ」
「それ以上にはならないと?」
「ああ」
「………」
ヨルダイが俯き、指を鳴らした為に俺は咄嗟にドアを閉ざした。ドーベルマンがシェパード共にドアに突っ込み、吠え立てると突っ込みつづけた。
「名前で呼んで下さい!」
その先からヨルダイの声がして、俺は溜息をついた。
ベルトを手に持ち構え、開けた瞬間振りかぶると犬達がキャンキャン言って逃げて行き、ヨルダイが残って犬の逃げて行った背後から俺を見た。
グンッ
いきなり引かれベルトで手首を拘束されていた。
胸部を床につき、肩越しにヨルダイを見た。
二匹が仮眠室から逃げて行き、ドーベルマンだけが顔を覗かせて上目でじっと見ていた。
「来い」
ヨルダイがそうドーベルマンに言い、俺は嫌な予感がしてヨルダイの横顔を見た。
ヨルダイが俺に視線を落とし、目許まで微笑させた。
ドーベルマンの方を見て、首をしゃくった為に俺は身を返し後ろ手のベルトの残った部分でヨルダイを払った。
ヨルダイがひるんでドーベルマンが俺を噛んで来ようとした為に、手首からベルトを外しビシッと振った。
「下がれ」
ドーベルマンは耳を倒して尻尾を丸め体制を低くし、それでもずっと俺をじっと見つづけていた。
ヨルダイは顔を押さえ泣いていて、シェパードがその足の周りをぐるぐると回っていた。
俺は溜息をつき、ヨルダイの頭を抱き寄せてやった。
「悪かった。大丈夫か? 泣くなロビン」
「ロビンじゃありません。オービンです」
「………。失礼」
置時計を見た。
「そろそろ寝るぞ。十二時だ」
ベッドに移り、もう一度消毒させ包帯を巻き、薬を飲ませてから鍵を掛けた。
署長室は鍵が無い。この仮眠室ならあった。
視線の先に、ドーベルマンがいた。ずっと俺を見て、その内丸い目の瞼が閉ざされ、眠りに入った。そのまま眠る体制になり、背を丸めた。
俺も目を閉じた……。
夢に現れた漆黒の中の女は、女神の様に真っ直ぐの黒髪が長かった。目許に黒の豪華なアイマスクを嵌め、黒の鼓笛隊の帽子を被り、流れて行く。黒の腰衣を流れさせ、黒の角笛を吹いては……。鴉の羽は星空を移し、黒シルクの垂れ幕は風で折り返し、銀色の目が光り。
静かに、鈴の音が鳴っている。
角笛の音は意外に繊細で鳥の様に高く。
落ち着き払った夢で。
その夢の先で、黒い装飾枠の中の黒シルクが引きあがって行くと、夢が次の夢になって行った。
ヒヨコの顔の鼓笛隊の女達が六人並び、その中心で、ヨルダイが檻の先にいた。