アジェ・ラパオ・ルゾンゲ
アラディスは、他にも水分が豊富で細胞も潤って免疫力も高いので、傷の治りが早い理由もある。
傷口は、基本的に消毒せずに潤して直す。乾燥させない。
微笑み湛える瞳は艶やか
あなたの麗しい
微笑み湛えるあなたの微笑が
艶やかな瞳が
艶やか
妖しげなる愛情を湛えて
鞭打たれる事が愛情の形
魅せられてる
ああ 麗しい微笑を
あなたが居るだけで幸せで
夢中になれるあなたが居てくれる事が幸福
ああ 瞳を見詰め合っては
愛し合う
静かに熱くなれる
熱湯に浸ったような包括
ああ
冷たく突き放して
あなたのそのドライな口調と
冷静な眼差しさえも愛しい
高潔なるあなたは
美貌の人
悪魔の様に美しいあなた
愛し合う時さえも熱く熱く
涼しげな目許
純白の美しき瞼は伏せられて
綺麗な睫が震えている
赤い上品な唇が艶かかっている
ああ 麗しい鋭い瞳に
眼差し
雪原のような頬が色づく
艶掛かる髪は漆黒で
滑らかな肌は愛しい
4.アジェ・ラパオ・ルゾンゲ aje la pao luzonge
☆キャリライ・S・レガント レガント一族御曹司
ミセスルゾンゲに促され、奥の一つのエレベータに促された。
「どうぞ」
俺も入り、彼女を見ては前に向き直った。
しばらくして、扉が開かれ、今までこの屋敷では見たことの無い空間が広がった。
白い部分などが、皆無だ。
随分と広い。
黒とブロンズ金の絢爛な空間は、オリエンタルな風雅が雅に根強い。茶褐色のアカンサス装飾もなされ、深みがあった。そればかりでは無い。妖しさも……。
「ここは?」
「特別室よ。どうぞ」
その空間を進んで行き、黒に金模様の絨毯を進んでは、誰一人いない。気配すら無い。
一定に気温は保たれていた。
このラウンジから廊下を進み、扉を開けた。
いきなりの事に驚いたが、階段だ。
「お足許にお気をつけて」
降りて行き、螺旋を描き、再び扉が開けられた。
廊下。飾り立てられた装飾が調度品と共にある。エキゾチックさが強い。幾つも並ぶ扉も美しく、ミセスが立ち止まり、俺を微笑み見た。
「この廊下上の全ては、お好きにお使いになってくださいな。ラヴァンゾ様と共にいらっしゃるのが通常の事ですわね」
「ここは一体?」
「あなた方の場でございます」
「……僕たちの」
「ええ。どうぞ、ごゆっくり。ルルアの部屋は、左から三つ目のお部屋です」
ミセスは豊かに微笑むと、その廊下から扉へ消えて行った。
俺は見回し、そしてその扉を開け、入って行った。
明りが無い……。
ガスライターを擦り、見回した。
異質な感じで、手に触れるものはひんやりと冷たい。石だとわかった。
よく磨かれた石。
壁も、調度品も、そうだ。
炎を近づけた。
鮮明に石に炎が映り、照らされる俺もうつった。鏡の様に丹念に磨かれている。
だが、炎が広がりを見せない空間だ。
その為に、進む事を躊躇した。
だが、扉から離れなければミスターが入れない。
進んで行き、脛など打たないように慎重に進んだ。壁を叩く。空間音まで響かない。
「………」
ここに閉じ込められるとして、彼だけに触れられたい……。
だが、彼は明らかに俺を嫌っているんだ。
カチャ
俺は振り返り、ミスターの影を見た。
「ミスター」
躓き転びそうになり、咄嗟に支えられた。
「しっかりしろ。大丈夫か」
「はい」
しっかりした腕に手を当てていたが、俺は急いで身を離した。
「失礼」
「いいや。何故暗闇にいる」
「そうしたくて……」
「おかしな奴だ」
全てのミスターの声が耳に優しく木霊する……。俺は払われた手を思い出し、彼の腕を掴んだ。
「俺が嫌いですか? その答えを……」
「誤解するな」
「………」
俺は強くうな垂れ、ミスターの腕を強く持っていた。
「嫌いなら」
「嫌いじゃ無い。何故そうやって誤解するんだ?」
腕を痛がり、俺は離したくなくて、彼を見つめた。心が苦しい。どうすればいいのか。
「誤解ばかりなんですか? あなたを求めたい事が全て、間違っていると?」
「そうじゃ無い。俺は同性しか受け付けないだけだ」
「………、え?」
手に手を置き離れさせて、俺はドアからの明かりの中を進むミスターの背を見つめた。
その範囲には黒石で硬質の掘り込まれたソファーセットがエレガントにあり、そして黒石の壷に黒石の豪華な花、キャビネット、その先に、黒ビロードの収められた黒石の寝台。豪華な天蓋が微かに見える。
「おいで」
俺は心臓で出来上がってしまったように血脈が流れ込み、躓くように彼の肩に腕を回し頬を埋めた。
「ミスター……」
夢の様な事だ。夢の様な……。
「……可愛らしい」
優しく髪をなでてくれ、そして髪にキスが寄せられた。
俺は幸せで、腰の力が抜けて膝を床につき、強く包括した。
鞭打たれたい感情が、どこかに俺にはあるのか、その手首に枷を填められたかった。自由に触れてくる俺に。
忠誠を誓いつづければ、彼から全てがもらえる……。いつかは、愛情ももらえるのかもしれない。
「この事はミセスしか知らない。誰にも知られる事は無い。分かったな」
「俺が地主一族の人間だからですか?」
「お前が可愛いからだ」
俺の腕を引き立たせてきて、俺は震える目で彼を見上げた。
「それだけでは駄目だというのか? そんなにお前は自分という物が無いのか? よくそれで俺に近づけるな」
「そうじゃない。俺は俺の心であなたに接したいんです」
「分かってる」
「良かった……」
胸部に強くしがみつき、その心音を聴いた。
「あなたの家畜になりたい……」
優しく撫でられる背の手が、肩に移動し離された。
「何故」
「それが、愛の形です」
「鞭打ちはしない。可愛いから」
優しく抱き寄せてくれ、幸福が渦巻いた。
「時々、してくれていいんです。俺が言う事を聴かなければ」
「分かった。その時はそうしてやるから……」
強く背と腰を引き寄せられ、ソファーのビロード座面に片膝をつくミスターが俺を引き寄せた。
全てを忘れられる。一生でも続けられるものだ。彼が離れていき、奥へ歩いて行ってしまう。
「来い。浴場があるから」
寝台横の扉を開け、廊下からも行ける隣室だ。俺も歩いて行った。
浴場は、驚いて目を閉ざした。
純白だ。
再び目を開き、見回す。白大理石の空間であり、円形の浴槽の床は、様々な形のモザイクタイルが精巧に張り巡らされている。
そのまた隣はエステスパルームだと言う。コースを受ける際は連絡を渡せばいいのだと。寝室とは逆の方向は、ダイニングルームだと言う。
彫刻されるライオン口のシャワーヘッドから水が落ち、その眩しいジャングルに降る透明なスコールのような水の中。
ずっと……。
ずっと……目を閉じ、艶めく黒髪に頬を寄せた。
微笑みが止まないほど……。
★★★アラディス・レオールノ・ラヴァンゾ ルジク一族子息
闇にボウッと火は灯り、一瞬後に白く煙が静かに立った。
組んだ足に手を置き、寝台の石縁にガスライターを置くと、ひんやりと心地良い。
ゆったりした黒シルクの腕に手が絡まり、俺はレガントを見た。だが、静かに眠っている。呼吸は安定して聴こえない程。
その手に手を当て身体を倒すと、髪を退け胸部に手をつき、頬にキスを寄せた。ビロードに沈む横になれる事は無い闇中、温かい手が落ちた。
身体を戻し、立ち上がると寝台から離れ、奥のドアを開けた。
拷問室への階段を下り、突き当たりの鉄ドアを開ける。
静かに閉じ、キャンドルに火をつけていくとぼうっと辺りを浮き上がらせた。
石の空間は無機質で殺風景だが、黒のアームチェアも、六角形台の上のアレンジも、タッセル着きの黒コモドも、廃頽的だがエレガントだ。檻の前は天井からゆったり黒シルクが掛かり、キャンドルの炎を黄金に広げている。
シャンデリアを降ろし、周りを歩いて行き蝋燭に火を灯して行く。シャンデリアから透かす牢獄内は、城内を外の木々の間から覗くかのようだ。
いつでも、空気は静まり返り、宴の気配を含んでいた。折り重なる衣裳を纏う影の妖しさのように。
炎が灯されると、炎を見つめた。数百の灯が同じように揺れ、黒のクリスタルを相互性を持ち光らせている。
静かなものだ。光は音が無い。存在自体が強烈なくせに、燃える音がどんなに轟々しくても、光自体は音は無い。風に音があっても空気に音が無いように、灯現実の世界へ連れて行く。黒シルクに炎が照らしゆれると、まるで自己の身さえ、幻に思える。
まだ、果たせずにいる仇を、果たせずにいる亡霊のように……。
彼等、四人が殺されてから、二十四年もの歳月が経ってしまった。
俺がダイマ・ルジクを、既に消えてしまった証拠すらも上げる事も出来なくても、正当に四人の殺人と食人の罪で検挙する為に、警官になってから十四年。
このままでは、摘発出来ない。
目を閉じた。残像が炎の海になり、ちらついた。
シチリアの海で、何度も見た悪夢が甦り、喉を干上がらせる。クローダボスに何度も自殺を止められなかったら、星の煌きを共に見上げなければ、海の青さを共に見つめなければ、とっくに俺はこの世から、死の中にいた。あのダイマ・ルジクという悪魔の記憶だけを抱え、闇の中を。
目を開き、静かな揺らめきの群を見つめた。
クローダボスと、よくこうやって一つの巨大なシャンデリアの灯を点して行った。俺は長い棒の先に火をつけ、彼は燭台を持ち、語り合ったりしながら。シャンデリアの林の先に彼を見つめ微笑みあう事もあったり、横に並んで火を点す事も忘れたり、ふざけあって火をつけあおうとしたりした。
彼は今、どうしているだろうか。
四年前に、ああやって偶然再会し、半月を彼と共にヨーロッパを回り、そして、昔を思い出したように古城のシャンデリアを灯しあった。シャンデリアは出来上がると素晴らしかった。全ての炎が、魂にも思えた。ともに再び見上げた星が、魂に。そして全ての風が、彼等の息吹に……。
シャンデリアの下方の雫が床に黄金を与え、それを中心に仰向けになり、見上げる事も好きだった。キャンドルが揺れ、黄金が切ないほど甘く、夜空は闇色の中……。
彼は、俺の身を案じた。まだダイマ・ルジクの影響力はアメリカには渡ってはいない。というよりも、ダイマ・ルジクはアメリカの地には来ないのだ。ビジネスでも。
大富豪連盟の長老会メンバーでもあるダイマ・ルジクは、元若年会メンバーであり、大富豪連盟自体の大理事長だったアメリカの大実業家、ジルがいた時代がなければ、ヨーロッパからは一生出なかったはずだ。
検挙。あの古株を。必ず……。
「……ミスター?」
レガントがドアのところで立ちすくみ、怪訝そうに辺りを見回した。
振り返り、拷問部屋を見回す横顔を見た。牢屋の中は、壁に掛けられた鞭や、豪華な黒のアイマスク、天井から下がる鎖の先の手枷、鉄球着きの足枷、鉄マスクなどがあり、レガントはドアの場から瞬きしてそれを見ては、俺を見た。
「此処は?」
だが、俺の顔を見るとレガントは首を傾げ、歩いてきては頬に指を触れさせ、俺さえ気付かなかった涙を拭った。
不覚にも、全く気付かなかった。炎を見ていて目がぼやけていたし、頬も炎で温かくなっていた。
「キャンドルに?」
手を下ろし、俺の手に手を当てた。可愛い目をして見つめてくる……。品がある顔は、本当に可愛い奴だ。
「ああ」
俺は颯爽と歩き、レバーを上げ、黒クリスタルに黒ダイヤモンドの雫が揺れ光るシャンデリアを上げて行った。
こいつは、見つめ続けるほどに洗練された風雅がある。
普段は、気付かない程だ。性格がきつくて高飛車な部分があり、自尊心もある為に顔つきを鋭くしていて、元のこいつ自身の気張らない時の顔つきを隠し、あの愛情の薄そうな言葉を吐く薄い唇ばかりに目が行き、鋭い目つきに吸い寄せられる。あまり同性に対しては得な部分とは言えない事だ。毎回敵意を出し、冷徹に視線でいなしてくるこいつが、女の前では優しげな口許になり、優雅な口調を並べ、女達は充分にその優しさと品のある顔立ちに酔いしれる。
そのレガントが、そういった表向きの全てを脱ぎ去ると、実に惹き付けて来る物が強い。静かなうちにも、その内に、離したくなくならせる。
俺は黒にチタン浅織りのなされた黒枠装飾チェアに腰を降ろすと、豪華な花を手に見ているレガントの背を見た。
煙がくゆり、鉄格子先の用具は妖しく生々しい態を放っている。
鉄枷で拘束するよりも、石で出来た花で拘束したいぐらいだ。あの手首、あの足首、あの指。独り占めにしたくなる。
他のものに向ける冷淡な眼差しや、辛口な口調、眼鏡に隠された目許や、わざと装う優男な署内での姿では、一切わからない、今の姿を。
「ミスター」
レガントが選び抜いたらしい花を束にして手に下げ、こちらへ颯爽と歩いて来た。その顔を見上げる。
ぶっきらぼうに差し出してきて、俺はそれを見てから、ふと、可笑しくて笑った。
「ありがとう」
レガントは頬を熱くさせ俺を見つめると、行き場に困り、円卓に手を当て俺の持つ花の花弁を撫でた。
「あなたは黒紫や、青紫もよく似合う……」
その大振りの紫の花や、白薔薇、シダの葉など、見つめながら俺はレガントを横目で見上げた。
「青紫は元々好きだ」
「やっぱり」
レガントが嬉しそうに微笑み、白い歯を覗かせた。
「あなたがお美しいお方だから……」
「ああそういう事を聴くと滅多打ちにしたくなる」
「いや。本当です」
真面目に目をまっすぐ見て言われ、俺は可笑しくて笑った。
頬と肩に手が伸び、花からレガントの目を見た。
上の寝台で白薔薇の柔らかな花弁と、青紫の鋭い花びらが黒シルクに舞い、レガントが笑って俺の背をはねさせ白と紫が黒艶の空間にも舞った。
バラバラとシダを広げまわせるとレガントは背に落ちて俺の胸部に落ちた花びらや黒シルクやシダの間に覗く肌にキスを寄せ、笑って頬にきすをしてくるとシダの舞うあたりを見回し微笑んだ。
「ミスターは葉の方向で占う行く先を知って?」
紫の花弁を指に見ながら俺はレガントの黄緑の目を見つめ、首を横に振った。
「そうだな……例えばこれ。あなたの左胴横に落ちた葉。これは茎が向こうに向いているから悪い物事が去って行く。左肩に葉先をあちらに落ちた物は、近いうちに問題が起こること。あなたの右上に茎をあちらに落ちたものは、いずれ過去が」
「解決する?」
「はは。そう。十代の頃、ボルドーの片田舎で教わったんだ。肩は将来の問題の有無、胴体が現在の問題の有無、頭部が過去の問題の有無、茎と葉先の方向で善悪が分かる。簡単なものだけど、その小さな老人が人が良くてね」
「そうか。それは良かった。葉は葡萄の葉か?」
「やぱりシダの葉は効かないと思って?」
「いいや」
白の花びらをレガントが取り、それを見つめると上目で微笑み言った。
「誰にでも問題は起こるし、絶えず物事はその人が利口ならば解決されるべき事だ。過去の解決はその人が堅実なら、大丈夫でしょう?」
「………」
俺は笑顔を無くしてしまい、瞳や頬、唇を見つめ、甘美な花びらの香りの中を肩を強く引き寄せ動けなくさせた。
強く抱きしめ肩にきつく痕をつけた。項にも、耳裏、強く引き寄せる手首。
「ミスター?」
黄緑色の瞳が困惑し、顔は身体を締め付けられた事で真っ赤だ。
「一体どうして? 花と蛇のようだ……」
そう俺の手を手にくるませ、指を甘く撫でてきた。花の香りが一層香った。
黒シルクに紫と白薔薇の花びらが舞った。一瞬石輪に、手錠を填め片手首を拘束したくなった。
黒紫の花びらは濃く、頭上にのたうつ鎖が目の前にさえ見える。
甘い香りが充ち、俺をそうしたくさせて来る……。
ゴトゴトと音をさせ輪を引き、石鎖が黒ビロード、白と紫の花びらの間に艶めくと、バングルの様に手首に嵌めさせた。
「………」
身体を起こし花びらが舞った。
石鎖が蛇の様に引き、首筋を狙うかの様に胸部に添えられた手元を、花びらを絡め鎖が手首にはまり、色っぽい態にレガントの瞳を見つめた。
首筋に視線を落とし、美味しそうな……。背を落ち着かせ、金髪を避け、首筋を見つめ口を大きく開かせた。
「恐い。ミスター?」
ゴトリと鎖が鳴り、背にずっしりと下腕が当てられ、その先の手が背にガッと爪を立てた。
レガントが痛がり首を振り、足をばたつかせて噛み着かれる事を逃れようとする。両手を取り抑え血が微かに滲み花の芳しい香りに混ざり合い、幸せで、首筋を舐め続けた。もっと噛み、肩に爪を立てて来る手を引き寄せ止めさせ皮が歯でえぐれ、千切り含んだ顔を離し、揺れる視線が震え泣くレガントを見た。
肩を抉られ、俺の口から血が一滴落ちた、
閉じられる瞼のブロンドの睫下からボロボロ涙が流れ顔を歪め泣く。可愛い……。
そそられ、震える手首を掴み舌を噛み血の味が広がり、熱い涙がボロボロ流れて来る。傷口に口を寄せ血を舐めた。
噛み込み、皮膚が歯形に食い込み、歯が震えだし生血が熱く流れ、顔を離し身体を起こし手首を掴みその手にレガントの手がきつく絡まった。
苦し紛れのレガントの声が花と混ざり合う様に手に手が絡まった。
「ミスター」
目を開け天蓋を見つめ、顔を戻し黄緑の瞳が揺れ、浮いている。肩に手を当て、耳裏に手を当て。………。
「!」
血が溢れるビロード枕を見て身体を起こした。
「レガント」
喉が一気に狭くなった様に、血に蒸せる味に口を抑え見回した。
首筋から胸部に血が染みている。コブラにも絡まるように……。
咽そうになったが、それ以前に泣きくれるレガントの肩を見てナイトテーブルをあけた。
抉れた肌を整えさせ布に当てた。
「………」
包帯を巻くと、はさみを置いた。
白の浴場へ行き、血を流し戻った。
レガントはビロードを引き寄せ顔を覆っていて、俺の腕を引き寄せると抱え込んた。震えていて、悪い事をしてしまったと思い、髪を撫でた。
「傷だらけにされるな。お前は」
「いいんだ……あなたになら」
レガントが身体を向け、肩に頬を乗せ背を抱いて来る。背を見つめ、耐え切れずに震え涙が止まらず零れた。
背を抱き締め首筋に頬をつけた。
「悪かった」
殺すところだった。まさかレガントを食べようとしただなんて、信じられない。
まさか彼等を欠いた自分が、欲望が底から湧きあがるなんて。
「ミスター」
囁くような声がし、膨張していた聴覚が戻り、ずっとレガントの背を抱き寄せていた。
☆キャリライ・S・レガント レガント一族御曹司
熱に冒され傷口が痛んだ。ズキズキと。
左腕がその為に動かなかったものの、痛みも熱で鈍いものへと緩和する。
血液の香りが花に紛れ冷たい空間に流れていた。
紳士服に包まれていると印象が変る。規律ある風が一気に雪崩のように、優雅に、それでいて清らかに脱力している。
彼のシャンプーの香りが透明な月の香りであり、安堵した。
果たして、そのまま食べられれば良かったのかもしれないとも、妙な感覚で思う。あの赤く熟れた美しい口許から、血が真赤に流れ首筋を伝う様が余りにも美しすぎて、光る漆黒の瞳が魅惑的過ぎて、首をそり上がる声が余りにも艶がありすぎて、黒蛇に飲まれ食されてもよく思えていた。
正気では無いシャープな顔立ちが美しく、血を舐める時の手元が優しく肌を撫でたり、爪を立てたり、獲物を食べる黒猫を見ているようで可愛かった。
痛みで熱い涙が頬を伝えば、そっと血まみれの唇で舐めてくれた。血と甘い花に埋もれるミスターが、可愛かった……。
ルジク一族の血族は元々、血を好む習性がある為に彼にもあるのだろう。
赤い血に塗れる白の肌も、美麗な顔立ちも、何度でも見たくなる。
彼に食卓に上げられてもいいと思える。ダイニングで、黄金の炎を暖炉に灯し、炎は彼の黒シルクや、血のグラス、黒石の壁に揺れ、純銀のカトラリーは光り、黒シルクのオリエンタルなタッセルが艶掛かり下がる銀のシャンデリアは、黒の蝋燭を光らせ、微笑する彼に、食される悦び……。
白薔薇が、彼のその手と見まごう程に白く、肉を皿の上彩り、甘い香りをさせる。
ミスダーは顔を上げ、逆側の頬を付けると、身体を起こし俺を引き起こした。
「ミセスから施しを受けよう」
ミスターはそう言い、寝台から離れさせ、俺はその背を見つめた。
連絡を入れている。
短く告げると、肩に黒の膝丈のガウンを掛け、歩いて行った。開けられたドアのところで純白に目を痛めながらも肩に腕を回し闇雲に頭を抱えた。時間も忘れて……。
リリリン……
俺は顔を上げ、横に広がる純白の空間を目を細め見た。
ミスターの頬は更に白く光り漆黒の瞳が白の光を乱舞させ潤い、肩に掛けるだけの黒のガウンに滑らかな白の光りが跳ね返り、俺が手を掛ける彼の曲げられる膝にも、俺の腕に美しく添える黒蛇の手腕にも、光が跳ね返っていた。
ミスターも向うを見ては、ミセスが微笑み、あちら側の白石のベンチに足を組み腰掛け、クリスタルベルを美しい手に持っていた。
「可愛らしいあなた方、さあ。こちらへどうぞ」
俺は罰が悪くなり項が熱くなった。
「行こう」
ミスターが腕を軽く叩き純白に袖をなびかせ歩いて行き、俺はその背を見つめ背筋を熱くさせ歩いて行った。
エステスパルームへ来ると、白の空間に黒石の施術台、黒石の用品棚、黒石キャビネットなどがあり、白の石一つで創り上げられたシャンデリアが掛かっていた。
ミスターは壁際の台に置かれる黒花瓶に白石の花が置かれた横に腰を下ろし、膝に足首を乗せガウンの中で腕を組むと、横のヒュミドールから一本、細いシガリロを取り美しい瞼で吸い付けた。
あれはハーブや花びらなどを、果物の果汁に浸し乾燥させて巻いた物だと知っていた。MMの品だ。
いつもの様に身体を整えると、台の上に横になった。
「大丈夫。レガント様。痕は残らないように出来ますわ。人工皮膚を培養して、綺麗に補修する事も。まだ細胞がお若いから」
俺は何度かうな付き、目を閉じた。
噛まれた事で緊張した身体をオイルでほぐして行き、痛みで強張る筋を伸ばしていき、香油が薫る。
「ラヴァンゾ様は、お怪我は?」
「いいや」
「でも、爪あとが見受けられますわ」
俺は目を開き、顔をミスターに向けた。ミスターは曲げる側の足の付け根が黒シルクから色っぽく覗いていて、真っ白のあの腰元の脇腹に、紅い線が四本着いていた。
「すぐに消える肌だ」
それを見下ろす黒の睫や真っ白の鷹鼻筋、熟れる口許がゆったりとした黒髪から覗き、俺は項を熱くして見つめた。
ミセスが手をそっと離し、壷のなかでパックをかき混ぜはじめた。
「ようございましたわ」
ミセスが微笑みそう言い、俺は彼女を視線で見上げた。
「あなた様のオーナー様のお肌は、とてもお丈夫なの」
そう彼女が艶声で言い、俺はミスターを見つめた。
ルジク一族ゆえ……そういう、空気を含ませていた。
「ラヴァンゾ様。本日も、何かお話をお聞かせ下さいな」
パックを刷毛で塗りながらミセスが言い、ミスターが可笑しそうに短く笑い、首を横に振った。
「彼はね、とてもお好きなの。イタリアの地に伝わるお話」
「僕も聞きたい。ミスター」
「そうだな……。何がいい。絵描きの話や、道化師の話、数学者の話、オール漕ぎの男の話、猟師の話……いろいろだ。実際耳で聴いて来た話だから、信憑性はどれもあるようで、現実味も無いが実話のようだ」
「ノンフィクションの逸話で?」
「その土地毎には必ず、恋物語や秘められた愛情の話があるものだが、そういった類さ」
「そうね。何か、花にまつわるお話はあるかしら?」
ミスターは台に片膝を立て、壁に頭をつけて思い返しているようで、数度頷くと語り出した。ゆるやかに、つる薔薇のように白の煙が昇って行く。
「フィレンチェの花祭りでの話がある。1560年代、レジェバラという小作人の娘が、アクジャから薔薇の花を売りにきた。娘は金髪に水色の瞳と白薔薇の様な頬をした少女で、民族衣装を纏って薫り高い薔薇を薫らせ、石畳を、貴族達に売り歩いたんだが、殿方には夫人や愛人へ贈る為の花を、貴婦人には薔薇の精油と薔薇水を売っていた。その内に、少女は評判になり、貴婦人からは白粉や紅を、殿方からは誘いを受けるようになりはじめたが、清純を貫き通す彼女が誰にも傾くことは無かった。だが、ある三年目の薔薇の季節、花祭りの最中に薔薇の夫殺しが起きた。同じ薔薇を贈られた婦人と愛人が計画し、夜、精油にトリカブトを混ぜ自らの首筋に落し、その祭りの宵に選ばれ薔薇を差し出し、女の肩にいつもの様に唇を寄せたと共に、倒れるという事だ。選ばれた女は永遠に男を手に出来たが、罪の為に牢獄で一生を過ごす事になった。黙認した婦人は、一生男を失ったが自由の中にいては、その後も男の差し出して来た薔薇を忘れられずに、祭りの際に薔薇売りの少女を見つけると、自らが薔薇を買いつづけ、薔薇水で美しさを増して行き男を夢想し続ける。そういう話さ」
「薔薇の香りのトリカブト……」
俺は唇をきゅっと結び、彼の、何度も唇を寄せキスを寄せつづけた真っ白の首筋を見つめた。艶の黒髪が柔らかく掛かり、やはり美しい。
つる薔薇のように壁を登る煙にダマスクの優雅な芳香が開き咲くように思えた。
「使いたい? レガント様」
パックが拭かれて行き、俺はうつ伏せからゆっくり仰向けになり上目で逆さになるミセスの微笑を見た。
「まさか、俺がミスターに?」
「ハハ、蜂蜜に溶かされた真珠に塗れながら、俺への殺人計画か」
「俺はあなたを失いたく無い」
起き上がっていて、俺はミセスを肩越しに見ると大人しく横になった。
「可愛らしい。レガント様ったら」
「ミスターもミセスもおちょくるんだ」
「からかい甲斐があるんだ」
パックが刷毛で塗られて行き、俺は可笑しそうに笑うミスターを見てから、顔が熱くなり顔を白石のシャンデリアに向けた。
そのパックの上から同じ様に銀粉入りのシアバターが塗られて行き、目許にタオルを当てられそうになったが、首を振った。ミセスは微笑み、タオルを下げた。
ミスターは台から離れ、灰皿に巻きハーブを置いては、足許がわにあるレコードに針を落とさせた。
聴いた事の無い曲が流れ、ミセスは椅子に座り、俺の指をマッサージし続けた。
目を閉じる……。
このまま、眠りそうだ。ガーゼ下の肩の痛みも緩和され……。
膨張したような柔らかな声が耳元で、肩に手を置かれ囁かれた。
目を開き、ミセスを見た。
寝ていたようだ。
身体をゆっくり起こし、純白と黒艶の空間を見回す。
ザンッという水飛沫が聴こえた。
ドアの開かれた純白の浴場で、ミスターが飛び込みをしたようだ。
「お気をつけになって」
「ありがとう」
ガウンに腕を通し帯をしめ、バスタオルを横に置くと微笑み、台から上がると歩いて行った。
浴場でミスターが水泳をしていて、悠々と泳いでいた。
俺は大して泳ぎは上手いとは言えないが泳ぐ事自体は好きだ。完璧なフォームで綺麗に泳ぐミスターの姿は綺麗だった。
俺に気付き、ミスターは上がって来てはミセスに言った。
「どうもありがとう」
「いいえ。ラヴァンゾ様」
彼女は微笑み、彼は俺を見た。俺は水に濡れる美しい体と、黒の水泳着の腰元を見つめてしまっていて、既に赤味が引いている脇腹を見つめていた。
「朝食にしよう」
俺は顔を上げ、濡れる頬と艶めく黒髪に囲まれ光る麗しい瞳と、赤の唇を見ては打たれた様によろめいた。
歩き去って行こうとしたミスターが腕を引き、ミセスが肩を支えてきて俺は顔を真赤にしてずんずんと一人歩いて行った。
ミスターが短く笑い、黒のバスタオルをミセスに渡され頭を包ませ拭きながら眩しい中を歩いて来た。肩越しに見ていた俺はドアの所で熱い頬を手で押さえながら、室内に進んだ。
既にベッドは綺麗になっていて、血の香りも消えていた。
ソファーセットに座り、繊細な置き時計を見ると、五時半だった。
古城で生活をしていた時は、いつでも日の出と共に目を覚ました。四時だったり、五時だったり、遅ければ六時。交通の便の為に、早く起きなければ古城内での朝の移動や、草原を走らせエリッサ内の学び舎や職場へは向かえなかった。それも、今は屋敷が変り、この時間でも多少余裕が出来る程だ。
ここはルゾンゲ屋敷の為に、一時間程ゆっくり出来る。
常に、七時半までに職場のデスクに着いている。
身だしなみを整えて行き、再び室内へ戻った。
ドアから出て、やはりミスターが素敵だった為に、上目で見つめ肩に手を置き、そっとキスを寄せた。軽く触れ合わせ、鋭い瞳を見つめ、感情が渦巻く。それでもどうにかそれ以上の感情を抑えた。もう朝だ。
「ジャケットは着れるか」
「なんとか大丈夫です」
「そうか。行こう」
「はい」
既にミスターがオーダーしていたようで、しばらくするとダイニングルームへ移動した。
柔らかな白の壁は睡蓮の華が茎も高くレリーフされ、黒石の沼地レリーフから立ち上がっていた。白マーブルが雲の様な壁に純銀の蝶が舞うようにはめ込まれている。
朝食によく合うようなテーブルセッティングは、清らかに覚醒をしっかりしたものにさせていく。
☆☆☆ダイラン・ガブリエル・ガルド 殺人課特A主任警部、FBI末端捜査官
ノートパソコンを拾った。
パソコンの相場なんて物は知らねえが、二十五は下らないだろう……と、思われる。
第一にキャリライ・レガントのプレミア付きで
バシッ
「アウチ!」
「こらガルド君!! 良からぬ事を考えてるって分かってるのよ! これ、コーサーのパソコンじゃない!」
俺は上唇を噛みソーヨーラを見て、向き直ってそれを他のファイルと共に腹で整え脇にかかえて
「こら! ノートみたいに誤魔化さないの!」
パソコンだけ抜き取られ、俺は恨めしそうにそれを見た。
バッと奪おうとし
「ウェイト!!」
ハッ
俺はロジャーを振り返り、差し出された手に反射的に手を乗せた。
ポン
「何やってるんですか警部」
「………」
「………」
「………」
フィスターが入って来てデスクに座り、ファイルの数々を置いた。
其々が大人しく散って行き、俺は没収されたパソコンを見ていた。
「やあただ今」
コーサーの野郎が昼食から帰って来て、また優男面の度合いが何故だか増していて、不気味だった。
「あれ!」
小脇に抱えられた黒のスタイリッシュなノートパソコンを見ては、俺は瞬きを続けた。
「あんでお前、パソコン……」
「え? ああ、無くなっていたから部屋のものを今代用しているんだ」
相変わらず気が抜ける程剣の無い調子で言って着やがるからこっちもにゃふにゃふになって来る……。
ソーヨーラが銀色の方のノートパソコンを斜めに掲げていて、俺はそれを取る前に黒いスタイリッシュな方のパソコンを取った。
「な、おい! 何を一体!」
見回して調べ回り、首を傾げるとコーサーのジャケットを上から下まで見た。アヴィトはいつでも本体には絶対に記録は残さずに、よく分からねえ小さいビスケットみてえな黒い物を箱に入れていた。
「おい。ビスケットを出せ」
「ビスケット?」
それに反応したロジャーが、警察犬用褒美ビスケットをパッと投げ
バッ
俺はデスクから見事に飛びそのビスケットをバクリと食べ床にころっと回転したのだった。
「よい子!! よい子よ!」
「畜生!! 騙された!! 味が無い!!」
「そこよ!!」
コーサーが首を呆れ振って、パソコンを開くと胸部内側ポケットからキーを出し、デスクの鍵を開けるとその中に並べられた黒いビスケットの一枚をスリットさせ
「それだあ!!」
バクッ
「この狂犬!! フロッピーを!!」
「アチョ!!」
コーサーをチョップで気絶させ、ノートパソコンを見下ろした。
「………」
………。
「………。?」
俺は首を傾げ、パソコンなど使ったことねえから蹴り起こした。
「ガルド君……君、今に訴えられるわね」
この中に何がしかの怪しげな物事が絶対に含まれている筈で、俺は主任として健全なるチーム育成の為にいかなる裏も無いよう躾なくば……!!
だがそろそろいよいよガーネット娼婦、蛇女、スキン女、ランジェリー娼婦の解放の時が迫っている……。
俺は首を傾げ、何か左腕を動かす動作がおかしかったために、肩パットの中には秘密のビスケットが一つ
「アウチ!!」
「うおお、」
いきなり叫んだコーサーに驚き、俺は鋭く歯を向かれ睨まれた。憮然として俺は座った。
ただ肩叩いただけだってのに。
怪しいビスケットを割る勢いで……。
「ハ!! そうだ! 全てビスケットを割ってしまったり火をつけてしまったり食べてしまったりしてしまえば」
「な、何考えてるんだそれは、」
「ゴホン」
「………」
ハノスの狐野郎が昼休みから帰って来て、俺達は黙ってデスクに向かい合った。今日はハンスの野郎はまだそこらでうろちょろしているようだ。
部長室へ入って行き、そのドアが閉ざされると俺は警部室に入り、この前からたんぱく質の餌をあげているオゾホ婦人を出し
「ガルド君!! あんであんたうちの猫拉致ってカロリー高い餌(脂質の餌)食わせてやしなってんのよ!!」
「猫ってのはなあ!! こんなしゃれた餌なんか食わせててもなあ!! 弱くなるんだよ!! こうやってなあ!! 肉をガッツリ野性的になあくわせた方が野良猫の様にガッシリ逞しく」
「女の子よ婦人は!!」
バッ
「あ! 止せよ!! 俺の猫だぞ!! やめよろ!! 俺の彼女」
「警部。止めて下さい。大人げないです」
「………」
「………」
フィスターがそう白い目で見て言って来て、俺は猫をソーヨーラに奪われ警部室ドアから出て行った。
「そうだ!」
コーサーの部屋に忍び込んで全てのフロッピーディスクの山を粉々に砕いて火を放て燃やしちまえばこいつの何らかの悪巧みも消えうせてピュアコーサーに、な、……うぐ、
ーーガクッ
「吐き気が……」
「犬用ビスケットは人畜無害なはずだけど!!」
「当然だ!」
☆キャリライ・S・レガント レガント一族御曹司
その黒石の空間には、黒石で出来上がり、重厚で短い縦連段円蓋が上下に着く天蓋から、群青に金糸で錦織された豪華な幕が弧を連続的に描き下がっては、金帯でまとめられ、タッセルをまとめる留め具部が日本刀の漆と松の金泥で出来た見事な切刃台の鍔になていた。中心孔にまとめる帯の最下部を通し、小柄櫃から房を降ろしている。
天蓋の内部は、天上が見事な折り返し天上になっては、枠の中は、変った事に東洋星座の幻獣が鮮やかに描かれている。その中心から、青の丸い石が嵌る漆円盤の照明が和紙の裏から光を柔らかく下がっていた。ヘッドボード部は金地に六角形中を菊の錦織りにされた豪華な帯が華麗な締めと結びで大きくカサブランカやシダ、吾亦紅と共にアレンジされている。
黒シルクの上には、豪華な内掛け友禅が掛けられていた。枕は巨大な筒型で木の丸い留め具とタッセルがつき、帯で締められた絹織物。
ホールには、五メートルに及ぶ円形の巨大な花器の中に、松、牡丹、吾亦紅、菊が豪華に生けられては、松は立派に枝をくねらせていた。
寝台とは逆側の方に、まるで舞台上かの様な御簾段があり、そちらの御簾は今中心まで繊細な綾の平絹や房で上げられている。黒石の台のその上は、漆塗りと金泥で龍が描かれたテーブルに牡丹の花が生けられ、六脚の椅子は、漆つくりだ。その奥に置かれた金屏風は、素晴らしい花鳥風月で、上からは十二面の木枠の一面の和紙毎に金箔地に四季の花が描かれ、それが円陣を組むように六つ放射を描き照明になっている。その中心は龍の透かし彫りがされた漆塗りだ。白黄金に光り浮くスペースだった。
左側には三段半円が重なった三つ葉広がりのスペースで、長火鉢やソファーセットが置かれ、そのソファーも錦織のされた三人用が一脚、中が空洞で透かし彫りこみが去れた青銅枠の一人掛けが二脚向かい合わせ、中央の雲が渦巻く浅掘り青銅のローテーブルには中央に、香炉がセットで置かれている。そのスペースの弧を描く壁際には、厨子などが置かれ、イシなども置かれ、調度品が並んでいる。左右のくぼみになると、大型で円形の赤に金菊丸の錦、藍に銀鳳凰丸の錦のスツールが置かれ、煙管用の煙草盆になる吐月峰が置かれたシガースペースになっては、腰壁が龍レリーフで窓と扉部が青銅透かし彫りの硝子張りにされていた。右は殿方、左は奥方用とわけられている。
そのスペースと向かいになる逆の奥まった半五角形の場所は浴場であり、松の葉枝か扇のように三つに湯が分かれ掘り込まれていて、それらを円陣を組み囲うようなボリュームのあるクッション部分は錦織りされていた。金の細い枠をつけ、その部分事が金で龍、牡丹、蝶、鶴、菊が織られた黒地だ。湯の温度や質が違う。照明は、スタンド式の雪洞で、黒い支柱先の紫の中から、明りが灯って幻想的だ。黒石を透かし彫りされた欄間下からは黒のビロードが弧を描きまとめられている。艶掛かる黒石を透かし彫りされた左右の壁向こうからも、紫がぼんやり光っている。プラチナの頂きの金具を光らせることもなく。
空間ホール全体は六角形を取っていた。
ホール自体の天上は、大きく黒石で透かし彫りされている。壮大な雲と風とがうねっている。その奥天上にすかされ、巨大な龍がレリーフされていた。それらを遮断すべきシャンデリアは何も下がってはいない。
床には、青紫の石で中央の花器を囲うように巨大に三つ、六角形枠内に菊の丸が象嵌されている。
六本の帯が斜め上から斜め下にゆったり掛けられるスペースを中心に御簾内のダイニング部があるが、左は厨房、右は食料庫だった。
手洗いは浴場の横にあり、なんと便座が金に浮世絵が描かれているので、落ち着かない。シャワーヘッドもそうなのだが。レバーなどは黒漆ストレートノブで貝で梅が象嵌されている。横には何が置かれているかというと、対の獅子の置物だった。上から下がる朱色のタッセルを引くと、何故だかは不明だが、鎖、鉄枷、鉄扇が入っている桐の蓋が開いた。
鮮明に空間が黒石の艶めく床に美しく映り浮いていた。
施術を受ける際は、部屋を横に移動する。
錦を下ろす事は熱いために、アオと呼ばれる綿入りの衣や、友禅、打ち掛けは全て几帳代わりに着物掛けに掛けさせた。
黒シルクの上黒シルクで目隠しがされ、何も見え無い。
包帯の香りが時々鼻腔を掠め、痛み止めで左腕は動きが鈍い。いきなり、手首を、タッセルの絹帯だろう、それで縛り付けられ強く背後に引かれ固定されたらしく、再び持ち上がり顔を歪め広げる膝で立っては首を仰け反らせた。
手首を縛られ引っ張られた状態で、何も見えずに不安の中、ミスターから強く強いられると異常な程感情が恍惚と乱れそうになり、完全に自己を奪われる。敬愛する方に拘束をされるだけで。
帯に手が掛けられたのか更に張り、頭がパンクしそうだった。
「まだ、鞭打たない」
手首を解かれ、腕がだらんと落ち、一気に熱と共に血液が流れ込んだ。
手が離され、冷たくミスターの気配が離れて行ってしまった。
俺は咄嗟に腕を差し伸べ、ミスターの肌を掠めもせずに、シルクに落ちた……。
俺はシーツに頬を乗せ寝ころがり、目隠しの中で目を閉じた。
風が流れ込む。
(情景描写に近い)
足許まである黒絹の腰衣をつけ、肩から、黒に松と白鷹が刺繍された打ち掛け。袖口から黒蛇、胸部にコブラの丸。髪は背後に流し、ゆったりと目を閉ざしてソファースペースに片膝を立て座り、白の足首から覗いては、黒螺字で銀の吸い口の煙管から煙が立ち昇る。三人掛けで青銅の透かし彫りされた脚に並ぶ足許を、三毛猫が絡まっている。彼の座る横から背後斜めに絢爛な帯が黒石の床を段差を越え柱横も通り彩っている。
天上に煙をくゆらせると瞳を開け、顔を向け微笑した。
天上からつる下がり、青銅で睡蓮が透かし彫りされた雪洞から下がるブロンズの留め具と、黒シルクのタッセルの房を真っ白の指が撫でながら、鮮明な明りを広げ頬に受けている。それらの鮮明な水流の中の睡蓮の陰は辺りにも描写されていた。
その為に、彼の黒蛇の上にも鮮明に花影が咲き乱れている。
雅楽とオーケストラのミックスされた神秘の曲が流れ、雅なる一時が、流れていた。
青銅の透かされた壁からゆっくり回り、見つめ、その雲の線をなぞり見つめ歩いては、青銅の透かし彫りに彩られる彼を見つめ、また戻っては行き来して透かし見つめる。
赤漆に金泥で蒔絵の施された雲高脚の櫃には、半分がクリスタル硝子がはまり、ミスターの物の銀の懐中時計が琥珀照明の光りを受け、艶めかしく光っている。それに、唐草の繊細に彫られた純銀に嵌る六角形カットのスターブラックサファイア。
その板の嵌っていない半分には、金箔入りで、三色で重ね漆塗りされたひょうたんを縞模様にクリスタルを嵌められ、サイドラインを美しい千代紙の張られたブランデーデカンターと、黒の江戸切子ワイングラスのペアセット。その内側は金泥で黒漆に書院造りが庭園と共に記され、底自体が飛び石のある池の情景になり、銀箔の中に、鯉が泳いでいた。盤の下は、花が生けられ咲いては、小さな白い蝶が飛んでいた。
その櫃には、エナメル加工で出来た熊蜂や、ブロンズで出来た蜜蜂が着いている。今に蓮華でも見えそうだ。
彼の所まで歩み、黒棚のローテーブルに膝を掛け手をつくと、彼の膝に片手を置き、首を伸ばし頬に頬を寄せた。
「お前はペットの様で可愛いな」
横目で微笑みミスターが言い、俺は上目で微笑みその彼の頬を舐め、心地良い首筋に頬を擦り寄せ目を閉じた。
白シルクを併せ黒帯で縛り、上に帯を締めずにゆったり着る俺の身体に吸い付く程なめらかな、裾に銀箔の施された和模様の薄手黒シルク袷が肌を滑り、両腕を伸ばし彼の項にキスを寄せ、膝で立つと横に座ってから言った。
「ちょっと待っていて。ミスター」
俺は微笑み歩いて行き、厨房へ歩いて行った。
湯葉の上にイクラと三つ葉を乗せた物と、大根の上に海苔とゼンマイを乗せたものと、二色の生麩の上に菊の花びらを乗せたものを、細長い金の四角皿に乗せ、持って行った。
「どうぞ」
にっこり微笑み、横にゆったり座ると肘を背凭れにかけた。
「ありがとう」
ミスターが微笑み、グラスに酒を注いでくれてあった。
掲げ合ってから飲み、ミスターが湯葉物を食べ、俺も大根物を食べた。
この前、ミスターに「お前は小食だな」と言われた。確かにそうだ。小食だ。
だが、物を食べている回数は多かった。
「物合をしよう」
「ものあわせ?」
俺の頬を指でそっと微笑み撫でてから、ミスターは立ち上がり歩いて行った。
連絡をすると、漆箱の帯を解き、その蓋を開け、その中から、白の背まで長い毛皮の様な鬘がついた妖しげな能面を出した。顔の全てが隠れるタイプだ。ミスターの場合は、目許だけが隠れる妖雅なアイマスク。
黒に松の扇子を広げ、それを嵌めた彼の口許が微笑した。
俺は一種欲情に狩られ倒した。彼は黒シルクの長い品のある腰衣から片膝が真っ白に覗き肘を背後にかけ上目で俺を見つめ、俺はその真っ白な腿に焦った様に手を当て広げさせていた。時に我慢出来なくなる。腿に手を包め撫で、腰元に手を当て、仮面の中の艶の様な眼差しと微かに開かれる染まる唇を見つめ、俺は畏怖して進めることなど出来ずに項を熱くした。彼が男性だけが愛情表現の対象ならば、その表現で愛する事への恐れなどなければ、愛せる……。だが俺は怖気づき、ミスターは低く笑っては俺の顔に、能面を当てた。
その能面の口許にキスを寄せミスターは彼を押し倒す俺の肩にそっと手を当て、入り口側を見た。
鷹が飛ぶ襖を屏風にしては、上部の飾りに黒で装飾をつけた背後から、目許に仮面をつけた男女七名入って来た。
俺は咄嗟に彼の広げる膝の中に背を向け膝を引き寄せ、ミスターが微笑し耳元にキスを寄せては背後から俺の顔元に端に金房の下がる扇子を広げさせた。
俺は肩越しに彼を見つめ深くキスがしたかったが、能面はそれを遮断させていた。背に彼の胴を感じ、頬を熱くし見を預け首筋にキスを受け続けると、ミスターが扇子を閉ざし、視線をあちらに向けさせた。
女が三名、男が四名、其々が妖艶だったり雅な態だ。
彼等は女三名が赤や黒のマニキュアの指で扇子を手に日本舞踊を美しく雅に踊り、男四名が左右に均等に分かれた。
彼等一人一人を、モノアワセ、していくゲームだと分かった。その共通の点を扇子で指し、その部分の物を女が取って行き、最後は仮面だけになる。その共通点は細かく、一人が指輪、一人が付け爪の柄だったりする。片や帯と片や手持ちの鏡、同じモチーフや、同じ素材、同じ柄、それらを見つけるのだが、間違い探しのように容易では無い。
間違えると、合計五回間違われた男に後から鞭打たれる事決まりがあるようだ。五回連続して言い当てると、好きに出来るらしい。
女達はゲーム進行と共に狂うように笑い舞を激しくしていき、時々意地悪をしてくる。
最終的に近くまで行き周りを周り観察していき、これは警官としても発見には意地になる。(現場での発見率が実に高いので、キャリライの後の現場はあまり証拠は無いに等しいとガルドも太鼓判を押している)
視線で見回していき、女は悪戯にふふと笑い男達四名と俺を見ては、背の白毛に扇子を蝶の様に触れ合わせては、キャアと微笑み狂い舞う。
肩から掛ける毛皮だったり、手の甲の毛皮でさえも、種類が違ったりする。
仮面の中の其々の瞳の色を見ては、彼等は時々姿勢を変えたり、身体を寄せ合ったりする。マネキンの様に。
見つけて、それを女が微笑し外して行く。
主導権を次にミスターに渡すことは自由だ。俺は彼の横に戻り、彼はボリュームある鬘の白毛を扇子であげ首筋にキスを寄せては、俺は彼等に背を向け、一度肩越しに見ると、女達が狂った様に恍惚の声を上げさせてくる。影の中の彼が微笑み、俺は横に戻り、彼が絶対に男達の方へは行かないように彼の曲げる膝の上に座って胴に片腕を回し、降ろされる脚の腿に手を置き、しっかりした腰元を撫で続けた。彼が横の俺を上目で見つめてきて、俺も上目で見つめ、絶対にこの後は、許されるならば……。
彼が流し目で前に向き直ると、視線で見つめ見回す目許をずっと見つめていた。
彼は時々閉ざした扇子の美しい動きだけで、彼等を回転させたりしている。美しいポーズを男達も取る。ミスターに操り慣らされている男達に嫉妬する。
凛とするミスターの白の手元と手首のカーブ、指の添えられる雅な扇子。和の空間に彩られる全て。
ゆったりと腰を掛ける態も、掲げられる腕も、黒に松の袂や袷も、美しい顔立ちの鷹鼻梁も……。
あっという間に四つ当ててしまい、俺は慌てて男四名を見た。艶やかに艶めかしく女達は微笑し踊っていて、扇子を大きく煽いで、五つ目を妖しく促させている。
ミスターが五つ目を当ててしまえば、男の中の誰かが俺の目の前でミスターに何か手を下される。キスかもしれない。駄目だ。許せない。
だが、ミスターが指示するのは、男と男同士のSM劇かもしれない。
ミスターが五つ目を当ててしまった。
角が生え、斑毛皮の毛並みがついた黒の硬質アイマスクを嵌めた男と、黒般若のお面をつけた男に共通点があり、俺はミスターの膝の上から動かなかった。
そうすると、ミスターが、角と斑毛皮のアイマスクの男を扇子で呼び、俺は面の中口をつぐんだ。
男が来て、肩越しから俺の右肩に手をかけ、仮面の中の藍色の瞳で眺め見つめて来ては、俺は男を横目で睨んだ。お構い無く男がミスターと深くキスをし、俺はショックで間近の彼等を見つめた。ミスターがその手を伸ばし男の頬に手を当て深く交し、俺はその手を取りミスターが意地悪っぽく微笑み俺を見た。鋭く意地悪な男のサディスト的微笑を見て、俺は顔をフンッと反らしミスターの腰を抱える片腕で皿に引き寄せた。ミスターが笑い、男は上目で微笑し俺の面の頬にキスを寄せ歩いて行った。
それを見て遠くで泣いているのは、四人の中の、既に裸に近い部分まで来ている男で、先ほどはアクアマリン色の瞳をしている男だった。腰元で光る黒珠が重なりシルク帯で留め具などが銀レリーフの飾りが自棄に艶めかしい。
だが、男とキスをしていた姿が余りにも美しさの美術粋に達していた為に、嫉妬も去ることながら、俺はミスターの横顔を見つめると、次の番が自分だった為に、男達を見た。まだ、最高連続三回までしか当てられていない。
入り口側から、雅に装飾された巨大な黒馬が二頭、入って来た。蹄を響かせ来ては、豪華な房を揺らしいなないた。
女達はいきなり狂乱した様にキャアキャアと高い声を上げ、黒に鞠や六角形柄、丸柄、孔雀柄などが入った着物も、白の着物も、赤の襦袢も帯も激しく放り投げ脱いでは裸体にランジェリーショーツと仮面だけになり狂喜として巨大な馬に掛け乗りホール中を花器を中心に、男達を威嚇させ意地悪しては駆け回り始めた。
鞭でビシバシ男達を攻撃しようとしては、先ほどの藍色の瞳の男が腰元に回し収めていた鞭で歯を剥き威嚇し追い払っては女達は高い声で笑い走り、ワッカを回し声を上げては、緑の目をした男の胴を輪を掛けてはホール中を引っ張りまわして行き、勝手にその引きずられる内にいろいろと脱げて行き仮面と色っぽい下着とアクセサリーだけになり、引きずられていった。
「また勝手を」
ミスターが呆れ首をやれやれ振り、ホール中には派手な色合いだったりする装飾品や衣裳などが点々と宝石の様に散らばっていた。
彼はひきづられる男を見ながらグラスを傾けた。
色目を使って俺の背に手を掛けしなだれて来たのが、琥珀色の瞳をした男だった。
「アラディスの新しい男か?」
俺は驚き、肩から腕を掛け、その先の手でミスターの髪を撫でる男を見た。胴を俺の背に付けさせ、俺の被り物の後頭部にキスを寄せては、きっと同性愛者だろう男を見た。
まさかミスターには、恋人が多いのか? 例えば、あのアクアマリン色の瞳をした男。
ミスターが俺の左肩から男の背を手に取り下させ、俺は声も出すわけにも行かずに、胴に手を回して来た男を見たが、俺は同性愛者では無い。
「アラディスは、サディストマスターなんだぜ」
甘い声で耳元で囁かれ、俺はミスターを見た。そんな言葉に無視するようにグラスを傾け、シルクを伝って男の手が白の袷の中に伸びて来た為に、俺は立ち上がり黒のシルクを引き寄せ白毛を背後にやり、男を睨み見た。
「ふ、ハハハ! ぞくぞくする……その瞳」
男は肘を背凭れに掛け大きく笑い、ミスターを上目でくるんと見ると、立ち上がり俺の横に来て肩を抱くと、ミスターを上目で見つめた。
「このサディストな目の彼、俺にくれ。すっごく素敵だ」
「駄目だ。そいつは俺だけの物だからな」
男が俺を見ると、身体をなぞるように見て来た。
「俺、虐げてもらいたいんだ。あんたは彼の恋人か? それとも、彼はあんたのマスターか?」
俺は目を反らし男の腕を払うと、馬に跨った女達が狂い笑うようにこちらに駆けつけて来ては、大きくソファーセットを高く飛び越えて行き、今度は、いじけて巨大なスツールの上で背を上にぐすぐす泣いているアクアマリンの瞳の男を追い掛け回し始め、既にあのサディストな男は女を前に荒々しく馬を激しく走らせ咆哮を上げはしゃいでは鞭を円陣に回し駆けていた。
ようやく解放されて体中に鞭痕や縛り後のある緑の瞳の男は、床に腹ばいに肘を立てミスターにずっと色目を使いつづけながら煙管をくゆらせていた。
「そいつの目はアラディスにのみ心酔している目さ! お前の言う事など聞く体制も無いね!」
サディストの男が馬を駆けさせながら声を張り上げ向こう側からそう言い、女が猫の様にミャーオと言った。
花器を美しく彩り越えさせ、黒馬の鬣や尾が艶めく。
六角形の金枠に菖蒲の花が金で打たれた赤や群青、緑の色の模様の箔が、壁際に置かれた黒の巨大な石箱の中から空間に舞わせる金箔のように無数に飛び交い舞い始め、黒の空間を雅絢爛に彩り始めた。
桜の花びらの様に舞い……。
男が俺の背に流れる白毛を撫で、どう見ても性質的には加虐的な恍惚を浮かばせる琥珀の目は、照明の炎をゆらゆらと揺らしていた。
俺はミスターの横に戻りアームに腰を下ろすと、彼の肩に腕を駆け、彼が俺の腰元に腕を回してくれた。
まさか、ミスターがそのサディストマスターという名で呼ばれるような世界があった事を知らなかった為に、ここでは取られない為に当てられる手に手を重ね、足先を絡め肩越しに男を睨むと、その背後で倒れたアクアマリンの瞳の男が仮面の顔を押さえ泣いた。ずっと放置されている男は首を振り泣いていた。
その内、あのサディストの男が愉快で仕方が無い風で緑の瞳とアクアマリンの瞳の男達を日本刀を振りかざし追い掛け回し始めていた。女達は馬から床に下り艶めかしく花器の周りで逃げまとう男二人をはやしたてながら扇子を振り待っていて、黒馬で追い掛け回す男は声を高らかに笑って追い掛け回していた。女達や馬や男達、空間を、豪華絢爛鮮やかな生花と舞う紋箔が彩り舞っていた。
ミスターは彼等を遊ばせて置いた。
入り口側から鴉の羽でボディーラインと腰元を囲わせ、にゅっと足付け根から足を出し、コーヒー色の肌をした黒髪のミニマムグラマラスな女は、ハイヒールの足を進めさせると腰をふりやって来て、紫色と藤色のペイントに黒の羽根と黒ダイヤで囲ったアイマスクの下、アメジスト色のハートカットダイヤを下唇に通す金輪に吊るし微笑んだ。肩に青瑠璃を一羽乗せていて、白レースが首元を囲い、ビロードチョーカーの中心に悪魔崇拝的なマークが金で打たれてた。胸部から下腹部までを細身の壷型に覗かせ、その肌に龍を彫らせた柄が色鮮やかに浮いている。
もう一人の女は一回り程背の高い女で、身体中を白のドウランを塗りその上から黒で繊細な唐草ペイントがされ、葉の中心では黒ダイヤが煌き、四肢を動かすごとに光った。孔雀羽根をレオタードにした衣装に、足付け根から黒チュチュを広げその先からサファイアの雫を揺らし、胴を捻らせ進むごとに、その羽も、鴉の頭部のヒール先も艶めかしかった。その女は白石膏の仮面を取り付けていて、肌と同様に黒の繊細なペイントと、共に目の穴を囲うように着けまつげ、サファイアの雫がなされ、仮面の口許はダークレッドのルージュが引かれていた。頭部は全て黒革できつく締め付け革紐で結ばれている。濡れ鴉石のヒール部をカツンとさせ、その仁王立つ二人目の女が、鋭く俺を見据えて来た。
「好き勝手やらせてしまって申し訳無いわ。うちの子達が」
二人は小悪魔の様な女達を連れに来たらしく、三本の鎖と、それにその先には銀に紫のエナメル、黒エナメル、(藤色)ワインレッドエナメルの首輪を下げては揺れていた。
「おいで子猫共!」
浅黒い肌の鴉女が小さな身体で声を張り上げ、長身の女達が一気に振り返りこちらまで来ると四足になり、孔雀の女に首輪をつけられ、そのまま四足で鎖に引かれ、出ていった。
逃げ回る男二人は緑の瞳の男が、ミスターに必死に助けを求めた。
ミスターの乗馬は実に様になる事をよく知っていた。
彼は仕方無しに扇子を投げ、歩いて行くと一気に走る無人黒馬に飛び乗り腕に女が襦袢の腰に巻いていたシルクの細い帯紐を手に輪にしてザッと跳び走らせ、一気にあの男の手首を絹紐で絡め取り男がアッと顔を向けた瞬間、乱暴に地面に叩き付け背を落とさせ馬が荒れて二頭とも駆け逃げて行き、膝と手をつき倒し黒に松や白鷹の打ち掛けで彼等が見えなくなった。
追い掛け回されていた二人は床に転がって壊れた人形のようになっていた。
落とされた男の膝が曲げられ渋い息が漏れ、俺はそちらへ駆けつけようとしたが手首を引かれ、面の中から琥珀の瞳の男の目を見た。
バッと手を払い、一瞬で険しく牙を剥いた男に能面を上げられ激しくキスをされた。頬を強く掴まれきつくキスをされ、背がぞっとして、動けなくなった。鋭い瞼が黒のアイラインで更に鋭くなり、項に腕を回されきつく舌が絡まる。
「ギャ!!」
男がいきなり叫び俺は舌をまた噛まれ、ずるずると倒れた男の背を見た。
ミスターが肩越しに俺の面を降ろさせ、何が起きたのか分からずにミスターの恐い口許を肩越しに見つめ、俺はミスターに地面に叩きつけられていた。
咳き込み、腕を引き立たされ左肩と面下の顎を強くもたれ睨み見下ろされた。俺は震える目で鋭い鷹の様な目のミスターを見つめ、目さえ反らせない。
「何故拒否しない」
「………、」
恐くて声が出ずに、俺は上目で見つめ続けながら、それでも、ぞくぞくしてきていた。彼の鋭い瞳、先ほどの痛み、今の痛み……怒る彼が……。
ミスターの手が腰に下り引き寄せ、背後の柱に手首に手枷をつけられた。俺はミスターを見上げ、その彼はあちらに歩いていってしまった。
倒れる二人を首をしゃくり立たせると、触れようとしたアクアマリンの瞳の男を静かに威嚇し下がらせ、二人を、あの今は床に片肘で支え片足を立てているサディストの男に任せ、その男が立ち上がると、微笑してミスターの耳元に言った。
「早く追い出したかったんだろう? 次回、俺にも可愛がらせろよ」
「お前は大人しく二人を保護して檻に閉じ込めて来い」
男の口許が悦として鋭く微笑し、男二人の腰に黒シルクの帯び紐を巻きその中心を引き歩いて行った。最後に、サディストの男が俺に肩越しにウインクを渡してきて、出て行った。最後までアクアマリンの瞳をした男は、ミスターの事を引かれながらも見つめていた。
俺は手枷を、柱に腕を回されかけられた状態で肩越しに気配を追った。
恐くて、振り向くことは出来ない。
ミスターがそっと背後から能面にキスを寄せ、首筋に激しくキスをのめらせ能面と白毛が床に落ち、銀の線に俺は目を見開いたが、着物の袂を切られただけだった。
震え、黒のシルクの着物がするりと足許に落ち、次に、白のシルクの腰に巻かれたシルクの黒帯び紐に手が伸び、その白シルクの着物が床にするりと落ちた。
徐々に腕に手が這われ、手に手が重なり、鉄枷が重厚な音を立て外された。
身体を向け、彼の瞼を見つめ続けた。ミスターが自らの打ち掛けを足許に落し、黒シルクの長い腰衣から、しなやかな白の上半身が浮き狩り立てて来る。
その肩に手を置き背を引き寄せた。肩の包帯下が痛い……。
「まだ怒って……? ミスター」
俺は瞳を開け、彼の開かれた艶の瞳を見つめた。
「行こう。香りが複雑過ぎる」
共に歩いて行き、ミスターはアイマスクを外し錦織りの上に置き、その横顔は明らかに鋭く怒っていた。腰衣を足許に落とした背を俺は見つめ、そっと引き寄せられシャワーを浴びた。
浴場に共に浸かる。
「やはり怒って……」
湯煙の先の空間を見る彼の横顔は、恐かった。
彼はこちらに顔を向け、下がってきた顎のラインを越える長さの前髪を掻き上げ、俺を見つめた。
俺は滑らかな湯に反射する光が乱舞する彼の漆黒の瞳や、眩しい白の頬を見つめ、感情の波が……溢れそうになった。瀬戸際まで。
「……ミスター」
胸部に手を置き、手に手を重ねて行った。
伸びる腕、立てられる真っ白な膝が、眩しく水面を光らせる中を見ては、これからが顔を上げられなかった。絶対に滅多打ちにされる……。
顔を上げ、ミスターの口許を閉ざし俯く美しい横顔を見た。
湯船を逃れ、ソファに突っ伏した。
花瓶のカサブランカを見つめる。
闇に可憐な純白の華が……魅惑の悪魔の様な美しい顔立ちの真っ黒の睫が、漆黒の大きな瞳が開かれ天上の柄を見つめた。
あの孔雀の女は衣裳を変えていた。白のドウラン肌は、金色の唐草模様に変り葉の中心にダイヤモンドをつけては、レオタード部が白鳥の羽根になっていた。背中を幅の広いピンク色の編上げで編上げ締上げていて、大きなリボンになっている。ふわふわで兎の仮面を着け耳が片方垂れていた。
白鱗のハイヒールのトップにピンクのリボンをつけている。それが、進む毎に揺れた。
プラチナパールかかるストッキングの足がやはり肉感的で、立ち姿がセクシーだった。
手には三脚の銀器燭台を持っていて、それを白いドリス式円柱横の台に置こうとしている。
もう一人の浅黒い女は、ヒールを履いていないので更に低い背になっていた。彼女は全て白で作られた中世の軍人制服の上着レオタードと同じくすっぽり被った白の冑には、エメラルドに留められた大きな白の羽根が立っている。口許だけが覗き、ワイングラスを頭上高く傾けた。
その足許で、巻かれた金髪に真っ白のドウランと白鳥羽根のビキニを金チェーンとピンクハートダイヤモンドで留め足許に横たわる先ほどの長身の女の、パールシルバーピンクの唇の上に落とした。
儀式のように頬を滑り、顎から首筋に落ち、ワイン色に一瞬染まり戻って行く。
背後の壁は城の絵が記され、他の五人の女たちは柱横で、兎のリアルな被り物をし、裸体に黒のハイレグにピンヒールでトランペットを同じ角度で構えている。白兎は一人、片目に眼帯を嵌めていて、一匹だけ黒兎がいて黒人のその裸体はやはり群を抜いていた。その裸体に、銀で孔雀羽根がラインを描く様にペインとされている。
同じタペストリーを下げたトランペットが吹き鳴らされ、隅で控えていた純白で銀の装飾がされた馬が二頭、進んできては浅黒い女が白鳥女に燭台横の短刀を手渡された。
女はそれを手にすると、横に控えていた本物の芸を仕込まれ、鼓笛隊帽子を被った二メートルのある熊が、肩から掛ける太鼓をテケテケと叩き始めた為に、ディアン・デスタント内臓なのかと見間違えた。
仰向けに寝る女の上に短剣を掲げ、手を離した。
女が銀にピンクパールエナメルの盾で弾かせ起き上がると他二人がサーベルを掲げ、嬌声を張り上げ狂い駆け回り始めた。
浅黒い肌の女がその縦横無尽不規則に逃げ回りはしゃぐ彼女達目掛けて何本も短剣を俊敏に立て続けに投げつけつづけ、走り回る女達すれすれに飛んで行く。鋭く投げつけていき女達は盾とサーベルを手に駆け回っては激しく短剣がそこ等中につきたてられる音が笑い声にかき消され、見ていて冷や冷やさせられる。百本程は激しく投げつけている。
白鳥女が最後に金の弓矢を渡し、円形のこの舞台周りを先ほどから円陣を作るように二頭綺麗に揃って駆けていた白馬を、台の上から立っては鞭払い、もっと早く走るように煽っていた女が、笛を吹き鳴らした。三人の逃げ回る女達が其々、白の柱と欄干で三方向と上下に区切られる群青ビロードの天蓋のかかるギャラリーボックス前に其々つる下がる三基の球体の金の檻の中へ、ギャラリー左右に立つ悪魔マスクと黒腰衣の浅黒い肌のスタイリッシュな男達二人に鞭払われながらも、アイマスクの上から目許に目隠しをされ、入って行った。男達がレバーを回し、檻を引き上げて行く。
女は金の弓矢を受け取り、徐々に檻が引きあがっていくと、それが下で回り走る馬達とは逆方向にグルグルと回転を始めた。白馬と金の球体檻が目まぐるしく回転し、その音が激しさを増しては台の上から女は一層激しく掛け声をかけ鞭払う。
男二人が巨大な松明を持ち大きく振り回し、炎の線までも回り激しく怪奇の中を女が鋭く微笑した。
熊が好き勝手し始めて歩き始めていて、白鳥女が女の目許に目隠しを嵌めさせ、五人の兎がトランペットを一斉に吹き鳴らす。
女が弓矢を構え、三方向に離れ均一に回転する三人の目隠しをする女達目掛けて標準をあちこちに向けながら構えては、音を聞分けたように撃った。一人の女の籠を抜け柱に突き刺さり、また二回立て続けに撃つ。恐ろしい事に、回っている女が両手を広げ口で受けようとでも言う様に大きく口を開けていて、それでもこちらの頭上上に矢が飛んできたり、鎖を掠め跳ね返ったりする。熊が背から押して邪魔したりしているから、軌道が危険だ。
一向に、嬌声や狂い笑い以外に叫び声が響かないと分かると、女はステージ脇に来て片手を横に出し、白馬の身体に触れた瞬間に飛び乗り弓矢を天井斜めに向け女達を狙い始め、金シャンデリアの一部になってはキャンドルが立ち消えたり、女すれすれに当りそうになったりする。激しく流鏑馬をする女が激しく立て続けに金のまぶしい線を空間に走らせ光らせつづけると、全ての矢が空間中を突き刺さり短剣とともに装飾した。黒シルクを目許から外し弓を構える女の目許が妖しげに口許を笑ませ、白馬を走らせながら柱につき立てられた短剣を一瞬で抜き取り弓矢で引き目掛けて飛ばさせた為に、真横のミスターがビッと指で挟み受け止め女の仮面横に突き立て仮面が弾かれ跳んで行った。
ミスターへの歓声が沸きあがり俺はバッとゆったり組んだ足に腕を戻したミスターの仮面の横顔と、仮面を飛ばされた女を見た。だが、その目許にも艶やかなモルフォ蝶の羽根が幾重にも重なる様に美しく貼られていて、正体は不明なままだった。
「流石! 御見事でごさい!」
女はそう声を張り上げ馬で駆け回りトランペットが唸り鳴った。三人の女達は激しく嬌声を上げ黒シルクを外し叫びはやし立て、女が一頭の馬でステージに駆け上がると白鳥女に渡された剣で回転する女達の檻金錠を断ち切っていき煌きを飛ばし、女達が飛び降りると二人の男達が受け止め降ろし、一人は球体檻から熊の背に飛び乗り狂った様に四足で走らせはしゃぎはじめた。女二人もその背に飛び乗って嬌声を上げる。
女は馬から降りると手を打ち鳴らした。
熊毎三人の女達は男二人に鞭払われ開口部から出て行き、馬も流れるように台の上の女に鞭で煽られ走り出て行った。
白鳥女が五人の兎達の首にそれぞれ鎖先の首輪をはめさせ、四つん這いにさせると引っ張り歩いて行かせ、六匹の兎は出て行った。
白鳥女は最後に、俺達の方を肩越しに見ては、兎面の顔を前へ向き直らせ女達のケツを蹴り進ませ出て行った。
パステル空間の照明が落とされ、闇に琥珀に浮く濃密な空間になった。
浅黒い肌の男二人が進み出て感覚をおき四つん這いになり、その上に台の上の女が黒マーブル大理石の台を置き、その上に先ほどの燭台が置かれ、果物の高台も置かれた。
台にいた女が向かい合わせにアームチェアを置き、モルフォ蝶の目許の女が座り、俺達に微笑すると、台にいた女がテーブル横に立った。
女は高台の上のカットされた南国のスターフルーツを食べ、マンゴーや、ライチ、ドラゴンフルーツなどがあった。
横に立つ女が火を差し出し、ミスターは台の上のヒュミドールから取ったシガリロに火をつけた。
「最近ね。あたくし、マスター様。あの子達を連れて南国へ行きましたら、マシェが鮫に食べられちゃって」
「それはあのタチウオの事か」
俺はガクッとのけぞり、拳に頬を戻した。
「だから、新しいの、買ったんですの。でも、今回のタチウオは熊に狙われてて、マシェのようには行かないみたい。ミスター。マシェは優秀でね、指を回すと水槽の中で一回転して見せたのよ」
俺は相槌を打って置き、女が微笑してからミスターに言った。
「マスター様の所の鮫に似てたから、南国に漂流したのかと」
「どっちの?」
「もちろん、水槽のじゃない方の」
「わが問題ありのルシフェルか」
俺は闇に厳かにシャンデリアが光る天井を見ては、署内のガルドの顔を思い出す。確かに鮫の様に、険しい。
アームに手を置くと、女が手を伸ばし、俺の手の甲に手の平を乗せ、唇が微笑んだ。俺は今、黒ライオンの鬣のある被り物をしていて、手にもそれを嵌めていた。タキシードのスカーフさえ見え無い。その為に、女の手の感触さえ不明だった。
「ミスターは、マスター様のご友人? あなたに鞭打たれたいと言っていたわ。ほら、琥珀色の瞳を覚えている?」
「あいつは元々サディストだ。甘く見ないほうがいい」
ミスターがそう言い、俺は頷いた。
「無口な方ね。他の州の方でらっしゃるの?」
「英語をあまり話せないだけだ。訛が酷くて、耳に入れられるものでもない」
「成る程」
ミスターがフレンチで話し掛けて来た。俺はそれらしく頷き、片手をすっと上げさせて下した。
ミスターのフレンチを聞いただけで、俺はミスターの唇を見つめ、ライオンの中で唇を舐めた。
「サディストの方ね。マスター様の事もお狙いで。フランス支部のお方でらっしゃるのかしら。イベントでそちらに向かう時、お会いできればいいけれど。でも、充分お気をつけになってねミスター」
女が背を折り、上目で言って来た。
「マスター様はサディスト狩りもなさるの」
ミスターの横顔を見て、彼は灰を静かに落していた。そのアイマスクの下の美しい瞼がやはり美しい。火影に揺れ、柔らかな陰影がついている。
その伸びる手腕を包むゆったりとした黒のシルク。黒のダイヤの目が光るプラチナ蝙蝠の指輪と、手首に嵌められたその指輪と繋がる蛇のバングル。腕下からは黒のダイヤがそれを留めていて、先ほど短剣を受け止めた際に光った……。
女が含み笑いをして背をつけ、組まれる足の方向を変えた。
「マスター様。ご友人のミスターは、男性を? それとも、女性を? どちらの調教もなさるの? 誰か、お望みならお貸しいたしますわ。愛らしい子がいるの」
「どうする? 女を鞭打つなら、連れて来させる」
俺はしばらくミスターの瞳を見つめた。
俺はミスターの耳元で小さく囁いた。一応、フレンチで。
「………。あいつは駄目だ」
「どうかなさって?」
「今はグリが気になるようだ」
あの藍色の瞳の男だ。相当あの時、俺を意地悪く挑発してきた。本当は、あのアクアマリンの瞳の男を鞭打ってみたいと言いたかったのだが。ミスターからきつくにらまれそうだった為に止めた。
「彼は駄目よ。ミスター」
どうやら、あの藍色の男もマスターと呼ばれる人間らしい。
「冒険的な方。好きよ。そういう方」
彼女が腰を浮かせずっしりとテーブルに手をと膝を着けると、ライオンの頬にキスを寄せた。二人の男がその事で力を入れたのが分かった。
女が微笑し下を見ると、黒の大理石に鮮明に彼女の体も映り、両膝も乗せて意地悪にグラグラと上半身を回し体重を掛けさせ、ヒールで仁王立ちエキゾチックなダンスを始めた。横に立つ女も微笑しレコードを掛け、俺は背を戻して女を見上げた。艶めかしく踊り、ターン毎に下の男達が影の中蠢いた。
ゆったりとミスターのシガリロの紫煙が闇に線を引き、横にいた女も琥珀を肌に受けながらゆったりと妖しく踊り始め、テーブル上の燭台のキャンドルが、ゆらゆらと揺らめいた。
背後には、白鳥女が仁王立っていて大きな松明を持つ男がその壁際背後にいた。壁際は円形の鉄格子であり、その先にはマゾヒストの奴隷達が闇中に多くいて、炎に爛々とした瞳の群が揺れては、手枷を嵌められ、群がっては鉄格子に手を当てていた。
ミスターは同じ高さのステージ上に、アームチェアにゆったりと腰掛けていた。あの藍色の瞳の男はその斜め背後の一段上の台で四角く大きなスツールに腰掛け、扇子で時々ミスターの髪をなでようとしては、ミスターに視線で鋭く諌められては、上目の藍色で微笑みウインクを渡していた。
あのアクアマリンの男はいない。どこかに閉じ込められているのだろう。
闇が占領する中を、鎖に繋がれたマゾヒストは瞳を光らせていた。その背後の壁には、木製の大車輪が火影に揺れている。
浅黒い肌の女は鎖を持っていて、男の顎辺りをヒールの先で軽く蹴り付けた。
そのサイドの壁には、あらゆる拷問に使用される器具が掛けられていた。鞭、ニードル鉄球、舌挟み、ペンチ、爪剥がし、のこぎり、骸骨穴あけ、万力用金具、肉叩き、猿轡、鼻管、鉄マスク、鉄仮面、棍棒、鎖、足枷とセットの手枷二本ずつ、首輪、人間用とうらく、縄、烙印、肉削ぎ落とし刃、メス、ボディーピアス用の鉤、クサビの群など……。
身体の一部を失うような器具が並ぶが、目の前の男は五体満足で、それでも背や腕の大部分に皮膚移植した痕があった。
筋肉質の大柄な男で、その筋肉が隆起し、呼吸毎に濡れている。汗も噴出し。
下半身を鉄で覆われ目の周りに黒く線が引かれ、肩から交差して黒の帯が掛けられている為に、この男のほうが拷問係の男に見えた。
石の角柱には、あの琥珀の瞳の男が好き勝手出来ないように上部に鉄枷で拘束されていた。その背後にはライオンが二頭。一基の球体で周りにニードルのついた巨大な檻の中に床に置かれていて、時々ライオンが動く毎に転がった。
その内、ごろごろ転がった檻はどうやら、施錠されていない扉がゴトンと開いた音が轟き、猛獣園の繁殖プレートが手首に嵌る二頭のライオンが出て来ていた。柱の背後を回り、マゾヒスト達がいる檻の前を練り歩き轟きを上げ威嚇しては、マゾヒスト達は蜘蛛の子を散らしたように悲鳴をあげ逃げて行った。
その前にいた男達が二本の松明であおり大人しくさせ、ライオンは大きな口を開き唸っては、一頭のライオンがステージに上がって来て、白鳥女が横に下がってライオンが進んできた。
藍色の瞳の男が上目になり鞭を手にし、俺は背後まで来たライオンを肩越しに見下ろした。
いきなり噛み付かれたら、ひとたまりも無い。一頭が来れば、二頭とも来るだろう。
ライオンが足に大きな頭を擦り寄らせて来て、下がり揺れる鞭先を目で追い始めていた。浅黒い肌の女が男に繋がる鎖をゆったり揺らし、ライオンはそちらを見て注意を引かれ始めた。
そして、一瞬の事だった。二頭ともにライオンがその女目掛けて飛び掛かり、刹那ミスターが壁の鎖を二本剥ぎ取り首に掛け強く引き、藍色の瞳の男が激しく鞭払っては松明を投げた男二人から彼等が回し手に取り、炎を振り威嚇し近づけさせた。刹那、一頭がミスター目掛けて飛び、俺は目を見開きその頭上を掠めた腹部を咄嗟に藍色の瞳の男から松明を奪い、横腹を叩き払っていた。
そのライオンがあちらの鉄格子へ身体を突っ込んで行かせ鉄格子が激しい音を轟かせ、驚いたマゾヒスト達が腰を抜かし闇中へ即刻消えて行った。
白鳥女が驚いたように感嘆の口笛を吹き、一頭は逃げる様に柱裏へ走って行った。俺はステージから降り、酷い事をしてしまったと思いライオンの所に駆けつけた。既に松明は火花が舞い散り消えていた。白い煙が立つのみだ。
檻前の男二人が腕を翳し、俺を見た。
「危険です」
ミスターが降りてくると、俺の横に来てからライオンの横にしゃがみ、がっしりした肩の辺りを撫で声を掛けた。
まるでライオンがすねたような声を吐き出し、ごろごろと喉を鳴らしてミスターの手を必死に舐め始めた為に、まさかこの中にあのガルドが内臓されてるんじゃないだろうなと思った。ライオンは俺を見ると、逃げる様に柱裏へ行き相棒のライオンの上に乗った。
藍色の瞳の男が横に来ては微笑し俺を見てから、ミスターに言った。
「気に入った」
「駄目だ。お前はフレンチが話せないんだろう」
「へえ。こいつはフランス人か。俺にだって、挨拶ぐらいなら分かるぜ? 昔、口説き方を教わったのさ。ボンソワーハッ ゼーフォブミダーブル ムシュー (ラヴァンゾに向かって)……ルプローンサ」(こんばんわ。素敵だね。これをください)
ポン(ライオン被りの頭に手を置いた)
(覗き込んで)「ウエナプロフトダンダフクノン?」(搭乗口は何処ですか?)
「………」
コレ呼ばわりされ、俺は目を伏せ気味に男を見て、身を返しステージに上がった。
「通じなかったようだな。失格だ」
ミスターが苦笑しそう言った。凛と耳を立たせ立っている白鳥女も肩を震わせていて、兎のヒゲと突き出た鼻先、両方立った耳がふるふる震えていた。
柱に拘束された男は口枷も嵌められていた為に、浅黒い肌の女がライオンに襲われかける所でもあった為に、口枷だけを外してやると、思い切り琥珀色の瞳の男は息を吸い込み、劈くような酷い金切り声を上げさせて耳を痛ませて来た為に青筋立てたミスターにビシッと鞭払われた。
琥珀の瞳の男は口笛を吹き、ミスターは呆れて首を振り椅子に戻った。ライオンは既に男二人に球体の檻に入れられ施錠されると、背後の巨大な鉄格子の中へ回し入らせライオン二頭はその球体の中で猫の様にくるくる回り、マゾヒスト達と一緒にされ、彼等マゾヒスト達はさわさわと蠢いた。そこでスクリームをわざと男が上げさせたものだから、ライオンがまた唸り吠えゴロゴロと球体を転がさせ、囚われた中のマゾヒスト達が叫び逃げ惑った。琥珀の男は可笑しそうに笑い、足をばたつかせていた。
意識が目覚め、頬をビロードに乗せていた。背には何もかかっていないが、胴にビロードを感じる。
目を覚ますと、暗闇だった。
真っ暗だ。何も見え無い……。手で髪を書き上げようとしたが、重かった。
{……?」
手で探り、それが手枷なのだと分かった。それが、寝台のヘッドボードから左手で拘束され、しかも右足も足枷で拘束されていた。
ミスターは、気配が無い。
どこにも煙草の火も見え無い。
俺はビロードに頬を乗せ、闇を見つめた。決して慣れる事の無い闇だ。
背後で音が鳴り、俺はそちら側を見た。鎖は余裕があるらしく、右足を曲げたり、左腕を自由に曲げる事が出来る。ただ、離れられない。
カツン、……カツン、……カツン……、
足音が違う。
ミスターじゃ無い。
俺は警戒し、音の鳴るほうへ意識を向けつづけた。だが、音は反響する。
寝台が揺れ、腰の辺りに手が伸び、俺は睨んだ。
「アラディスは、恋人の男の所に行ったぜ」
「………」
藍色の男だ。
腰から手が離れ、背を向け座ったようでスラックスが脇腹に当り、肩の上に袖口が当って枕横に体重を掛けたようだ。
こちらは衣服など身につけていない。不安だ。
「あいつは本物の恋人の場へ向う時は、新しい気に入りのものは拘束するんだ」
………。
恋人……。アクアマリンの瞳の奴か? 分からない。
俺は目を引きつらせ肩越しに噛もうとした。歯音が響いただけだ。
「おっと、あぶねえ……」
相手もアイマスクを着けていない事が分かる。
左手を拘束された鎖を掴まれ、俺は闇の中で男を上目で見つめた。
ここぞとばかりに腕を噛んだ。
「畜生!!」
男は俺の頬を鋭く打っては、俺は歯の奥を噛み声を出さないようにした。
血を吐き捨てたらしく、悪態をついている。
髪を掴まれ、俺は顔を歪めて首筋に汗が流れ、鷲掴みにされる髪を背後に引かれた。
下腕で片手を潰され、爪を立てるが退かす事が出来ない。
腹部を膝で蹴ろうとしたが、既に足の間に強く腰を付かせていて動けなかった。
柔道で寝技が第一に得意なんじゃないかという程動かない。髪から手が離れ頭を掴まれ血の味が激しい。
微かに、覚えのある香りがする。どこかで。何処で? 微かに、独特のスパイシーな香の香り……。
分からない。
何処だ。覚えがある。狭い場所で?
「………」
なんて事だ。
警察車両の中じゃないか。シートベルトを掛ける素早い手。キャップ下の藍色の横目、一度毎回相棒だったこちらを見てから、色っぽい薄い口許は感情も無く、制服の腕を伸ばしキーをまわす。
エルデリック・スレン。
スパニッシュ系で、現在は捜査一課の警部補で、元々の制服巡査時代はともにパトロールをしていた。いつでもスパイシーな香が微かに車内に薫っていた。
スレンは口が悪くてキツくて洞察眼が鋭い。確かに、サディスト的な程冷たい時も昔からあった。
確かに、あの態で面と向かって鞭払われたら、恐いだろう。
気付くわけも無かった。まさか地下倶楽部にだなんて。一切、警察署での色香と毅然としたキツさとワイルドさが、色気のみに変わっていたからだ。
噛み傷のある左肩に手を当てられ、微かに痛んだ。
「ギャ!!」
いきなり叫び声がし、ドサッと上にのしかかって来て息を詰めた。背に手を当てると、指先に激しく肉が裂けた痕が熱く触れ、血が溢れ出た。
「………、」
俺は男が鞭打たれたのを、肘を立て、闇を見た。
頬に滑らかな指が伸び、俺はビクッとして肩を縮めた。
ミスターだ……。
「可愛そうに……鍵を掛けるべきだった」poverino…… dovevi chiudere a chiave qualche cosa porta
囁くようなイタリーが静かに響き、その指が離れ、男の肢体が強張った。
「俺の物に手を出すな」
腕をきつく捻り掴まれたのだろう。
男は答えずにいる。
俺はミスターのベストの背に手を当て肩を引いた。
俺は腹が立って男の足を蹴り、蹴られたぐらいでびくともしない事など分かっていた。
「………」
俺の腹の上に、ミスターの腰に差されていたものだろう、拳銃が重くおちた。
「………」
俺はそれを右手に取り、このまま男に向けようか、それとも鎖を断ち切ってそれで男を叩き付けようか、考えた。
ガウンッ
閃光と共に轟音が耳を劈き、瞬時にミスターがその閃光のあった手首を掴み切れた鎖で俺は男の頭を激しく叩き続けていた。そのもう片手首も取られ拳銃が落ち、男が悪態を付き声が離れて行った。俺はその方向を睨み、ミスターの項を引き寄せた。
だが首を噛まれ、俺は涙を流して顔を押さえた。
嫌われた。嫌われたんだ。
ミスターが無情に去って行ってしまい、俺は血が着くビロードを引き寄せ顔を押さえた。
「お前は戻れ」
「折角愉しんでいたものを」
「二度目は許さない」
「アラディス」
「出て行け」
「………」
釈然としないように男がスパニッシュで何ごとかを言い、足音が去っていった。
いきなり眩しくなり俺はビロードを被り痛んだ目を覆った。
ビロード越しの背に当てられたミスターの手にビクッとし、ビロードの中で目を開き、群青色の枕を見つめた。
「悪かった。大丈夫か?」
ミスターの優しい声音に、俺は唇を噛み、考えた。激しく鞭打たれるかもしれない。刹那に。
引き寄せる手首からの鎖がうねりミスターが手をついた。
「怒ったのか?」
「………」
俺は心臓を高鳴らせ、恐る恐る顔を覗かせた。
白のシャツに男の血を飛ばしたミスターが顔を覗き込んでいて、俺は頬を熱くして彼を見つめた。
皮グローブの片手には男の背肉を裂いた鞭が収めもたれていて、腰を掛ける膝元に添えられ、セクシーだ。
「ミスター」
背に腕を回ししがみつき、太い鎖が揺れた。
「………」
ミスターの髪を見つめ、鎖を彼の鎖骨に両手で当て押し倒した。ミスターは咄嗟に上目になり俺を睨んで、その微かに開かれる血の滲む唇を俺は見つめた。ミスターの襟と黒のネクタイ上の綺麗な首筋に鎖が落ち真っ白の首筋を装飾し、真っ白の頬を包み鞭が寝台下に落ちた音がし、ビロードの背に腕が絡まった。抱き寄せて、男に殺されるかと思ったからようやく安心して目を閉じた。きっと、男は俺に殺意があったんだろう。
☆キャリライ・S・レガント 殺人課特A警部補、FBI末端捜査官
署内で署長に会う事は日常的には無い。
署長室へ上がる警官も、主任警部や部長だ。巡査や警部補はまず無い事だった。
昼食時はどうやら、秘書と共にエレベータで二階へ降り、食堂へと向かい、一番奥窓側の、署内幹部員達と共に就くという話だ。
脳裏に浮かぶ。エレベータのドアが開き、凛とした規律あり清潔感あるエレガントでシンプルなスリーピーススーツの彼と、そしてスタイリッシュで上品なあの秘書が現れては、颯爽と食堂へ進んで行く姿が……。
いつでも署長は、所轄の警部補チャリール、カトマイヤー部長、殺人課ギガ部長、サリー課長、麻薬捜査官科のアイアス警部、そしてあの美人秘書の名でテーブルを囲うという噂だ。時々その席に科学捜査課のディアネイロ部長が入るそうだ。
俺は毎回屋敷へ戻る。
パソコンを開き、一度横目で狂犬を睨んだ。
依然、狙ってきている。
ロガスターとの関与やガジェスとの関与する通信は、リムジンや室内、会議室のみだからいくら俺の周りをガルドが探っていようが探れない。
データバンクも全て回線上の個人バンクに入っているためにディスクも存在しない。リスクは無い。
ガルドはわざわざ俺に身体を向け、黒テラードパンツの足首を膝に乗せ、腕を組み険しい顔で睨んで来ていて、今にまさかこの顔で定着しそうな程、険しい顔をしている。普段や署内から離れている時は普段の顔だという事はリムジン内でも見かけるのだが。おかしな奴だ。
二十三の若さでわざわざあんな恐ろしい顔をして、まるで鬼のようだった。
俺をねめつけて来ていて、俺は顔を戻して電源を繋いだ。
「ガルド君。部長室へ来なさい」
部長は部署に入ってきながらそう、いつもの落ち着き払った声で言い、ガルドは立ち上がり、いきなり猫の様に「ギャアアアア!!」と爪を立て俺を威嚇してきたから口を引きつらせ瞬きし、そのまま部長室へ入って行った……。
「………」
何で威嚇されなければならないんだ……。
「ああ?! あんで俺が!! 冗談じゃねえ!!」
誰もがドアを見て、ガルドが何かを命令されたらしい為に、顔を見合わせた。
ガルドが出て来て、完全に不機嫌で機嫌を損ねた王子の様に憮然としていた。
デスクに戻ると身の回りのものを全て整えると、キーを手に収めた。
「ロシアに行ってくる」
「え」
憮然とそう言い、歩いて行った。
部長が出て来ると、彼が警部留守プレートを置いた。
「これよりガルド警部は一週間、国際会議要人警護の為、五日間アメリカを留守にする事になった。恒例の兵器所持反対運動の会議で、今までは参加者の大学教授には私が同行してきていたが、今年よりガルド警部にその任を受け渡す事になったので、彼の留守中に発生した事件時の捜査は五日間、私の直接の指示に従ってもらう形になる」
部長は軍人出で、戦時にも将校クラスだった。部長の父親も前地主の弟であり、ばあさんの父親の専属ボディーガードだった。時に見せる部長の視線の鋭さと冷静さのオーラは、軍隊指揮官そのものの鋭さだ。だが、普段は穏やかな微笑みと紳士的物腰とが完全に彼を覆っている。
そこでジェーンが立ち上がり、その顔と勢いが、ジェーンでは無いかのようだった為に誰もが彼女を見た。
「私も同行します」
「駄目だ」
部長は即刻そう言い、引いて行った。いきなりジェーンがデスクから離れ進み部長の腕を掴みグンッと向き直らせた為に、少なからず部長も口を噤み彼女に視線を落とした。
「お願いします」
恐いほどジェーンの淡い色の目が鋭くなって、顔つきが鋭く、部長の腕を持つ手が力が入りすぎて指先が赤くなっていた。
「警護は危険な任務だ。君が向かう場では無い」
ティニーナが観葉植物の裏から進み、ジェーンの肩を叩いた。
「そうだよフィスター。パパだって何度現地で過激派に狙われた要人達を身を張って守って来たか、分かって無いんだ! 危ないよ。あたしみたいに陸軍出てても、そうやって警護につけない事なんだよ。プロじゃないと、ましてや女のあんたが行ったら重荷にしかならないよ」
「どうしても行きたいんです!!」
フィスターが怒鳴り、部署内がシンと鎮まり返った。
ハンスが驚いた様に駆けつけた。
「何言ってるんだジェーン巡査。もし怪我だとか、ましてや本気で過激派でも」
みるみる怒りでジェーンの顔が真赤になって行き、言葉ともつかない何かが怒鳴られた。ハンスは瞬きして、口をつぐみ俯いた。
ハッとしたジェーンが口を塞ぎ、気遣ってくれたハンスを見て顔を恥かしさで真っ赤にした。
「ごめんなさいハンス巡査。あたし、みんなの前で怒鳴ったりなどして……」
部長は彼女を落ち着かせるために席に座らせた。
「お願いです部長。どうか、その兵器や武器反対の平和会議を、この目でどうしても見たいんです」
真摯な眼差しでジェーンが部長を見上げ、ティニーナが困惑した顔で父親の部長を見た。
「フィスター」
ソーヨーラが彼女の横に来て、肩に手を置いた。
「あなたが平和主義者なのは充分分かっているけれど、部長は大切な部下を投げ出す時は地盤と保証が確実にある時だけだわ。あなたにとっての安全の保障は少なからず第一因はガルド君。そして地盤は確実な正義に元ずくこの場という署内と、その目が行き届く管区内であるこの街。二つ以上が揃わない限り、新人のあなたを」
「新人だからこそ、経験したいんです」
「また辞表を出すつもりかね」
「……それは」
ジェーンはうつむき、ハンスが言った。
「あと一年だけでもせめて待った方が良いよ。ガルドの奴だって、初めての任務なんだから、そこで君まで行ったらどうなるか」
ハンスが珍しくまともな事を言い、部長も頷いた。
「何ごとも基礎体力と意志が無ければいけない。君には今、堅い意志のみだ。そこに俊敏に動ける程、警護の任は甘くは無い。教授達のみならず自己までも守らなければ話にならない」
「お願いします」
それでもジェーンが真っ直ぐと部長の目を強く見た。瞬きすらせずに。
「何故会議の場に立ちたいんだね」
ジェーンは睨むように床を見つめ、唇を噛んでいた。
「お願いします、部長」
「………」
部長は何度か頷き、言った。
「署長に請合って来よう。ガルド君は一度、大学へ教授を迎えに行かなければならない為にそのまま空港へ向かえば時間も間に合うだろう」
「………、ありがとうございます!」
ジェーンがそう言い、椅子に座って額に拳をつけ小さく祈りを捧げていた。
「………」
俺はソーヨーラと顔を見合わせ、顔を上げたジェーンを見た。彼女は急いでデスクの上を片付け、バックにいろいろと詰めていた。
どうやらいつでも身分証明のためにパスポートはハンドバッグに入れているらしかった。
「フィスター? あなた、いきなりで着替えはどうするのよ。会議に参加するには、二着はスーツをもたなければ」
「大丈夫です。空港内にクロゼットロッカーを借りています」
「ああ、なるほど……」
いきなり、特Aは二人もチームメンバーが一時欠けてしまった。
ロガスターでは、武器・兵器反対組織は目の中の大鋸屑で、問題となっている。
「………」
この事は、早々にロガスターに言っておく事になる。
………。
………。
署長の所へ……。
もしも署内で見かけても、彼は俺を見る事は無い。そういう決まりだ……。
☆キャリライ・S・レガント レガント一族御曹司
「痕?」
「………」
俺は顔を引きつらせすぐ背後を見た。
リチャードが腰を折り鋭く微笑し、俺は顔を戻しアームに肘を立て、手を振って肩越しのリチャードを追い払った。
「痣になってるぜ可愛い子ちゃん。み・み・う・ら」
こいつが目敏いだけだ。
リチャードが横を歩きシガールーム上の一人掛けに腰掛け、既に常に保たれる紳士的な顔つきと雰囲気に落ち着き払っていた。
黒いシガールームの、枠取られた硝子の先は、藤色の石の空間で、おのおのに女達が白やホワイトピンク、サックスブルー、クリーム色などの淡い色合いのドレスに身を包んで笑いながら踊っていた。まるで今回は竪琴のようにラクロワがハープを奏でている。過ぎ去った春を記憶させる宴のように。
長身でスレンダーなアレクサンダーが、黒の上下に適当に肩に掛かる黒髪から、鋭いアクアマリンの瞳で微笑し、姉のラビディーと話していた。
アクアマリンといえば、昨夜、俺より一回り背が低めでずっと泣き続けていた奴がいた。髪もショートの猫毛は黒髪で、犬の仮面をつけていた。その仮面の下からずっと涙が落ちつづけていた。あいつは何者だったのか、ミスターをずっと見ていた。
スタイリッシュなアレクサンダーと同じ瞳の色でああも違うわけだ。
「恐ろしく冷酷な顔をしているが、何ごとかを企てて?」
リチャードがそう本を見下ろす黒睫の中の水色の目を、こちらに向けた。
「俺の事も加えてもらおうか。その痣は、浮気の証拠か? さては、夫人を?」
「冗談は止めろ」
「お前の浮気癖は治らないな」
リチャードが説教臭い口振りでわざと言うと、本を閉じ、アームに手を置いた。
「今回は、どういう女だ」
「美しい……」
俺は、呟くように言ってしまっていた。すぐに咳払いし、アレクサンダーがラビディーと共に入って来ると、ラビディーが金装飾のされた黒馬の剥製に背をつけ毛並みを撫で、弟のアレクサンダーは黒艶に金で枠象嵌された弓型のコモドに腰をつけた。
黒の簾が付く金に金模様カーテンをラビディーは弄び、顔を男達に向けた。
「最近、クリスが婚期を遅らせる魂胆か、居眠り癖を再発させているわ」
鋭いつくりのラビディーの目を見ると、相当業を煮やしている様だった。
「こいつに気を遣ってんのさ」
「止めろ。そういう理由なんか」
俺はリチャードを睨み、息をつき手を組んだ。
「既に俺はシバーラが居る。クリープもな」
「そうね。もう四年も経った事だわリチャード。メイズンもミゲルもアディトも、この街には帰らない」
男達誰もが黙って女達を見ると、俺は片目を瞼の上から軽くマッサージすると首を振った。
「今年、ルシフェル・ガルドの部下が四名、釈放される」
「大丈夫なのか?」
「警戒は何ヶ月も前からされている。署内でも、あの元悪漢の様子は監視されつづけているさ」
「ミスターカトマイヤーという名の、警察機関というもののボディーガードがいるからな」
アレクサンダーが流し目で美しい女神達の方を見てから、その蝶の様な彼女達を品定めするように、微笑んだ。
四年前は、随分アレクサンダーも傷心していた。理由は、メイズンの事を思いつづけていた為だ。ブラディス氏立会いでデイズ・デスタントとの見合いもデイズに断られ、その時もアレクサンダーは何かと年上のメイズンの横にいて話をし続けていた。その後、ばあさんが俺の婚約相手にとメイズンを当てさせた時も、俺はアレクサンダーの気をしらずにいた。
こ惑的な色気だけで出来上がっていたアディトは快楽主義で、不思議と男の陰を見た事はずっと無かった。ミゲルは二十六で婚約者と結婚して後継ぎの息子も生まれたと思ったら、事件が起きレナーザはリーデルライゾンには居られなくなり、本家をヨーロッパの妻の国へ移した。
ガルドの犯罪チーム、ホワイトスネーク団に加わっていたメイズンも、アディトも、既に他州の刑務所で二年の刑期の後、親の権力が大いに働き、既に釈放され、そのヨーロッパの地にいた。ばあさんが二度とリーデルライゾンへの敷居は跨がせない事をレナーザに言い渡した。
ラビディーが灰色の瞳を向け、黒髪を手の甲でゆったりと最後に流すとこちらへやって来た。背凭れに組んだ腕を乗せる。俺は顔を向け、耳裏を視界から外れさせた。
「ねえ。キャリライ? マダムは、一生レナーザ一族を許さないつもりなの? 何百年もの親交が続いたというのに」
「レナーザは犯罪の仕組みを知った上で、ガルドと手を組み造船をしたからな。レナーザの場合も、帰ったらばあさんかガルドに痛い目を見せられると分かって、逃げ続ける筈だ」
「その方が安全だと考えているようね」
「ああ」
灰色の瞳が真っ直ぐ見つめて来て、手の甲で髪を撫でてあげた。
「気持ちは分かる」
ラビディーは鋭い目を伏せさせ、細い手腕を水の様にすっと流すと、俺は一瞬身構えラビディーを見た。ラビディーは気付いて俺を見て、キスをしてきた。蹴られてからトラウマはそうは取れずにいて困る。
「大丈夫よ。まさか、あなたを殴りはしないわ。 ……あら?」
俺の項を見て、顔を戻し俺を見た。
「項にキスマーク」
「耳ウ」
リチャードが避け、背後の絵画に当ってカフスが落ちた。
「この分だと、こうやってシバーラの元には帰らずに夜ここにいる訳がこれか」
アレクサンダーはそう言いながら棚から金浅彫り装丁の本を出し、黒ダイヤの嵌る頁を捲った。
黒のダイヤモンドを見つめ、それは光を屈折させている……。
ミスターの瞳に思える……。
昨夜、あった事が全て脳裏の目の前に浮かび、俺は視線を反らし深く煙を吸い込むと目を閉じ眉間に親指を当てた。
「失礼……」
「ああ」
俺はシガールームを出ると、女神達がハープの周りをダンスしては回転しているホールを、颯爽と抜け歩いて行った。
廊下に出て、扉の列を抜け、背後から呼び止められた。その為に、振り返ってリュゼルを見た。
彼女はここまで来ると俺を見上げてきて、彼女のカラーである深紅では無く、ジュノーローズ色の衣裳で、派手な顔造りが余計に引き立っては乙女の風が増していた。
「調子が悪くって? 熱でもあるのなら、解熱に、ガーネットを」
宝石は時に身体に働き掛ける。
「ありがとう。問題無い」
「あなた、昨日倶楽部にいたわね」
「………」
俺はリュゼルを、目を見開き見つめ、彼女の巨大に輝く瞳は一度、背後を見ると腕を引いて、俺は進んだ。
「言わないでもらいたいの。まさか、皆に知られたらと思うと……。ね? お願い。クリス達もアディトも口は堅かったから」
「何だって? 彼等も?」
リュゼルは大きな目を更に見開き、口元に金透かし彫りの扇子を当てた。
「あなたも今に、宴に出ればすぐに分かるでしょうね。クリスもラビディーも会員だから」
「エステスパの」
「分かってるくせに。SMよ。アディトも女王様だったわ。あなたはサディストでしょう?」
「一体何処で」
「何処って、あたしがアディトのペットだった子達を迎えに行った時よ。あなたがいるって気付いて、声音は変えたから気付かなかったのね」
孔雀の女か。俺をあの時鋭く見据えて来た。
リュゼルは、数ある宝石や貴金属などの厳しいまでの目利きをする。宝石商の一族ギャラディカの次女だからだ。彼女は常に総合的に細かくいたるまで、完璧だ。ミニマムながら、完全に自己を計算し尽くしている。その為に、洞察力も人間観察も信じられない鋭さを持っていた。完璧なものは恍惚になりゆく程に完璧だ。その為に、切り替わると芸術美術の鬼になるリチャードと別れた理由に、リュゼルは納得していなかった。
「二人のマスターと共にいるなんて、驚いたわ。まさか、あなたもサディストマスターなの?」
なんの事やら、さっぱり話が飲み込めない。
だが、マスターというのが、ミスターと、それに黒馬を乗り回したユーゴスラビア系かラテン系だろう藍色の瞳のサディストの事だろう事は分かっていた。
「紹介を受けただけだ」
「成る程。でも、注意した方がいいわ。特に犬のマスクをした人にはね。専属のペットだから」
「あのマゾヒストか」
嫉妬に暮れて悲しむ態で、もっと傷つけられたがっていた風に思えた。他の≪サディストマスター≫と呼ばれる男に好きに虐げられる事を勝手にさせていたミスターを、ずっと泣きながら見つづけては引っ張られて行った。
あの犬仮面に、もしも俺が嫉妬して手を出せば、ミスターがどういう反応をするだろうか。もしかしたら、ミスターと共にいる俺をあの犬仮面が怨念を持って来るかもしれない。
「あなたにサディストの気があるとは、何処となく意外だったわ。ほら、あなたって潔癖だから、虐げだとかに興味も無く、フェミニストで社交に生きることが生甲斐だと思っていたから」
「その通りだ」
青の朝に微かに神聖に青白く染まったミスターの白い肌を、黒髪と黒と瞳が映えるその様を、思い出すと社交に引き換えてでも共にいたい。
「あまり頻繁には来ないほうならいいんだけど、熾烈な争いが稀に勃発するから。この前も、レズの子達が三角関係で二人被害にあったの。マスターの下にいる準マスターやサディスト達も競争とかあるし」
ミスターが、あのサディストの勝手を許さない風はあった。一気に取り押さえて、完全に負かしたのだから、あの男はあのゲームの最中にマゾヒストの男女六人の監視役の準マスターだったのだろう。そのマゾヒスト三人の女を貸し出していたのが、女を調教する役のリュゼル。
だが、リュゼルがサディスト、という面が一切浮かばない。
「俺の方が意外だ」
「あたしは元々、アディトに連れられてやって来ていたのよ。いいものを見せてあげるってね。そうしたら、あの子達が勝手にあたしを賞賛するようになって崇め始めたというわけ」
二人は特に仲が良かった。
「……」
俺は息を吸い吐くと、ラクロワに見られる前に早めに角を曲がった。
メイズンとアディトが、ガルドの奴に加わり強盗や金融操作を行なっている主要人物だと、ガジェスから情婦をもらった宴の前夜は気絶しそうな程、気が触れそうになった。確実に俺達はガルドの奴に崩壊させられ、幼馴染の女神を二人も完全に検挙しなければならなくなり、彼女達は俺達に犯罪という秘密ごとを造り、完全にレナーザを零落させた全てを、ガルドがした。ガルドへの怒りと、検挙への恐怖と、二人やレナーザ一族や思い出を、許婚や友人を検挙しなければならなかった哀しみ、随分と小さな頃から世話になったレナーザ夫妻を零落させる事。
メイズンを検挙させた瞬間、全てが途絶えたようだった。一種怒りも痛みも消え、血の温度も消え、彼女の手首の温度だけだった。彼女の純白の衣裳も真っ暗な視野に落ち、絶望が落ちた。
ガルドが許せずにいるが、この所は嫉妬も交えてきた。犯罪を犯させたという観念があいつには一切無い。その部分は悪人だ。ただ、スラムの地を潤したい為、自己が愉しむため、女達を合成にはしゃがせたいが為、そしてもう一つはデスタントに対立しての原動力だ。やりたい事が頭に浮かべば誰もがともにやる。何故なら欲望を完璧にかなえる媒体のガルドがいたからだ。恍惚と悦楽を支配して、悪魔達の宴を妖しくも豪華に花開かせていた。(ガルドは一般市民に手を出さなかった)
ラクロワには俺が落胆していた姿を見られてしまってからは、ことある毎に心配して声を掛けて来る。きっとラクロワが俺の元に妹をこさせたのではないだろうか。
気を取り直すと頬を引き締め、リュゼルが腕を引いて来た為に振り返った。
「クリープは元気?」
「ああ。昨日も幼稚舎の友人を連れて来て遊んでいた」
「可愛らしい時期だものね。これからどんどんおませさんになってくわよ。今はパパが一番で片時も離れていたくないんでしょうね。熱があるようなら、移さないように気を付けてあげて」
「ありがとう」
「あなた、最近優しくなったわ」
「え?」
「いいことでもあったのね」
リュゼルが微笑んで、「また後で」そう言い引いていった。
ガルドやデスタント兄弟とは同年で現在二十三のリュゼル、一つ上でニ十四のアレクサンダーは、小学舎と中学舎であの三人と同じ学び舎にいた。一つ年下のガルドの妹リサもそうだった。
直接、トアルノーラの彼等とスラム育ちが関ることは無かったようだ。あの荒くれ者で凶暴で狂気の爆竹小僧でドキツかったデイズ・デスタントは青年になるにつれ、落ち着いてきて、稀に一族関係のパーティーに出席しなければならない義理の時には、ラビディーといる姿をよく見る。たが、中学時代までは恐ろしくガラが悪かった。デスタント本家の人間として宴にようやく出始めるようになったのも、ニ、三年前からの事だが、どうやらラビディーとはそれ以前の、わずか七歳時にメイズンという許婚を与えられ興味も無く断った時点からの何らかの繋がりはあったようだ。デイズとラビディーがどういう関係なのかが一切不明だった。だが、一切の恋仲などでは無い事は確かだ。
とはいえ、当時は九歳も年下の、しかも貴族の暮らしをしたがらない変わり者の子供のデイズに断られた十六の女盛りのメイズンは、カンカンに酷く怒っていた。ブラディス氏は申しわけ無さそうに天を仰いだという話を聞いていた。その見合いに立ち会った仲介のばあさんも、デイズには呆れていた。とはいえ、アメリカに来て僅か一年。貧困も考えずに一家でスラムで生きたがった様な七歳男児が、いきなり金持ちの年上の令嬢と婚約なんて、冗談でもなかったのだろう。両親は麻薬中毒で父親は祖父のブラディス氏を避けていたようだし、母親は旦那の一生ついていく性格で、双子の息子達はそこでの暮らしの悪徳と堕落主義が肌に馴染んでいながらも、共に彼等両親を放って暮らす事はしなかった風に思う。常にそんな一家を心配していたのはブラディス氏だった。
まさか、一生ギャングなどを続けるでもあるまいし、考えが読めない。
このままルートを改正し続けるならば、ロガスターの逆鱗に触れることになるだろう。
ディアン・デスタントは賭けの話をして来たが、同時にあれはデイズ・デスタントの破滅を願っている。
俺は別に熱といっても体が火照っていただけの為に、顔色を戻し、戻る事にした。
藤色の空間に女達が笑っていて、プラチナシャンデリアの光りの下でハープに合わせエレガントに踊っていた。
☆キャリライ・S・レガント 殺人課特A警部補、FBI末端捜査官
この前の今日だからか、不機嫌な背がベンチに座り、低い背凭れに肘を掛け新聞を見ていた。煙草の煙が立ち昇り、揺らめいている。
俺はエルデリック・スレン警部補の背を横目で見てから進んでいき、自販機からレアポルイードの雪溶け水のボトルを買い、それを出した。
肩越しに見ると、元々渋い色男だが、不機嫌な顔でリーデルライゾン紙を見ていて、俺に気付くと藍色の瞳を上げ、再び紙面に目を戻した。
自販機に背をつけ眼鏡の奥からスレンを見てはボトルを傾け、スレンは頁を捲ると一瞬腕を引きつらせた。
いつもは、革パンの上にジャケットを着ているだけだが、今日は珍しくジャケットの下にシャツを着ていた。包帯でも巻いているのだろう。
「何か、変わった記事でも?」
スレンが顔を上げ俺を見ると横に新聞を置き、肘を掛ける手に手を組んだ。
「お前の所の野郎が大人しく海外に逃亡している内は、静かだが」
俺は肩をすくめ、通路を挟んだベンチにスレンに身体を向け座り、背凭れに肘を掛けた。
スレンは再び紙面を見始め、その横顔を見ていた。倶楽部内では、高揚して大きなおう揚のある声音は伸び伸びとして、よく通るものだった。署内ではいつも、低い声をきつく抑え話す。
ずっとあの倶楽部にいたのだろうか。ミスターが街へ来る以前から。きっとそうだろう。こいつは元から柔道の寝技がキツくて巡査時代は苦しめられた。
そういえば、苦しむ毎に愉快そうに目許を微笑させたものだ。
よくは分からないが、どうやら倶楽部という物は雰囲気的に、会員と呼ばれるミスターやリュゼル達と、それと変って倶楽部自体で雇われている側である様な、あの松明を持っていた二人の男達の様な感じで二通りいるらしい。
スレンもその雇われ側かもしれない。サディストとして。
人のプライベートだから干渉はしないが、多少、あの熱は忘れられない熱だった。色気のある瞳はシャープな瞼が頑固で鋭い正確の眉根鼻梁の顔立ちで、一切の甘さなど皆無だ。鋭く薄い唇はいつでも引き締まり、横顔は空を見ては、紫煙が流れた。
「ロシア土産は何をリクエストしたんだ」
「ガルドの事だ。両手にマロージェナエでも持って帰って来るつもりだろう」(ロシアのアイスクリーム)
「溶けたものなんか。既にコーンだけか」
スレンは首を振り、横目で見て来た。いつでも適当に黒髪を背後に流して後ろまで行かない分の髪を耳横に下げている横顔はしっかりした輪郭でシャープだ。
ミスターの事を、アラディスと呼んでいた。ファーストネームで。
藍色の瞳が、あの時のようにやはり署内では微笑する事も無く、雪溶け水で痛む舌を冷やす俺がこの前の人間だとは、気付く様子も無さそうだ。
「その眼鏡、デザインぐらい変えろよ。どこまでも似あわねえな」
「これでいいんだ」
「変な野郎だ」
額縁が何しろ太い。鶴も倍以上太い。片目が著しく弱いと、広い視野が煩わしい。コンタクトを嵌めるのも宴や外出時のみだ。それ以外で、裸眼で歩くと酷い頭痛を起こす。その為に鴉女に浚われた時は酷かったのだが。
それにしても、まさか男相手にもこの男嫌いのスレンが来るなんて、思ってもみなかった。きっと感情上ではなく、虐げられるか、どうか、なのだろう。
再び紙面に目を戻し、俺は身体を前に向け背凭れに背をつけた。
「じゃあな」
「ああ」
スレンが膝に乗せていた足首を下ろし、新聞をホルダーに戻すと歩いていった。
肩越しにその背を見てから顔を戻し、ボトルに蓋をして横に置いた。
リーデルライゾン紙の横のバッセスバッサ紙では、ギャング事が殺人事件で大きく載っていた。毎日のようにマンモス街は強盗、放火、殺人、政治汚職など、事件が絶えず騒ぎ、暇がない。ステディオルタウン紙では、研究内容や、工業、産業内容やイベント情報が躍っていた。
☆キャリライ・S・レガント レガント一族御曹司
ガルドが土産で連行しガラガラガラガラと飼い引いて来た物は、その首に首輪をつけ車輪をつけ鎖で引き連れて来た六体の九十センチもあるマトリョーシカだった。その中心に百二十センチもある大型のマトリョーシカが一匹、雁の群の様に先頭を切り、ガルドに引かれ連れて来られた。
それを各部署に配っていき、部長クラスが一番大きな外側、課長クラスが次……と言う様に分子化されて行き配られ、という事は一課内で四番目の地位のスレンは割かし大きなマトリョーシカを強制的にもらわされる事になりそうだと思った。
しかも、署長クラスを聞けば、あの百二十センチのマトリョーシカ全内臓というのだから、迷惑がっているのかもしれない。
その一番中核の巡査のドベクラスに渡るまでには、マトリョーシカの飴になっていて、ティニーナがそれを口にほうばっては、父親の部長からもらった九十センチマトリョーシカを脇に抱えていた。
きっと、受け付けにいるバーモント・カレー巡査長の場合は菓子ボックスにでもするつもりだろう。
やはり、見慣れたマトリョーシカが子分化され、その夜行った倶楽部室内の事ある場所に大小さまざまに置かれていたので、危うく噴出す所だった。
胴上は横に置かれ果物が入ったものや、S/M/Lの卵大はマントルピース内に並べられ蝋燭が詰められともっていたり、一番巨大なものはドア横に置かれていたり、ソファー横、天井の鎖から拘束されたもの、各所に置かれているもの、全部で三十五体もあった。
他は、リシュール婦人や、この倶楽部内の女達に分けられたようだった。
いわんこっちゃない。こんなにやるからこういう事になるんだあいつは。
俺はそう見回してから、おかしくて笑った。署長が受け取るわけが無いとガルドに言ったのだ。あいつは意地になってボールの様に脇に抱えエレベータで上がって行ったのだから、無理矢理押し付けて帰って来たのだろう。
帰って早々ジェーンはまた辞表を出すし、ガルドは彼女から殺人鬼呼ばわりされるし、ロシアでは散々だったようだ。
一度は部長に止められたらしいのだが、午後になってまたジェーンが署長室に上がってガルドの事について申告しに行く際に俺も頼まれてついて行ったのだが、その署長の書斎机横にはあの百二十センチ大の、しかも色とりどり七色でペイントされた巨大マトリョーシカが置かれていて、ジェーンも一度うな垂れてから署長に話していた。
過激派が現れ、ガルドは教授達を他のボディーガード達と共に守り、そして犯人達をジェーンの目の前で全員ドンドン殺して行ったというのだから。兵器反対の会議に駆けつけたジェーンの為に、ガルドへの嫌悪は凄まじかったようだ。過激派が現れ中断された会議は、また違う日に行なわれる事になったという。
倶楽部に来るまでに、ロガスターとの通信でMR,SSSが仕掛ける事を言って来た。武器製造の組織形態の一部を、CIAがうろちょろとしていて、それと繋がるFBIのGメンである部長が、どういう手を出して来るか様子を見る様に言って来た。
俺はマトリョーシカの頭に手を置き、リュゼルが顔を出した。
四番目に大きなマトリョーシカを腕に抱えていて、あたりを見回すと歩いて来た。
「マスター様はいらっしゃらないようね」
俺は頷き、マトリョーシカの頭を取りグラスとボトルを置くと栓を抜きリュゼルに渡し、頭を戻した。
顔全体を隠す石膏の仮面を口許まで上げると、グラスを傾けた。
リュゼルは白掛かる金で全身を包ませ、金のフリンジレースが派手なビスチェと継ぎ目に黒ダイヤが光るチュチュをつけては頭に黒の大きな羽根を派手につけた黒に銀の目許の仮面をつけ、髪も覆わせていた。足首に金のバングルが光りヒールが光っている。
黒の唇がグラスを傾け、俺は横目で彼女を見るとソファーに押し倒し、キスをした。リュゼルは驚きロンググローブの手が震え、その手が俺の手に絡まった。
「ゴホン」
俺は咄嗟にリュゼルから離れ、ドアを開けたミスターを見た。
彼は進んで来るとリュゼルを引き立たせ、彼女は咄嗟に頬を染め台横に立ちうつむいた。
俺は仮面を下げ、ミスターが前のソファーにゆったり座った為に顔が見れずにグラスを見ていた。
ドアが開き、三人のあの女達が嬉しそうにはしゃぎながら入って来ると、マトリョーシカを見回して顔を見合わせキャアキャア騒ぎはじめ、煩さをリュゼルがビシッと声で黙らせ、女達はくすりと上目で色目を使い微笑むと一人が木馬のように四足になりその背に一人が跨り頭に腕を組み微笑み、もう一人がその横でセクシーに立った。
浅黒い肌の女が現れると、その女がこの前の筋肉質のマゾヒストを首輪に繋ぎその鎖を前で揃えさせた手枷に繋ぎ引いてやって来た。
ミスターが頬杖をゆったり着く横目で、色っぽくその男を流し目で見つめては、視線を戻した……。
「………」
充分に、色香の含まれた視線は欲望を誘うものだった。きっと、筋肉の筋をなぞり、首筋をなぞり見つめたのだろう……。
背後を通り、女が一人掛けに足を組み座り背後に男が立った。
白く浮いたステージの中はピンクと紫の照明に充たされそれに染まる三人が洒落た曲に乗せ踊っていて、その中心で金レースの扇子を持つリュゼルが踊っていた。女達も裸体に金の装飾品をつけ目許も金プレートのなめらかなアイマスクをつけている為に光が屈折する。
声をそろえ女達が高らかに歌いはじめ、筋肉の男の黒い鎖がその中に染み付くように浮いた。
三人が藤色のシルクをなびかせながら男の肌をそれで撫でさせ、リュゼルがグローブの手にロープを持ち、男を雁字搦めに拘束して床から吊るした。
その上に女が二人乗ってグルグルと周り、もうリュゼルが鎖を持ち中心に立ち女二人が加速度を増しグルグル回らせていき、もう一人が回転させられる男の筋肉の腹に突き出した舌を這わせながら狂気として笑い回転していた。
女二人が鎖を持ち足を離し大きくグルグル回り始め、リュゼルが声を出し愉快で笑いポールダンスの様にぴんと張ったつる下がる鎖を基点に片足と片手を引っ掛け背を仰け反らせグルグル回った。
上から金の装飾梯子が月の絵の丸い穴が開きフリンジレースで覆われたアイマスクのレズビアン立ち二人に下されてきて、女二人がそれに乗って梯子を基点に踊り始めると、リュゼルが男の回転を止めさせてから天井のレズビアンから金の蝋燭を渡され、男の背後中に垂らしながらも何本も立てていき、人間シャンデリアにしていった。
リュゼルが女二人の差し伸べる手に手を伸ばし、鎖中心からキャンドルを足を高く上げ跨ぎ梯子の二人に身を預け上目で微笑した瞬間、男の肩を蹴りまわし金蝋燭の人間シャンデリアがグルグル回り始め炎が回るとともに溶けた金の蝋も激しく飛び散り女達は受けながら腕でかばい笑っていて、徐々に男は金色に塗れては溶ける棟が体側面から腹に滴り、腹色と金色の斑になり、本物の金のシャンデリアの様に吊るされた。
筋肉がきつく拘束され、蠢いている。
豪華な金レースが繊細なチュチュは薄手で幾重にも重なり、金糸で織られたそれは上に金の蝋燭を雫の様に乗せていた。
リュゼルの手前、ミスターをまともに見る事も出来なければ、ミスターとは離れて座っていた。その為に、まさか関係を知らないリュゼルが俺の横に腰を掛け、微笑した。金に浮くような黒の唇を見つめては、仮面の中でだが微笑んだ。
「どうぞ。ミスター」
浅黒い肌の女は、その日も美しい体をして微笑んでは、極細い管が吸い口についた煙管を差し出した。
石膏の仮面の口許に細く穴が開いていて、入るほどだった。よく肌に密着する石膏の仮面は、肌に吸い付き外側は全く違う肉付きと顔つきになっていた。煙管を吸い付き、細く出す。シャンデリアのある舞台ではライオンが二頭、下から男に唸っていて、時々前脚を上げ引っ掻こうとしているがギリギリに届かない位置だった。二人の男が鎖で繋ぎ、舞台をシャンデリア中心に徘徊させている。
タチウオの巨大な水槽があり、一匹だけがゆうゆうと泳いでいた。珊瑚やそういった物が綺麗で幻想的な中を。マシュとやらに変るタチウオだろう。銀の色で泳いでいた。
水槽はピンクのレースや、紫のビロード支柱、連なったパールや金装飾の貝などで周りを装飾された白鳥型の代物で、クリプトンが見たら一瞬で気に入りそうな物だった。細長くもたれる優美な首筋は頭の上に金の王冠を載せている。
ホワイトピンク色の石材の床が、やはりミスターの存在を微かにピンク色に染めていて、それが実は似合っていた。完全に白と黒のモノトーンの為に、何故かこういう場でも自然だ。
彼は目許に今、鏡面のアイマスクを嵌めていて、その鏡面にはこの女性的室内情景が映っていた。白い柱上を装飾する大きなピンク石の薔薇や、そこから下がる豪華な垂れ幕、遠くにある白馬の木馬、黒装飾のされた紫色のロマンティックな天蓋装飾のベッドの上にはレズビアン達が四人、豪華なアイマスクと髪型、豪華なランジェリーで横たわり俺達二人を微笑み見ていた。
時々、鏡は一部黄金に艶やかに光る。あのシャンデリアを見るからだ。
苺が乗ったカップビターブラックチョコレートがどっさり置かれ、何と、ミスターがそれを手にして口に放った。
俺は驚きミスターの横顔を見て、甘党系全てが浮かばなかった為にずっと見てしまっていた。
五つも普通に平らげてしまい、俺はその横顔を見ていて、リュゼルもそのバートスクで有名なケーキ職人のチョコカップケーキを食べては微笑んでいた。
俺は甘い物は好きでは無い。
食べるものまでミスターが黒いので、俺は可愛く思えて可笑しくて首を振った。第一、似あう。赤い口の中へ飲み込まれていくのが。
ベッドの上のレズビアン達はマトリョーシカを抱えながらレディーリバティー縫いぐるみを五個並べクッションにしていて、時々チュッと縫いぐるみ相手だが、同じ女なのでキスを寄せていた。
あれは同性愛者差別反対の自由の女神の縫いぐるみで、そういうキャラクターだった。売上金という物がHIVやエイズ感染防止の資金や運動内容の資金、避妊薬や道具、その機関への医療費寄付だったり、自殺者援護資金に回されたり、差別撲滅運動資金にまわされたりするチャリティーキャラクターで、やはり性癖に片寄る者達からは大人気だった。
そうでは無い一般人にも一つのキャラクターとして人気だった。クリプトンも、あれの柄のミニドレスを持っていた……。あの王冠着きで。バレエを習い始めるために、その柄のレオタードもほしいのだそうで、ねだって来ていた。
ミスターの座る椅子の向こう側にも一つ、そのレディーリバティーが置かれていた。
「ねえ。ダリーはロシアに行ったなら、ショコラージェナエも買って来てくれれば良かったのに」
レズビアンがそう言い、マトリョーシカの頭を開け、やはりアイスクリームが詰まっていない為にそれを五人で頭に被せて可笑しくて笑い合っていた。
五人目は流石にマトリョーシカを被れる状態では無く、頭の上に乗せているだけに過ぎなかったのだが。
やはりマトリョーシカも女なので、唇にキスをちゅっと寄せていた。
第一、そのベッドの両サイドには、目深く猫の被り物を頭に被って黒の革パンを被った少年の等身大人形、もう一つは同じ格好で猫の変りに黒のソフトキャップを被った背が高い人形が立てて置かれていて、まるで彼女達のボディーガードかの様に見えた。いわゆる、レディーリバティー事件の犯人で、同性愛者賛成と叫び騒いで迷惑を掛け逮捕された青年二人の人形だった。
その二人が中指を立て鋭く歯を剥き、舌を出しのった紙面の白黒プリントの長袖シャツを、この前あのソフトロッカーな私服のハンスが黒の細身のパンツに合わせ、銀のスニーカーと銀の斜め掛けバックで口笛を吹きながら署内更衣室へ軽快に駆け入って行った所だった。普及率が高い。首からは、レディーリバティー縫いぐるみヘッドホンが掛けられていたのだが。
年に何度か、NYでレディーリバティー祭りが行なわれるらしく、それらのファッションショーとグッズにちなんだ派手なパーティーで、チャリティー行事になっていた。俺はそういう砕けたパーティーには参加しないのだが。
円卓に一本の蝋燭を立て、黒の石には、金でチェス盤と駒が象嵌されている。
椅子の黒石は、金で舵が象嵌されていた。
それに座りキャンドルを見つめていて、その明りだけであって、闇に包まれていた。
ミスターはヘッドボードに背をつけ、錨レリーフに絡まる黒蛇レリーフが、微かに光りで浮き上がっていた。
時々、赤い煙草先が光った。
俺は立てた膝に乗せていた肘先の炎を見つめ、ミスターの方を見つめた。
今は彼はどこを向いているのか、不安になる。
闇を見つめているのか、俺を見ていないのか、黒石で形作られた垂れ幕に手を当てているのか、あのアクアマリンの瞳の男の事を考えているのか。
「ミスター」
「なんだ」
彼の声がしては、俺はそちらを見た。
「藍色の瞳の男が、あなたには本物の恋人がいると言っていた。僕以外でいるなんて、思ってもいなかった」
「あいつ……」
ミスターが短くそう言い、赤い炎先が大きく動いた。それが横の台に消え、ミスターが明りの中へ入り白の肌を黄金照明に染め上げ、椅子に座った。俺はその美しい悪魔の様な顔立ちを見つめた。
「アクアマリンの瞳を持つ男ですか。一度だけいた事がある」
「何故お前にそれが関係あるんだ? 俺はお前と今こうやっていて、ここにはあいつも他の人間も一切の関係も無い事だ」
「それはそうだが……」
俺は彼の手の甲に手を置き、黄金の光りが静かに広がる漆黒の瞳を見つめた。
「許してくださるんですか。俺が、この前あの藍色の男に無理矢理攻められていた事を」
「………」
ミスターが視線を落としあちらを見て、俺は不安になり顔を覗き見た。
「ミスター」
手をしっかり掴み、指を強く持った。
「あなたに嫌われたく無い」
俯く横顔を見つめた。
「あまり不安がるな。嫉妬しただけだ。すぐにお前は不安がる」
俺は瞬きしマスターを見つめ、歩いていってしまったミスターを見つめた。
「あいつは俺よりも魅力的だから」
「え、」
こ、この人……、自分の魅力の溢れていることに、気付いて無い、
「いや、ミスターはお美し、うおおお、」
「言い直せ」
いきなり額に銃口を突きつけられ俺は顔を引きつらせた。その方向か。男らしさやワイルドさでの事か。
「申し訳無い……」
ミスターは銃口を下げフンと息をつき、俺は仰け反らせていた背を戻した。
「だが、ミスターはやはり上品で涼しげな魅力が鋭い……」
銃口が上がる事無く組まれる膝元に手首が戻され、俺を見た。
「俺は束縛はするが、束縛される事は嫌いだ。ただ、女と寝たいなら勝手にすればいい。だがその内に俺は他の場所へ好きに行っている」
「誰ですか?」
「お前が知る必要は無い奴の所だ」
「あの藍色の瞳の男は」
「違う」
「アクアマリンの男なんですね……」
俺はうつむき、鮮明に円卓に映る黄金の燭台を見つめた。
「レガント」
闇に浮くように白の手が伸び、俺は頬に添えられたぬくもりに彼を見つめた。
「俺にはあなたを独り占めにできる値打ちは無いんですね」
「お前はお前が思う程、どこも劣ってなどいない。何故そんなに不安がるんだ?」
「あなたは一度も俺に愛情を口にして表現しない」
「まるで寂しがる女のようだ。子供っぽい感情で」
「あなたは本気では無いんですか? 遊び仲間の中の一人だと? それで本当に可愛がっているのはその顔も知らない恋人だけ? 意地悪だ。ああやって俺の前に連れて来て、嫉妬させる」
「お前が嫉妬するなんて思わない」
「そんな事は勝手な事だ。俺は本気であなたと共に居たいというのに」
「だから居る。それで悪いのか」
「あなたは深く考える方だと思ってた。軽率なことなどしないと」
「本気にばかりなれる程余裕を与えないつもりで?」
「余裕など奪ってしまいたい!! それが俺じゃ無いなんて!!」
立ち上がっていて、キャンドルが揺れて俺は唇を噛み、歩いていき壁際にあるドアを開け出て行った。
廊下を進んでいき、仮面を忘れた事に気付いて立ち止まった。
あんな事を言ってしまっては戻りにくい。
あちらから話し声が聴こえてきて俺は焦って辺りを見回した。ランプシェードが目に入った。いやだがそんな恥じなどかけるか。
だが声が角から近づく。
「………」
「………」
既にランプシェードを被り調度品の台にかけられていた金トリミング付きの黒のビロードを肩から掛けていた俺は、もはやマズイに過ぎなかった。
その上に飾られた有角動物の骨格の方にするべきだったと思った。
ガチャッ
「………」
ミスターが顔を引きつらせ瞬きして俺を見て、俺は屈辱に耐えられなくなり腕を引かれてドアが閉ざされたと共にシェードを投げつけられ呆れ返ったミスターの声が息をついた。
「お前は、何が一体……」
「いや、骨格にすべきかランプシェードにすべきかをあの刹那では……」
「いいから大人しくしていろ。恥じまでかいて……」
俺は泣きたくなって来て大人しく奥へ進んだ。
照明が付きビロードを落し、身体を見下ろすと真っ赤だった為に溜息をつきシャツを手にし肩にかけた。
ミスターが可笑しそうに笑い、肩を叩き奥へ歩いて行った。
「ミスター、捨てないで下さい」
「………」
ミスターが振り返り、しばらく俺を見てから、微笑んだ。
「………、」
俺は熱くなり俯き、目を閉じた。
……近い明日の事すら不明だ。
だから今必死になる。こういう関係に答えを求めるなんて愚かだというのだろうが、常に愛情には明確な答えを欲するものだ。その先に究極のものがあると分かっているからこそともにいたいという考えは、ここでは間違っているというのだろうか。
会いたくて会い、共にいたくて共に楽しみ。ラフな関係など俺は……。
ミスターはラフな関係を俺に求めて? ただただ会いたい時に会い、共に居たいときは共に楽しむ……。それが続く今の内ならそれが出来る。
今の内ならずっと。
「………。僕は今までこうやって愛情だとか、そういうものについて深く考えた事など一度も無かった。あなたは僕といて、楽しいですか?」
「少なくともランプシェードを被っているお前は腹の底から笑えた」
俺は沈み、やはり遊ばれているのだと思った。
「何故あなたに対してこんなに質問が多いのかは分かりました。あなたは僕には愛情は置いていない。体の関係だけ。そうですか?」
「そうだとしたら、もう会わないのか?」
「あなたはそういう方で?」
「そうだとしたら?」
「それでも共に居たいです。始めにあなたに迫ったのも、無理強いさせたのも、強引に来たのも僕です。あなたはこうやって応えてくれていたんですね。あなたは僕の事には本気にならない事を自分で分かっていたから、何度も僕を避けたし、突き放したし、邪険にしたし、ようやく受け入れてくれて、こうやって会ってくれたら今度は俺があなたの心を知りたがったから……」
「もう終わりにしよう」
「!」
俺は驚き顔を上げ、ミスターの目を見つめた。
「もう眠い。来い」
ミスターがベッドに入り、俺は言葉の意味がどう受け止めるべきか分からずに立ち尽くした。
「話を終わりにするという意味ですか?」
「そうだ。いつも同じ質問ばかりされて、俺が同じ答えしか返せないなら、お前が思う通りなんだろう。勝手ですまないな」
俺はベッドに飛び乗ってミスターの背を潰した。
「いたい……」
ミスターがうずくまって、俺はその背にしがみつきビロードのベッドカバーを引き上げ目を閉じた。ベスト越しの背に乗っているだけで、眠気が襲う。
「子供だな……」
ミスターが髪を撫でてくれ、俺は頬をうずめ、ミスターの手の平に唇を寄せ続けた。眠るまで……。
きっと、ミスターはとても愛情には優しい方なのだろう。
見捨てる事など出来無いのだ。俺の様に、必死に求めたくて求めて来るような者のことを。それが、彼が愛情という物の本気に向き合う数ある中の一部。彼が向き合ってくれる。今は体だけでも……。それならそうしていられるまでそうしていよう。
「ミスター。僕は幸せです。本気になれるあなたがいてくれて……」
「そうか。良かった」
「ずっとこうしていたい」
そのまま眠りに落ちていく。
その内、ミスターが背を起こし俺を横に落し、ベストを脱ぎシュルシュルとネクタイを外し、俺の背を引き寄せしっかり抱き寄せてくれて、髪をうねらせた。俺も背に腕を強く巻きつけその肩に俺は頬を寄せた。
「ミスター」
「なんだ」
「あなたの事を、誰もが名で呼ぶんですね」
「ああ」
「あなたを愛称で呼んでも?」
「嫌だ」
俺はショックを受け目を開け枕に頬を乗せ目を閉じるミスターを見つめた。俺に気付いて瞳が開かれ、俺を見た。
「では、ミスターと呼びます」
「別に何でもいい」
「ミスターにします」
「そうか」
また目を閉じてしまい、その瞼をしばらく見つめ続けた。飽きない。その為に、ずっと見つづけていた。
「眠れないのか」
「なんとなく……」
「どうすれば眠るんだ。お前の心音が早くて眠れない」
「じゃあ離れます」
俺は泣く泣く離れ仰向けになり、ミスターの腕を掴みながら目を閉じた。いつでもミスターは背を上に眠る癖があるようだった。
俺は、一人で背を上に眠ると過去が緻密に思い出されるからあまりうつ伏せでは眠らない。
その内、ぼんやりとする室内の照明を見始めた。中が空洞の球体硝子を網で吊るした昔の錘が、今は中に照明を入れられ、海色に透けている。周りの網が壁に格子に広がっている。
ゆるやかな水面の様な模様の中で、意識が揺られ眠りへ落ちていく……。
彼の腕を掴んでいると、ここは溺れそうにも無い海に思えた……。
きっと、彼は扱いになれているんだろう。軽くいなしあしらって、彼のいつものどこかに流れる適当さで流してくる。そして、時に好きにさせてくれる……。
★★★アラディス・レオールノ・ラヴァンゾ ラヴァンゾ一族御曹司
四時半に目を覚ますと、レガントは既に寝台にはいなかった。
あいつは早すぎる。
俺は頬を枕に埋め、目を閉じた。
「ミスター」
俺は目を開け、グラスを見た。オレンジジュースだった。顔を上げ、背後を見るとオレンジとレモンが絞り器の横で残骸になっていた。
「まだ早い……」
「おいて置きます」
「ああ」
枕に腕を乗せ、身を返した背を見つめた。後姿が特に目を惹く奴だ。品があり整う顔つきも好きだが……。
仕草も派手じゃなくすっきりしている。無駄が無い。細い腰に、しっかりした肩に、しなやかな四肢に、テラードに包まれる真っ直ぐな脚。見ていて飽きない。
元々理系だからか相当なにやらろいろ考えている様だが、考えさせておいた。
レガントは心底から従ってくると思うといきなり違えてくる。よく分からない奴だ。元からそうだ。よく分からない。
レガントが椅子に座り、レモンとオレンジの皮を手元で弄んでいた。静かな顔立ちは剣が無いと、精悍な男らしさが優雅だ。
グリの奴が気に入るのも分かる。時にレガントが見せて来るビシッとした鋭さは惹かれる。だからこそ屈させたくなる。
レガントはそれをさせてくるから尚の事可愛い。
そういえば……グリは部下だったな。時々忘れる。もしかしてレガントは気付いているのか。すっかり忘れていてゲームをやらせていたのだが、うっかりしていた。
あいつは倶楽部の契約者だから完全に顧客事の口が堅いものの、レガント自体の正体はグリには知られてはい無い筈だ。
こいつも、まさか自分が男の俺に惚れてしまっているなどと知られるなんて、それこそプライドが許さないだろう。
俺は手に頭を乗せ、レガントを見始めた。
レガントは気付いて顔を上げ、瞬きして俯き組まれる膝を見た。指にはリングが嵌められ、それが光っている。
「お前は絵画のような奴だな」
「え?」
「絵になる。静止していると、一枚の絵を見ているようだ」
「そうですか……?」
「ああ」
父は、絵画をよくじっと、鑑賞した。一つの絵の前で、何時間も見上げている。後ろ手で手を組み、毅然と立ち、鋭い横顔で絵画を鑑賞している。よく、女の肖像などが多かった。女神や、女戦士、女王や、王女、女君主、乙女や、そういう美しい情景と女の絵画。
もう十五年間、父にも、母にも会ってはいない……。
イタリアの人間の事はヨーロッパから来た人間から社交でうわさを聞く程度だ。どうしているのか、直接の事は不明だ。
俺はベッドから離れ、レガントの髪にキスを寄せてからバスへ進んで行った。
「僕も」
急いでレガントが来て、俺は肩越しに見ると頷き進んで行った。
天井から浮き付きの網が斜めにかけられた下に打ち捨てられたような小振りのバイキング船の彫刻がバスタブになっている為に、急激に湯を充たす。
いきなりレガントがレモンとオレンジの皮を突っ込み、黒に黄色とオレンジ色が浮いて、目許を引きつらせた。
ポイッ
レガントがそちらを見てから、肩をすくめさせた。
人魚が背を仰け反らせた状態で壁から突き出てその広げる両手二本先がシャワー口になっている為に、シャワーを落し体を流した。
魚の腰を突き出し尾鰭がカーブして突き出ている。その尾鰭の内側は台になり、ボトルが並んでいた。
天井から石の太い鎖が降り床下で渦巻き錨が床に倒し置かれていた。
「………」
シャワーから水を浴びていると、腰に手が伸びて来て、俺は肩越しに見た。
俺の方が背が高い為に、肩に頬を乗せるレガントの金髪を見つめ、頬に水を弾く上の瞼を見つめた。カーブを深く描き、鋭い目じりまで睫が揃い、水に打たれ揺れている。男らしい整然さがあり可愛い。
整う鼻梁も、薄い唇も。
湯船に浸かり、目許にタオルを乗せた。そのまま眠る事は無いと思ったら、目許のタオルの上にスライスレモンが載せられていた……。
それが湯に落ち、レガントは腕を出し、巨大な方位磁石型のオブジェの針を回していた。球体の透明なガラスの中にあり、カモメ型の磁石が上から下がり、それを回転させると中にある金の針が回る。上から明りがつき、太陽のような光を発するがいまは消えている。あれがついてカモメを回すと、部屋中に黄金の夕陽のなかを壁をシルエットが飛ぶカモメのように回転し走る。
黄金の回転する針に光が反射する。
「そろそろ出よう」
「はい」
上がると水分を拭きながら進みレモンオレンジジュースを飲んだ。レガントがヴィトンの大きなトランクを横に移動させ、扉を開けクロゼットに出した分の着替えのスーツを出した。
服を装着していき、サニタリーへ歩いて行く。
「櫛を借りても?」
「ああ」
「どうもありがとう」
身支度を進めながらカウンターに腰をつけカフスを確かめると、横目でレガントの横顔を見た。鏡を見ていて、左右を確認している。
職場へ向かう時は、いつでも元の緩やかにカーブした髪を緩く背後に流させている。プライベートの時は、アイロンを当てるらしくいつでもストレートだ。今はシャンプーをしたしブローでもブラシを遣わなかった為に緩いパーマが掛かっていた。元々襟足を越える程度で整えられている。
印象ががらりとそれだけで変る。ウェーブ掛かっている方が性格的にソフトに見える。アイロンで伸ばしていない時は、金髪の色味も光を受け柔らかく明るい金髪だ。真っ直ぐにしていると艶がそのまま落ち着き、どこか深みのある風になる。片目用コンタクトのケースを仕舞い、目許を抑えると目を開かせた。
眼鏡のケースを出すと、綺麗にしか見え無いがそれを拭き、胸部に仕舞った。
俺は腕時計を付け、全て確認してから身体を向けた。
「レガント」
「はい」
手元にグローブをつけていたレガントは嵌めると身体を向け視線を上げた。
「最近、目の調子は大丈夫か?」
「ええ。なんとか……ブルーベリーも食べているので。部長に勧められて」
レガントがカトマイヤーを部長と名指すとは驚きだ。極自然に。
サニタリーから出るとレガントに言った。
「朝食はどうする。俺はここで食べて行くが、朝はばらばらに出た方がいい。屋敷へ帰るのか?」
「どこか、レストランのモーニングでも」
連絡を渡し一人分をオーダーすると、レガントをドアまで送り届け、俺を上目で見つめて来た。
「どうした?」
「………」
一度俯き、視線が上がり、キスをされ、レガントは身を返し出て行った。
「………」
ドアが閉ざされ、しばらくはその場にいた。