リーイン精神病院 下
何故だかそういうわけで勝手に書斎机の横に巨大な黒石の花瓶が置かれ生けられた。
花びらを見つめ撫でると、サリー警部がそんな俺の方を見ながら微笑んだ。
「シックな花がお似合いになるわね。ラヴァンゾ君」
よく二人になると、サリー警部は年下の俺をたまにラヴァンゾ君と呼んだ。
「どうでしょう」
彼女は一本一本正して行くと、俺は多少、血の流し込まれた眼球の群に見える為に、あちらから顔を出したジェーン巡査の、蜂蜜色のマニキュアの光る手を見た。
「可愛いですねお花。どれぐらい持つかしら。二週間くらいかしら」
「どうでしょう」
サリー警部が珍しく歌い始めていた。ジェーン巡査が即興で微笑みながら花を整え、バックコーラスを入れてハミングを滑らせた。
近づく季節に足音を並べて
風音 聴けば想い出す季節
夏の過ぎ去りし時雨の記憶
重ねる歌声 あの子の笑顔がずっとここにあるならば
降りしきる恋の心 あなたに届けた
エメラルド色の温かい風に乗せ
現れる情念を時雨の音にしとしとと透明に
曇り空から 鳥が現れて連れ去ってゆく恋の季節
「いいわね。綺麗に生けられたわ」
「きっと、所持していた人が見たら大激怒しますね」
「その前に送検されるわね。それでは、我々は失礼します署長」
「ああ。どうもありがとう」
「どういたしまして」
二人がまた歌いながら歩いていき、ジェーン巡査が高い声でバックコーラスしながら出て行った。
夢を駆ける白馬の背にあなたはいない
湖面の水煙が静寂が包む森林に高い高い鳥の鳴き声
優しげな馬の眼差し 遠くから駆けて来る風
霧がしっとりと肌に吸い付きさらさらと流れてる
雪の結晶の記憶が掠めてまだまだ森は続く
光るおぼろげなランタンの明り
神秘の湖面は青く 清純な乙女の肌のよう
まるでさやさやと鳴る柳は乙女の髪のように波打つ
風……
俺は水色と赤の組み合わせに我慢ならない。それに気付いたのは二人が出て行った後だった。ソファーセット横に設置させるべきだった。後から男手を呼びそうさせる事にした。
「失礼」
ドアが開きアシュラが入って来て、珍しくニコニコしながら自分の背後を見ては顔をこちらに向け進んできた。
「いいもんだな。女性二人が歌いながら歩いて行く姿は」
アシュラは女好きで、実は五回結婚していて、今六回目の離婚がいつになるやらと言われていた。クラブのダンサーだったり、マンモス街の教会で歌う歌手だったり、女キックボクサーだったり、モデルだったり、ハーレークイーンだったり、みんな迫力ある美人ブラックな女達だったが二年と持たずに離婚して、今度とくれば十九歳の妻は隣街の遊園地でポップコーンを売っていたカートの美女で、その場でプロポーズしたのだそうだ。子供は其々四人いるが、三人が元妻達が引き取り、三番目の子供である七歳の息子だけが残っていた。
「似あうな」
書斎机に手をついていた俺は「さあ……」と言い、花を見てから机に腰を掛けた。
「この年になって始末書書く羽目になるとは思ってもみなかったな全く」
そう言い、アシュラは取調室のテーブル一棹を大破させた始末書を俺の腰掛ける横に置いた。
「ラヴァンゾ」
「何か?」
黒い盤面に鮮明に浮く赤の花を見た。
「赤い花を横に置くとエロティックだな」
俺の瞼を見つめてそう言って来て、俺は首を振って離れて行った。
「ソファーセット横に移動させる」
ハイバックチェアの方へ映ると、始末書を手に取った。
アシュラは机に腰掛け腕を立て紅い花に片手を伸ばしていて、その姿が黒い盤面に映り、俺はしばらくは白い紙先のその姿に見惚れていた。
「モーラはしつこく沈黙ばかりで二人の男についても何も言わないままだ。二人の聞き込みをアヴァンゾンで続けているんだが、何しろクラブ街はごろつきが溢れかえってる。それに、武器管理科については帳簿に巧妙な誤魔化しが利かせてあった」
「阿片か。マリファナもそうだったが、ジュルッサの丘で何度か参拝時にそれで若者達が引っ張ってこられていたな」
「出所はいつでも闇市売人としか言わなかったがな……」
始末書にサインしてから、上目で横顔を見た。
一瞬、押し倒されたいとよく思う。
黒石に紅の芥子を広げ、長い腕手を頬に伸ばされたくなる。
毎回無視する感情だが、芥子の花は一日しか持たずに凋んでしまう。二週間などもちはしない。美しさも散り、明日の朝には紅い絨毯が無残に散る姿を見るのみだ。
アシュラから目を反らし、アシュラが気付いて俺を見た。
「なんだ。どうした」
「いいや」
「………」
大きな猫目が射抜いてきて、視線を強く感じた。
「……まるであんた、凛としたケシの白い花のようだ」
「………」
視線をアシュラに上げた。その目を見て、視線を流し落とし、机をなぞり目を閉じた。
「さあね」
「狂うほどの深紅の中に一輪だけ浮く清純だが危険な花。よく、あんた俺の夢に出て来る。いつでもこうやって素っ気無い風でハイバックに座って、海ばかり見てる。俺にしちゃあ洒落た夢だな」
「口説きか? アシュラ警部」
「ハハ、乗るような人間じゃ無い事は分かってる」
「さあ、どうかな」
「試すのか? 俺の心弄ぶんだな」
一本抜き取り、俺に差し出して来た。
赤の花から、長くしなやかな黒の腕をなぞり、瞳を見つめた。
「夢の中ではいつも素っ気無いが海から顔を向けると、微笑んでくる。焦らされる思いだ。誘うような唇で」
胴を押され黒石のテーブルに赤い花と共に散らばった。盤面に白い肌も芥子の花も鮮明に映る。花瓶の陰からLEGOが見ていた。まるで花瓶から降りかかるケシまでも監視してくる瞳のようで。
一輪、その花を手にしてからそれを見て起き上がった。ノック音に再びアシュラを見た。
カチャ
「失礼します」
視線を反らし俺は入り口を見て、アシュラもそちらに顔を向けた。
「アシュラ部長! モーラの仲間二人を発見しました」
「では、行って来る」
「ああ」
アシュラが去って行き、芥子を机に置いた。
トントン
「どうぞ」
開いたドアから、何かを持ったミスターレドが入って来た。
「何ですか?」
彼はその熊の縫いぐるみを持ってやって来ると、芥子の花を見て目を瞬きさせてから、机に置いた。
「これは?」
「ええ。差し上げたく思った」
多少目に生気が無く、この所の繰り返される取調べの事で疲れているようだった。
その熊は愛嬌のあるピンク色のもので、オーバーオールを着ている。これはリーインに工場があるアイスクリーム会社のキャラクターだった。
「熊を頂くような子供は私にはいないのだが」
「いいえ。どうか」
「被疑者からのものは受け取りません。今現在、確固とした証拠が無く保釈されているだけなので」
「動くんですよ。可愛いですから」
そういうと指をくわえたそのドキューム・ベアの縫いぐるみが倒れ配線をたがえて口を開いたまま眉を上下させ目を七色に光らせ何かつっかえつっかえ短いフレーズをリピートして歌い始め、痙攣し始め時々叫ぶ、そんな縫いぐるみに俺は目を白黒させ、不気味で病的だった。
「お引き取りいただいて結構です」
「可愛いでしょう。ほら」
「いいえ」
カチャ
「もしもし。男性一名連行願う」
トントン
「失礼します署長」
「連行してくれ。一先ずビュー女史に精神状態を調べさせてくれ」
「はい」
「絶対に女史と二人にはさせないように警官を二名つけてくれ」
「分かりました」
あれでは自分から捕まえて欲しいという様なものだ。人は理性を失うと恐い。今に自分で妻をそそのかして薬漬けにして好きにさせたとでも言い出しそうだった。
差し出された一輪も再び戻し、一枚紅が黒い床に落ちた……。
「もう終わりだ私は」
「あなたは当時若かった奥方に覚せい剤を?」
「ああそうだ大きな屋敷を手に入れたも同然だった。しかも後妻は前の妻とは違って若かった為にやりたい放題さ。前の女が気位が高くてプライドで出来上がってなんの遊びも無い。そうしたら分け与えられたのが若い女と将来の大きな屋敷じゃないか! 天国さ本当に……そうしたら今度は覚せい剤の種類をもっといいものを持って来て欲しいと高くて危険なリスクを冒させようとしたからね、もう面倒になってリーインに閉じ込めたよ。あのリビング長補佐は融通が利かないが支給係りは言う事を聴く。そうと思えばいきなり警察が事件を掘り返して、屋敷まで追い出された! 職まで失って!」
俺はあきれ返って、後ろに来た警官達に連れて行かせた。
「カイブル・コードに確認を取ってくれ。サルバ・セッタは何かを隠しつづけていた可能性もある」
「はい」
連れて行かれ、何だか良く分からない産物も回収させ持って行かせた。
「恐いですわ。男が信じられなくなりそう」
「極一部の事だ」
「そうですよね」
警官四人の背に呼びかけ、署長室へ来させ、また階段を上がって行った。
「花瓶をソファーセット横に移すから手伝ってくれ」
「分かりました」
花瓶を四人に持ち上げさせ、下の台を移動させると、その上にまた花瓶を移した。
「どうもありがとう」
警官達四人は敬礼してから出て行った。
変な奴等ばかりで、無性にリシュールに思い切り抱きつきたくなって来た。そういう時はいつでもリシュールは愛らしく微笑み、二十代の頃の様にいつまでも眠るまで寄り添っている。あのボストンのアパートメントの一室で、少し疲れて帰って来ると恋しくなってよく抱きついた。あの太陽の様な笑顔がいつでも安心した。いつも縫いぐるみに抱き着かれているみたいだと言って来ていたが、それでも安心した。あの時は彼女をリーシェンと呼んでいた。
「もしもし」
「アラディス? まあ、どうしたのよあなた」
「いや。今はどうしているかと思っただけなんだが」
「今は森林横のログハウスでパーティーが大盛り上がりよ!」
「楽しそうだ。加わりたい」
「今日は午後で仕事が終るの? あなたもくればいいのに!」
「いや。また夜まで掛かるかもしれないから、ゆっくり楽しんでくれ」
「忙しいわね。お疲れ様アラディス。あたしの声が聴きたかったなんて、可愛いわ!」
「ああ。無性に」
リシュールが嬉しそうに笑い、続けた。
「美味しい記念のシャンパンを頂いたの! 明日かあさってか、あなたの今取り組んでいる事件が一段落着いてからでもいいわ。一緒に飲みましょう!」
「ああ。そうだな。楽しみにしてる」
「あたしもよ! じゃあ愛するあなた! お仕事頑張ってね!」
「ああ。お前も充分楽しんで」
「もちろん!」
「それじゃあ」
「ええ!」
互いに切ると、俺は驚いて顔を上げた。
「お熱いですな署長。奥方ですか」
「ま、まあ……」
全く気付かなかった為に、咳払いしてから笑っていた顔を引き締め、シャマシュを見た。
「報告を」
「ええ。ロイヤルホテル支配人ステーム夫人とお嬢さんは足取りがつかめました。城のある国の空港監視カメラに映っていた以外には、まだ目撃例が無いので、現地の人間がタクシーやバス運転手などに聞き込みを続けてくれています。まだ城には現れていないようですが、張らせています」
「そうか。ありがとう」
「それと、ビルイ・ルー氏のご家族と連絡を取ったのですが、食人の歴史など断固無いと言っています。そんなものは勝手に他の者達が並べ立てている事だと。それに、ビルイ・ルーという名が社交名であった事が判明しました。本名で再びファイルを探した所、本名で収容されていた記録があり、そうさせたのは現在の一族秘書でした。このファイルですな」
名はオビザライ・ルト・ハネッケンと記されていた。十五年間の事を知らないので、その内に変化があったのだろうか。
「ミクロバ・ビルスについてですが、屋敷を家宅捜査した所、不気味な部屋が幾つも出てきまして。地下も広がっていました。まあ……SM館という風ですか。拷問道具が揃っていましてね、奥さんにも使用したのかを聞いても答えないので、何種類か皮膚片や皮脂の着いている様な物を押収して科学捜査に回して調べさせています。それと、ミスロバ・ビルスが何やら署長との関係がどうのと言っていたのですが」
「え? 交友関係はあったが、何か?」
「鞭打ちがどうの、拘束がどうの」
「………」
「同じ性質を感じ取る為にあなたの邸宅も逆に調べさせてはどうかという様な事を」
冗談じゃ無い。地下がバレる。
「どういう意味だ? 私がサドだとでも?」
「いやあ……、軽い挑発か何かでしょう。不信感でも与えようという考えだと思います。終始こちらを弄んでいるような風なので」
「そうだろうな。あの男はそういう性格だ。挑発などは無視すればいい」
「はい」
シャマシュが出て行き、俺は首をやれやれ振って屋敷に連絡を入れた。
「はい。おぼっちゃまですか?」
「掃除は済んで?」
「そうですね。あとは応接間だけですよぼっちゃん」
「どうもありがとう」
「いいえ。それと、見慣れないブレスレットが浴室に落ちてらっしゃいましたがどうなさいますか。あの連行されていった男のじゃないですかね」
「そうかもしれないな。保管しておいてくれ」
「わかりました」
「万が一警官が来たら、屋敷に入れないようにしてくれ」
「何かあったんですか? やっぱりその男、物取りだったんですか?」
「正式に送検される事になるから安心してくれ」
「わかりました。万一来たら、旦那様のお留守をお守りするものとして屋敷への侵入はさせません」
「ありがとう。では」
「はい。お任せください」
連絡を切り、受話器を置いた。
ミクロバの場合、SM道具があった位では数日で開放されるだろう。下手な事を言われれば面倒だった。だが、甘く赤と黒の時間を思い出す……。
それにしても……。彼等もアジェ・ラパオ・ルゾンゲの存在を知っていれば、家族など愛人や恋人などに無情にも無理難題を押し付けて感情を向けずに、綺麗に収まっていた事だろう。
それでも、たまに倶楽部内でも争いは起こるのだが……。
トントントントントン
ハンス巡査が入って来てぼろ泣きしていた。
「署長!! アイアス警部と部下のヨルダイ巡査部長を訴えてください!! 俺の部屋バラバラになってたんです!! それに犬の毛まみれになってたんですよ!!」
生けられた芥子を両手で一掴んで舞わせて胸部をドンドン叩いて来てワンワン泣き叫んだ。
「本当に大麻の種や乾燥した物は所持していないんだな?」
「してません!!」
わんわん泣き叫んでいて、ボロボロになっていた。
「………」
独特の匂いもやはりしないし、それを消す香などの香りもしないし、歯も綺麗だ。目も正常で常用の雰囲気も一切無い。
ハンスが大人しくなって抱きついて来る。ベストの肩にぼろぼろの涙を落として来てハンカチを持たせた。
可愛くてしばらく背に手を当て金髪に頬を寄せていた。
背伸びに疲れたハンスが目を開けてから俺の背後の芥子を見て言った。
「あ。ケシ」
「押収品だ。気にするな」
黒の石床や植物模様の黒シルクソファーの上にも無残に数本散らばっていた。
「ピンクが四日間拘留されるって言ってました……俺気付かなくて」
「大麻草を見た事は無かったのか? 特徴を掴めば分かる事だ」
ハンスが床を見て首を横に振った。
「このままだと、他の警部達からもどういわれるか。基本的な専門知識すら無いと思われる。自己努力をしているのか? 射撃の訓練も自発的にもしないし、柔道訓練も出ようとしない。情報処理中も居眠り。遅刻こそは無いが元いた交通課ではアシュラ部長も違反者の切符を切り忘れたり、違反者に脅されて逃げられたりしていたと言うし、今日などは他の課の者がお前は警官に向かないからイベント会場スタッフでもしていた方がいいんじゃないかと言われていたんだぞ。悔しいと思うならしっかり身を入れてもらいたい。ジェーン巡査も入って、いろいろと教えてやっているようだから自分でもレベルアップをするように」
「首にしないでください!」
「お前次第だ。LEGO人形で遊んでなんているな」
「ううう、ううう、」
「いいか。処理B班は今動いているんだ。ジェーン巡査は凄い意気だぞ。行って来い」
「はい」
ハンスは顔を拭いながら出て行った。
また花を整える。
血より微かに暗い色……。
長い茎の間を通り、赤の花をうねる……コブラが浮かぶようだった。目の前に鱗を光らせ。
寄せては引き
『お前が連れて行かれた報告を受けて、どんなに自己を呪ったか分からない。アラディス、お前が俺の変りに刑務所にいる間は、お前の血が染み込んだお前の愛銃だけが全てだった。愛するお前に殺しをさせ続けて、こんなに血汗が染みるまでやらせたのは俺だ』
二十三歳の時、シチリアのクローダボスに会いに行った。
引いては寄する
彼は俺が使っていた銃をずっと大切に持ち続けてくれていた。お守りだと言って、届くはずが無いと思っていても、銃を手に俺の身を案じつづけずにはいられなかったと言ってくれた。どこかで何かの目に遭うんじゃないか、自殺するんじゃないか、ダイマ・ルジクの手に掛かるんじゃないか、無事では二度と会えないんじゃないかと。そんなもの全てを消し去ってくれるように、ずっと願い続けてくれていた。
波の間に
俺が殺しを始めたのは俺の意思だった。いつかそのまま殺されたいためでもあった。自棄になっていた。いつしか、ボスの為に邪魔者を消して来た。それをずっと反対して止めつづけたのもボスだった。やめなかったのは自分だ。捕まったのも、自分の過ちだ。ボスのせいなんかじゃ無い。決して。
コブラが活き続けている長い間、俺は様々な愛を他に向けたし、想い、患い、得て、ただ、失う事はもう無かった。一つの愛情も。ずっと続きつづけた。
ボスの祈りの力が後押ししてくれていたんだと思う。
これ以上何も失うなと毎日ボスは俺に言い続けた。シチリアの海。シチリアの風。シチリアの星。シチリアの彼……。
情熱 愛と悦びを
彼は一人になってからも、ずっと俺の安否を願い続けてくれていた。海から引き上げてくれたボスは、俺の命の恩人だった。再び他を恐れず愛する心も取り戻してくれた。
引いては戻り
その強い彼の想いがこもった銃を、渡米と法的検挙達成へのお守りとして手渡してくれた時の、あの大きな手の熱さ。コブラは鈍く光り、懐かしい馴染む持ち手も、全てが、ボスの記憶全ても乗せていた。
だから、俺は絶対に、二度と不当で法外な殺しは決してしないと決めていた。ボスを絶対に裏切らない。
絡んで荒れ狂う波の間に
誓いは一生生き続ける……例え、正々堂々と愛し合う事が出来ないとしてもそうだ。
ここまで来れたのは、ボスの心があり、リシュールが俺にはいて、母の優しさや父の背があり、タカロスの懐の深さ、ファエフォーの救いや、共にいてくれたレダンがいて、ライラがいてくれて、ロベルが自己を信じてくれて、そしてイタリアの思い出と共に四人の笑顔の輝きが活き続けてくれていたからだ。
熱い風を 夜ならば星を 水面に波を
何度も挫けそうになり、諦めたくなくもがき苦しんだりしながら、ここまで来た。
古いクローダの銃と、柄が傷だらけのランディアの鑿。
その鑿を持ち寄りミラノの地下で黒蛇を彫った時から、復讐を決めていた。その時は、全く分からなかった。どうすればいいのかなんて、ダイマ・ルジクへの恐怖しかなかった。絶望と怒りに埋もれていた。
寄せては返し
ボスは流れ者の自殺未遂者の俺を癒しつづけてくれた。
銃と鑿。その二つがある事で、自己の理性は保たれてきた。怒りに塞がれそうになった時は、手に二つを心臓部に抱き呟いてきた。絶対に正当な方法で仇を討つ事を誓いつづけた。
果たせるはずだ。
ダイマ・ルジクに制裁を与え、失った彼等を光で満たす事。
戻ればいだく深い愛欲を……
こうやってどんどん問題が持ち込まれ続けて暇も無い内だろうが、絶対に諦めない。
もしも、自己が崩れたら絶対にロベルは笑うだろう。俺が崩れたところなんかあいつは知らないから。
(歌詞)
押し寄せる波 俺たちに引いては満たし、海のように全てを奪い、あなたの顔を見つめる
あなたを見つめ、美しい海のように浸る愛情の唄 海の風から届く声 波と共に
あなたの姿、愛しいあなたの声 愛しく俺の心を満たし、充たす
足を揃え進む波間を、穏やかに行く
波が引き寄せる夜
そっと光を遮り、あなたの肩を抱き温める 波が寄せては引き、互いに寄せる波
あなたの口付けが優しく、愛しく 潮の満ち引き 二人の間に、微かに耳に響く風音 波の音 あなたの声
満ちかける月は眩しく、あなたとの時間 悦びに感じて
あなたから離れ、ひんやり……熱を冷ます 愛しい熱を冷ます
………
………
(本意=これを美しいメロディーとハスキーな声で波音にあわせて歌う曲)
ぼうっと海を見つづけていた目の前に、手がブラブラ揺れた。
「………」
指から当てていた唇を離し顔を上げ、ニッコリ笑うジェーン巡査を見た。
黒ストレッチスラックスの膝に手を当て腰を曲げ、玉虫ブルーのスカーフ上のボブ髪を片耳にかけている。
「失礼」
「いいえ」
彼女は背を伸ばし、横に広がる海を見渡し、俺に視線を落とした。
「カンツォーネですか?」
「え?」
「ずっと海を見つめながら囁く様に口ずさんでいらっしゃったので、とても素敵で見惚れてしまいました」
「………」
自分が歌っている事すら気付かなかった。
「英語でなんと歌ってらっしゃったんですか? 署長の母国のイタリア語ですよね」
「教えられません」
「! そ、そんなにきっぱりと……」
というか、気付いて横を見ると、紅い花の前にシャマシュ、アイアス、アシュラ、科学捜査員がニコニコと黒シルクと黒石のソファーセットに収まっていて、笑いながらこちらを見ていて罰が悪かった。
いつから一体いて、一体俺はどれ程気付かずにいたんだ……。全く気付かずにここにもしハンスがいれば示しが着かなかった。
咳払いし、足を解きハイバックチェアを前に向けた。
「まずは俺から報告をする。不届きな部下が所持していた手榴弾を流したのは武器管理科のビル・オノマンで、五年間続けていたようだ。仲間の黒人と白人がモーラから預かった銃器と精製したLSDフィルムを向こう街でイベント中に売り飛ばしていた。LSDは三人で休日昼にこもって作っていたらしい。実際芥子は阿片用じゃ無い為に無害だ」
「あたくしからは、現在ラムセイ巡査部長が捜査に出ている為に変りに報告させて頂きます。ミスターセッタの症状と毒の成分が科学捜査で検討がつき、それを育てていた家庭が一件ありました。セッタ夫人が行きつけているバートスク商店街上の花屋でしたが、主人は依然、目的は知らないと言っています。共に、過去の事件四件に関しても同じ毒草による物とされています。今その裏付けに回っています」
「モーラ巡査の室内での麦角の検出量が出ています。それと、五件の事件にひっかかった毒草検出結果です。他の毒草と殺人ファイルとの照合は現在調べています」
「ゴホン。こちらは大麻取締りについてだが、焼却が終了した。八十三件分についての周辺関係を続行する」
「こちらはですな、行方不明中のステーム夫人とお嬢さんが城周辺の森林の中で無事発見されました。現在保護され、リーデルライゾンへ戻るのは明日以降になります。それと、継母殺しを隠蔽した父親の件ですが、自供しました」
何かが降りかかるが、いい方向へ結ばれる。
レガントの言っていた葉占いという物が再び耳に聞こえた。それは、俺だけじゃなくリーデルライゾンにいて、俺が関り、彼等がいて成り立つ事だと分かった。誰にも起こり得る全ての占い内容も、どれ程いい形で解決して行くのかが、力が結集しなければ無理だ。
過去が解決が目の前まで来て、この街を巡ってきた物が徐々に解かれて行く。あんな地下などでいつまでも白骨があんな状態で、しかも見取られずにいつづけるなどいけない事だ。
「そうか。どうもありがとう。捜査に踏み切ることが出来たことはいい事だ。これから最終段階の捜査に向け、一層の取り組みを」
「イエッサー!」
皆歩いていき、途中でアイアスだけ戻って来た。
「何か特別報告を?」
「先ほどの愛の歌は、今度もっと聞かせてもらえるかな。個人的に」
そう囁いてきて、俺は口をつぐんで耳が熱くなってから咳払いし視線を反らした。
「それと問題のハンス君の部屋にあった写真は、彼に返しておいたよ。泣いていたリスが大喜びで飛び跳ねていた。相当君のファンらしい」
「………」
アイアスが微笑みウインクしてきて、背を伸ばし身を返すと歩いていった。ドアのシャマシュが尋ねた。
「アイアス警部、何か話事でも?」
「いや。ハンス巡査の事だ。しばらくは首にはしないでいてやって欲しいとね」
「ハンス。ああ、あのぼけっとした」
そう言い、ドアを締め出て行った。
これからハンスもしっかりしてくれればいいのだが。
というか、七年前にこの街に赴任してきた当初、あのハンスの様な警官が恐ろしい程の割合でこの署には溢れかえっていた。もっと酷い者もいた。冴える者は古株だったり警部連、他から移って来た者達で、それは本当にほんの極一部で、他の平や時に巡査長の位までボケボケして弱くて逃げ腰ばかりだった。
其々の机には菓子、キューピック、玩具つきペン、警察学校教本、鏡、雑誌、ビューラー、アメフトラジオ、そんな物で署内が溢れかえっていた。目許など平和ボケして下がっていて、優顔で、線が細いものが多く、覇気も無く、ギャグ事を話し笑っている。それかベンチで眠っている。それで爆破が起きれば肩を縮めて動けずに、我先に誰もが逃げて行った。恐ろしい警察署だ。
そして精鋭の者だけが数名のみ、出て行くのみだった。相手は悪質揃いでこちらは人数も少なく押さえられる事も稀で、犯罪者はスラムへと逃げて行く街だった。
ここまで正常化してくれて何よりだ。
「………」
ヴィスタスルマーレを見る。
徐々に、夕陽がまだ青い空に、影をオレンジにさせ始めた。
影から出る指先に光が差し、滑らかな夢に集中し光った。膝に当る指先が爪を透かし影を透明に落としては、桃色になって行く。
窓に背をつけ、海を見渡した。実に優しい薔薇色だ。
陽が徐々に紅くなって行き海が炎の様に燃える。赤い光を吸い込んで青とは対象的な赤に染められ、熱く燃える記憶に包まれる。
あの夕陽に引かれてそのまま共に、朝を迎える国まで行きたくなる。身を焦がそうとも時に炎の音に巻かれて闇の中、熱い情熱だけに、彼等の腕の中に抱かれ。
彼等の体温は夕陽のようだった。その笑顔は昼の太陽、その熱は夜先の闇を恐れる事など無い物で、彼等の歌は心に残りつづける小夜曲。
海天を赤がうめつくし、黒石も、白壁も、赤の花も、全てが、赤を反射した。赤の世界に包まれると、安堵する……。ガーネットのように。
目を閉じ手も、瞼を透けて赤が広がり、彼等の体内にいる様だ。彼等の血脈を感じる。生きていた血潮。生きていた全てを。
「……署長」
目を開き、窓からこめかみを離し秘書を見た。彼女が泣いていた。頬が真赤にキラキラ光り、俺を見上げていた。
ハンカチを出し、彼女の頬を拭った。
「署長が泣いてらっしゃるから……」
自分でも気付かずに、口を閉ざし頬に手を当てると、涙もろい秘書の肩を撫でてから「ありがとう」と言い、身を返した。
「帰ろう。ミス」
赤く眩しい書斎机からキーを出し、視線を上げ机に差した真っ黒の影を見た。
秘書が俺の胸部に回す手に手を当て、背に当てられる額に俯いた。
身を返し、背を引き寄せて抱きしめていた。リシュールよりも狭い肩に頭を垂れ、いつでももらい泣きする秘書を愛しく感じ包括し続けた。
彼女の狭い背に夕日が優しく広がり、目を閉じて、安堵の息を着いてしまわないように。
しばらく離したくは無く、見つめる海の夕焼けが色を変え、赤と青が混ざり青紫との交配を繰り返しながらも変って来ても背を抱き景色を見つめ、寄り添っていた。
明るい夜色になり、そっと体を離して肩を持ち、もう泣いていない秘書の顔を覗き見てから、秘書が照れたように微笑んだ。俺も小さく微笑み、肩から手を離し身を返した。
黒に、濃い赤が空間に浮いた。紅の芥子が、エレガントな黒の空間に神秘的に咲き乱れ。
気付き、顔を上げ視線を上げて行った。
「………」
天井から、血が滴り芥子の紅になっていき、繋がれ吊るされた彼等が……弾痕と、開かれる目と、縫われた口許
キーを落とし、視界が回って闇に落ちた。
目を覚ますと、ソファーの上だった。
体が重くて倦怠感が襲い、何故ここにいるのかが分からなかった。
ただ、目許に冷たいタオルが置かれてあり、それが気持ちよくてまた目を閉じた。
物音がして、靴音が近づいて、腕に手を当てて来た。
「大丈夫か」
俺は頷き、ヒールの音も近づいてきた。
「署長」
秘書だ。それにアシュラ。
「この所は顔色が良くなかったからな。奥さんにはまだ連絡がつかなくて言って無いんだが」
「大丈夫だ。申し訳無い」
タオルを外しそう言い、アシュラと秘書を見た。
「夜間は街全体の交通パトロールが行なわれ、要人物を数名が見張りを立てている。科学捜査斑は捜査を続行し、急速な調べを進めている所だ。今も稼動しているのは麻薬捜査の警官だ」
俺は頷き、ゆっくり起き上がり、毒々しいが、惑わされるほど美しい芥子の紅を見た。闇色に浮き、凛としている。まだ、凋んではいない。
「ミス。悪かった。倒れてしまったようで。それに遅くなってしまったな」
「いいんです。それに、部屋は一人だし世話をする家族もいないので。このまま泊まって行っても?」
「どうする。仮眠室には着替えもあるだろうし、あんたも運転は止めたほうがいい」
「そうだな……。ミスもアヴァンゾンへの電車ももう無い時間か」
俺は頷き、また目を閉じると、背凭れに腕をつき顔を押さえ、目を開いた。
「食堂から三人分夕飯でも持って来る。待ってろ。夜警用の奴が残ってるからな」
「どうもありがとう」
感覚がまだ戻らずに、秘書が濡らしたタオルをまたローテーブル上の銀のプレートに戻した。
彼女は結婚はしないのだろうか。俺に着かせているからだろうか。彼氏とも昨年別れたと言い、新しく出会いはあるだろうものの、長く続く話は聞かない。
もう年齢も彼女は三十一だ。七年間よくやってくれている。
もし……、俺がこのままダイマ・ルジクを検挙出来るのかの瀬戸際まで来て、何かの行動をふとしたきっかけで起こしてしまえば、彼女が困る。
記憶の洪水を留められずに思い出し、幻を見ると激しい怒りが巻き起こる前に、気絶する程悩ましい。このまま、どうなってしまうのか不安になる。
「………」
「音楽が聴きたいですね。何か。先ほど、リンダ巡査からラジオを貸していただいたんですが。着けてもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
秘書が音楽曲番を掛け、調整をし始めていた。数多ある曲番から、出来るだけ軽快なテンポのクラシックが軽やかに響いた。
「あ。いいですねこの曲」
「そうだな」
秘書も一人掛けに座り、膝に手を添え微笑んだ。
「ハンス巡査が、あたしが大慌てで階段を駆け降りて行って助けを呼びに行ったものだから、驚いて張り込みに向かおうとした足を止めて駆け上がって行きましたよ。夜食用の菓子パン袋を持って紙袋が破れてパンとお菓子の山がばら撒かれてしまって。ラムセイ巡査部長に怒られて慌ててロジャー巡査と共に階段を駆け降りて行きました」
「そうか。随分ミスにも彼にも慌てさせてしまったな」
「フフ、ええ。もう大驚きでしたわよ。重くてソファーまで抱き上げるなんて芸当も出来ないし、階段を駆け降りきった時に医務に電話すれば良かったと気付いたほど慌てふためいて、ハンス巡査と来たら、居眠りですか!! なんて、もう状況が状況じゃなかったら大笑いしていましたよ」
「ハハ、」
「安心しました。顔色は多少良くなりましたね」
秘書が微笑んでから、ポケットの中のレースハンカチからLEGO人形を出した。白の肌に黒のスーツがペイントされていて、睫が一本ある顔をしているものだ。
「きっと、好きなんですね。ハンス巡査もレガント警部補も署長の事が」
「………」
黒石にはくっきりとLEGOが二人足裏をあわせ立ち尽くしていた。本当にそこまで強いわけでも無い。凛と立ち続ける様には。
崩れる事の無かった事が崩れ始めると、やはり最低限の事情は話すべきことなのだろうか。だが、気をしっかり持てばいい事だ。これまでの様に。
「なんとなく、レガント警部補は署長の前だととても頑張るようになっている風に思えますわ。きっと、署長には本気にさせてくる力があるんですね。それはとても有効的な事ですわ」
「本人がやり進め出した事は、本来のやるべき事を出来る事が能力だ。ただ、弾みをつけさせる物があっただけで。もしも自分が踏み台になってやっても、飛躍できる部下が作れるなら嬉しい限りだ」
「ええ。本当に……」
ドアが開き、アシュラが大笑いしながらやって来た。
「見ろこれを!! 今日は大鍋にシチューだったぞ! パンにぶっ掛けてもって来た」
そう言ってズカズカ進んで来ると、ローテーブルに大皿を一枚、小皿を三枚置いた。パン六つの上に、ビーフシチューが駆けられ、ナイフとフォークが三本三方向に置かれていた……。
「さあ食べよう!」
「まあ美味しそう」
「良い食通を」
ガシッ
何故!
「それはイタリア語か?」
「え、ああ」
「そういえばイタリア語で歌っていたな。珍しく」
「まあ。歌ですか? 署長がですか?」
「あまり覚えて無いんだが。ボウッとしていたんだろう」
「アイアス警部が、あれはベッドで愛し合っている時の歌だっ」
ガシッ
「アシュラ警部? 信じるのかその手のアイアス警部の冗談を」
「い、いや、なんというか……ジェーン巡査にそう説明して英訳を教えていた」
実際にベッドで愛し合っている歌だが……無意識の時は自分で何か歌っているのかなど気付きもしない。
「アイアス警部が聴き違っているだけだ。海の岸辺を恋人同士で歩いている歌だからな」
「ああ、だから波の満ち干と言っていたのか」
「ああそうだ」
「でも署長。アイアス警部はイタリア語が達者ですよ。彼は二十ヶ国語が分かるんですから。異国籍から持ち込まれる麻薬捜査の為でもありますわ。とても素敵ではないですか。愛し合っている時が一番幸せな感情の時ですもの。その時を歌に込めている歌手も多いですわ」
時に思い出せば辛くもなるのだが。この所はずっと感情を抑えていた方だが、考えないようにしすぎたのかもしれない。反動が来易い。
アシュラはパンを二つ分バラバラにナイフとフォークで裂いてシチューに真っ黒に浸して肉と食べていて、あのマナーに煩いカトマイヤーがいない為か、食べ方が食事の持って来かたにしろ、個性的といわざるを得なかった。
だが、実際カトマイヤーが実はレガント専属使用人一族の人間である事は知られてはいない。どの一族の者かは俺も不明だが、規律とマナーと躾の一族じゃないかと思う程、何かアシュラがミスを冒した時は目が恐くなった。元々アシュラは部下達のテーブルで食べる。年に二回ほどしか共にこちらのテーブルでは食べない。シャマシュの場合は奥方が弁当を作るために、食堂へは来なく、所轄休憩室で他の弁当を持ち寄る者にまじり昼のニュースを見ながら食べている。稀に加わるのだが。
「コーヒーをお入れしますね」
「ああ。ありがとう」
秘書が歩いて行き、ドアから出て行った。
「もう平気なのか? そろそろ大詰めを迎えるから、しっかり眠ってくれよ。俺の夢に出て来る事はいいんだが」
「ハハ、そんなに邪魔させてもらっているのか」
「ああ。出て来ても気分が良いから早めに目覚め様とは思わないんだが、いつも息子に蹴り起こされる」
「七歳だったな。今に蹴りも堂が入る前に躾たほうが良い」
「カトマイヤー警部に頼めば一発なんだがなあ……娘のティニーナがあれだからなあ」
「そうだな……」
あのティニーナ巡査は爆竹のようだからな……。
「今はディアネイロ部長を毎日看てくれいてる」
アシュラは横に四角いクッションスツール向こうの黒石花瓶に生けられる芥子の花を二、三本抜いて弄んでいて、視線を上げた。
「ああ。明日また見舞おうと思う」
「そろそろ彼も退院も出来るだろう。元気になる物を持って行くといいかもな」
秘書が進んできていつもの様にコーヒーを置いた。
「どうぞ」
「どうもありがとう」
アシュラは黒石やシルクソファーに芥子を起き、赤い花びら横に何かに気付いて手に取った。
「懐かしいな。LEGOか。お高い物で俺はガキ時代は持って無かったが、甥っ子にはバケツ入りを買ってやったな。息子はGIジョーにはまってんだが。あんたは女だから積み木だとか、人形遊びやバービーか」
「あたし? ミニカーでしたわ。それや木の上に基地をつくったり。映画ではヒーロー役をやっていた青年がいて、その子が舞台裏で戦車を横に黒タンクトップとカーキの軍用パンツとブーツでいて、とても好きになったんです。でも、実は女の子でしたけれどね。アニメも少年の見るものばっかり」
「それは意外だ。将来はGIジェニーになる筈で?」
「電車にのっていた時はいつも頭の中で脱出プログラムを模索しながら乗っていたから、そうだったのかもしれませんわ。ドア横のボタンを押して、ドアをこじ開けて、下の川に突っ込んで、そして岸まで上がって、その前にしっかり捕まる場所も確保。そういうふうに」
「逞しい!」
「ええ。ボクシングを習いたいとずっと思っていましたから。実際は習っていたのはバレエを齧る程度です」
「だから姿勢もプロポーションも整っているんだな」
「まあ、お褒め頂いて嬉しいですわ。署長は少年時代は何を? トライアングルや、花火ですか?」
彼女は俺がルジク一族を廃嫡されている事も履歴書の時点で知っている為に、話は通じ易いが、その話題を持ち出されると困る。
「トライアングル?」
アシュラが俺を見て、しばらくして、噴出してから大笑いした。何故笑われるのかが皆目検討も着かなかった。
「トライアングルを馬鹿にしないでいただきたい。世の中には、木魚やソリ鈴や硝子引っ掻き鉤やゴングやビードロが得意楽器として換算された様な羨ましい人間もいるものを、私はトライアングルだ。ほら貝が良かった」
あの時の刑務所の人間達は今どうしているのかは不明だが、あの楽器演奏は楽しかった。男子自由監房者は応募を募って楽器を演奏し、女史自由監房からは女受刑囚達が裁縫の仕事時に自分達で作った衣裳でファッションショーをし、俺達はその曲を生で奏でた。二ヶ月に一度、自由監房の者達は警備員達に監視された塀の中で同じ空間と時間を共にバレーボールをする事が設けられていた。女に特に興味もなかった為に俺はあまりその時は出なかったのだが。
今も連絡を取り合っている者達もいる。
「ほ、ほら貝、」
アシュラと秘書が真面目に言った俺を口を押さえ肩を震わせ見て来て、付け加えた。
「少年の頃は天体観測が趣味だった。玩具というものは一切与えられなかったんだが」
だが、複雑で美しい万華鏡、デスタント遊覧船模型、そういった美術品の域にたっする物は与えられていた。それに、実に多くの素晴らしい美術品、芸術品、職人物、希少価値の高いものやアンティーク、絵画、調度、建築物などに幼い頃から触れさ目を養わせ鑑定能力を授からせてもらっていた。ダイマ・ルジクからだ。将来はルジク一族の全てを受け継ぐためだったのだが。それに、絵画の為によく乗馬後は馬の絵を風景と共に描くようにとスケッチブックと鉛筆を渡されて来た。
「玩具を知らないのか! まさか、貧しい家柄で育って? アルターノから見る満天の星はそれは綺麗だっただろうなあ……」
ローテーブルを挟んで俺の肩を頷きながら叩いて来て、俺ははにかんでおいた。
「いいえ。彼はミラノの育ちなので」
「ああそうか、ミラノか! じゃあ、チョークさえあれば石畳でケンケンして遊べるじゃないか。それにパニーニとかリゾットもらったり出来たんだろう。ミラノコレクションにも忍び込めたんじゃないのか?」
「詳しいようで。アシュラ警部。久し振りにミラノの地面を踏みたくなった」
「父親が専属モデルで世界中を飛び回ってたからな。大体は俺と兄弟は母親とトレーラーハウス暮らしだったんだが、たまに風来坊の様に洒落た父親が帰って来ると写真だとか土産話が俺の餌だった」
「ああ、道理で色男な」
俺は口を閉ざし、二人が見て来たのを、カップを傾け視線を遮った。
顔立ちが良かったり、プロポーションや背に恵まれていたり、柄にも無くロマンティックな事を言って来たり、花を弄ぶ事が様になっていたりするのは、きっと父親の行動が見慣れて掠めているんだろう。
だがアシュラ自身はいつでも同じ様に、黒のイージーパンツに黒のランニングにサンダルが定番なのだが。
「素敵ですね部長! ロマンですわ」
「父の影響か、どうも派手な生活を送る美女といつのまにか五罰でな。ハハハハ!」
これはまた浮気でもして六回目もありえそうだな。
「息子さんや奥さんはいいのか?」
「ああ。事件時だからな。妻の実家に預からせてる」
「それが賢明ですわね」
秘書が食器を重ねて行き、微笑んで立ち上がった。
「また俺が行って来るから、お嬢さんは大人しくご主人様の看病してな」
「いいんです。いろいろと揃えたいものもあるので、行かせてください」
「女性はいろいろとな。ありがとう」
「いいえ」
秘書が出て行くと、アシュラはニコニコしながらこちらを見た。
「毎日羨ましいな。あんな美人を見ながら仕事出来るなんて」
「まあ……」
「………」
アシュラの背後の紅がよく似あう。
いつでも魅了する青い海も今は夢のように夜だ。
赤の咲き乱れる花を背にするアシュラを肩越しに見た。
アシュラが微笑し、振り返った俺を見た。
「赤い花がよく似合う」
燃え上がりそうだった。
「しばらく、あんたの姿を眺めてもいいか?」
「え?」
アシュラが手首を持ったままローテーブル前にしゃがみ、手指に唇を当てながら見上げて来た。巨大な猫の様な上目で。
まるで美術品でも見つめる様に、熱い視線に焦がれそうになりながらも……
「………」
………。
この目、……知っている。
見たことがある。
見たことが……。
アジェ・ラパオ・ルゾンゲだ。
「………」
共同パーティー会場だ。誰もが仮面をつけて現れる全てのマイノリティーが出る会場。互いの性癖などは不明で、時には正体もわからない。
その会場にいた。確か、その時はスタイリッシュでシックな黒シルクのカジュアルスーツジャケットを来ていた。黒の丸襟インナーで、ノーネクタイだったが、その事で耳に嵌められたプラチナの輪ピアスが自棄に、シャンパンを持つ微笑と共に、エロティックで魅惑的だった。
険しい黒獣のアイマスクは硬質で艶が走り、細身の整う顔立ちも、黒い肌も、スタイリッシュなプロポーションも凄く惹かれていた。その時は横に真っ赤な裾を引くボディーラインドレスの西洋女を連れ、その女の金髪が波打つようにシャープに背に流れ、赤い硬質なアイマスクが赤いルージュの上で妖しげだった。女の腰を引き寄せシャンパンを手にしていて、時々彼女の耳元に口許を寄せ囁いていた。情熱的に女は視線を交わすと、鋭く微笑しあい軽くキスを交わしていた。
そして、あの目で女を見ていた。今の、この目で。
「あの」
秘書を見た。
「そろそろ眠ろう」
今は考えることをただただ止めていたい。
そう言って歩いて行き、仮眠室へ入って行った。
そのまま、異常に眠気が襲いベッドに沈み、アシュラも転がるとメイクを取って来た綺麗なままの秘書もその間に入った。
アシュラが睡眠薬か毒でも混ぜていてくれれば、そのまま一ヶ月ぐらい眠り続ける事が出来るかもしれないのだが……夢も見る事無く。
………。
………。
アシュラの寝言が煩かった。
アシュラの寝言が煩い。
何やら何かを値切っている。市場で野菜のトマトとズッキーニをセットで買うから安くしろと値切っている。1セント、2セントのところを譲らなくて夢の中でもさっさと眠ってほしかった。
俺は目を開け、闇を見てから顔を向けた。
秘書が同じく眠れずにいてアシュラ側を見ていた。
「眠れないな」
「眠れません」
「眠りたいが」
「眠いですね」
「ズッキーニが必要なんだよ我が家のミネストローネには、だがトマト四つ分の金しか預かってないんだ今日は相場が高いな、まけてくれたったの2セントだぞ……」
俺は顔をあちらに戻し目を閉じ、秘書はくすくす笑っていた。
ドカッ
「ギャ!」
「ズッキーニ一本4セントとトマト四分の一が6セントで引き換えに2セントぐらいまけて譲れっていってんだろうがあ!!!」
背中に膝の打撃を受けて俺は泣く泣く顔を肩越しに上げ、中間の秘書は無事だった。
「露天主人じゃないのに……寝台を貸してやっている主なのに」
秘書が可笑しそうに腹を抱え笑いながら、フレンチから下している肩までの金髪を揺らしクスクス笑った。
キングサイズベッドだからいいものを、このままでは危険な為に秘書を端へ行かせる時、笑いながら胴越しに細い腕をあちらに立て、一瞬目が合い金髪から覗く影の中の水色の瞳がふと俺を見下ろした。
「………」
秘書が頬を桃色に染めて動けなくなり、俺も動けなくなっていて薄桃色の品のある口許や細い鼻筋、整いカーブを描くブロンドの眉や細く滑らかな頬、睫の一本に至るまで、ホワイトブロンドの多少うねって癖かかるボブセミの髪まで見ていて、背中の痛みも忘れ見ていたが、顔を反らして細い肩を持ち横へ行かせた。
彼女は細く長い足で胴を跨り横へ行き、移動させた枕に頬を乗せ水色の目でこちらを見ていたが、腕を枕に俺はあちら側を見ていた。
「腕枕してください」
秘書を見て、腕を出してやって秘書が微笑み目を閉じ、ベストの胸部に手を置いた。
「久し振りです。落ち着くわ」
「そうか」
髪を撫でてやり目を閉じて、アシュラが蹴って来ないように片膝を立てた。
アシュラが交渉段階を脅迫めいて背を上にクッションに爪を立てメンチ切っていて、秘書は肩を震わせクスクス笑っていた。
「1セントまけてもらったぐらいじゃあ足りないんだよ!!!」
夢の中の交渉人はどうやら手ごわくその1セントを譲ってくれないらしく、交渉相手のクッションが俺達の上をあちらへ越え吹っ飛んで行った。
もう耐え切れずに秘書が腹を抱え足をばたつかせて大笑いを始めていた。
秘書を抱きかかえ肩に大笑いする顔をつけさせアシュラに背を向け目を閉じて、とにかく眠りを貪った。
たまに市場でミネストローネの為に大泣きしながら大暴れするアシュラに背を蹴りつけられながらだったのだが。警部連は今不在の最年少警部ガルドもそうだが、変わり者が多い。勘弁してもらいたい……。本気でまともなのはシャマシュのみだ。
人のベッドに泣きついてドンドン叩いていて、肩越しに見ると一人で黒シルクのシーツに包まってゴロゴロしていてまた蹴られた。
「うう、痛い……」
「大変ですねきっと奥さんは」
「これが原因の一つかもな……。息子も投げ飛ばされてるに決まっている」
「その息子さんにミネストローネを飲ませたいが為に市場で頑張るお父さんですがね」
アシュラがようやく大人しくなり、肩越しに見た。
いきなりで驚いた。
あの大きな目を開けて見ていたからだ。黒シルクに頬と手を置き。
「仲が良さそうだ……コアラの様に抱き合って」
俺はなんともつかずに彼女から腕を離し、咳払いした。
「ミネストローネは飲めたのか」
「飲めなかった!!」
ガシッ
ひいっ
「無農薬の有機栽培は人件費を要するから1セントたりともまける気がしないと言われて!!」
秘書はもう大爆笑していて、笑いすぎで涙を流していた。
どうかアシュラが平穏な夢を見られます様に祈りながら顔を戻し目を閉じた。
アシュラが背越しに身を寄せてきて腕に手を掛け、項に額をうずめ、俺達の足に足を掛けて来たから大人しくなるならそうさせておいた。俺は秘書の頭を抱えて目を閉じ、秘書は安堵して微笑み息を付いた。
「縫いぐるみみたい。安心します……」
「抱き枕みたいで安堵するなあ……」
二人同時にそう言い、俺は憮然としてから金髪に頬を寄せ眠った。アシュラにずっとしがみつかれていて、心地良かった。
ふと、アシュラがどんな性的少数者なのかと思った。ともにいたのは女だった。同性愛者の雰囲気は一切無かった。可虐性は不明だ。性格からして不明だが、もしかしたら何らかの異常な程の陶酔はあるのかもしれない。例えば、全体的な美に対する何かに劇的に惹かれる事や、ある一定の物に対する異常なまでのフェティシストだったり。地下倶楽部には悪魔崇拝者などもいる。暗黒の地下空間だが、俺は悪魔崇拝者では無い為に立ち入ったことすら無い。
美へ対する欲望は覗える。普段からは一切想像にも着かない程、ガラリと様子を変える。あのレガントの友人であって、トアルノーラのプリンス、リチャードにしても、今までは知らなかった面が覗いた場所を見た。あの青年は美への眼差しが実に厳しい。紳士的に振舞う事にも厳しく、時に双子の妹アラク・ベレー嬢へ対する言葉もきつかった。そういう印象がつよかった。だが、この前はガラリと様子が違い、柄の悪い青年が顔を覗かせていた。
アシュラの場合は、美の表現世界へ生きた父親に似て、実際は貧しく逞しく生きながらもそれらへの美欲望は強く興味が駆り立てられていたのだろう。
美欲は恍惚に成り得る。恍惚は快感だ。快感の先に自己のみの最強の美世界がある。それを分つ人間が共に同じ物を感じれば、相乗効果になって最高潮の世界を迎えるものだ。
血潮の全てが身体沸き立ち波にもまれてワクワクして。
俺は挟まれ熱くなって来て腕を解いて抜け出し起き上がった。
二人とも眠っていて、寝台を抜け出すとアシュラが秘書に抱きついた。
首に巻かれていた黒シルクスカーフを解き円卓に置くと、レストルームに行ってから仮眠室から離れて署長室へ行った。
「………」
花が大部分、月光の中を凋み丸い頭を美しく垂れていては、あちらの床に繊細な影を幽玄に落とし伸ばしている。
指を触れさせ見つめ、……微笑んでいた。
月光が差し、紅の薄い花びら、さく果へなる為に情緒を持って細い茎の首をもたげている様には風情がある。
影が重なり、幾つか残る赤の花びらにも繊細な影が落ち。
書斎机から紙を出し、万年筆の蓋を外すとペン先の銀が月光に青く光り、ローテーブルに座って描き始めた。見回し、色をつけるため、目を閉じ指を噛んで血を出し花びらと凋んださく果の先を色づけた。万年筆をローテーブルに転がし、三人掛けに転がって目を閉じた。
そのまま、眠りへ落ちて行った。
単純な夢を見た。
白黒のあのLEGO人形が巨大になり大群で白い世界に行進していた。よく幼い頃から人形だとか、縫いぐるみだとか言われて来た俺だが、それの様に肌が柔らかいわけでは無く、硬質のプラスティック樹脂の塊で動き、踏み潰されれば一貫の終わりそうだった。五十メートルはあるだろう高さの芥子の紅が咲き人形がそれを腕で掻き分け始めて進んで行く。
大群が去って行き、俺は真っ白の世界の中、徐々に複雑になって行く世界にいた。
頭を垂れるさく果の中に、一人一人、人が膝を抱え裸体で納まっている。それが、徐々に所々で熟したものは裂け、そのままボトリと白い床に落ちたり、それや中にはつる下がって孵化しては、黒の羽根を広げ黒の粒子を舞わせ飛び立つ蝶になり芥子の蜜を吸い上げたり、LEGO軍を煌き追いかけていったりした。
時々、殻がパリパリと落ち鴉に孵化して飛んで行く者もいた。顔だけは人で、くちばしがついていた。地面に落ちた孵化に失敗した者を突付いたりしはじめる。
何らかのカラクリの音が聴こえ始め、白の空間に巨大な白の歯車のカラクリが現れ始めて作動し、純白の繋がれる鎖が金属音を高く上げ音を立て始めた。そして、その斜め下先の何かを動かしていた。巨大な紅の芥子に蜘蛛の巣のように貼り付けられたLEGO人形がゆっくり時計回りに回転していて、その先の端に純白の橋が現れ、その先は芥子の花畑が遠くまで広がっている。風で赤の花びらが舞い、黒の蝶が粒子をキラキラと広げふらふら彩り飛んでいた。
純白の風車に貼り付けられるLEGO人形も回り……。
背後から銃声が轟き、芥子の歯車に架けられたLEGO人形を的に射撃をする人物を、見た。
赤の花びらが激しく舞い、その赤い花吹雪に取り囲まれる中微笑する……ダイマ・ルジク
思い切り起き上がり、掛けられている黒シルクのシーツを手にして見回した。
夢だ。
視線を上げると、暗い天井を背に星のように逆さの全てが凋んだ芥子が暗い中にあった。
まるで、八十八ある星座図の一部を見ているようにも思えた。黄道十二宮の何にでさえも当て嵌まる様なものは無いのだが……。
一角獣の先に、薔薇星雲のように花開く芥子はもう咲いてはいなかった。
シーツを引き上げ、視線をあちらに向けた。
半身裸で、イージーパンツの膝に足首を掛け立てるアシュラが、書斎机先のハイバックにいて、透明な窓ガラスを背景に目を閉じ、万年筆を弄んで背を沈めていた。
しばらく見ていた。
目を開きと何かを見た。手にしていた白い何かだ。芥子の絵だった。
「………」
指先で血色の花びらをなぞって、細い茎をなぞり、葉をなぞる……見ていてゾクゾクした。あの瞼。あの伏せ気味に見つめる目許、あの筋肉の胴体、指先。
俺に気付いて見て来た。
「まだ四時だ。起きてたのか」
「ああ。何時にベッドに入ったかあんた分かってるか? 九時だ。三時には目覚めてた」
「そうだな」
「あんた、絵心があったんだな」
「まあ……」
「欲しい」
「どうぞ」
俺はまた腕に顔をうずめ目を閉じた。背を上に、ローテーブル先の重厚な黒シルクに微かに浅織りされる黒シルクの植物模様が浮き、黒石の彫刻は光は跳ね返していない。
黒石でネオクラシックな台の上に置かれたヴィクトリア風の黒石花瓶横に、あのLEGOが立っていた。それを見ていた。
頬の方向を変えてソファーの背凭れを見つめた。
俺は肩越しにアシュラを肘を立て上目で見つめた。
「………」
アシュラが俺の目を見て視線を揺らした。刹那花が乱暴に激しく散るように。
沈んで来て呼吸で上下する背に腕を掛け、逆さになる暗がりを見た。
肘を立てたアシュラが芥子のさく果のように首をうなだれさせ、俺の目を見て来た。
俺は微笑した。
そうだ。会場にいた。魅力的で、険しい獣の黒いアイマスク。この通った鼻梁、様になる立ち居振舞いで立っていた姿。
「倶楽部にいたな」
「………」
アシュラが大きな目を開け、俺を見た。
「何で……あんた会員なのか?」
「いいや」
手首をつかまれた。
「会員なのか?」
「違う」
「だがさっき倶楽部がどうの」
「ジャジャ、ジャズクラブの」
「く、苦し紛れのいいわけだな、まさか、知っているのか? 俺を」
身体を向けて目を見た。
「何の会員だ」
「………。それは」
アシュラが手を離し俺は歩いて行った。
「あんた、何の会員なんだ? どこで一体」
「会場だ」
「………」
アシュラは眉を潜め天井を見て思い返しているようだった。
「分からない」
「言わないから安心しろ」
「知られるわけには」
身を返し、アシュラの目を見上げた。
異常性? 不明だ。ただ、いつもの署内でのアシュラではない。夜からずっとそうだ。
「髪がおりると印象が随分と変るんだな」
「……さあ」
蛇の彫られた下腕をもたれた。
「意外だ。肌も綺麗だからよく映える。いつ彫ったんだ? 倶楽部で?」
「いや、イタリア時代に」
黒蛇から俺に視線を移した。
「美しい……」
瞳を開き瞳を見る。
「敬愛名で呼んでも?」
首を横に振って顔を反らした。
「呼びたい……」
「駄目だ」
「分かった……」
俯いたアシュラの頬を見て、頬を寄せた。
「何故泣いてるんだ? アシュラ」
「あんたが綺麗過ぎて悲しい。実現しているなんて」
「………」
「何よりも綺麗だ。信じてきたものよりも……」
「スカウトマンか」
「署にもましてや署長のあんたにも知られるわけにはいかない」
それだけとは思えない。何のスカウトマンなんだ。スカウトマンは専属的なある一定の性癖に強く傾向し、同じ者を見抜き、そして時にトレーナーや補助にもなる特別契約者だ。美に対する何らかが掠める。
何かのプロデューサーか、空間や総合的な配置やなにかだろうか。
勧誘したのだろう、女と共にいたし、その後彼女をどう調理して更に美しく仕上げたことか。
( ★偶像崇拝時のトランス状態に会員達を正しく美しく導く役割。美装、烙印、入墨、血印、断髪、交配指導も行なう。アシュラの場合、美像ウレハスファ崇拝を行なっていて、その為の美の追求と施術研究をしている。女偶像崇拝者の男像チファハサ崇拝のトランス誘導も行い、相互のミサ進行補助と偶像と交わった者との交配を行い、信者を生んでいく。男の美ウレハスファ崇拝は女人禁制。女の美チファハサ崇拝は男子禁制。月に一度合同崇拝時に交配儀式を行なう。普段は新規者の入会儀式、通常儀式進行補助、信者偶像交、崇拝場用意で花や装飾品を整えたりしている、など他にも様々。美に恍惚を感じる)
中には俺が鞭を振るう側の人間だと言う事を知っている人間もいるが、俺が同性愛者だという事は知られてはいない。何の会員なのかも分かっていない者が大半だ。
「何かに片寄っているなんて一切分からなかった。ただただ美しくてあんたには見惚れる。いつでも青の海を背景にして爽やかで涼しげで、だが赤の花を横に置いた瞬間妖しげで神秘的だ。何度崇めたかったか……」
「俺は美しいと言われて恍惚とする性質じゃ無い」
「馬鹿だな。美しさっていうのは女らしい美しさばかりじゃ無い」
「本当か?」
「ああ……可愛い……」
俺は角で頭をかち割ろうとしてアシュラが逃げた。俺は髪を掻き上げ腕を組み憮然として、またさらさら輪郭に下がって来るのをもう放っておいた。
「あんた、子供時代は恐ろしい程可愛かったんじゃないのか? この分だと」
「ああ」
「俺も相当可愛かったんだぜ。目がでかいしその頃髪はクルクルパーでフワフワしてたからな。わざわざスキンヘッドにしてなかった。父親も美形だったし母親も美人だった」
「そうだろうな……」
「いつもガキ時代はスコップ持ってて、土を見ると偶像つく」
「ぐうぞう?」
アシュラが咄嗟に口をつぐんで、俺はアシュラを見た。
「ああ、お前偶像狂なのか(偶像崇拝アイドーラトゥリーidolatry)」
「………」
アシュラは視線を反らした。
ガシッ ガシッ
「なな、」
俺は唇がわなないた。
「言うな」
「分かる、離せ」
「か、………」
「なん、」
「可愛い!!」
アシュラはカウンターにうな垂れ、俺は息を飲みその背を見た。
「俺は美しい物を見ると激しい性欲に駆り立てられるんだ、美しく、耽美で、魔的で、崇高で、邪悪な美が、黄金率の美がたまらない。ああ、もう駄目だ……」
な、なんて可愛いんだ。こいつ。
ガシッ
「ラヴァンゾ。もしもあんたが許すなら崇めたい。だが、そんな事をすればあんたが生きている生身である事が俺には辛いほど悲しくて仕方が無くなるからそれも難しい……神聖な美があんたにはある」
「無い。俺は人だし、いろいろな心も持ってるし、清くも無ければ取り留めて邪悪でも無い」
颯爽と出て行こうとしたら腕を引かれ両腕をもたれた。
「今度……パーティーを開く。来てくれ。あんたが来てくれたら嬉しい」
「分かった。行くから」
手を離させ、頬を撫でてから身を返し歩いて行った。
秘書がベッドの中央で眠っていて、心地良い夢でも見ているように微笑んでいた。
あと三時間位眠れる。背を上に頬をシーツに寄せ、目を閉じた。
アシュラも向こう側に来て転がったようだった。目を開き、顔をそちらへ向けた。
頬杖を付きあちらに身体を向け眠る秘書の金髪を整えていた。
黒のパンツに黒シルクのガウンを肩から掛け、両サイドにプラチナで繋がれる黒豹を連れ、目許にアイマスクを嵌め、ピアスが艶めかしく光る。
炎を操りながら鉄の長い棒をゆっくり回す姿が浮かんだ。黒の柱には炎や、その姿が映っていて、美しい偶像が艶を受け、美しい顔立ちをしている。それらが。かがり火に囲まれた崇拝者達が偶像を崇めている。
ガウンを引き寄せ、石台に腰掛け。骨ばった足……。
徐々に、眠りに入って行った。
目を覚ますと秘書が俺を見ていたから驚いて身体を起こし髪を掻き上げ咳払いした。
「おはようございます署長」
「ああ……」
あちらに眠るイージーパンツのアシュラは顔をあちらに傾けていて、寝言は無く静かに寝ていた。時計を見ると六時半だ。
「昨夜は何か綺麗な夢でも?」
「フフ。ええ。綺麗な夢を見ました。銀星の夜空の下に、純白の野ばらが咲き乱れていて何処かからかはジャスミンの香りもしていたんです。その中央で白大理石で出来た六角形の台があって、美しいクリスタルで出来た女神が金糸の髪を夜風になびかせて、ハープを奏でながらクリスタルの息吹のような声を滑らせていました。それによってクリスタルの風が流れて、純白の野ばらの花びらを舞わせるんです。あたしは月光だけで浮き出される美しいその女神を見ていて、そういう夢です。崖の先は海が広がっていて、ドラゴンが水を浴びていたり、人魚が泳いでいました。しばらくすると、クリスタルで出来たバイキングの巨大な船が帆を三本立てて夜空の向うからやってきて、夜空を透かしてとても綺麗でした。その船にも竪琴を奏でる男や、角笛を吹く男がいて、通り過ぎていきました」
「随分とロマンティックな夢を見るな」
「あたしにも珍しく」
秘書は微笑んで髪を耳に掛け、ベッドから離れて行った。
「あの。シャワーを借りても?」
「ええ。もちろんどうぞ」
秘書が歩いて行き、ドアが閉ざされた。




