chapter1
突然、少し重たい話をするようだけど......いじめというものに対して、人はどんな感情を抱くだろう。嫌悪感を示す人が多いだろうか。嬉々として喜ぶ人はいないにしても、人間としての成長や社会勉強として必要な物だという意見もあるかもしれない。
どちらにしても、自分が関わっていないならどうでもいいことだ。対岸の火事だと言ってもいい。いい気分はしないにせよ、いじめられている人間を見て抱く感想は、「ああ、あそこにいるのが自分じゃなくてよかった」という程度のものだ。当然、いじめに対して何か行動を起こすなんてことはありえない。見て見ぬ振りをするのが当たり前。15歳、中学三年の少年である滝結城もそう思っていたし、実際今まではそうだった。死人が出たという事件を伝えるニュースが、テレビで流れているのを見たときと同じように、可哀相だと思い、そして、それだけだった。きっとこれからも滝のそういうところは変わらない。だからあれは多分、何かの気の迷いだったのだろう。
そう、単なる気の迷いだ。
9月9日。
午前11時40分。いつも通りに授業終了のチャイムが鳴り、けだるげな声で宿題のページを言い残して、教室を出ていく先生。15分の休み時間が始まる。
中学生、それも3年生で受験の時期ともなると、休み時間にはしゃいだりすることはなくなってくる。冬の寒さも手伝っているのだろう、運動場に出て遊ぶ生徒も少ない。一人で単語帳をめくったり、予習復習をするか、友達の机に集まって話をする程度だ。
滝にも友達と呼ぶ仲のクラスメイトが何人かいる。最近は滝の机の周りに集まって話をするのが彼らの習慣だった。滝は別にグループの中心人物というわけではない。それでも示し合わせたかのようにいつも彼の机の周りに友達が集まるのは、たぶん、滝の横の席が深井美月という女子生徒だからだろう。ありていに言ってしまうと、彼女はかなりの美人なのだ。
滝はそれに対して特に思うところはなかった。ただ、自分から移動して友達に話しかけに行かなくていいのは楽だな、と思う程度だった。
「滝ー、休み時間なんだから勉強するのやめろよ。こっちが焦ってくるだろ」
長袖のカッターシャツの上にセーターを着込み、その上で肘まで腕まくりをした暑いんだか寒いんだかわからない格好をした友達が話しかけてくる。彼なりのお洒落なのだろう。
その言葉で滝は一応勉強の手を止める。別に何が何でも勉強をしたいわけじゃない。受験に必要だからする。彼にとって勉強とはただそれだけのものだった。
「それで、お前は誰なんだ」
茶髪で胸元をはだけた別の友達が興味津々といった様子できいてくる。彼は一見遊んでそうだが実際そうでもない。彼いわく、俺は喧嘩をしたことがない。その言葉に説得力を感じるくらいには、彼のことを滝は真面目だと感じていた。
急にお前は誰なんだ、と言われても勉強に集中して何も聞いていなかったので、滝には何のことだかわからない。何だろう。好きな芸能人の話だろうか、と考える。
「だから、このクラスで誰がタイプの女の子かって話だよ」
疑問符が滝の顔に浮かぶのを見て、茶髪の彼が助け舟を出した。
「ちなみに俺は深井で、こいつは朝川な」
セーターの彼が余計なことを教えてくれる。一見親切だが、自分たちの情報を開示したことで、滝も言うしかない状況に追い込んだだけだ。
深井と朝川......どちらも美人だと言って差し支えない女子生徒だ。こういう話題の時にあげる名前としては、ベタだと言っていいだろう。朝川はともかく、深井にいたっては、すぐ隣の席にいるというのによく言えたな、と滝は思う。もしかすると聞こえてもいいと思っているのかもしれない。彼なりの深井へのアピールなのだろうか。こういう話題が特別嫌いなわけではないけれど、友達のアピールの為に自分が付き合わされるというのはどうも気に喰わない。
いっそのこと、俺も深井だ、と言ってやろうかという思いが頭を過ぎる。だが滝はその思いをすぐに打ち消した。無難な女子の名前を一人、答えればいいだけだ。こんなことでトラブルになるなんて馬鹿らしいにもほどがある。無難な女子、無難な女子、ね......。
「葵かな......葵藍」
長めの黒髪、低めの身長、普通の成績。クラブには入っていなかったはずだが、葵という人間を見て、何のクラブに入っていると思う?と、聞かれたら大体の人が文芸部、と答えそうな雰囲気を纏った女子生徒だ。友達と被ることもないだろうし、無難な答えだろう。
そう思っていたのに、葵藍という名前を口にした瞬間、周りの空気が凍りついたのがわかった。友達だけではなく、もしかしたら深井美月周辺の空気でさえも。
なんだ、この空気は......。無難な答えを選んだはずだ、どうしてこんな雰囲気になる。滝は酷く動揺する中、茶髪の彼がやっと口を開いた。
「ま、まあ確かにかわいいかもな。......でも葵って、いじめられてるじゃん」
彼の言葉の意味が滝はすぐに理解できなかった。
「......いじめられてる?葵が?」
「だからそう言ってるだろ......というか同じクラスで気づいてないことにびっくりするわ......先生も気づいた上で黙認してるみたいだし」
茶髪の彼が深井美月の方に目線をやる。彼女がこちらを見ていないことを確認して、小声で続ける。
「深井のグループが主犯かな......あとは全員黙認だ」
「馬鹿なことは考えるなよ......いじめなんて、中学生が解決しようと思ってできるもんじゃない。わかるよな?」
セーターの彼の言葉に滝は素直に頷く。
「わかってるよ......いじめられる方にも原因があるっていうしね」
それにしても、と滝は考える。セーターの彼は深井美月が葵藍をいじめてるということを知った上で深井に気があるのか......変わった趣味をしているんだな、とぼんやり思う。
授業開始3分前の予鈴が響く。
「じゃあ、戻るわ」
滝はセーターの彼に手を振る。
「うん、またね」
「俺は悪くはないと思うよ。......でも、葵はやめといた方がいいぞ」
茶髪の彼が心配そうな顔で滝に言う。
「わかってるよ。別に好きなわけじゃないんだし」
「そうか。ならいんだけどな......次、数学か。俺も戻るわ」
「うん」
そう。無難だと思ったから名前をあげただけ。誰がいじめられてようと自分には関係のないことだ。今までそうして来たように、少し眉をひそめてやり過ごせばいい。
でも、いじめられてることに気がつかないなんて、......いくら何でも鈍感すぎる。
授業の準備をしよう。滝は気持ちを切り替える。数学はどちらかと言えば得意科目だけど、先生があまり好きじゃない。教えるのが下手なわけでも、特に厳しいというというわけでもないのに、何故か嫌いだと感じるのだ。たとえ、いじめられていなくても憂鬱な学校生活。他人を気にかける余裕はない。
本鈴が鳴り、先生が教室に入ってくる。
挨拶もそこそこに、授業が始まる。
「じゃあ、宿題の答え合わせからやろうか、誰に答えて貰おうかな......」
うん。今日もいつも通り、平和で退屈な一日だ。
全ての授業が終わり、放課後になる。
滝はクラブには入っていない。真っすぐ家に帰るだけだ。友達に誘われたら遊び行くことはあるけれど、自分から誘うことはない。
今日は嫌な気分になることもあったし、早く家に帰りたい。そんなことを思いながら下駄箱で靴を履き替える。ついでに明日の時間割もチェックする。
滝の学校では一人一人に専用のロッカーがある。靴だけでなく、教科書も入る大きさがあり、鍵もかけられる。一見便利そうだが、ロッカーに教科書が入れられる代わりに、教室には自分の教科書置場が存在しない。そのため鞄に教科書を入れ忘れたら、わざわざロッカーまで取りに来ないといけないのだ。休み時間の終了間際にロッカーに行くと、教科書を持ってダッシュする生徒の姿を見ることができる。
滝が上履きをスニーカーに履き替えて、さあかえろうというタイミングで、ロッカーの扉に手をかけている葵藍と目があった。彼女はすぐに目を逸らしたが、靴を履き替えようとせず、何故かそのまま動かない。
どうしたんだろうと考えて、滝はすぐに答えにたどりついた。
ここの通路は狭い。ロッカーの扉を開けると、ぎりぎり人一人が通れるほどの幅しか残らない。僕が後ろを通るとき大変だろうと思って、扉を開けるのをためらっているのかもしれない。
話したこともないクラスメイトに気を使う。それも、君がいじめられてることにさえ、気がついていなかったこの僕に。......気が利くと言えばいいのか、小市民的思考だと言えばいいのか。
なんだか、無性に悲しくなる。思わず話しかけていた。
「開けなよ、ロッカー」
葵がこちらを振り返る。
「......気を使う場面じゃないよ、ここは」
不思議そうに首を傾げる彼女。
「だから、ロッカー開けなって」
......駄目だ。自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。これじゃあ完全に変な人だ。
「いや、だから......えっと......」
「私のロッカー、見たいの?」
彼女が初めて口を開く。
ロッカーが見たい?微妙に何かが違う気もするけど、大まかな意味ではあってる......のだろうか。扉を開けなければ中を見ることはできないし。
「......うん......そうなるのかな」
滝は肯定の返事を返す。
「こっち来て」
滝は彼女に言われるままに近づいた。
「じゃあ、開けるね」
彼女は周囲を見回して、誰も見ていないことを確認してからロッカーの鍵を開けた。
「見ていいよ」
なんだかおかしな状況になってしまった。自分が原因なのでしょうがないのだけれど。そんなことを思いながら、よくわからないままに滝は彼女のロッカーの中を覗いた。
「え......」
教科書は踏み付けたのだろうか、黒ずんだ足跡がはっきり付いている。ボロボロだ。
上履きには画鋲が敷き詰められている。
死ね、と書かれた紙が何枚もあるのも見えた。
「あーあ......今日はまだ、ましな方だね」
葵は平然とした様子で話す。
「開けたら、ゴミがたくさん雪崩出てきたことがあってね......見ていい気分がするものじゃないと思って......私がいじめられてることを知らなかったみたいだし」
「......」
友達との会話を聞かれていたのか......。見ていい気分がするものじゃない、だって?じゃあ、これを僕に見せない為にロッカーを開けずにとどまっていたんだ......。
教科書は汚れを落とせばなんとか使えるだろう。画鋲だって丸見えなんだから、履いて怪我をすることもない。死ね、と書かれた紙だって所詮は文字が書いてあるだけの紙だ。物理的損害は少ない。きっと、やろうと思えばもっとやれたはずだ。
だからこそ伝わってくる。これは、持ち物を壊して困らせてやろうという目的で行われたものではなく、ただただ、葵藍を傷つける為になされたものであることが。黒い意思が見える。
人を傷つけるってこうやるんだ、と半ば感心した気持ちで滝は目の前の光景を見つめていた。
「死ねって書かれた文字をみるたびに、私も最初は、いちいち傷ついていたんだけど......人間って不思議だよね、慣れてくるんだ。同じ文字を見続けると起こる現象......えーと、ゲシュタルト崩壊、だっけ?......これだけ毎日同じ文字を見ればそれが起こって、もう私には、死ねっていう文字が、死ねっていう文字に見えないんだよね......あはは、変だよね、こんなの」
葵はそう言って笑う。
「......そういえば、鍵はどうしてるの?ロッカーには鍵がかかってたじゃないか......そして今、君が鍵を開けたんだろ?まさかこれをするためにわざわざ同じ鍵を作ったなんて考えにくいし」
「何?私を守ってくれる方法を考えてくれるの?」
「そういうわけじゃないけど......」
「いじめられる方に原因があるんじゃないの?」
「あ......」
滝は言葉を詰まらせる。
そうだ。聞かれていたんだった。彼女からしてみればどの面下げて言うんだという気持ちだろう。
彼女が表情を和らげる。
「ごめん。意地悪だったよね、今のは。気にしなくてもいいよ......私もあの状況だったら、君と同じことを言うと思う......。それに、私だっていじめられる方に原因があるっていう意見には賛成なんだ」
「......じゃあ、いじめられる理由に心当たりがあるの?」
「ないよ」
「ない?」
「ないよ。人が人を傷つけるのに、理由なんてないよ......私に原因があっただけ」
「......」
葵の言葉に対して、滝にはどう答えればいいかわからない。だから話題をずらす。
「それで、鍵はどうしてるの?」
葵は楽しそうに笑って言う。
「ロッカーの鍵は、私が持っているこれの他に、生徒が鍵を忘れた時の為に先生がもっている2つしかありません。そしてもちろん私は、自分の鍵を肌身離さず持っていました。ところが、私のロッカーはいつのまにか荒らされています。ここから導きだされる答えはなんでしょう?」
滝は顎に手をあてて、考えるポーズをとる。
そして大きく溜め息をついた。
「先生もグル.....」
「正解!」
葵が親指を立てる。
なんで笑ってるんだ、この子は。まあ笑うしかないかもしれい、この状況なら。僕なら不登校になるな、と滝は思う。
その時、楽しそうな笑い声が近くで聞こえた。一瞬固まる彼女。たぶん深井美月と、その取り巻きの声だった。
「......もう行った方がいいよ。私と喋ってるところ見られたらまずいでしょ?」
「そうだね」
滝がためらいなく肯定したことで葵は顔を歪める。
自分で言って、傷ついたような顔するなよ。あれだけ荒らされたロッカーを見ても笑っていた君が。
「じゃあ、僕は帰るよ」
滝は彼女の返事を待たずに歩き出す。やっかいごとに巻き込まれるのはごめんだ。僕には何もできない。
「僕には何もできない」
小さく呟いてみる。
「別にする必要もない」
......最悪の気分だ。