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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
電海のフラガラッハ
9/60

断片 -6-

 夜のうちに強い雨が降ったせいで、翌朝の空気はまだ湿っぽかった。起床した私が携帯端末デバイスを確認すると、チャオから遅い時間に返信があった。曰く、今日は非番で空いているから、用があれば力になる、とのことだ。


 彼には黑色女人ブラック・レディについて聞き、もしできれば事件の処理についても不審な点を突っ込んでみるつもりだった。午前八時になってから電話を掛けるとチャオはもう起きていて、一時間後に私の家に来る、ということになった。


 普段私は自宅に人を招かないし、仕事以外で誰かの家を訪問することもほとんどない。それはシティの住宅事情にも多少関係あるが、主には気持ちの問題だった。たとえ友人であっても、自分のテリトリーに他者が入れば、私は落ち着かない気持ちになる。


 自他の境界が明確すぎる、と以前誰かに指摘されたことがあったが、今のところ方針を変えるつもりはない。しかし今回に限っては、極めて内密の情報を交換するかもしれず、そうなると近場の喫茶店などでは都合が悪かった。


 私はいつもの朝食を取り、一応の身づくろいと簡単な片付けをする。本格的な掃除までは必要ないだろう。テレビのニュースを観るが、やはり英治の件は報じられていなかった。


 午前九時ちょうど、私がインスタントコーヒーを淹れていると、玄関の方でインターホンが鳴った。このアパートには、リー女史の住居にあるようなセキュリティは存在しない。客はもう部屋の前まで来ているはずだ。私が玄関に向かい、ドアスコープで相手を確認すると、白いトレーニングウェアに身を包んだチャオの姿があった。ドアを開け、彼を中に招き入れる。


「おはようございます。ちょっとジョギングがてら」


 私の住居とチャオの住居は多分二キロかそこら離れていたと思うが、彼は明らかにそれよりも長い距離を走ってきた様子だった。汗で家具を湿らされてはかなわないので、話の前にシャワーを浴びてもらう。


「すいません、お待たせしました」


 少しして、湯気を上げながら出てきたチャオをダイニングテーブルの一方に着かせ、グラスに水を入れて出す。彼がそれを一息で飲み干したので、おかわりが欲しければ勝手にキッチンで汲むように言った。


「今日はなんで非番なんだ」

 二杯目の水を汲みに立ったチャオに、私は尋ねる。


「近頃の刑事にだって休みはありますよ」

「事件の捜査があるだろ。こないだの」

「やっぱり、その件ですよね」


 もとよりチャオは、私の目的に見当を付けていただろう。驚いた風もなく、グラスに水を汲んでから席に戻る。


「非番の理由ぐらいはいいですけど、あんまりキツい質問は勘弁してくださいね。首が飛ぶんで」


 チャオは手刀で自分の首をトントンと叩いた。機密の保持については当然、私も承知していた。彼は使い捨ての情報源ではない。これまでも長く協力してきたし、これからもそうするつもりだった。


「ブラック・レディ、という集団に聞き覚えは?」


 まず私は自分が持っている情報を開示することにした。黑色女人ブラック・レディの名前を聞くと、チャオは少々意外そうな顔をする。


「知ってますが、事件に関係あるんですか?」

「昨日ニュー・ベイジンで、そこのチンピラが瀬田陽花を探していた」

「へぇ」


 チャオは興味深そうに眉を上げた。この様子だと、警察は瀬田英治の殺害と黑色女人の存在を、まだ関連付けてはいないらしい。


「俺はよく知らないんだが、どういう組織なんだ」

「ああ、勢力を拡大したのは割と最近ですからね」


 彼はグラスの縁に指を這わせながら、頭の中で情報をまとめているようだった。


「彼らは香港系の組織で、シティ出身の人間は少ないと聞きます。末端を含めると、構成員は一〇〇人を超えるでしょう。ニュー・ベイジンとダイユー・ポート周辺に拠点があるらしくて、密貿易と密入国の斡旋が主な仕事……」


 このあたりは、兼城から聞いた話と大体一致する。


「これだけなら、税関や入国管理の連中に任せておけばいいんです。でも我々警察は、彼らを特別に警戒しています」

「なぜ?」

「『華南軍閥』との繋がりが指摘されているからです」


 剣呑な名前が出てきたな、と私は身構えた。


 軍閥という言葉は、今のシティ、そして東アジアの国々において、決して前時代的な単語ではなかった。二〇五八年に勃発し、二〇六〇年に一応の終結を見た中国内戦は、中華人民共和国だった土地を六つに割った。


 それぞれの地域を拠点とする勢力は、満州軍閥、北京中央政府、四川軍閥、東トルキスタン暫定政府、チベット人民政府などと呼ばれ、あるいは自らそれを称している。そして中国南部、かつての広東省や海南省といった一帯を事実上治めているのが、華南軍閥である。


 二億を超える域内人口を抱え、香港をはじめとした沿岸の大都市をいくつも有するこの勢力は、経済規模においても軍事力においても、岱輿城市ダイユー・シティを圧倒していた。シティが華南軍閥に飲みこまれないのは、ひとえにこの人工島が、南シナ海という地政学上の重要な位置に在るからだ。


 しかし華南軍閥は、油断ならない隣人であるだけではない。彼らはシティで産出するメタンを旺盛な購買力で消費する、最も重要な取引相手国でもあるのだった。


「話が大きくなってきた」

「ええ。でも黑色女人が関係しているなら、公安の連中がピリピリしてるのも納得です」


 公安という言葉は、私に条件反射的な嫌悪を呼び起こす。シティの公安部門は、私が所属していた刑事部門と双璧を成す存在である。


 どんな組織にも部署間で多少の摩擦はあるが、両者の仲は特に悪かった。私の古巣に対する贔屓を差し引いても、嫌われる原因は公安の方にある。彼らの興味は個々の事件というよりも、シティ政府を脅かす様々な勢力に向いていた。それらを捜査し、影響や損害を未然に防ぐのが公安の仕事である。


 所属する警察官は概して優秀だが、高度に政治的な仕事に関わる彼らは、極端な秘密主義を組織の是としていた。こちらから情報を吸い上げる。しかし自分達の情報は渡さない。これで良好な関係を築けというのは、土台無理な話だ。おそらく彼らには彼らなりのプロ意識と正義感があるのだろうが、公安がちょっかいを出してきたとなれば、大体の担当者は頭を抱える羽目になるのが常だった。


 一線の刑事であるチャオが、事件の初動であるはずの発生三日後に非番となっているのも、公安の介入で捜査が滞っているせいだろう。


「なるほど」


 関わりたくない、といって疎遠になれる連中ではないのは確かだった。私は中々次の言葉が見つからず、もう一度なるほどを言ったあと、浮かんだ疑問を口に出した。


「瀬田英治は優秀なエンジニアらしいが、そこまで重要な人物なのか?」


 レベッカ・リーの思想については、まだ伏せておくことにした。


「どうでしょうね」


 チャオは首を傾げた。何かを隠している風ではない。彼はテーブルの上で指を折りながら、考え得るいくつか理由を挙げていく。


「加害者に殺意があったのは明らかです。瀬田が危険な人物だったからか。危険でないにせよ何かのキーマンだったからか。あるいは重要な情報を握っていたとか……」

「ネットワークエンジニアが?」


「……月島さん」

 チャオは大げさにため息をついてから、眉をハの字に曲げ、呆れたような声を上げた。


「サイバー空間はもう随分前から、陸海空に次ぐ、いやそれ以上の重要性を持つ戦場なんです。サイバー攻撃なら、地球の裏側からだって敵国にダメージを与えられる。ネットワークセキュリティの専門家は今や、安全保障に不可欠な存在です」


 私は自分の無知を責められているようであまりいい気分はしなかったが、知ったかぶりをしても仕様がない。大人しく彼の講釈を聴く。


「戦争やテロリズムだけじゃない。『パシフィック』の例を出すまでもなく、平時の内政にだって深い関わりがあります。僕の立場でこんなことを言うのは問題かもしれませんが、ネットワークを使った市民の監視と統制って伝統は、中国の内戦が終わった今でも健在です。このシティでも」


「つまり、ネットワークを制する者が世界を制する」

 私はチャオの弁舌に水を差してやるつもりで、なげやりに言った。


「本当に解ってます? まあ、おおむね正しいと思いますけど」

 彼はやや前のめりになっていた姿勢を元に戻し、グラスから水を飲んだ。


「軍事機密を持ち逃げするようなことがあったとしたら、殺されてもおかしくはないな」

「そうですね。瀬田がそれに類することをしでかした可能性はありますね」


 最新鋭戦闘機の設計図とか、ミサイル防空網の配備計画とか、そういったものの重要性なら、素人の私にもよく理解できる。しかしサイバー空間における戦争ということになると、あまり具体的なイメージが湧かなかった。


 私が疑問に思っている点はまだあった。英治が岱輿城市ダイユー・シティに来た理由だ。移動の容易さならば、まず陸路で繋がった四川軍閥や、北京中央政府の支配地域が選択肢に入るはずだ。政治的な面倒から逃げるならばもっと遠く、たとえばアメリカか日本、あるいはせめてフィリピンやタイあたりまで行くべきだ。


 研究内容をリー女史に相談するにしても、わざわざ危険を冒してまで、直接対面するメリットがあるとは思えなかった。もっとも、英治が話したという訪問理由が真実であるとは限らない。どうしてもシティに来なければならない事情があった可能性もある。


 しかし英治がシティを訪れた理由ついてチャオと検討するには、リー女史の素性に深く踏み込まなければならない。それは依頼人の利益を害する可能性のある行為で、必要に迫られない限り、しないに越したことはなかった。


 我々の話はある程度まで煮詰まってきていて、これ以上進展させるためには新しい材料を投入する必要がありそうだった。チャオは大きく息を付き、真面目な話は終わりとばかりに表情を緩めた。


「何にせよ、この件を調べるなら気を付けてください。月島さんが被害者の殺人事件なんて、捜査したくありませんから」

「止めないのか?」


 私は少し冗談めかして言った。現役刑事だったころは、むしろチャオが無茶をする方で、私が宥める方だった。別にどちらがいいというものではない。要はバランスだ。当時の我々はそこそこに良いコンビだった。


「止めませんよ」

 苦笑しながらチャオは言った。

「あなたは意志の人だから」


 褒めている風だが、頑固者だと言っているのと変わりない。


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