オペレーション -2-
我々が乗る三隻の船はエンジンを唸らせ、昏い海をひたすら南へ進んで行く。発見されるのを防ぐために明かりを絞り、通信さえも最低限しかおこなっていない。
互いの会話もなく、時間を潰すための道具もない。せいぜい、これから使う予定のドローンを点検し、使い方を確認しておくぐらいだ。
香港を出発してから四時間以上が経ち、私はこの陰気な航海にいい加減うんざりし始めた。しかしそれから間もなく、南の闇夜にわずかな灯りが浮かんでいるのを見つけた。夜明けではない。岱輿城市のビル群が放つ人工的な光だ。我々は既に、目的地から十キロ程度の距離まで近付いていた。
そろそろ船を下り、海に潜る準備をしておかなければならない。私が腰を浮かせたところで、操縦手のドンが声を上げた。
「……まずい」
彼は何かの危険に気付いたようだった。
「どうした?」
「レーダーに捕捉された」
ドンはそう答えると、他の二隻に通信を送る。
「この船なら大丈夫じゃなかったのか?」
「陸のレーダーならな。近くに駆逐艦か何かがいるんだ」
広い洋上、通常の航路を取らない船が、他の船と出会う可能性は低い。ましてやこの時間帯。どうやら万が一に行き当ってしまったらしい。
「早く海に飛び込め! CIWSで狙われるぞ!」
ドンが叫ぶ。私は兵器に明るくないが、戦闘艦艇なら数キロ先からでも我々を撃沈できるだろう。私は陽花と喬に酸素ボンベを手渡し、フルフェイスのマスクを被って潜水の準備を整えた。自分のウェットスーツと魚雷のような形の水中ドローンをケーブルで繋ぎ、水流で離れてしまわないようにする。
しかし海に飛び込めと言われても、高速の船から水面に叩きつけられる衝撃はどれほどのものか。私は一瞬躊躇する。とはいえ機銃の掃射に晒されることを考えれば、選択の余地はない。
遠くで小さな光が瞬いた。その直後、船が大きく回避行動を取る。喬が船べりに叩きつけられ、ドローンを抱くような恰好のまま、背中から海に落ちた。
「喬!」
叫ぶ私の十数メートル先で、黒い海面が爆ぜる。先ほど見えたのは曳光弾だ。容赦ない鋼鉄の嵐がすぐそこまで迫っている。
私は意を決し、ほとんど飛び込むようにして、真夜中の海へと潜ることになった。ドローンは死んでも離さない。加速度と水流が私の身体を激しく翻弄する。光のない海中では、どちらが上かも判断できない。
ケーブルで繋ぎ、手で掴んでいるドローンだけが頼りだ。いくら街の光が見えていると言っても、人力で十キロ泳ぐことは考えたくもない。
しばし前後不覚の状態が続いたものの、ドローンはすぐ期待通りに動き出してくれた。それを支えに、私はなんとか姿勢を安定させ始める。身体に絡まりかけたケーブルを解き、ドローンの取っ手を掴みなおす。
ボンベから送られる空気を数度呼吸して、私はほんの少し身体の力を抜いた。手荒く攪拌された頭で、自他の状況を把握しようと試みる。身体に損傷はないようだ。陽花や喬はどうなっただろうか?
『こちらドン。月島、瀬田、喬は生きてたら返事をしろ』
マスクに内蔵された通信機器からかすれた声がした。
『喬、なんと――生き――す』
『瀬田、無事です』
それぞれから反応があり、私はマスクの中で安堵の息をついた。ノイズの大小は距離によるものだろう。喬は少し遠くにいるようだ。
私が答えようとしたとき、二、三十メートル離れた水面で小さい爆発が起こった。衝撃が水中を伝わってきて、思わず肩をすくめる。しかしそれ以上の脅威は起こらなかった。気を取り直して通信を再開する。
「月島。無事だ」
無残な姿になったであろう船の冥福を祈りつつ、私は答えた。
『オーケー。まずは落ち着いて深呼吸だ。ボンベの容量は心配するな』
言われたとおりにする。
『よし、いいな? そしたらドローンのライトを点灯させろ。位置を確認する』
指示を受け、ドローンの表面にあるはずのスイッチを探す。私がライトを点灯させるのとほぼ同時に、近くでもう一つ光が灯った。
『確認した。喬はミンの指示に従って合流しろ。月島、瀬田。俺達は追っ手を撒くために、本命のヤツらとは別行動を取る』
「どうするんだ?」
『どうもしなくていい。ドローンに座標を送る。ライトを上に向けるなよ。あと海面に近付きすぎるな。通信は最低限だ』
「月島了解」
『瀬田、了解です』
いかにも歴戦といった落ち着きで命じられ、私は幾分か冷静になる。この男は今までに、一体どのような修羅場を潜ってきたのだろうか。興味はあるが、過去について尋ねるのは、少なくとも陸に上がってからの方がいいだろう。
小さなライトに照らされた微温い闇の中。私がしばらく漂っていると、ドローンが軌道を修正し、別の光にゆっくり近付いていく。やがて、わずかに照らされた陽花とドンの姿が確認できるようになった。互いの距離は三、四メートルといったところだ。
方向と深度が安定すると、機体が徐々に加速し始めた。表示されている時速が十キロを超える。この速度ならば、岱輿城市までおよそ一時間。酸素ボンベの残量も大体同じくらいである。あと二キロ手前で撃沈されていたら、かなり厄介なことになっていただろう。不幸中の幸いと言える。
私はドローンにへばりつくような姿勢で水の抵抗を減らし、ゆっくりした呼吸で空気を節約する。あとはサメや機雷に出くわさないことを願うばかりだ。
◇
その後しばらく私が感じていたのは、ドローンが放つ弱い光や振動、身体にぶつかる水の感触、マスクに送り込まれる空気の音だけだった。普段と違いすぎる環境下では、あらゆる知覚が覚束ない。シティに向かって移動する数十分間は、実時間の何倍も長く思えた。
頭の中で秒数をカウントすることにも飽きたころ、私はそろそろ目的地が近いのではないか、という気になってきた。しかし今のところ、ドンからは何の指示もない。
「そろそろ着きそうか?」
焦れた私は通信を試みる。反応はなかった。もう一度問いかける。
「ドン、大丈夫か?」
『どうしたの?』
聞こえたのは陽花の声。ドンは答えない。
「ドンから反応がない」
『離れてはいないみたいだけど』
我々三人のドローンは互いに近い距離を保っている。となると、機械ではなく本人にトラブルがあったのかもしれない。私はドンの様子を見ようとしたが、自機の操作が上手くいかなかった。うっかり停止させて遅れてしまっては、余計面倒なことになりかねない。
しかしコントロールに悪戦苦闘するうち、私はドローンの速度が下がってきたことに気が付いた。先ほどの予測通り、目的地が近くなってきたのだ。
やがてプロペラが停止し、我々を載せた機体がゆっくりと浮上していく。海面にたどり着いた私は、恐る恐る頭を水から出した。周囲は暗いが、真の闇ではなかった。首を巡らせると、二十メートルほどの距離に黒い岸壁が見える。その上にあるのは、街灯に照らされたシティの公園だ。
数時間ぶりの地面。少しでも早く上陸したい気持ちはあったが、その前にドンの状態を確認しておくべきだろう。彼は一緒に浮かんで来てはいたが、水面に顔を漬けたまま、ぐったりして動かない。私はドローンから手を離し、強張った腕で水を掻いてドンの身体を確かめた。
彼の首元に手をやって脈を測る。心臓はまだ動いていた。四肢を確かめる。欠損はない。サメに食べられた、という訳ではなかったようだ。しかし注意深く見ると、左の上腕部分に裂傷が見つかった。おそらく船から離脱する際に負ったものだ。
すぐに処置したなら軽症の範囲だったのだろうが、海水に晒し続けたせいで出血量が多くなったようだ。この状態でも弱音一つ吐かず、私と陽花をこの場所まで導いたのだから、その精神力には感嘆するほかない。
『シティへようこそ。この通信が聞こえていますか。聞こえているならば返答してください』
私がドンの身体を支えていると、マスクに通信が入った。
「こちら月島だ。迎えか?」
『そうです。これから上陸を補佐します』
「俺と陽花は無事だ。ドンが負傷していて行動できない」
『了解。今からダイバーを送ります。指示に従ってください』
私と陽花でドンを上陸させるのは困難だが、助けがあれば随分楽になる。グウィディオンか雷の指示によって、付近で人員が待機していたようだ。ここまでくれば、シティ渡航における最大の難局は乗り切ったと言えるだろう。
私がしばらくその場で浮かんでいると、我々と同じような格好をした二名のダイバーが近付いてきた。無言で、しかし慣れた手つきでドンを回収し、着いてくるよう身振りで示す。ドローンはこの場に放棄していくらしい。
私と陽花はダイバーの指示に従い、岸壁に取り付く。手近には結び目の作られたロープが見えた。一人ずつそれにつかまり、引き上げられる。
そして我々はついに、岱輿城市への上陸を果たした。ドンの容態や他グループの安否も気には掛かるが、さすがに今は疲労困憊で、心配以上のことはできそうにない。濡れた身体を海風が冷やす。
私は息を整えてから辺りを見回した。そこは居住区の海浜公園であるようだった。今この場所に人気はないが、南を見れば、商業地区や繁華街の猥雑な灯りが見える。
私はすぐにでも横になりたかったが、公園のベンチでゆっくり休憩する訳にはいかなかった。この格好で佇んでいれば、不審者の看板を掲げているようなものだ。まずは当局に発見されない、安全な場所まで移動する必要がある。
不確かな足取りで公園の出口まで歩いていくと、あらかじめ用意されたワゴンが停まっていた。私と陽花、そしてダイバーに担がれたドンは、ずぶ濡れのまま車に乗り込み、座席に身を預けた。
「久しぶりですね、月島さん。ご無事で何よりです」
ワゴンを発進させた運転手が、私に話しかけてきた。知己のような口振りだが、声だけでは誰だったか判然としない。しかしミラー越しに確認した顔で、私はその人物と出会った半年前のことを思い出した。
「……あのときの公安か」
瀬田英治が殺害された事件の調査。その過程で短い会話を交わした、公安を名乗る男。その後アメリカ領事館でも顔を見せた、素性の知れないエージェント。
「朱道明です。改めて、シティへようこそ。安全な場所へお連れしましょう」




