発火 -4-
夜の香港市街。私は手足を拘束され、大人しくライトバンの後部に座っていた。隣には陽花が同様の状態で大人しくしている。車に同乗しているのは、兼城の他に海虎一家の構成員が二人。
これから我々はランタオ島の海浜公園に向かい、黑色女人と取引をすることになっている。
私と陽花、喬がジュリアと兼城に合流したあと、海虎一家は黑色女人と接触することに成功した。二つの組織は現在激しく対立しているが、そういう関係であればこそ、交渉の意味が生じてくることもある。
この政治的取引における兼城の役割は、裏切り者だ。彼は抗争を、黑色女人に有利な形で収めるために動く。自分の組織に不利益をもたらすことになるが、内通者である兼城は、その見返りとして相手組織の後援を受ける。そして現在の上層部を追い落とし、自分が岱輿城市における海虎一家の支部を牛耳る。
もちろんこれは、持ち掛けた交渉に信憑性を与えるために作った、偽の筋書きに過ぎない。結果として兼城が海虎一家を牛耳ることはあるかもしれないが、それは裏切りによってではなく、黑色女人を壊滅させた手柄によって、ということになるだろう。
これからおこなう実際の取引において、私と陽花は交渉に応じてもらうための手土産ということになっている。黑色女人にしてみれば、我々二人は自分達の拠点からデータを盗んだ容疑者だ。
交渉のテーブルに着くことを拒否すれば、思わぬ形でデータが拡散しかねない。その危険を冒すくらいならば、私と陽花の身柄を手に入れ、海虎一家も抱き込んでおくほうがよい。彼らはほぼ間違いなくそう考えるだろう。
そして私と陽花、喬がおこなった行動の背後に、組織の意図があることをほのめかしておけば、相手は捕虜をすぐには殺さず、可能な限り情報を吐かせようとするはずだ。
これらの虚構と理屈を積んだ上で、今回目的とするのは、私と陽花が連行される過程で黑色女人の重要拠点を突き止め、急襲して指揮系統に損傷を与える、ということだ。
「うんこしたくなっても我慢しろよ」
助手席から兼城が声を掛けてくる。
私と陽花は数時間前に、小型のGPS発信機を飲み込んでいた。用意したジュリア曰く、排出されるまでの短時間であれば危険はないらしいが、小さな飴玉ほどもあるそれが丸のまま胃に入り、電波を放っているのかと思うとどうにも気持ちが悪い。しかしこれが我々の位置を知らせ、敵の根城を叩くための狼煙となる。
また我々の足首と、背後に回した両手首を拘束しているテープには細工がしてあって、辛うじて人力でも引きちぎることが可能だ。いざというときには自分で束縛を解き、敵の不意を突くことができるだろう。とはいえこれは奥の手で、基本的には仲間が来るのを待ってから、逃走するか抵抗するか、ということになる。
もちろん計画が必ず成功するとは限らず、穏やかならざる死とは常に隣り合わせとなる。それでもできる限りの準備をしたし、こちらは相手を殺すつもりなのだから、自分が殺される覚悟ぐらいなくては話にならない。
「心の準備はいいか?」
私は小さな声で、隣の陽花に問う。
「ちょっと怖いけど、大丈夫」
彼女も小さな声で答えた。
「……私はこの半年、いつもお父さんのことを考えてきた。月島さんと、喬さんと買い物したり、ホテルで過ごしたりしたのは楽しかったけど、やっぱりいつも、お父さんのことが頭にある」
「……そうか」
「お父さんは仕事人間だったけど、楽しいことも沢山した。でも今考えるのは、やっぱりお父さんが殺されたことだけ」
陽花は泣いていなかったが、その声には強い悲しみが籠っていた。
「復讐をしたら、自分なりに整理がついたら、きっと私はお父さんとの楽しい思い出を、ちゃんと懐かしいって感じられるんだと思う。魂って言葉はあんまり好きじゃないけど、それが故郷に帰るっていうか」
彼女がこのような詩的な言い回しをするのは、私にしてみれば珍しいことだった。
「険しい帰り道だ」
「足元には死体が転がってるしね」
そう言って、陽花は少し笑った。窓の外を見ると、車は橋を渡ってランタオ島に入っていた。
午後十時を回った海浜公園に明かりはなく、ただヘッドライトだけが前方の闇を払っている。
「そろそろ着くぞ。準備しとけ」
兼城の指示によって、私と陽花は目隠しをされ、猿轡を噛まされた。これで見ることも喋ることもできない。格好だけは完璧な拘束だ。
「あと、大人しくさせるときに打った鎮静剤が効いてる設定だからな。蹴られても我慢しろ」
これは尋問されるまでの時間を稼ぐための小細工だ。演技の必要がないという利点もある。しばらくはぐったりして、適当に呻いていればいい。
私は車が走る音と、隣にいる陽花の気配だけを感じながら、取引の場に到着するのを待った。
やがて車は速度を落とし、どこかに停まる。相手はもう到着していたのだろう。すぐにドアが開かれた。車の外で声を抑えた会話が聞こえる。
こういった取引の場面で、長々と交渉がおこなわれることは少ない。違法なものであれば、常に目撃や摘発のリスクがあるからだ。早々にやりとりを済ませてその場を離れることで、万が一のトラブルを防ぐことができる。今回は私と陽花を相手方に引き渡すだけなので、話がこじれることはないだろう。
ほどなく、私は車の外へ連れ出された。誰かに肩を貸されるようにして、ずるずると引きずられていく。そしてやや乱暴に、土の地面へと投げ出された。私は力なく倒れこみ、軽く呻いてみせる。
「顔を確認しろ」
あまり上品でない広東語が聞こえた。人相を見るために、私の首が強引に曲げられる。
「あの日本人野郎で間違いない」
急に手を離されたので、私は地面で顎を打った。
「同胞を売るのは心が痛いぜ」
兼城が、本気とも冗談ともつかぬ調子で言った。軽薄なようにも思えるが、彼の話し方は容易に真意を悟らせない。
「心配するな。お前の立場は保障してやる」
数メートル離れた場所で、落ち着いた声の男が言った。相手方のリーダーだろうか。
「こっちも命張ってんだ。頼むぜ」
兼城はそれ以上無駄口を叩かなかった。私は両脇を掴まれて再び引きずられ、車に放り込まれる。取引の時間は五分と掛かっていない。しかし私にとって、これからが危険な時間だった。
◇
私と陽花を載せた車は、しばらく平坦な道路を走っていた。感じる加速度から察するに、どうやら必要以上に遠回りをしているようだった。尾行への警戒と、移動時間から場所を悟らせないための行動だろう。三十分かそれ以上の時間が経ってから、車はようやくどこかの施設に入った。
小さな路面の凹凸と、わずかな高低差。私にはそれが、船の中なのだと分かった。半年前にも同じような感覚を味わったからだ。黑色女人の幹部は、船で過ごすのがお好きらしい。マフィアというよりも海賊のように思え、私は心の中だけで苦笑した。
車は狭い範囲を何度か切り返して停まり、次いで乗っていた男が数人出て行った。彼らのボスに捕虜の到着を告げ、処遇について指示を受けに行ったのかもしれない。気配からして車内にも見張りが残っているようだから、まだ迂闊な行動はできなかった。今更相手の心証を気にする必要はないが、朦朧状態が演技だと分かれば、すぐにでも尋問が始まってしまうだろう。
陽花が隣で小さく呻いた。寝言のようにも聞こえる。
その後、十分ほどで男達が戻ってきた。私は身体を掴まれ、車の外に引きずり出される。そのまま脇と足を抱えられ、担架のように運ばれる。コイツはまだ使い物にならないな、という声が聞こえた。
彼らにとって、私に多少の傷がつくことは問題にもならないようだった。身体の各部が壁や手すりにぶつけられ、不意の痛みが走る。もう少し丁寧に運べと抗議したいところを抑えて、私は上り階段を運ばれていく。しかしその大雑把さによってか、手足の拘束に施した細工が発覚した気配はない。
やがて私はどこかの部屋に入れられ、その固い床の上に放り出された。陽花も同様にされたようだ。中甲板にある一室だろうか。音や声の響き方からして、あまり広くはない。以前閉じ込められたのはコンテナだったから、それに比べればほんの少し待遇が改善したと言える。
そして我々を運搬していた男達が部屋の外へと出ていく。扉が閉じられ、電子音とともにロックされた。
しばらく気配を窺う。周囲は静かだ。我々が立てる衣擦れの音ぐらいしか聞こえない。私が身体を動かしていると、目隠しがほんの少しズレ、部屋の中を窺うことができるようになった。
誰もいない。監視機器の類もないようだ。部屋の隅に、金属製のスツールが一つあるだけだった。拘束された人間二人、扉には電子ロック。人員を割いて監視する意味は薄いということだろう。
「ちょっとリラックスしてよさそうだぞ」
私は陽花に声を掛けた。
「喬さん達、いつ来るかな?」
取引がおこなわれた時点で準備は九割がた整っていて、あとはここに来るだけという状態のはずだ。侵入路や人員の配置を考える必要があるとしても、襲撃までは一時間以内というところだろう。今のところ、施した策は効果を発揮している。尋問がすぐに始まるとしても、決して耐えられない時間ではない。
しかしどんな状況においても、なんらかの不確定要素はあるものだ。
「できれば俺が殴られる前に来てほしいが、無理は言えないな」
「もう十分言ったからね」
「そうだな」




