発火 -2-
雷富城の安全確保に成功した、とジュリアから連絡があったのは、翌日の昼ごろだった。メールで詳細は伝えられず、我々はニューロポート内にあるオートマタ本社に向かうよう指示された。
政治家との会談となれば、相応の格好をしていくべきなのかもしれないが、そもそもスーツの用意はないし、道中で目立ってしまっても不都合だ。我々はここ数日で街に繰り出していたのと同じ服に身を包み、やや緊張しながらホテルを出発した。
のどかなニューロポートの外れから、ビルの林立する中心部へ歩いて行く。拠点のホテルから目的地までは、たった数百メートルしか離れていない。
陽花は以前リー女史に連れられて、オートマタの本社ビルを訪れたことがあるらしい。彼女に案内され、我々はよく整備された道を行く。今日は休日であるためか、観光客や買い物客の姿が特に多い。
歩くこと十分弱。我々はいくつもの大企業が集積する区画の中でも、一際立派にそびえる建物を見上げていた。この天を突く銀色の楕円柱が、オートマタ本社ビルだ。高さは目算で二〇〇メートル以上。陽花によれば、この場所で働いている社員だけでも四〇〇〇人近くになり、企業全体が年間に生み出す利益は、中堅国の国家予算にも匹敵するそうだ。
我々は手入れの行き届いた広い前庭を通過し、未来的なデザインのエントランスに入った。広いフロアは七、八階分の吹き抜けで、正面には巨大な球状のオブジェクトが見える。その表面は全てディスプレイとなっており、自社商品の控えめで美麗なプロモーションが流れていた。
行き交う社員達は、意外にも我々と同じくラフな格好の人間が多い。開発や研究の業務ならば、別段かしこまる必要はないということか。
「シティの刑事より、ここの警備員になった方が給料いいかもしれませんね」
「いや、こういう大企業は案外、金勘定にシビアだ」
球体の支柱近くにある受付に寄り、自分達の名前を告げる。やがてスーツに身を包んだ女性社員がやってきて、我々を案内し始めた。
フロアの奥まった場所に連れられて行くと、そこには役員専用と思しきエレベーターがあった。上品な真紅に塗られた、なんとも高級そうな一角だ。我々のほかに通りがかる者はおらず、ひっそりとしている。
女性社員がカードをかざし、顔面か虹彩かでの認証を済ませると、すぐに眼前の扉が開いた。無言で乗り込んだ我々と共に、籠は滑らかに上昇していく。行き先は地上四十八階。途中で停まることもなく、一分程度で目的のフロアに到着した。
「ここは通常、一般の社員が立ち入ることのない場所です」
籠の扉が閉まらないよう手で押さえながら、女性社員が言った。
我々はまた案内されるまま回廊を歩き、ある一室の前に立った。光沢のない黒い扉には、真鍮のプレートで部屋の番号だけが示されている。社員が先ほどと同じ認証を繰り返すと、小さな開錠音がして扉がスライドした。
中は広い応接室のようだ。しかし特別な人間しか入れない場所だけあって、一般企業のそれとは質において一線を画している。私はテレビのニュースで見る、国のトップや閣僚の会合に使われるような部屋を思い浮かべた。案内の女性は外に立ったまま我々に入室を促し、慇懃に礼をしてからどこかへ去って行った。
「彼らが今回の功労者です」
部屋の奥で誰かが喋った。長い木製テーブルの傍らに立ったジュリアだ。こういう場にいるのを見ると、いかにも有能なビジネスパーソンといった風貌である。彼女が話しかけたのは、議長の席に掛けた男性だ。彼が雷富城に違いない。
しかし私の目線は、そのすぐ後ろに立つ人物に引き留められた。髪を短く刈り、似合わぬスーツに身を包んだ大柄な男。
兼城だ。私と目が合うと、彼は黙ったままにやりと口角を上げた。
スーツの男はもう二人いる。その内片方は、海虎一家の事務所で見かけたことがあった。もう片方もおそらく同じ所属だろう。彼らがなぜ雷富城と一緒にいるのだろうか。
「君達には礼を言わなければならないが、まずは掛けてくれ」
私は雷に注意を戻す。彼は少々訛りのある英語で、我々三人に着席を促した。私は陽花と喬に目で合図し、広い室内を進んで右奥の席に座った。我々の対面には、ジュリアと兼城が座る。海虎一家の二人は立ったままだ。
改めて観察してみると、雷富城は想像していたよりも小柄だった。銀色の混じった頭髪は丁寧に撫でつけられていて、その下にある顔面は痩せている。それが元々のものなのか、潜伏による消耗なのかは判別しがたい。
彼の肌はやや黒く、皺が表情を厳めしく見せている。年齢は確か七十に近かったはずだ。大物政治家だけあって、その眼と声には迫力があった。数々の難局を乗り切る中で研ぎ澄まされた、強固さや鋭さも感じられる。
「月島正悟君。喬小龍君。瀬田陽花君。君達の情報提供と、ここにいるエッジワース女史の協力によって、私は危機を脱することができた。ありがとう」
雷はそう言ってテーブルに手をつき、ゆっくりと頭を下げた。彼が持つ権力を考えれば、それは意外なほど謙虚な態度であると思えた。
「何か話したいことがあると聞いた。私にできることなら、可能な範囲で力になろう」
我々三人は互いに目配せする。この場はひとまず私が主導するとしよう。
「まず、我々が把握している状況の真偽を確認させてください」
私がそう切り出すと、雷は無言で続きを促した。
「警察副長官の夏大偉が、岱輿城市の支配を狙っている。彼は香港派と華南軍閥の後ろ盾を得た上で、秘密部隊の実行力を背景に権力を掌握しつつある。あなたがここにいる事実がその証左だ」
雷は感心を示すようにゆっくりと頷いた。
「おおむねその理解で正しい。夏は既にパシフィックを掌握している。シティのほぼ全てが彼の影響下にある」
内政システムであるパシフィックは、行政サービス・軍事・インフラといったシティのあらゆる面をネットワークで連結し、管理している。これを手に入れるということは、すなわちシティを手に入れるということだ。
「復権の目は?」
「ないではない。私はシティのほとんどが夏の影響下にあると言ったが、全てではない。私に近い劉少佐と、彼が指揮する陸軍三〇〇が睨みを利かせている」
シティ海軍の艦艇や空軍の航空機はネットワークに接続されており、パシフィックの影響を免れない。しかしシステムへの依存が少ない陸軍であれば、独力で活動することも可能だ。
しかし、陸軍のみをもって政権を奪還することが簡単とは思えない。掌握されたパシフィックが障害となるのはもちろん、夏の指揮下にあるシティ警察三〇〇〇が総動員されれば、練度の高い兵士でも苦戦は必至だ。
私はひとしきり情勢に思いを巡らせてから、雷がテーブルの上で手を組み、興味深げに我々三人を見渡していることに気がついた。
「こちらからも一つ質問させてくれ。君達は、なぜこの件に関わろうとしているのか」
彼は尋ねた。私は自分自身で説明するべきか一瞬迷ってから、陽花に話を振ることにした。責任の所在はともかく、彼女の意思は伝えておかなければならない。
「我々の中で、おそらく一番強い動機を持っているのは、陽花でしょう」
雷が彼女の方に顔を向ける。
「瀬田陽花君。優秀なハッカーと聞いている」
その言葉を受けてから、陽花は少し緊張した様子で、それでもはっきりとした声で話し始めた。
「私の父親はシティで殺されました。シティの公安と、黑色女人にです」
「……痛ましいことだ。いや、他人事のように言うのはよくないな」
「あなたが命令したんですか?」
陽花はやや強い調子で言った。
「違う。しかしこんなことを言っても君は納得しないだろう。それに私の施政下で起こった出来事は、全て私の責任だ。申し訳ない」
雷は目を閉じ、重々しくその言葉を吐き出した。私が陽花を窺うと、複雑そうな表情をしている。彼女は雷もっと責め立てるつもりだったのかもしれない。素直に謝られて、拍子抜けした様子だった。状況によっては、年端もいかぬ少女にも頭を下げる。流石に老獪な政治家だけあって、彼は謝罪のタイミングとそのやり方を、実によく心得ていた。
「そして、復讐か。その意義を私から問うことはすまい」
「権力争いに興味はありません。自分の正当性を主張することにも。でも目的を達成するのに必要があれば利用します。とにかく夏大偉に対価を支払わせるまで、私はやめません」
幾分か落ち着いたが、それでも強固な意志を感じさせる口調だった。雷がこの宣言をどのように受け止めたかは分からないが、少なくとも陽花の決意は理解しただろう。
「よろしい」
彼は頷いた。
「そうなれば、君達の要求にも見当がつく」
雷は私に目線を戻し、幾分か柔和な表情を見せた。
「ええ。あなたが岱輿城市に戻るとき、我々も同行をさせて頂きたい」
私はその態度に釣られないよう、つとめて真剣な表情で雷に告げた。
「構わないが、安全の保障はできないぞ」
「もとより、そのつもりです」




