断片 -2-
「陽花。探偵さんがいらしてます。開けますよ」
私に返事は聞こえなかったが、リー女史が開いたドアの先には、確かに先日会った少女がいた。私が小さく会釈をすると、陽花も同じようにした。
陽花はベッドの上で両膝を立てて座り、背は壁にもたれ掛けさせていた。彼女の顔はまだ幼さを残していたが、所作にはどこか大人びた雰囲気がある。髪は黒く艶があり、耳までの長さに揃えられていた。陽花はもはや怯えても混乱してもいなかったが、その表情はやや憔悴して、気が塞いでいるように見えた。
部屋は私が普段使っている寝室に比べ、倍以上の広さがあった。どうやら元々、来客を泊めることのできるスペースであったらしい。マットレスが敷かれた簡素なベッドのほか、クローゼットと小さなテーブルセットがあった。
陽花自身の荷物と呼べるようなものは、ベッドのわきに放り出された小さな肩掛け鞄だけだ。あとはテーブルの上に飲みかけのペットボトルと、皿に乗ったフルーツの残骸があるぐらいだった。
「今日からとりあえず一週間、色々と手伝いをしていただくことになりました。月島さんです」
私を見ていた陽花は一旦リー女史の方を見、また私に視線を戻した。女史はそれだけ言うと自分の役割を果たしたと思ったようで、あとは任せる、という旨の言葉を残して部屋を出て行ってしまった。
同じ日本人とはいえ、思春期の少女という人種に対してどう話したものか。私が迷っているうちに、陽花の方が先に声を発した。
「おととい、会いましたか?」
彼女は私を覚えていた。
「ああ。この間は大変だった」
「うん……」
私はテーブルセットから一人掛けのソファを引っ張ってきてベッドの脇に置き、腰を下ろした。陽花が一挙手一投足を観察しているようで、なんだか落ち着かなかった。
「私、瀬田陽花です。月島さんは、探偵なんですか」
陽花は少し背筋を伸ばし、そう尋ねた。
「そう。でも昔は警察官をしていたこともあった」
「あんまり探偵みたいには見えない。もっと、格好とか」
「シャーロック・ホームズみたいな?」
「うん。フィクションでしか知らないけど」
多分、彼女のイメージする探偵は、ロンドンとか東京とか、もっと緯度の高い、寒い場所で生活しているような人間なのだろう。トレンチコートに身を包み、常に何か物思いに耽っているような。私はポロシャツとチノパンツという自身の装いを見下ろし、トレンチコートを纏っている自分を想像したが、どうにも気取りすぎているような感じがして、着こなせる自信を持てなかった。
「格好はあまり気にしないことにしてるんだ。大事なのは仕事の中身だから」
陽花は一瞬目を伏せて、立てていた膝を崩した。
「お父さんの事件を調べるの?」
目線を上げた彼女はこちらの不意を突くような調子でそう尋ね、私をまっすぐ見据えた。その眼力は私を気後れさせるほどのものではなかったが、彼女が自分から事件に言及したのは意外だった。
陽花に事件のことを話してもいいか、事件に関する聞き取りをおこなってもいいか、女史は言及しなかった。しかし私は、たとえ思春期の子どもであっても、無暗に真実から遠ざけるのは正しくないと常々考えている。
「調べるよ。警察も今調べてる。どれだけ真実が明らかになるかというのは、まだこれからだ」
私が警察という言葉を発したとき、陽花の表情が曇った。嫌なことを思い出したというよりも、何かに焦り、困惑しているような顔だった。
「事情聴取を受けたけど、お父さんが殺されたときのこと、ほとんど思い出せなかった。今も思い出せない」
凶悪犯罪の被害者に多い、解離症状だろうと私は考えた。命の危険を感じるような強いストレスを感じた人間には、しばしば現実感の喪失、感情の鈍麻、健忘などが起こる。
父親が襲撃された際に、彼女自身もまた危険な状況に置かれたのだろう。会話の様子からすると、彼女は酷いショックを受けているように見えなかったが、その精神は確かに父親の死と、それをもたらした脅威に反応していたようだった。
「シティ……この街までは、どうやって?」
「香港から、飛行機で。それで、タクシーに乗ったことまでは覚えてる」
「その先は?」
「思い出せない。……ごめんなさい」
「いや、謝る必要はない。どんな色のタクシーだった?」
「白だったと思う。多分」
陽花は自身の記憶が曖昧なことに苛立ちを感じているようだった。根掘り葉掘り質問して無理やり想起させるのは、彼女の精神衛生にとっても、我々の関係にとっても望ましくはないだろう。時間の経過で、あるいはなんらかのきっかけで思い出すのを期待する方がいい。
「危険な目に遭った人が記憶喪失になるのは珍しいことじゃない。君に必要なのは、まず休養だ。何か必要なものがあれば買って来る」
私がそう言うと、陽花は部屋をぐるりと見回した。
「インターネットが使いたい。パソコンと、あとお菓子」
それくらいならば手間なく用意できるだろう。また彼女は私の連絡先を知りたがったので、仕事用の番号とアドレスを教え、何か困ったことがあれば連絡するように伝えた。
「一日一度は来るようにする」
私はそう言い置いて、そろそろ部屋を出ることにした。私にとって陽花は年齢差の割に話しやすい人間だったが、コミュニケーションはまだぎこちなく、あと何度か機会を経る必要がありそうだ。
「調査、お願いします」
部屋を出る私の背を、陽花の小さな声が追ってきた。
リー女史に陽花の要望を伝えると、予備の端末ならばすぐに用意できるとのことだった。しかし菓子は好みもあるだろうから、あなたのセンスで適当に買ってきて欲しいと頼まれた。あとで忘れず調達しておくとしよう。
私は女史のアパートを出発し、瀬田英治殺害に関する調査を開始することにした。まず表通りを東に向かい、海沿いの区画を目指した。空は晴れて風もそれほど強くなく、午後は外出に適した日和になりそうだった。
道中の店でパンを買って六、七分歩くと、洋上を行き交ういくつもの船舶が見える小さな公園に着く。芝生の広場は、土地の少ないシティでは滅多にお目に掛かれない。私は海側を向いた木のベンチに座ってパンをかじりながら、情報を整理し、何を調べるかの段取りをつけ始めた。
まず、死んだ瀬田英治は卓越したエンジニアで、ネットワークセキュリティを専門としていた。世界的なIT企業に勤務していて、レベッカ・リーはかつての同僚だった。
また彼はなんらかの研究に力を入れていて、それについて相談をするためにシティを訪れた。ごく個人的な用件にも思えるが、娘の陽花を同伴させている。空港からタクシーに乗ってきて、居住区で殺された。眉間を撃たれていたが、それが致命傷となったかどうかは明らかではない。
それから、レベッカ・リーは瀬田英治の訪問理由を知らない。彼に死をもたらすような具体的な危険も予期していない。ただ、これはあくまで本人の談だ。そして英治の死について、真相を明らかにしたいと思っている。シティ警察のみならず、公権力にはあまりよい感情を持っていない。
リー女史と陽花から聞いた話をまとめると、大体こんなところになるだろう。
一般的に考えて、殺人事件を調査する目的は、第一に犯人を明らかにすることだ。瀬田英治は誰によって殺されたのか。警察は事件の犯人を捕まえ、司法に引き渡して罰を与える。一方で私の仕事は、必ずしも犯人を捕まえて罰することではない。とはいえ犯人を特定しないままでは、調査を完遂したとは言えない。
目的の第二は、事件の背景を洗い出すことである。被害者はなぜ殺されたのか? 犯人の動機は何か? 私がおこなう調査の主眼は、どちらかといえばこちらに置かれることになりそうだった。
しかし私はあくまで個人であって、資金においても人員においても、警察に敵う道理はなかった。だから彼らを出し抜くということはあまり考えず、敵対も避けながら、うまく情報源として使っていく必要がある。
ただ警察は無条件に親切な組織ではありえないし、親切な場合でも、彼らの目的においてそうだというだけだ。取引をするにしても対価が要る。何も知らないから教えてくれ、では話にならない。
ひとしきり考えたあと、私はまずは調査のとっかかりを得るために、心当たりを一つずつ潰していくことにした。
私は英治の死体を発見したときのことを想起する。哀れなエンジニアは、眉間を撃ち抜かれて仰向けに倒れていた。つまり、犯行には銃が使われたということだ。シティにおいて、一般市民が火器を所持することは違法である。非合法なルートで出回っている数は少なくないが、普通に暮らしていればまずお目に掛かることはない。
私はベンチに座ったまま、兼城に電話を掛けた。海虎一家のビジネスに、銃器を扱うものもあったはずだ。兼城が直接それに関わっているかはともかく、武器の流通については私よりも詳しいだろう。
『なんだ、珍しいな』
兼城はすぐ電話口に出たが、少々急いでいるような様子だった。
「今やってる調査で、聞きたいことがある。どこかで時間が取れないか?」
『どんな調査?』
「電話では言えないが、ちょっと危ないヤツだ」
『今日の午後までは無理だな。夜ならいいぞ』
そう言うと彼は、繁華街にある中華飯店を指定してきた。私自身、二度か三度利用したことがある。別段高級な店ではないが、込み入った話をするのに便利な、小さな半個室があったのを覚えている。時間は午後五時以降と伝えられた。
「わかった」
私はそれらを了承して、手短に通話を終える。そしてベンチから立ち上がり、昼食のゴミを傍らの回収ボックスに放り込んだ。約束まではまだ四時間以上ある。私は事件現場の近くまで近くのバス停まで歩き、港湾地区行きの車両を待った。