発火 -1-
黑色女人のビルに侵入し、活動の痕跡と思しきデータを入手することに成功した我々は、そのまま車で香港中心市街を通り抜け、拠点となるホテルまで戻ってきていた。
安全な部屋で空調の冷気を浴び、危うい探索行で昂った神経が鎮まると、生温い眠気がまた忍び寄ってくる。屋外はまだ暗く、データの解析には清明な状態の脳が必要だ。気疲れした我々は寝室の快適なベッドまで撤退し、また仮眠を取ることに決めた。
私が再び目を覚ましたのは、午前九時を少し過ぎたころだった。顔を拭いながらリビングに出ると、陽花が難しい表情で端末のディスプレイを睨んでいた。
「何か分かりそうか?」
キッチンでグラスに水を汲み、陽花の対面に腰掛ける。彼女は顔を上げ、作業の進捗を報告してくれた。
「データの容量はそれほど大きくなかった。それでも一々見るのは非効率だから、気になる言葉を抽出してみたんだけど」
陽花は侵入したビルの端末にあったデータを、丸ごと彼女の端末に転送したらしい。文章ファイル、メールの履歴、操作のログ。彼女はそれらの中から、先立つ盗聴によって判明した、黑色女人が捜している人物のコードネームをピックアップしていた。そしてコードネームに付随する単語を抽出し、相互の関連を検討する作業までを、既に完了させていた。
数百の断片とその関係を総合した結果、捜索対象について、黑色女人の目的について、陽花は先ほど、一つの結論に辿り着いた。
「黑色女人はこの香港で、雷富城を捜してる」
「何?」
私は思わず聞き返す。追っているのはシティの要人だろう、という推測はしていたものの、まさか市長その人とまでは考えていなかった。
「雷富城が香港に来てるのか」
「多分、一カ月以上前には」
雷富城は謎の多い人物だ。二十年前、彼は岱輿城市の四代目市長に就任した。中国内戦における立ち回りを通じて、シティの独立性を守り、また自らの権力基盤を強固にした。以降、シティにおいては長らく政治・軍事のトップに君臨し、混迷の東アジアで都市の舵取りをしてきた。
彼の強権には批判的な意見も存在する。一方で、華南軍閥に対抗する力として彼のリーダーシップを歓迎する向きもあり、シティ内でも政治的な評価は分かれていた。
また、雷はメディアへの露出が極端に少ない人物としても知られている。市民が映像で彼を見る機会は皆無と言ってよく、WEBや紙面上で言論を発表することはあるものの、本人の画像が添えられた記事さえほとんど見られない。人々の間では、雷富城は既に死んでいて、オートマタ社の作ったAIが成り代わっているのだ、という噂が流れるほどである。
「雷がシティを離れた。ということは、もう夏のクーデターが完了してるのか?」
「すぐ対岸の香港にいるなら、まだ負けたと思ってないのかも」
言われてみれば、確かにそうだ。もし亡命するならば、華南軍閥の支配地域は最悪の選択肢である。しかし雷自身が謎めいた人物であるため、可能性は色々と考えられる。元々香港を拠点にしていた、というケースもなくはない。
「雷富城は、ネイザンロードの五つ星ホテルにいる。……ってことを、黑色女人はもう掴んでる」
陽花が示したのは、アメリカ資本の高級ホテルだ。いくら勢力範囲内にあるとはいえ、黑色女人や華南軍閥にとって、手の出しづらい場所となる。対象とする人物が政治的な権力を持つ大物であれば尚更のことだ。
しかし雷本人にとっても、動きづらい状況なのは間違いない。一歩ホテルの外に出れば、どこで襲撃・拘束されるか分からないからだ。それでも香港を離れないのは、陽花が言う通り、権力の座に返り咲くことを諦めていないからだろうか。
私と陽花が神妙な顔をしていると、喬が起き出してくる。
「成果はありましたか」
のんびりした口調で尋ねる。
「ヤツらが捜してるのは雷富城だ、ということが分かった」
私の言葉を聞くと、さすがに喬も眉根を寄せた。それがどのような意味を持つのか、彼にもなんとなく理解できたようだ。
「本当ですか」
「陽花によれば」
「はあ……」
喬は考え込むような仕草をしつつ、陽花の隣に腰掛けた。
「大きな話になってきましたね。僕らはこれからどうします?」
彼は私に尋ねた。
「場所が分かっても、俺達ではおそらく接触できない。それに情報が抜かれたとなれば、黑色女人はコトを急ぐだろう。強引な手段に出る可能性もある」
もし雷富城が拘束されれば、夏大偉のシティ支配は盤石なものとなる。それは我々にとってかなり望ましくない展開だ。しかし探偵、元刑事、ハッカーという立場で、潜伏中の大物政治家に接近するのは不可能に近い。
「ジュリアに話してみよう。グウィディオンと雷富城には、利害の一致があるはずだ」
私は提案した。有力者に対してアプローチするならば、こういったコネクションを利用するのが最も効率的だ。志を同一にする両者ではないが、夏大偉打倒という一点においては協力関係を築き得る。陽花と喬も私に同意した。
急ぎジュリア宛に作成したメッセージでは、黑色女人の拠点で得た成果についてほのめかしておく。緊急である旨の文を添え、直接会って相談したいという要望も併せて伝える。鋭敏な彼女であれば、我々が手に入れた情報の重要性はすぐに察するだろう。
メッセージを送り、ジュリアからの返答を待ちながら、私は直接見たことのない、雷富城という男についての想像を膨らませていた。
◇
メッセージを送ってから二時間後、ジュリアが我々の部屋を訪れた。彼女を招き入れ、四人でリビングのテーブルを囲む。
「無茶なことをする前には、ちゃんと相談してほしいんだけど」
しかし開口一番、ジュリアは我々が敢行したビルへの侵入を咎めた。
「ちゃんと一報を入れた」
私は言い訳を試みる。
「あれはただの連絡で、相談とは言わないの。……まあ、いいわ。あなた達の無茶には慣れたから」
結果として、早めに突入したことは良かったし、事前の相談で行動に反対される可能性もあったから、我々の判断はおそらく正しい。ただ、今それを議論してもあまり生産的ではなさそうだ。それにこれからジュリアを頼るのだから、彼女の困惑にはきちんと侘びを入れる。
「それで、データを解析した結果、早急に対処した方がいい事柄が分かりました」
非難の矢面に立っている私の横から、喬が本題を切り出した。
「メールで言ってた件ね」
「はい。雷富城が香港にいます。そして黑色女人は、彼の居場所を特定するに至っている。雷本人がそれを察知しているかは定かじゃないですが、事態は急を要します」
ジュリアは少し沈黙した。言葉が自分に染みこむのを待っているようだった。過去と未来を見るように目線を動かしてから、彼女は再び口を開いた。
「初耳ね」
「無茶をするだけの価値はありましたよ」
「雷富城に危険が迫っている?」
「滞在しているのはアメリカ資本の一流ホテルですが、もちろんセキュリティには限界があります。華南軍閥がなりふり構わないなら、どうとでもなるでしょう?」
ジュリアはソファに深く身を沈め、腕を組む。
「……彼が華南軍閥の手に落ちるのは困るわ」
「なんとかコンタクトを取って、警告できるか?」
私は尋ねた。
「可能。必要ならセーフハウスの用意も」
「ねえ」
それまで話を聞いていた陽花が、身を乗り出してきた。
「これは月島さんと、喬さんと、私が頑張って調べたこと。情報提供の代わりに、聞いて欲しいお願いがあるんだけど」
いきなりの提案に、ジュリアが不意を突かれたような表情で陽花を見た。
「……どういうこと?」
「雷市長に会わせて」
その要求は、私が半ば予期していたものだった。組織同士の情報戦に発展したとして、自分達がはじき出されてはたまらない。陽花はおそらくそう考えているのだろう。
「本気?」
「はじめから、私は本気」
ジュリアは陽花の目をじっと見つめて、やがて大きく息を吐いた。
「向こうが承諾するかは分からないけど、一応、持ちかけてはみるわ」
「それでいいよね?」
陽花は私と喬に同意を求める。
「いいだろう。単純に恩を売っておくだけでも悪くない」
「仕事の斡旋も頼みましょうか」
我々の言葉を聞いて、ジュリアは呆れたようにこめかみを押さえた。
「とにかく、色々と手は尽くしてみる。安全が確保できたら、あなた達を引き合わせるわ」
「ありがとう。いつも悪いな」
私は彼女の苦労について、少しだけ申し訳なく思う。しかし我々も、置物のように大人しくしている訳にはいかないのだ。
「いいのよ。これで給料もらってるんだから」
ジュリアは席を立ち、今度無茶をするときはちゃんと相談するように、と我々に言い含めてから、相変わらずの生真面目な足取りで部屋を出て行った。
「大丈夫かな?」
陽花が雷富城の保護について、心配を口にする。
「政治とか計画みたいなことは、グウィディオンの得意分野だろう。俺達に心配されるまでもない」
私は答えた。そうでなければ、華南軍閥の目を掻い潜りながら、香港で活動することなどできはしないだろう。
彼女から呼び出しがあるまで、どれくらい待てばいいのかは分からない。しかし我々がこのホテルで過ごす時間は、もうそれほど長くないような気がした。




