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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
魂のサウダージ
48/60

再始動 -6-

 まず私が、次いで陽花が、最後にチャオが、ビル内部に身体を滑り込ませる。背後でオートロックが作動し、再び錠が下りた。


 部屋の空気は煙草と湿った布の臭いがした。私はあらかじめ用意したペンライトのスイッチを入れる。暗闇の中で左右を照らしてみると、光を遮る壁はない。どうやら、フロア全体が一つの部屋であるらしい。


 周囲の空間は大部分が静寂に支配されており、動くものは何もなかった。耳を澄ませたところで、家電の稼働音が辛うじて聞き取れるくらいだ。我々は万が一にも大きな音を立てないよう警戒しつつ、互いにはぐれないようフロアを探索し始めた。


 身振り手振りで合図し、壁際を進む。おぼろげなライトの先に浮かび上がるのは、半透明のパーテーション、煤けたソファとテーブル、係留に使うロープらしきもの、用途不明の金属部品などだ。端末があればと期待したが、このフロアでは見つからない。先ほど聞こえた稼働音は、残念ながら冷蔵庫のものだった。


 この建物で我々が手に入れたいと考えているのは、黑色女人ブラック・レディが香港で何をしているか、ということについての情報だ。電子データの形であれば最良だが、なければメモでも事足りる。


 壁際を一周してしまった我々は、り足でフロアの中央に進出してみた。ここにもまた目ぼしいものはない。どうやら一階は、せいぜい物置か休憩室として使用されているだけのようだ。


 陽花が私の背を軽く叩いた。

「何もなさそう」

 私は黙ったまま頷く。


 次いでチャオがフロアの奥にライトを向け、私と陽花を促した。やはり二階を探索する必要がある、と言いたいらしい。


 部屋の照明を点ければ、一階でも何か細々(こまごま)とした発見はあるかもしれない。しかし窓から漏れる光で、侵入が露見する可能性があるし、監視カメラの有無も気に掛かる。やるとしても、脱出の直前にした方がいいだろう。我々は一階の探索をひとまず切り上げ、フロアの奥へと足を向けた。


 頭上の非常灯が幽かに光を投げかける階段。人の気配がないことを確かめてから、我々は二階へと上っていく。抑えた足音と、自分達の呼吸だけがいやに大きく聞こえた。


 忍ばなければならない場面はこれまでも多々経験してきたが、何度やっても慣れることはない。しかし成功しても失敗しても寿命が縮むのだから、弛緩して下手を打つより、緊張して首尾よく終える方がいい。


 踊り場を通過して折り返し、我々は問題なく二階に進出する。ステップが終わった先は、直線の廊下となっていた。ペンライトの光を頼りに進むと、左右に一つずつ扉がある。部屋の用途は示されていない。


 右か、左か。外から判断する術はない。私はまずは何も考えず、奥に向かって右の部屋を選んだ。扉に耳を当てて中の様子を窺い、気配がないことを確かめる。扉の横には、電子錠でのロックを示すカードリーダー。セキュリティの存在は、室内に重要なものがあることを示唆している。陽花が私と交代し、ハッキングを開始した。彼女の指先から発せられる控えめなタイプ音が、廊下に沈滞する闇へと吸い込まれる。


 二分後、小さな電子音とともに扉は開かれた。


 室内を覗き込む。暗さに慣れた私の目に、青白い点ほどの光がいくつか映った。端末の待機状態を示すランプだ。


「当たりだな」


 データを吸い出すか、我々の端末転送してしまえば、この場で一々精査する必要はない。通常使われるセキュリティソフトなど、陽花にとっては紙の盾だ。


 しかし我々三人が部屋に入り、扉を閉めようとしたとき、階下から漏れる光がわずかに確認できた。


 鼓動が高まる。誰かがビル内に入ってきたのだ。


「どうします?」

「落ち着け」


 まだしばらく猶予はありそうだが、私は素早く考えを巡らせる。まずは相手をやり過ごすことを優先すべきだ。


 扉を完全に閉めればオートロックの音で気づかれる恐れがある。私は持っていたペンライトの光を消し、枠との間に挟んでおいた。本心では早く用事を終えたかったが、この状況ではしばらく息を潜めるしかない。


 入ってきたのが誰であれ、我々に気付かず帰ってくれればお互いに面倒がない。しかしそういう期待は、往々にして裏切られるものだ。不意の訪問者はどうやら二階に用があるらしく、その気配が段々と近付いてくるのが分かった。複数人ではなさそうなのが不幸中の幸いだ。


 ドアに挟んだのがペンライトなのもよかった。もしこれがもっと大きな懐中電灯であれば、不審どころの騒ぎではない。


 とはいえ、見過ごしてくれると考えるのは希望的観測が過ぎる。まず我々が発見されるのは覚悟しなければならないだろう。


 足音が階段を上ってくる。私は陽花を部屋の奥に下がらせ、扉のすぐ横で待ち構えた。チャオはその反対側で待機する。我々の存在が気付かれたとしても、声を出される前に締め上げれば騒ぎは起きない。


 カチリという小さな音とともに、扉の隙間からペン一本分の光が差し込んできた。廊下の照明が点けられたのだ。しかしそのあとも、足音はすぐに動き出さない。おそらく我々がいる部屋の扉を視界に収め、違和感を抱いたのだろう。


 そしてゆっくり歩き出す。極端な警戒の音はない。ここからは呼吸の音さえ、衣擦れさえ立ててはならない。


 四歩、五歩。そしておもむろに扉が開かれた。


 照明を背に男が部屋に入ってくる。身長一七〇センチ強、体重およそ六十五キロ。私は彼の右側から素早く襲い掛かった。左腕を相手の腰に回し、右手で体勢を崩させる。そのまま全身のバネを使い、男の身体を跳ね上げた。巻き込むようにして地面に押し倒し、前腕で気道を塞ぐ。


 完全に不意を突かれた男は、抵抗することもできないまま窒息し始めた。このまま殺してもいいのだが、彼が死んで当然の凶悪マフィアであるとは限らない。それに、陽花の前であまり非道な真似はしたくなかった。


「騒げば殺す」


 私は男をそう脅してから、気道をわずかに解放する。ヒューヒューというかすれた音が、辛うじてその口から洩れた。


「とりあえず、早急に用事を済ませましょう」


 チャオが転がったペンライトを拾い、陽花を促す。ここまでくれば、私が一々指示する必要もないだろう。


 今のところ、増援が来る気配はない。この男、一人で忘れ物でも取りに来たのか、家に帰るのが面倒になったのか。どちらにせよひどい貧乏くじには違いない。


 そして陽花がいくつかある端末の一つを起動し、ハッキングを開始する。


 チャオがどこかに行ったと思ったら、ダクトテープのようなものを持って戻ってきた。それを使い、二人で男を拘束する。朝になれば誰かが来て、転がされた彼を見つけるだろう。


「終わったよ」


 陽花が端末の電源を落とし、我々に告げた。目的のものを手に入れた今、このビルに用はない。我々は部屋を出て、現場から離脱するため一階に下りた。


 フロアには照明が点いたままだ。見回してみると、我々の予想取り、汚らしい休憩室といったような場所だ。改めて探索する価値はないだろう。一瞬迷ってから照明を落とし、玄関を通って再び夜に紛れた。


「侵入が黑色女人ブラック・レディに知れるのは間違いない」

 レンタカーの近くまで来たところで、私は口を開いた。


「華南軍閥までは伝わりますかね?」

「五分五分だな。報告すれば責任者の首が飛ぶ」


 合法的な企業ならば辞任や更迭という形で責任を取らされるが、マフィアや軍閥の世界となると、文字通り死を意味することもある。その危険が大きいならば、トップは今回の事件を隠蔽しようとするはずだ。もしそうなれば、我々にとっては都合がいい。もちろん、黑色女人ブラック・レディは血眼で犯人を捜すだろうから、良いことばかりという訳でもない。


 ともあれ、今回は無事に仕事を終えた。あとは盗んだデータに何が含まれているか、じっくりと解析すればいい。我々はレンタカーに乗り、ニューロポートのホテルに戻る。夜明けまでにはまだしばらく時間があった。


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