再始動 -6-
まず私が、次いで陽花が、最後に喬が、ビル内部に身体を滑り込ませる。背後でオートロックが作動し、再び錠が下りた。
部屋の空気は煙草と湿った布の臭いがした。私はあらかじめ用意したペンライトのスイッチを入れる。暗闇の中で左右を照らしてみると、光を遮る壁はない。どうやら、フロア全体が一つの部屋であるらしい。
周囲の空間は大部分が静寂に支配されており、動くものは何もなかった。耳を澄ませたところで、家電の稼働音が辛うじて聞き取れるくらいだ。我々は万が一にも大きな音を立てないよう警戒しつつ、互いにはぐれないようフロアを探索し始めた。
身振り手振りで合図し、壁際を進む。おぼろげなライトの先に浮かび上がるのは、半透明のパーテーション、煤けたソファとテーブル、係留に使うロープらしきもの、用途不明の金属部品などだ。端末があればと期待したが、このフロアでは見つからない。先ほど聞こえた稼働音は、残念ながら冷蔵庫のものだった。
この建物で我々が手に入れたいと考えているのは、黑色女人が香港で何をしているか、ということについての情報だ。電子データの形であれば最良だが、なければメモでも事足りる。
壁際を一周してしまった我々は、摺り足でフロアの中央に進出してみた。ここにもまた目ぼしいものはない。どうやら一階は、せいぜい物置か休憩室として使用されているだけのようだ。
陽花が私の背を軽く叩いた。
「何もなさそう」
私は黙ったまま頷く。
次いで喬がフロアの奥にライトを向け、私と陽花を促した。やはり二階を探索する必要がある、と言いたいらしい。
部屋の照明を点ければ、一階でも何か細々(こまごま)とした発見はあるかもしれない。しかし窓から漏れる光で、侵入が露見する可能性があるし、監視カメラの有無も気に掛かる。やるとしても、脱出の直前にした方がいいだろう。我々は一階の探索をひとまず切り上げ、フロアの奥へと足を向けた。
頭上の非常灯が幽かに光を投げかける階段。人の気配がないことを確かめてから、我々は二階へと上っていく。抑えた足音と、自分達の呼吸だけがいやに大きく聞こえた。
忍ばなければならない場面はこれまでも多々経験してきたが、何度やっても慣れることはない。しかし成功しても失敗しても寿命が縮むのだから、弛緩して下手を打つより、緊張して首尾よく終える方がいい。
踊り場を通過して折り返し、我々は問題なく二階に進出する。ステップが終わった先は、直線の廊下となっていた。ペンライトの光を頼りに進むと、左右に一つずつ扉がある。部屋の用途は示されていない。
右か、左か。外から判断する術はない。私はまずは何も考えず、奥に向かって右の部屋を選んだ。扉に耳を当てて中の様子を窺い、気配がないことを確かめる。扉の横には、電子錠でのロックを示すカードリーダー。セキュリティの存在は、室内に重要なものがあることを示唆している。陽花が私と交代し、ハッキングを開始した。彼女の指先から発せられる控えめなタイプ音が、廊下に沈滞する闇へと吸い込まれる。
二分後、小さな電子音とともに扉は開かれた。
室内を覗き込む。暗さに慣れた私の目に、青白い点ほどの光がいくつか映った。端末の待機状態を示すランプだ。
「当たりだな」
データを吸い出すか、我々の端末転送してしまえば、この場で一々精査する必要はない。通常使われるセキュリティソフトなど、陽花にとっては紙の盾だ。
しかし我々三人が部屋に入り、扉を閉めようとしたとき、階下から漏れる光がわずかに確認できた。
鼓動が高まる。誰かがビル内に入ってきたのだ。
「どうします?」
「落ち着け」
まだしばらく猶予はありそうだが、私は素早く考えを巡らせる。まずは相手をやり過ごすことを優先すべきだ。
扉を完全に閉めればオートロックの音で気づかれる恐れがある。私は持っていたペンライトの光を消し、枠との間に挟んでおいた。本心では早く用事を終えたかったが、この状況ではしばらく息を潜めるしかない。
入ってきたのが誰であれ、我々に気付かず帰ってくれればお互いに面倒がない。しかしそういう期待は、往々にして裏切られるものだ。不意の訪問者はどうやら二階に用があるらしく、その気配が段々と近付いてくるのが分かった。複数人ではなさそうなのが不幸中の幸いだ。
ドアに挟んだのがペンライトなのもよかった。もしこれがもっと大きな懐中電灯であれば、不審どころの騒ぎではない。
とはいえ、見過ごしてくれると考えるのは希望的観測が過ぎる。まず我々が発見されるのは覚悟しなければならないだろう。
足音が階段を上ってくる。私は陽花を部屋の奥に下がらせ、扉のすぐ横で待ち構えた。喬はその反対側で待機する。我々の存在が気付かれたとしても、声を出される前に締め上げれば騒ぎは起きない。
カチリという小さな音とともに、扉の隙間からペン一本分の光が差し込んできた。廊下の照明が点けられたのだ。しかしそのあとも、足音はすぐに動き出さない。おそらく我々がいる部屋の扉を視界に収め、違和感を抱いたのだろう。
そしてゆっくり歩き出す。極端な警戒の音はない。ここからは呼吸の音さえ、衣擦れさえ立ててはならない。
四歩、五歩。そしておもむろに扉が開かれた。
照明を背に男が部屋に入ってくる。身長一七〇センチ強、体重およそ六十五キロ。私は彼の右側から素早く襲い掛かった。左腕を相手の腰に回し、右手で体勢を崩させる。そのまま全身のバネを使い、男の身体を跳ね上げた。巻き込むようにして地面に押し倒し、前腕で気道を塞ぐ。
完全に不意を突かれた男は、抵抗することもできないまま窒息し始めた。このまま殺してもいいのだが、彼が死んで当然の凶悪マフィアであるとは限らない。それに、陽花の前であまり非道な真似はしたくなかった。
「騒げば殺す」
私は男をそう脅してから、気道をわずかに解放する。ヒューヒューというかすれた音が、辛うじてその口から洩れた。
「とりあえず、早急に用事を済ませましょう」
喬が転がったペンライトを拾い、陽花を促す。ここまでくれば、私が一々指示する必要もないだろう。
今のところ、増援が来る気配はない。この男、一人で忘れ物でも取りに来たのか、家に帰るのが面倒になったのか。どちらにせよひどい貧乏くじには違いない。
そして陽花がいくつかある端末の一つを起動し、ハッキングを開始する。
喬がどこかに行ったと思ったら、ダクトテープのようなものを持って戻ってきた。それを使い、二人で男を拘束する。朝になれば誰かが来て、転がされた彼を見つけるだろう。
「終わったよ」
陽花が端末の電源を落とし、我々に告げた。目的のものを手に入れた今、このビルに用はない。我々は部屋を出て、現場から離脱するため一階に下りた。
フロアには照明が点いたままだ。見回してみると、我々の予想取り、汚らしい休憩室といったような場所だ。改めて探索する価値はないだろう。一瞬迷ってから照明を落とし、玄関を通って再び夜に紛れた。
「侵入が黑色女人に知れるのは間違いない」
レンタカーの近くまで来たところで、私は口を開いた。
「華南軍閥までは伝わりますかね?」
「五分五分だな。報告すれば責任者の首が飛ぶ」
合法的な企業ならば辞任や更迭という形で責任を取らされるが、マフィアや軍閥の世界となると、文字通り死を意味することもある。その危険が大きいならば、トップは今回の事件を隠蔽しようとするはずだ。もしそうなれば、我々にとっては都合がいい。もちろん、黑色女人は血眼で犯人を捜すだろうから、良いことばかりという訳でもない。
ともあれ、今回は無事に仕事を終えた。あとは盗んだデータに何が含まれているか、じっくりと解析すればいい。我々はレンタカーに乗り、ニューロポートのホテルに戻る。夜明けまでにはまだしばらく時間があった。




