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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
魂のサウダージ
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再始動 -4-

 葵青クワイツェン区は先ほどスンと会った場所からやや北西、香港の地理的な中心に位置している。範囲としては多少絞れてきたが、直接調査するにはまだ広すぎる。


 陽花曰く、ここには昔から船舶のターミナルがあり、日々多くの貨物船やタンカーが行き来しているらしい。ならば黑色女人ブラック・レディにとって、馴染みのない場所という訳でもなさそうだ。岱輿城市ダイユー・シティからは、産出されたメタンがひっきりなしに到着するし、マフィアの稼業としておこなわれる密輸や密入国にしても、両方の港を行き来する必要があるからだ。


 黑色女人ブラック・レディという組織にしてみれば、本社機能を支社に移すぐらいの感覚なのかもしれない。


 その日の午後。昼食を済ませた我々はテーブル上の端末に向かい、再度調査の方針を練り直していた。


「当たり前ですが、クレーンみたいな港湾施設が沢山あって、一般人が入れないところも多そうですね」


 チャオはソファで顎をさすりながら、ディスプレイに表示させた地図を眺めている。私は白いカーペットの上で胡坐をかき、その様子を漫然と眺めていた。


「もともと指名手配犯みたいなもんだ。不法侵入ぐらいは気にしないが、場所をどう特定するかだな」


 ふと私が陽花を見ると、何か考え込んでいるような様子である。彼女はソファに仰向けで寝そべり、額に冷水のボトルを当てていた。


「どうした?」

「……囮捜査」


 陽花が天井に目を向けたまま呟いた。私は彼女の意図するところが分からず、すぐに反応できなかった。ソファから身を起こした陽花は、ボトルから水を一口飲んでテーブルに置き、再び口を開いた。


「華南軍閥と、黑色女人ブラック・レディが興味を持ちそうなデータをネットワーク上に置いておけば、使われてる端末を特定できるかもしれない」


 なるほど、とチャオが相槌を打つ。

蜜壺ハニーポットですね」


 二人は勝手に了解しているが、私はまだ十分に理解できない。陽花に説明を求める。


「要するに……」


 彼女の手短な講義によれば、囮捜査、もといハニーポットという手段自体は、ネットワークセキュリティ分野において一般的であるようだ。有益そうな、あるいは関心を引くようなデータが存在するように見せかけ、そこにアクセスした端末を監視する。


 陽花の技術があれば、そこから逆に経路を辿り、場所の特定に至ることまで可能らしい。甘い匂いに誘われて、巣まで毒餌を持ち帰る蟻のようなイメージが、私の頭にぼんやりと浮かんだ。


「なるほど。ヤツらが興味を持ちそうなのは……、フラガラッハか」


 私の言葉に、陽花は眉をひそめる。

「それだとちょっと、あからさますぎるかな」


「じゃあ何を?」

「……お父さんの事件を」


 陽花の個人的な感情は置いておいて、それは合理的な判断のように思えた。瀬田英治が殺害された事件の詳細を知っているのは、黑色女人ブラック・レディとシティの公安だけ。それが起こったこと自体、公には隠蔽された情報だ。闇に葬ったはずの情報が、意図せず外部に漏れたのでは? そういう疑念をマフィア達が抱けば、我々が容易したデータにアクセスしてくる可能性は高い。


「閲覧できる地区を限定すれば、絞り込みの手間も省けそう」

「どれくらいかかりそうだ」

「準備はすぐに。でも釣れるまでの時間は相手次第。昨日のスリよりは長期戦になると思う」


 高度に技術的な部分は陽花に任せるほかないが、監視やチェック程度なら私やチャオにもできるはずだ。急いでなんとかなるものではないから、焦ったところで意味がない。次に攻略すべき対象が見つかるまで、我々はまたしばらく待つことにした。



 ネットワーク上に囮となるデータを設置してから、約二十四時間後。外部からのアクセスを知らせる電子音が、リビングにある陽花の端末から鳴り響いた。そのときはまだ陽が高く、我々は全員が起きて室内にいた。


「来た」


 アクセスに気付いた陽花がいち早く端末に取りついて、解析作業を始める。私とチャオは淀みない彼女のタイピングを邪魔しないよう、静かにそれを見守った。


「あ、切られた」

 アクセスから三分ほど経ったとき、陽花が不意に呟く。


「失敗ですか?」

 チャオが尋ねた。陽花はタイピングを続けつつ、それに答える。


「ううん。場所の特定はできた。端末の中身まで覗いてやろうと思ったんだけど、時間が足りなかった。これ以上やるとこっちがバレちゃう」


 彼女はディスプレイを我々の方に向けた。そこには香港中央部の地図と、アクセスしてきた端末の場所を示す、赤い光点が表示されていた。


葵青クワイツェン区、葵福クワイヘイストリート沿い。ここが怪しい」


 私は地図の表示方法を切り替え、衛星写真を確認してみた。端末がある建物は、さほど高くも広くもない。これが黑色女人ブラック・レディの本拠地であるかはまだ確定できないが、偵察してみる価値はありそうだ。


「じゃあ、乗り込みですかね」

 チャオが拳で掌を叩く。やる気があるのは結構なことだ。


「いや、不用意に手を出すと面倒が増える。まずは近くで様子を見よう。荒っぽい手段を採るのは、それが必要になってからだ」


「いざとなれば暴力も辞さない?」


 陽花が半ば冗談のように揶揄した。彼女にすればまたか、というところだろう。私も、積極的に巻き込む気はないのだが。


「コンピューターがない時代は、それしか方法がなかった」

「そうかなあ……」


 何にせよ、指先だけしか使わない調査よりは刺激がありそうだ。それに黑色女人ブラック・レディの連中には、半年前の借りをまだ返し切れていない。明日明後日で衝突があるかどうかは判らないが、覚悟をしておくに越したことはないだろう。


 岱輿城市ダイユー・シティを取り巻く陰謀において、黑色女人ブラック・レディがその一端を担っているのは間違いない。私は自分達が少しずつ、渦の中心部に近付きつつあるのを感じていた。



 我々が香港に到着してから七日目の朝。窓を開ければ相変わらず、湿った熱気が部屋に流れ込んでくる。今日向かうのは、黑色女人ブラック・レディの拠点があると思しき葵青クワイツェンだ。それなりに危険が予想されるため、ジュリアには一報を入れておくことにした。直接の援助はあまり期待できないが、万が一の場合でも骨は拾ってもらえる。


 調査の為に何かと入用だろうと、追加の送金も頼んでおいた。私やチャオの口座は使えない。そもそも凍結されている可能性が高いし、不用意にアクセスすれば居場所を特定されてしまう恐れがある。あまり無心するのは少々情けない気もするが、必要な経費を前もって受け取っているのだと割り切ることにした。


 また今回はタクシーを利用するのではなく、レンタカーを借りて移動することにした。偽造IDを提示し、港湾にいてさほど不自然でない車種を選ぶ。今のところ、危険なカーチェイスは想定していない。


 移動手段を調達した我々は、九龍カウロン市街を経由して葵青クワイツェンへと向かう。しばらく車を走らせると、やがて海岸線に広がる大きな港湾が見えてきた。葵青クワイツェンの港には、コンテナの積み下ろしや保管をおこなうターミナルがあり、それを中心として数百の施設群が配置されていた。


 岱輿城市ダイユー・シティの港も中々に大きいが、さすがに一千万都市のそれと比べれば、規模においてはかなり見劣りする。そして港の向こうには、小さな海峡を挟んで青衣チンイー島が浮かんでいた。こちらにもまた別の港がある。


 付近を見れば、せいぜい三階か四階までの建物が多い。ほとんどが実用一辺倒の角ばったデザインで、それらが整然と並んでいる様子は、関係者でない我々にとって少々近づきがたく感じられた。


「どのあたりだ?」

 ハンドルを握りながら、私は助手席の陽花に尋ねた。

「もうちょっと先」


 ターミナルの付近は真っ当な企業に占められていて、いくら政府の息が掛かっているとはいえ、新参のマフィアには活動しにくい環境なのだろう。さらに北上すると、車は港湾の外れ、少々さびれたエリアに入った。


「あの建物」


 陽花が指さしたのは、薄い水色の外装を持つ無骨な二階建てだ。一見しただけでは、犯罪組織の拠点であることはおろか、何の会社かも分からない。この中に、陽花のデータにアクセスしてきた端末がある。

 我々は建物を確認してからそれを通り過ぎ、少し離れた場所に車を停めた。黑色女人ブラック・レディの連中がどの時間帯に活動しているのかは知らないが、目を付けられると調査がやりにくくなる。


「さて、どうやってアプローチしましょうか」

「聞き込みもやり辛い場所だな、ここは」


 我々は空調の効いた車内で話し合う。周囲に観光客はほとんどおらず、迷い込んだ一般人を装うにしても、場所以外を尋ねるのは不自然だ。侵入することを考えてもいいが、出入りする人員や状況を把握してからでないと危険が大きすぎる。


「他の建物は普通の会社でしょうかね」

「空きテナントはあるかもしれないが、一つ一つ調べるには時間が掛かるな」


 チャオが検討しているのは古典的な張り込みだ。都合のいいロケーションが見つかれば、それでもいい。


「盗撮、盗聴」

 陽花はまた別の手段を提案した。


「機器は調達できるか?」

「すぐ近くに電気街があるよ」


 遠隔で情報収集ができれば、発覚したときでも比較的安全だ。まずは外堀からということで、我々は一旦近隣の電気街に移動した。


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