再始動 -2-
我々は先ほど聞き込みをした場所から東に移動し、市街の中心部までやってきた。陽花曰く、ここは普段から観光客の割合が多い区画で、今の時間は人通りも増えてくる。迂闊な通行人の財布を狙うには最適の環境だ。
スリから話を聞くための作戦はシンプルなものだ。まず警戒心の薄い観光客を装った囮役を配置して、それを挟むように二名の捕獲役が見張る。囮役の財布をスリが盗んだら、捕獲役がそれを確保する。あとは犯人を路地裏に引きずり込んで、何か聞けそうならばインタビューに付き合ってもらう。何も聞けなさそうなら、少々脅かしてから解放する。法律的なリスクはほとんどない。
ただし肉体的なリスクはある。特に捕獲役は相手の抵抗に遭う可能性があるので、陽花にはさせられない。彼女の華奢な体格はむしろ、手ごろそうな囮を演じるのに適している。
「大丈夫かなあ」
陽花は不安げであるが、犯罪者を捕まえることに関して、我々には十分な経験がある。しかし囮役は囮役で重要だ。彼女にも気を抜かないように言い含める。
「せいぜい痴漢じゃないことを祈っておいてくれ」
痴漢の場合であっても多少怖い目に遭ってもらうことになるが、犯罪者ネットワークについてはあまり期待できない。暴力的な犯罪が起こる可能性について、必ずしもゼロとは言えないが、人通りが多いため、そこまでは想定する必要はなさそうだ。
各々の役割と行動を簡単に打ち合わせてから、我々は行動を開始した。
幅十メートルほどの大通り。左右にはファストフードや土産を売る店が立ち並ぶ。昼なお明るいネオンが灯り、喧騒や電子音が人々の購買意欲を刺激する。
その中に一人いるのが陽花だ。彼女は尻ポケットからわずかに財布を出し、土産を物色している振りをする。
そこから七、八メートルほど離れた場所に私。陽花を挟んだ反対側に喬がいる。スリが通りのどちらから来ようと、私か喬の視界に入るような配置だ。
ただし陽花にしても捕獲役にしても、長時間同じ場所に留まっていると不自然である。我々は何度か場所を変えながら、獲物が罠に掛かるのを待った。
スリを釣るための行動を始めてから、十分、十五分と時間が過ぎる。いくらスリが多い場所といっても、特定の個人が被害に遭う可能性はそこまで高くない。ただでさえ日差しが強い上に、この混雑だ。体力の消耗は早い。
犯罪者を捕まえて情報を得るというアイデアは、やや行き当たりばったりすぎたかもしれない。もう一度、情報収集のやり方を練り直したほういいだろうか。炎天下に焦がされた頭で、私はそう考え始めた。
しかし、私が一旦撤収の合図をしようと思った矢先、陽花に歩み寄る若い男の姿が見えた。私は注意力を取り戻し、男の手元を観察する。彼は陽花に軽くぶつかったかと思うと、彼女の尻ポケットから素早く財布を抜き取っていた。
スリの手並みは非常に鮮やかで、いかにもやり慣れているといった様子だった。とはいえ陽花も警戒している。すぐ財布が盗まれたことを確認し、私に目で合図を送って寄越した。
過剰に反応して気付かれては元も子もない。私は視界の端で相手を捉えつつ、こちらに近付いてくるのを待った。スリの足取りは、とても先ほど犯罪を実行した人間のようには見えない。良心の呵責を持たない、常習的な窃盗犯の特徴だ。私との距離が縮まる。残り五メートル、三メートル。そしてスリが目の前を通過する瞬間、私はその左腕を素早く掴んだ。
「何だ?」
スリはまだ陽花の財布を握ったままだった。私は彼の抵抗と抗議の声を無視し、問答無用で腕を引いて裏路地に連れ込んだ。
男は身体を捻って拘束から逃れようとするが、私は腕を離さない。膂力で敵わないと悟ったのか、男は蹴りを繰り出して私の腰あたりを狙ってきた。しかし所詮はけちなスリであって、肉体的な脅威にはならない。私は彼の脚を抱え込んで振り回し、ビルの壁に叩きつけて押さえこんだ。
「まず、連れの財布を返してもらおう」
相手が痛みで呻いている間に腕を捻じり上げ、抵抗できないようにする。その手から陽花の財布が落ちた。
「畜生、ハメやがったな」
スリは壁で胸を圧迫されながら、絞り出すように言う。
「警察に突き出されたくなければ、大人しくしていろ」
そのうち、裏路地の入口から陽花と喬が合流した。敵が増えたことで観念したのか、スリは抵抗をやめて、強張った全身の力を抜いた。我々は万が一にも逃げられないよう、男を挟むようにして退路を塞いだ。陽花が地面に落ちた財布を拾う。囮なのが重さでバレないよう、小銭だけが入った安物の財布だ。
「何なんだよ」
得体の知れない我々に、男が困惑した様子で言う。私が手を放すと、彼は壁を背にして我々の顔を交互に見比べた。容姿からして、かなり若い。
「暴れなければこれ以上危害は加えない。いいな?」
私は努めて穏やかな声で言った。男はまだ怪訝な顔でこちらを見ている。
「少し情報を集めてる。話を聞かせてくれ」
「……それで?」
私は質問を考える。この男自身が情報通、という感じはしない。
「香港の裏事情に詳しい人間を知らないか?」
「情報? アンタら、探偵か何かか?」
案外鋭い。横で喬が苦笑した。
「まあ、おおむね正解だ」
我々がどういう種類の人間かほのめかしたことで、男は多少なりとも安心したようだった。彼は大きく息をつき、壁に背を預けた。私が先ほどまで捻じっていた腕をさすっているが、手加減したのでそこまで痛めてはいないだろう。
「脅かすなよ。マフィアかと思ったぜ」
私は彼の口から、マフィアという言葉が出てきたことに引っ掛かった。普通は警察の囮捜査だと考えそうなものだ。
「なぜそう思う?」
「本当にマフィアじゃないんだな?」
男はしつこく確認する。後ろ暗いことがあるからか、元々疑り深い性格なのか、それとも、まだ我々の目的を図りかねているのか。
「マフィアに見えるか?」
私は陽花を一瞥する。わざわざ少女を連れて荒事に臨むマフィアはいないだろう。もっとも、ではそういう探偵がいるのか、と聞かれると困るのだが。
しかし私が言わんとすることはなんとなく察したようで、男は軽く肩を竦めた。
「それもそうだな」
その仕草を見るに、案外気のいい人間なのかもしれない。環境が許せば、犯罪に手を染めない程度には。とはいえ、今のところ彼の境遇に思いを馳せる必要はない。
「なぜマフィアだと思った?」
改めて、私は尋ねた。
「最近、新参のヤツらが入ってきたからだよ。俺達のグループは、地元マフィアともうまくやってたんだ。その縄張りに入ってきて、勝手やってる連中がいる。仲間が襲われたこともある」
気になる話だ。警察の動向や利権の関係で、犯罪組織が拠点を移すことはよくある。我々が調べているトピックに関係してくるかもしれない。
「そいつらの名前は?」
「黑色女人」
その言葉を聞いて、我々は思わず顔を見合わせた。
半年前、華南軍閥の息が掛かったこの組織は、サイバー兵器であるフラガラッハを狙い、陽花の父親を襲撃した。その事件を追う過程で私と陽花は拉致され、命からがら逃げ出したのだ。その際、黑色女人やその所有物はかなりの打撃を受けたはずで、以降半年間は、なりを潜めているものと思っていた。しかし彼らは拠点を香港に移し、密かに活動していたらしい。
「何だよ?」
我々の反応を見て、男は何か自分がまずいことを言ったのか、と不安そうな顔をした。別段、彼に説明してはいけない理由もないが、さすがに事情が複雑すぎる。こちらの詳細を明かすのは、必要に迫られたときだけでいいだろう。
「何でもない。その黑色女人について、詳しいことを教えてくれ」
男はかぶりを振った。
「さっき言ったことで全部だよ。正直、関わり合いになりたくないんだ」
様子からして、おそらく嘘は言っていない。確かめるために暴力をちらつかせることもできるが、現時点では極力慎重に調査を進めるべきだ。
となると、この男から聞き出せることはもうなさそうだ。私は口止め料として彼に五十ドルを渡し、早々に路地から解放した。
「尾行でもしてみます?」
去りゆく男を見ながら、喬が言った。
「いや、やめとこう。余計なトラブルの種になる」
「了解」
日の当たらない裏路地で、我々は次の行動について話し合った。黑色女人が香港で活動している、というのは調査を進める上で大きな足掛かりだ。しかし新参の組織とはいえ、土地勘のない場所でマフィアを追い回すのはリスクが高い。
だからと言って、諦めてしまうにはあまりに惜しい。どうにかして、黑色女人の情報を辿っていく必要があるだろう。彼らがただ拠点を移しただけとは考えにくい。マフィアにとって縄張りを捨てるということは、即ち資金源を失うということだ。黑色女人が拠点を移したならば、何か余程のメリットがあったか、もしくはスポンサーの強い意向が働いたか、ということになる。
しかし新しい利権を確保する地として、古参マフィアがひしめく香港は明らかに適していない。だとすれば、黑色女人の後ろ盾である華南軍閥が、なんらかの指令を下している可能性が高い。もっともあり得そうなのが、岱輿城市を取り巻く、夏大偉の陰謀に関わるものだ。
黑色女人が具体的にどのような役割を負っているのかは分からない。それを調査するにしても、香港という街はあまりに広すぎ、我々が動員できる人数はあまりに少なすぎた。もっと具体的な方針を立てなければ、散らばる情報を網羅するのは困難だ。
ここは意地を張らず、また情報端末を用いた調査に立ち戻るのが得策だろう。
「私の出番?」
我々がそのような結論に達すると、陽花が寄りかかっていた壁から背を離して言った。
「そうなるな。帰りに冷たいものでも買ってくか」
時刻は昼前。我々は再びタクシーに乗り、拠点となるニューロポートのホテルへ戻った。




