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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
魂のサウダージ
42/60

逃れた先 -2-

 我々のために用意されていたのは、広々としたスイートルームだった。白い漆喰と木材を基調とした室内は、埃と汗と潮で汚れた我々が気後れするほど、隅々まで掃除が行き届いている。


 フロアを見て回ると、寝室、ソファセット、シャワールームが二つずつあり、リビングの窓からは、深い青色の海に浮かぶ島々と、先ほどまでいたランタオ島の緑が良く見えた。一泊にどれだけの金額が掛かるのか、私の凡庸な金銭感覚ではなんとも計りがたい。


 とはいえ、我々が今必要としているのはもっと最低限の充足だ。ひとまずは交代でシャワーを浴び、スナックで小腹を満たし、清潔なシーツが敷かれたベッドの上に倒れ込む。じわじわとした疲労を全身に感じつつ、私はまたしばらく眠った。



 四、五時間は経っただろうか。私は昼前になって目を覚ました。隣を見ると、まだチャオが寝息を立てている。


 私はベッドを降り、リビングに顔を出した。ソファに座った陽花がテーブルの上にノート型端末を広げ、何かの作業をしている。端末の脇にはあとから届けられたらしい、パックに入ったカットフルーツや、サンドイッチなどの食料が置かれていた。私はキッチンでコーヒーを淹れ、陽花の対面に腰掛ける。


「月島さん、顔の怪我、大丈夫?」

 陽花がディスプレイから顔を上げ、尋ねた。


「ああ、問題ない」

 私は屍食鬼グールの隊員に殴られた顎のあたりをさすりながら答えた。まだ腫れは引かないが、痛みは少し収まった。


「ジュリアは?」

「本社に顔出すって」


 今回我々が手に入れた情報の重要性からして、メールやデータで報告という訳にはいかないのだろう。彼女は休息もそこそこに、また出かけていったらしい。勤め人の苦労が偲ばれる。


 私がジュリアに同情していると、陽花はまた小難しい顔をしてディスプレイを見始めた。


「何してるんだ?」

「シティの情報を集めてる」


 雷富城レイフーチェンへの裏切りを示すXリストの流出は、もう夏大偉シァダーウェイの知る所となっているだろう。言わば尻に火のついた状態で、造反計画を前倒しにするということは十分考えられる。公になるにせよならないにせよ、情勢は流動的だ。


 私は陽花が船上で言ったことを思い出す。シティを再訪し、父が殺された現場に花を供える。そしてそれは、復讐の達成とセットでなければならない。


「俺と君がシティに戻るには、夏大偉シァダーウェイを排除する必要がある」

 私はコーヒーを一口飲んでから切り出した。私が言ったことは、彼女も当然理解しているだろう。

「それを願う勢力は、シティ政府主流派、グウィディオン」


「その人達は味方だけど……仲間じゃないよね。ジュリアさんはともかく」


 陽花は一旦端末を脇に除け、置いてあったサンドイッチを取った。包装を剥がす訳でもなく、しばらく両手でもてあそぶ。


 彼女の言う通りだ。それらの組織は我々に害を為さないだろうが、当然独自の目的と論理を持っている。グウィディオンにしたところで、今後ずっと援助を提供してくれるとは限らない。


「他の人にやってもらっても、私は自分の気持ちが整理できない。だから何か、私にできることがないか、調べてるんだけど」


 気持ちが整理できない、という点について私は陽花に同意した。Xリストを入手したグウィディオンが、シティ主流派やその他勢力と連携してシァを打倒する。そうすれば危機は去るが、我々の溜飲は下がらない。目的だけではなく、手段も重要なのだ。


 陽花は閉じられた端末に目を落とした。様子からして、今のところ有用な情報を得られてはいないらしい。彼女の表情には焦りが感じられた。


「昨日の今日だ。どのみち三日は動けない。気持ちは解るが、少し休んだ方がいい」


 本当ならば少し休むどころか、二、三カ月休養してカウンセリングを受けるべきだ。つい麻痺しがちだが、我々が昨日体験したのはそういう種類の出来事である。


「そうだね……、そうする」


 心から納得したかどうかはともかく、少なくとも陽花は、しばらく休憩を取ることに決めたようだ。キッチンからミネラルウォーターを持ってきて、ようやくサンドイッチの包装を剥がしはじめる。


 すると、食べ物の匂いに釣られたのか、チャオが寝室から出てきた。動きを確かめるように、肩や腰を回している。


「普段使わない筋肉を使いました。全身が痛い」


 昨日の逃走劇で、最も身体的なダメージを受けたのはチャオだろう。屍食鬼グールの隊員に組み伏せられて、頭を撃ち抜かれそうになる場面もあった。


 それだけではない。今回の一件で、生活上の損失が一番大きいのも彼である。陽花はそもそも高校を卒業したばかりだし、私は場所さえあれば一応仕事は再開できる。ジュリアはむしろ今回の事件で手柄を立てた。だがチャオは違う。元々シティの刑事だった彼が、今や犯罪者同然に追われる身となってしまった。加えて黒幕は同じ警察組織の人間であり、目の前で同僚を殺されてもいる。


 そういうシビアな要素を抱えているにも関わらず、チャオの態度はそれほど思いつめた風でもない。浅薄なようにも見えるが、どんな状況でも前向きに次の一歩踏み出せる、というのが彼の強みだ。とかく深刻になりがちな私と陽花にとって、チャオの存在はある意味ありがたかった。


「悪かったな、巻き込んで」

「いいんですよ」


 チャオは眠たげな様子で目頭の辺りを揉みながら、陽花の横に腰掛けた。


「僕だって公安の連中は許せません。裏で糸を引いてる卑怯者もね」

 彼は拳を作り、大仰な仕草で自分の胸を二度叩く。


「それに、月島さんと仕事をするのは楽しいですし」


 陽花が私とチャオを見比べて首を傾げた。昨日の出来事を楽しいと表現することに対して、理解しがたいと考えている顔だ。しかし私には、なんとなく彼の気持ちが解った。


 十年前、シティの刑事は、常に死の危険と隣り合わせで、細かなリスクの査定はあまり意味を成さなかった。避けられない危険があるならば、せめて背中を預ける相手は信頼できる人間がいい。逆に言えば、良き相棒さえいたならば、多少の苦難は恐れるに足りない。


 当時の私はそう考えていた。チャオは今でもそう考えているのだろう。


「でも、僕らは次、どうすればいいんでしょうか?」

「焦るな。ジュリアが俺たちのことを忘れてないなら、そのうち新しい情報を持って帰ってくるはずだ」

「そうですね。ただジュリアさん達の……なんでしたっけ」


「グウィディオン」

 陽花が答える。


「そうそう。グウィディオンがどれだけ協力してくれるかは分かりませんし、結局、僕らは僕らで、できることをやるしかないんでしょうね」


 次に事態が動けば、また慌ただしくなる。できることをやるのが方針ならば、今このときはしっかり休息すべきだ。我々はそのように合意して、この日は努めて怠惰に過ごした。



 翌日の午前十一時ごろ、部屋の電話が鳴った。私は一瞬警戒したが、ホテル内のものならば大丈夫だろう、と受話器を取った。


『こちらフロントでございます。レベッカ・リーさまから、月島さま宛にリクエストが入っておりますが、いかがいたしますか?』


 慇懃な調子の女性従業員が告げる。リー女史が直接出向いてくるとは、少々意外だ。


「繋いでくれ」

『かしこまりました』


 私は小さな受話器を耳に当てたまま、しばらく待った。女史は今回の事件に直接関係している訳ではない。それでも彼女は陽花の保護者であるから、Xリストを巡る脱出劇の概略ぐらいは報告しておくべきだろう。


『お久しぶりです。月島さん』

 電話口に出たリー女史の声は、半年前と変わらず平静だった。


「どうも。またちょっと死線をくぐりましてね」


『そのようですね。今後のことも含めて、詳しい話を聞きたいと思っています。今、ラウンジまで下りてきてもらっても?』


「構いませんよ。ずっと缶詰で退屈していたところです。陽花は連れて行きますか」

 

リー女史はほんの少し考えたあと、答えた。

『ひとまずは月島さんだけいらっしゃって下さい。陽花がいると目立ちますし、できない話もあります』


 陽花は朝食を食べたあと、ずっと寝室に籠もっている。チャオはホテル内に在るトレーニングジムに行ってしまった。安全を期してずっと一緒、というのも疲れる話だ。私は陽花に外出することだけを伝えてから、ホテル一階のラウンジへと向かった。


 今はチェックアウトの時間を過ぎており、チェックインにはまだ早い。明るすぎない落ち着いた雰囲気のラウンジには、せいぜい二、三組の客がいるだけだった。いくつかある丸テーブルと、それぞれを囲むように配された布張りの一人掛けソファ。ホテルの玄関から最も遠い位置に、見覚えのある女性の姿があった。


 近付くと、彼女は座ったまま軽く頭を下げた。私も会釈を返してから、対面のソファに腰掛ける。


「無事で何よりです」

 穏やかな声でリー女史は言った。


「五体満足でいるのが不思議なくらいです。今日はなぜこちらに?」

「あなたにお礼とお詫びをしなければならないと思ったからですよ」

「はあ」


 私は思わず間の抜けた声を出した。

「何についてでしょう」


「ジュリアにあなたのことを紹介したのは私です。結果として、また危険な仕事をさせてしまうことになりました」


 そういえば、ジュリアもそんなことを言っていたような気がする。


「この業界ではよくあることです。それに私は私なりに納得して仕事を請け負いました。あなたが責任を感じる必要はまったくありません」


 むしろ、と私は言葉を継ぐ。

「謝らなければならないのはこちらです。私は自分の仕事をしたまでですが、陽花を連れて行く必要はありませんでした」


 リー女史は苦笑しながらかぶりを振った。彼女にしては珍しい仕草のように思えた。


「あのがなんと言ったか、大体想像がつきますよ」


 一時期滞在していたカリフォルニアや落ち着いた先のシンガポールで、陽花はどんな振る舞いをしていたのだろうか。昨日私が体験したような無茶や強情を繰り返していたのなら、リー女史も中々に苦労したことだろう。


「事件のことは、ジュリアから?」

「ええ。ですが、本当に要点だけ。詳しく聞かせてもらえますか」


 黙っていてもそのうち伝わるだろうが、私は女史に事件のあらましを話しておくことにした。シティや香港を巡る微妙な政治情勢について、彼女に意見を聞いておきたい、という思いもあった。ただし万が一盗み聞きされたときのために、核心となる固有名詞だけは微妙にぼかすことにした。


 女史は終始神妙な表情で話を聴いていた。私が語り終えると彼女は大きく息を吐き、眉間にしわを寄せてしばらく考え込んだ。


「まず、華南軍閥が岱輿城市ダイユー・シティを手に入れるための動きを、急速に具体化させつつあるのは間違いありません」


 リー女史の言葉に、私は頷いた。


「内戦当時の華南軍閥には、シティを手に入れるほどの余裕はありませんでした。ですがそれをしないことには、南シナ海での影響力は弱る一方です」


 彼女はシティの地政学的な重要性を説く。もともと中国大陸は、太平洋への出口を沖縄諸島と台湾に塞がれている。だから中国は二十一世紀前半、活路を南シナ海に見出した。東南アジア諸国の勢力範囲であれば、強大な経済力と軍事力でこじ開けることができるからだ。


 しかし東南アジア諸国の急速な成長と、中国の分裂で事情は変わる。一億を超える人口を抱えるインドネシア、フィリピン、ベトナムなどを合わせれば、華南軍閥の経済力を上回る。周辺諸国が結託した場合、華南軍閥は中国大陸に封じ込められてしまうことも考えられるのだ。あと十年もすれば、それが具体的な可能性として現実味を帯びてくる。


 そうなる前に、と無理やり出ていくためには、鼻先の岱輿城市ダイユー・シティが邪魔になる。だから華南軍閥の野心がシティに向かうのは、半ば必然と言えた。南シナ海への橋頭保となる以外に、産出されるメタンハイドレートを握れば、東南アジアのエネルギー市場にも大きな影響力を行使できる。


「勢力の拡張を最優先するのは、いかにも軍閥らしいですね」


 私は素直な感想を述べるにとどめた。正直、複雑な国際情勢の話は実感を持って考えることができない。


「それはそうと」

 私の無関心を感じ取ったのか、リー女史は話題を変える。


「陽花の様子はどうです。まだ父親の死に固執していますか」

「変わらず復讐を誓っていますよ」


 私が答えると、リー女史はやや表情を曇らせた。彼女は陽花が仇を追うことについて否定的なようだった。


「陽花は天才です。この半年ではっきりそれが解りました。真っ当に生きれば幸せになれるのに」


 この場合の真っ当とはなんだろう、と私は考えた。大学に行き、研究者として生きることだろうか。父親の死を過去のものにして、明るく生きることだろうか。平均的な感性を持つ人間にとって、それは真っ当だと言えるかもしれない。しかし知的にも精神的にも非凡な陽花が、それを妥当なものとして受け入れるとは思えなかった。


「多分、陽花は復讐を果たさない限り、どこへも行きたくないんでしょう。愛や時間やカウンセリングでは、助けにならないと考えているんですよ」


「それについて、月島さんはどう思いますか?」

「彼女自身が決めることです。自分で決めることに意味があります」


 その人間が重大な岐路でどのような決断をするかについて、本人以外が評価を下しても意味はない。私自身の願望を語ることはできるが、それも同様に意味がない。


「……私には陽花を止めることができません。陽花をお願いできますか」


 女史はやや疲れ、諦めたような口調で言った。私は内容的にはそれを受け入れつつも、言葉の上ではやんわりと拒否した。


「あなたに頼まれるのは、少し筋が違います。以前は報酬でそれを請け負いましたし、二度目は彼女の意思を尊重しました。今度は私自身の意思で陽花と目的を共にします。私の復讐心は、彼女に比べれば大したものではないですが」


 それでも、リー女史は私の言葉に満足したようで、目をつぶり、納得したように何度か頷いた。


「少しでしゃばりすぎました。自由意志の尊重を謳いつつ、身内のことはままならないものです」


 そして彼女は元の穏やかな表情に戻り、しばし沈黙した。私はそれに少し付き合ったあと、別れを告げて部屋に戻った。


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