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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
魂のサウダージ
41/60

逃れた先 -1-

 小型の高速艇が生温い海風を切り裂き、暗い波間を進んでいる。


 私と陽花、そしてチャオとジュリアは、命からがら岱輿城市ダイユー・シティを脱出したあと、それぞれの思惑や決意を抱えながらも、揃って洋上の人となっていた。しかし過酷な逃避行による激しい消耗のため、具体的な考えを巡らせるまでの余力は既に残っていない。我々は皆ぐったりと甲板に横たわり、船の振動で頭が床にぶつかるのも構わず、香港までの数時間、死んだように眠った。


 次に私が目を覚ましたときには、東の空が白く染まりつつあった。ゆっくり上半身を持ち上げて船の前方を見ると、林立する摩天楼が残り数キロの距離まで近付いてきていた。


 陽花は私より先に起きていたらしく、船べりから香港の景色を眺めている。


「大丈夫か?」

「月島さんこそ」


 振り向いた彼女の瞳には、疲労から来るものではない不安定さが見えたような気がした。私が確認を怠れば、気付かないうちにどこかに行ってしまうのではないか。さしたる根拠はないが、今の彼女にはそう思わせる何かがあった。


「そろそろ到着だぜ、お姫様方」


 私が起き出してきたのを見て、ドンが言った。我々を船に乗せ、岱輿城市ダイユー・シティから脱出させた兄弟の片割れだ。その声を受けて、チャオとジュリアも気だるげに起きあがる。


「密入国者ってことになるが、大丈夫なのか」


 私はジュリアに尋ねた。無事香港に辿り着いたとして、そこで拘束されては脱出した意味がない。ジュリアは乱れた髪をかきあげながら答えた。


「さすがに手を回してあるわよ。心配しないで」


 彼女は密入国ブローカーではないが、もともと諜報に明るい人間で、さらに巨大企業の後ろ盾を持っている。都市に人間を二、三人紛れ込ませるぐらい、訳のない仕事なのだろう。私はジュリアの言葉通り、余計な心配をするのをやめ、速度を落とした船が陸に近付いていくのを見守った。海面や遠くのビル群が朝日を反射し、起き抜けの眼に眩しく映る。


 華南軍閥支配地域、香港。一九九七年にイギリスから返還されて以降、一国二制度と呼ばれる政策のもと、資本主義の果実を享受してきた巨大都市メガシティ


 イギリス統治時代の遺産である民主的な気風によって、ときに中央政府との衝突を生じさせながらも、金融業をはじめとした強大な経済力を背景に、東アジアの雄として百年近く君臨し続けてきた。


 二〇五八年に勃発した中国内戦においても、香港はそれほど大きな被害を受けなかった。アメリカをはじめとした諸外国の圧力により、大規模な空爆や海戦が発生しなかったからだ。その点、敵対勢力の支配地域に面した内陸諸都市の市民に比べ、香港市民は幾分か幸運だった。


 一時は外部からの避難民によって混乱を呈したが、香港はそれさえも取り込んで規模を拡大し、中国随一の都市として、その地位をさらに確かなものとした。現在、領域内に抱える人口は実に一千万を数える。


 しかし内戦終結以降、この地域を支配した華南軍閥によって、香港市民は政治的な逆境に晒されることになった。勢力基盤が未だ不安定だった軍事政権は、反対勢力を徹底的に弾圧したのである。民主主義と自由主義の芽は根こそぎにされ、反体制に繋がる思想は強力に統制された。体感的な圧力としては、岱輿城市ダイユー・シティより苛烈だと言えるかもしれない。


 そういった政治的・経済的な特異性とはまた別に、香港は先進的な電脳都市という一面も備えている。世界的IT企業であるオートマタの本社を擁する香港は、彼らが開発した技術やソフトウェアのある種モデルケースとして、その至る所で高度なネットワークに接続されているのだ。


 私は過去に仕事として、香港を数度訪れたことがあった。そのときは精々半日から二、三日の用事であったので、地理や情勢を詳しく知るほどの時間や必要はなかった。しかし今回の滞在は、もう少し長いものになるかもしれない。繊細な立ち回りも要求されるだろう。心配しすぎても仕様のないこととはいえ、これからの窮屈さを想像すると、幾分気が滅入った。


「ずっと気になってたことがあるんだけど」

 寝起きだった全員の意識が清明さを取り戻してきたころ、陽花が出し抜けに言った。


「何だ?」

「私のお父さんが殺されたときのこと。黑色女人ブラック・レディと、シティの公安が小競り合いを起こした」


 彼女の言葉を受けて、私は半年前のことを思い返す。香港からシティを訪れた瀬田英治と陽花の父娘は、居住区アップタウン黑色女人ブラック・レディに襲撃された。


 マフィア達が手に入れようとしたのは、英治が持つサイバー兵器であるフラガラッハ。父娘を追い込み、拉致しようとした矢先、シティ公安の介入によって銃撃戦が発生した。その結果英治は死亡し、陽花は運よく逃走して生き残った。


「だけど公安の背後にいるのも、結局は華南軍閥。本当は協力者同士なんじゃないの?」

「互いに末端ですから、連携がうまく行かなかったんでしょうか」


 チャオが私見を述べる。刑事として当時の事件に関わった彼だが、ほとんど初動の段階で捜査は打ち切られてしまった。


「衝突は多分偶発的なものだったんだろう。本格的な対立に至らなかったのは、やはり早い段階で、上層部同士の調整があったからだろうな」


 とはいえ、のんびり会談などしていては、屍食鬼グールの連中が黑色女人ブラック・レディの拠点に送り込まれるぐらいのことは起こったかもしれない。そうならなかったのは、政治家よりも現場に近いレベルの人間が素早く命令を下したからだ。


 この推論は、夏大偉シァダーウェイが造反の首謀者であることを補強するものとなる。彼は旧来の香港派が持たなかった実力部隊への影響力と、断固たる行動力を持っている。だからこそ警察副長官というポストにあって、直接雷富城(レイフーチェン)の地位狙うことが可能なのだろう。


「難しいことはジュリアに任せよう。俺達はシァを殴ることに集中すればいい」


 私は陽花を励ますように言った。ジュリアがこめかみを手で押さえる。


「任される方の身にもなって欲しいんだけど」


 そうこうするうちに、船は香港島を右に見ながら、その西にあるランタオ島に舳先を向けた。この島は香港の一部でありながら多くの自然を残し、どこかリゾート的な趣のある場所となっている。ここであれば我々の船も、レジャーのためのものだと偽装しやすい。無論、機銃は隠しておかねばならないが。


「上陸したあとは、どこに行くんです?」


 チャオがジュリアに尋ねた。島内でキャンプし続ける訳にもいかないだろうから、当然どこかに滞在拠点を持つことになる。


「ニューロポートに行くわ」


 ニューロポート。一応、私にも聞き覚えのある地名だ。確か香港島の西にあったと思うが、これまではほとんど縁のない場所だった。そこに何があるのかをジュリアに確認する。


 彼女の説明によれば、ニューロポートは比較的新しく開発された区画であるようだ。もともと大企業の本社やショッピングモール、ホテル、高級住宅地、教育機関などが全て包含されるよう造成された場所を、内戦の混乱が沈静化してから再開発したらしい。オートマタの本社もそこにあり、ニューロポートの中核として威容を放っている。


 今後の具体的な予定として、我々はひとまずニューロポート内のホテルに身を隠し、事件のほとぼりを冷ますことになっているらしい。これから置かれる立場はともかく、ちゃんとしたベッドで眠れるのはありがたい。


 我々を乗せた船は、点在する小島の間を通り抜け、やがてランタオ島の南にある海水浴場の脇に接岸した。よろよろと数時間ぶりの陸地へと降り立ち、用意されていたライトバンに乗り込む。ドンとミンの兄弟とは、そこで一旦別れることになった。


 全員の衣服は酷く汚れていて、私とチャオの顔には傷がある。車内であっても人に見られればまず間違いなく疑われる風貌だ。しかし手配の良いことに、換えの衣服が用意されていた。


「ちゃんと後ろ向いてて下さいね」


 着替える際にチャオが茶化したが、陽花とジュリアはぐったりとした表情のまま彼を無視した。


 運転は迎えに来た者に任せ、我々四人はビニール張りの後部座席に身体を収めた。シティで負った傷に加えて、固い甲板で寝たため、全身の所々に痛みがあった。それでも二、三日休めば、ある程度までは元通りになるだろう。全員に問題がないことを確認して、車は海岸を離れた。


 ランタオ島を東に向かう道路の左右は、亜熱帯植物の林である。シティには存在しない旺盛な緑。このあたりは国立公園に指定されていて、今なお膨らみ続ける過密都市の開発から守られている。現在は夏季休暇の時期であるが、今は早朝。往来する車は少ない。


 車は古びた巨大テーマパークを横目に見ながら、ランタオ島の北東に架かった橋を通る。中国本土と地続きの新界へと入り、南東に進路を向ければ、すぐに九龍カウロンの繁華街だ。


 車窓から見えるのは、頭上に貼り出すようなネオン看板やディスプレイ。そして圧倒的な高層ビル群。それらが広範囲に渡って、アジア有数の繁華街を形成している。局所的に見ればシティの賑やかさも負けてはいないが、いかんせん街の規模が比べ物にならない。


 それに加え、香港の街では伝統文化の薫りが随所に感じられる。自動化され電脳化されてなお、元々あった歴史の土壌が残っているのだ。シティでは残念ながら、そういった非合理は意図的に排されてしまった。


 岱輿城市ダイユー・シティと比較しても、香港は中々に暮らしやすい場所だ。私は自分がこの街で生活するさまを想像する。安定して仕事を得られるまでには時間が掛かるだろうが、探偵業の需要自体はありそうだ。当面大人しくしていれば情勢も安定して、身辺の危険に神経を使う必要も減ってくるだろう。


 しかし香港に落ち着くということは、敗北者という立場を受け入れるということだ。私はまだそこまで、自分の人生と矜持を捨ててはいない。


「随分久しぶりだ」

 そんなことを考えながら、私は誰に言うでもなく呟いた。


「私は一日ぶりだけど」

 陽花が言った。よくよく考えれば、彼女を空港へ迎えに行ったのは昨日のことである。随分濃密な一日だった。どうりで疲労するはずだ。


「それで、これからの予定なんだけど」


 ジュリアがまた説明を始める。我々は協力者による諸々の工作が済むまで、少なくとも三日は大人しくする必要があるらしい。私とチャオはもちろん、陽花もその対象だ。


 三日というのは私が想像していたよりも、かなり短い期間だった。とはいえ、それは最低限行動ができるようになるまで、という意味であって、当局の警戒をしなくて済むようになるまで、という意味ではない。夏大偉シァダーウェイの目論見が潰えない限り、我々が安心して暮らせる日は来ないだろう。


 私は窓の外に目を遣る。九龍カウロンを抜け、香港島に入った車は、そのままトラブルもなく目的地付近に到着した。


 ニューロポートは香港の中心街からやや離れてはいるが、複数の区画がコンパクトにまとまった、それ自体が小さな都市のような場所だった。大規模な計画のもと、大量の資本を投入して造ったという意味では、岱輿城市ダイユー・シティと似ていると言えなくもない。巨大な複合施設を遠目に見ながら、車はニューロポートの外れに向かった。


 すぐに見えてきたのは、背後に海を望む十階建ての優美なホテルだった。五つ星の超一流、というほどではないが、それでも十分高級な部類に属する。


 そしてホテルの等級にやや不釣り合いなライトバンが、ゆっくりとエントランスに停まった。我々はようやく、ゆっくり身体を休められる場所に到着したのだ。車を降りるとき、陽花がよろめいて転びそうになり、私はとっさにその腕を取った。彼女はもちろん、皆が疲労していた。


「……お腹減った」

 呟いた陽花に、私は苦笑しながら同意した。


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