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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
電海のフラガラッハ
4/60

断片 -1-

 私が居住区アップタウンで少女と出会い、彼女の父親らしき人物の死体を発見してから、二日が経っていた。朝、私はつい先日と同じように身支度を整え、同じ道筋でリー女史の住所へと向かった。


 事件の翌日は特に予定もなく、私はほとんど一日中を自宅で過ごした。長い時間テレビを付けていたが、報じられたシティ内の殺人事件は一つもなかった。インターネットのニュースサイトでも同様だ。


 もちろん、シティで起こった全ての凶悪事件がニュースになるわけではない。しかし日本人の技術者が殺されたとあれば、さすがに何らかの報道があってもいいはずだ。もしかすると捜査の都合上、公表できない理由があるのかもしれないが。


 リー女史から連絡があったのは事件翌日の昼前だった。私はてっきり依頼がキャンセルされるものと思っていたが、幸か不幸かその見込みは外れた。彼女は再び、自宅に話を聞きに来てほしい、と伝えてきたのだった。


 リー女史は以前仕事について、殺害された男性に関係することだと言っていたが、私はそれがどんなものだか想像がつかなかった。しかし依頼は必ず受けなければならない、という訳でもない。私は詳しく話を聞くべく、また彼女の元を訪れることにした。


 連日の暑さは少しだけ和らぐ気配を見せ、今日は幾分か過ごしやすくなりそうだった。休日で英気を養った私の足取りは軽かったが、一体何が話されるのか、ということが気に掛かっていた。それでも私は予定の時刻に、リー女史の自宅である高層アパートの前に着いた。


 このあたりは居住区アップタウンの中でも上等な場所で、家賃の平均は月二五〇〇ドルを下回らない。政策によって家賃が抑えられているとはいえ、このアパートにしても、普通に働いていたのではまず手の出ない物件だ。


 私は建物に入ってすぐの小部屋で、自動音声の案内に従い、目的地を告げた。


『お待ちしていました。どうぞ』


 映像でこちらを確認しているらしいリー女史の声が聞こえ、目前のドアが開く。小部屋に続くアパート共用のエントランスでは、ほとんど壁一面の窓から差し込む陽光が白い大理石風の床材を照らし、古代地中海の様式に似た、一種浮世離れした空間を作り出していた。


 私が奥へ歩いていくと、待ち構えていたようにエレベーターが到着し、そのドアが開いた。乗り込んで目的階のボタンを押し、増えていく階数表示を眺める。エレベーター一つとっても、私の事務所があるような、賃料の安いビルのそれより乗り心地がよい。作られた年代はそう違わないはずなのに、なぜそういう違いが生じるのか、私には解らない。


 ほどなくエレベーターは八階に到達し、私は幅の広い廊下を通ってリー女史の部屋を探した。間違えないよう番号を確認した部屋の前でインターホンを押すと、内蔵されたスピーカーから入室を促す女性の声が聞こえた。一瞬遅れてドアが開錠され、私は指示されるまま屋内へと足を踏み入れた。蝶番には錆一浮いておらず、開閉されたドアは軋み一つ上げなかった。


 中に入ると、すぐのところがキッチンになっている。調理台の反対側には花瓶に入ったピンクのスイートピーが生けられていた。シティでよく見られる芳香剤を付けた造花ではなく、本物の花だった。しかし一見したところ、今まで訪れた依頼人の部屋に比べて装飾は少ない。間取りはともかく、内装はやや質素であるとさえ言えた。


 キッチンの先には広く明るいリビングダイニングがある。私はキッチンを通過して、広いリビングダイニングで座ったまま待ち受けていた女性に、軽く頭を下げて挨拶した。


「どうも、月島です」

「無事に来ることができたようで何よりでした。電話を差し上げたレベッカ・リーです」


 リー女史はさっぱりした、屈託のない口調でそう答えた。彼女は上品に膝を揃えて、柔らかそうなソファに座っていた。


 見たところ、彼女は六十歳近い年齢で、服装や雰囲気からして資産家というよりも、なんらかの頭脳労働をしている人間のように思えた。灰色の髪を頭の後ろで簡単に束ね、化粧もほとんどしていない。全体的に痩せていて、それが彼女のくっきりとした目鼻立ちを一層鋭く見せていた。アジア系の血が混ざっているのは間違いなさそうだったが、正確な人種は判別しかねた。


 失礼にならない程度のごく短い時間、私は彼女を観察し、彼女も私を値踏みした。それから女史は思い出したように対面の席を勧め、予め用意してあったティーセットで飲み物を淹れ始めた。私はソファに尻を沈める前に、名刺を取り出してテーブルの上に置いた。


「各種調査ごとをされているとお聞きしています」

 女史は手に取った名刺に目を走らせながら言った。


「浮気調査や素行調査が多いですが、犯罪にならない範囲であれば、内容について広く相談に応じますよ」

「安心しました。見たところお若いですが、探偵業はお一人で?」

「ええ、個人の事務所です。この仕事はもう六年になりますが、その以前は警察に八年」


 リー女史は感心したように頷く。私の経歴は、どうやら彼女を満足させたようだった。事実、シティに蔓延はびこる有象無象の探偵もどきに比べれば、私の来歴はかなりしっかりしている方だった。


「先日は大変でしたね」


 少しの沈黙を挟み、リー女史は窓の外に目を遣りながらそう言った。殺人事件の話題であるのは明らかだったが、彼女の口調や表情は、友人の死を語るにはさっぱりしすぎていて、冷淡な感じがした。しかし捉えようによっては私への気遣いだと考えられなくもなかったし、ショックを隠すための、むしろ人間らしい態度だと言えなくもなかった。


「このあたりでは珍しいことです。結局、ご友人だったんでしょうか」

「残念ながら。彼は昔の同僚だったんです。瀬田英治せたえいじという名前の、ネットワークエンジニアです」


「……ネットワークエンジニア」

 呼称に今一つぴんと来なかった私は、思わずその単語をおうむ返しにした。


「広義には、コンピューターエンジニアという認識で問題ないでしょう。彼の専門は、ネットワークセキュリティでした」

 つまり、ネットワークを専門にするコンピューター技術者エンジニア、ということだ。


「なるほど。研究者とはまた違うんでしょうか」

「大学で研究をしている人間とは違います。博士号を取ってから、企業で活動する人間も多い業界で、彼もそういうキャリアを歩んだ一人です。私達が一緒に働いた期間は、十年近くになるでしょうか」


 どんな会社に勤めていたのかと私が尋ねると、彼女はシティにおいても名の売れたIT企業である『オートマタ』の名前を挙げた。香港に本社を持つこの企業は、いくつもの主力商品で市場を席巻していた。『汎用人工知能(スマートAI)』と呼ばれる技術を応用したソフトウェアや、『プレートメイル』という新世代のセキュリティシステムは、様々な業界に革新をもたらした。


 それらのヒット商品を次々と世に送り出したオートマタは、ここ二十年で世界的なシェアを誇る大企業にまで成長していた。


「立派な企業にお勤めだったんですね」

「一般に言われているほどのものではありません」


 彼女はそっけない態度でそう言った。しかし退職してからもこのような暮らしをしていることを考えれば、相当の収入を得ていたのだと予想できる。


「それで、リーさんと英治さんは、親しい同僚だったと」

「念のため言っておくと、ロマンチックな関係ではありませんでした。私が出会ったときに彼はもう結婚していて、娘が生まれたお祝いをした記憶もあります。私の興味を引いたのは、彼の男性的な部分ではなく、技術者としての才能でした」


 天才揃いの同僚の中でも、さらに図抜けた存在だった訳だ。彼が殺害されたのは、会社にとっても大きな損失だろう。


「ごく最近の関係はどうでしたか」

「時折連絡は取っていましたが、直接会うのは、私が政治的な理由で退職して以来です。四年以上前になるでしょうか」

「政治的な理由、とはなんでしょう。差し支えなければ」


 言った瞬間、リー女史の瞳がキラリと光った気がした。


「香港当局による思想統制です。内戦によって国が割れても、統治の手法は変わりませんでした。当局は私が危険な思想を持っているとして、色々な圧力を掛けてきたんです」


 その言葉とは裏腹に、女史の口振りに怒りや屈辱といった様子はなかった。話が横道に逸れていると感じながらも、私は彼女の態度に興味を覚えた。


「危険な思想ですか」

「彼らにとって私の思想は体制を揺るがす危険なものに映ったんでしょう。彼らは富のために資本主義キャピタリズムを取り入れました。しかし自由主義リベラリズムは受け入れられなかった。歪なものです」


 私は出された飲み物を一口飲む。香りのよい紅茶だった

 。

自由主義リベラリズムがあなたの思想という訳ですね」

「その通りです。私は抵抗することもできましたが、この年齢になるとそういう気力も衰えてきます。結局は退職して、亡命同然の格好で、この岱輿城市ダイユー・シティに移りました」


「英治さんも同じような思想を持っていたのでしょうか?」

「彼は私に賛同してくれました。彼は冷静で慎み深い性格でしたから、あまりおおっぴらなものではありませんでしたが」


 とりたてて忌避すべき話題でもないが、政治談議は深入りしすぎるとキリがない。そういえば、と話を切って、私はそろそろ本筋に戻ることにした。


「英治さんの訪問理由はなんだったでしょうか」

 私の質問に対して、リー女史はやや表情を曇らせてかぶりを振った。


「詳しいことは解りませんが、研究の相談に乗ってほしいと言われていました。彼の専門である、ネットワークセキュリティの」


 研究内容ついて詳しく訊くべきだと思ったが、私にはコンピューターやネットワークについての専門知識を持っておらず、説明されても理解する自信がなかった。この分野については、あとで基本的な事項だけでも予習しておく必要があるかもしれない。リー女史は私が全くの門外漢であることを感じ取ったのか、少し話題を変えて話し始めた。 


あの(、、)時、陽花ようかに会いましたか?」

「英治さんの娘?」

「そうです」


「会いました。彼女が私を現場まで連れて行ったんです。警察本部に行く時に別れて、それきりですが」

「彼女は今、この家で生活しているんです」


 私の常識からすると、それはやや意外な展開だった。多分、警察が持て余して、陽花を引き取らせたのだろう。とはいえ、瀬田英治とレベッカ・リーの関係がそれなりに親密であったならば、それほど無理のある成り行きではないのかもしれない。


 父娘おやこが外国人だから、という事情もあるだろう。陽花の母親や縁者がいて、連絡が取れたとしても、すぐに駆けつけられるとは限らない。


「仕事は、彼女に関係あることですか?」

「ええ」


 女史はやや重々しく頷いた。


「元々は、父娘の案内とボディーガードを依頼するつもりでいました。具体的な危険を予期していた訳ではありませんが、彼らはシティに不慣れですし、私は膝があまりよくありません」


 具体的ではないが、なんとなくは危険を予期していた、ということだろうか? 確かにシティは、香港や東京、台北に比べて安全な街とは言えない。しかし貧民街ブロッサム・ストリート繁華街ニュー・ベイジンをうろつくのでなければ、行きずりの犯罪者に怯えなければならない、というほどではない。だが私は質問を頭の中に置いて、ひとまずは最後まで話を聞くことにした。


「だから第一の仕事は、陽花の面倒を見ていただくことです。ただ、彼女は当分外出したがらないでしょうから、話し相手になってあげたり、必要なものを買い与えたり、ということになります」

「なるほど」


 第一の仕事内容は他愛ない不確かなもので、わざわざ一日五〇〇ドル支払ってまで探偵に依頼するものとは思えなかった。これは口実だろうと考えながら、私は続きを促した。


「第二の仕事は?」


 リー女史は先ほどより力のこもった声で告げた。

「瀬田英治が殺された事件について、調査して頂きたいのです」


 空気が一瞬張りつめて、我々は視線を交錯させた。口振りからして、これが本命の仕事であるようだ。


「三つ目はありますか?」

「この二つだけです」


 私は紅茶をもう一口飲んだ。言われた内容を頭の中で反芻し、整理してからゆっくりと口を開く。


「第一の仕事については問題ないでしょう。カウンセラーの真似事はともかく、警護についてはそれなりに経験もあります」


 ですが、という言葉を、私は釘を刺すつもりで強調した。


「殺人事件の捜査は、今警察がやっています。横槍を入れれば当然、あまりいい顔はされません」

「そうかもしれませんね」

「私に調査を頼む、何か特別な理由が?」


 私が尋ねると、女史は眉をひそめ、少し考えるような素振りを見せた。自身の秘密を、どこまで話していいのか悩んでいる人間の表情だった。少しして彼女はやや上目づかいに、慎重な口振りで沈黙を破った。


「私はシティの警察を信用していません」

「手腕を、という意味でしょうか」

「いいえ。彼らの秘密主義に不信を持っているんです」


 その気持ちは解らないでもない、と私は心中で同意した。まして彼女は被害者の肉親でもなく、真相を問いただす権利はないと見なされてもおかしくなかった。


 私は少しの間無言で、依頼とそれに関する問答の内容を吟味した。彼女の説明は多分に不足していたが、納得できる部分もあった。それに普段は、これよりよほど訳の分からない依頼を受けることもある。身も蓋もない話をすると、あまり選り好みしては生活が成り立たない、ということだ。


「分かりました。お仕事は引き受けましょう」

 私が言うと、彼女は満足そうにゆっくりと瞬きした。


「ありがとう。できる限りで結構です」


 話がまとまりかけたところで、私は持参した書類を小さな鞄から取り出し、依頼人にいつもする説明を始めた。


 基本的な依頼料は一日あたり五〇〇ドル。半日ならば二五〇ドルだ。経費は別に計算し、依頼料と合算して請求する。依頼の開始時にはあらかじめ二〇〇〇ドルの保証金を預かり、支払と相殺して清算する形だ。


「保証金はすぐにでも振り込みましょう」

「ええ、お願いします」


 それから、依頼の中断が必要になった場合の手続き、免責事項、報告の要件と形式。契約書に記載された内容をなぞるように確認していく。リー女史は疑問を差し挟まず、静かにそれを聞いていた。


 契約期間についてはさしあたり一週間とし、必要に応じて延長、ということにした。彼女はその場でサインをした。やや硬い印象を受ける、アルファベットの筆記体だった。


「ひとまずは以上です。何か質問は?」

「ありません」


 私が時計を確認すると、時刻は午前十一時を回っていた。


「今日の午後から本格的に調査を開始しましょう。陽花さんと会っても構いませんか?」

「もちろんです。こちらへどうぞ」


 話が山場を終えたことに安堵を覚えたのか、リー女史の表情は少しだけ柔らかくなっていた。彼女はゆっくりと椅子から立ち上がり、リビングから続く部屋の一つに私を導いた。


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