鋼鉄のバジリスク -2-
商業地区から中央街区を経由して、俺は貧民街の入口までやってきた。通りの左右に並ぶ建物の外壁は、他の地区に比べて明らかにくすんでいる。再開発が実行されれば、こういう薄汚れた景色も一新されるだろう。
スラムとなったブロッサム・ストリートに再び花を咲かせるためには、まずは現時点で生え散らかっている雑草を、根こそぎにしていく必要がある。廃ビルやバラックはともかく、邪魔な住民を芝刈り機でミキサーする訳にはいかないから、金に物を言わせて立ち退かせたり、再開発事業の労働者として雇ったりすることになるだろう。
そうなれば金や仕事が貰えるから、今いる住民にとっても悪い話ではない。ただ、これは根回しや説得の為に作り上げた建前なので、実際にどうなるかは分からない。
車を走らせながら、俺は街並みと道行く人の様子に目を配る。貧民街で銃撃戦があったとは聞いたが、具体的にどこでという情報は得ていない。聞き込みはまず、現場を特定するところから始まる。俺は探偵ではない。だから繊細な調査は苦手だ。地道な作業も好きではない。これから人や店を一つ一つ訪問していくことを考えると、正直気が重かった。
しかし広い通りを進んでいると、遠くの方に複数の警察車両と捜査員が見えてきた。どうやら検問ではなさそうだ。普通の殺人現場という可能性もあるが、もしかするとあそこが件の現場なのかもしれない。
しかし仮にそうだとしても、警察官に事情を尋ねるのはリスクが高い。身元を怪しまれ、鞄の中を覗かれでもしたら面倒だ。
幸い、ここからそれほど離れていない場所に、グラスローズがある。調査はそこから始めるとしよう。俺は警察官が溜まっている場所をそれとなく迂回して、過去の顔馴染みがいる娼館へと向かった。
車二台がギリギリすれ違えるかどうか、という路を通って、スラムの奥へと分け入っていく。やがて茂みが途切れるようにして、少々広い通りに出た。グラスローズがある一帯だ。名前は付いていない。
朽ちかけたポリネシア風のビル。死んだ弟分の愛した女が、未だに春を売っている場所。俺はグラスローズの裏手に車を停めて、表玄関から中に入って行く。
ドアをくぐるとピンクの照明が目に入り、体臭と香水の混じった空気が俺を迎えた。臭いは夜より薄いが、それでも冷房の爽快さを酷く損なっている。俺はサングラスを胸ポケットにしまって、受付に声を掛けた。
「調子はどうだ?」
顔に傷のある女は、伏せていた顔を上げて俺を見た。
「別に」
「昨日の夜、近くで銃撃戦があったらしいが、何か知ってるか?」
「知らない」
「ああ、そう」
この店には南海幇の息が掛かっているから、事件に関して口止めされている可能性もある。しかし俺には、そういう人間から暴力を使わずに情報を引き出すのが上手くない。俺は無愛想な受付の女に、これで女の子たちに差し入れでも買ってやれ、と一〇〇ドル札を渡した。
「マリアは?」
「二番にいるよ」
せっかくここまで来たので、マリアに挨拶しておこう。俺は狭い階段を上って、左右に扉の並ぶ廊下を歩く。二番は最も奥にある部屋だ。ノックせずにドアを開く。
「よう」
中に入ると、マリアが足を投げ出す格好でベッドに腰掛けていた。俺を見て一瞬ハッとするが、いつになく表情が暗い。
「どうした。久しぶりだってのに、元気ないな」
俺はマリアの隣に腰掛ける。彼女が何か言おうとしてためらっている様子だったので、俺はその長い睫毛を眺めながら、マリアが話し出すのを待った。
「月島さんが、連れて行かれちゃった。昨日の夜」
「ん? 月島が来たのか?」
月島は五年前、ヒロヤスからマリアの行方を捜すという依頼を受けた。それがこじれて五年前の抗争が起こった訳だが、その過程で当然、マリアとも直接の面識を持っている。あいつは案外情の深い人間だから、マリアの様子を見るために訪問したとしても、別段おかしいことではない。
「本当は言っちゃいけないと言われたけど、月島さん、トラブルがあるって」
「あー……」
あいつ、半年前の事件で懲りずに、また変なことに頭を突っ込んでたのか。
「警察に連れてかれたのか?」
そう尋ねると、マリアは首を振って、小さな声で言った。
「南海幇の人」
俺は首を傾げた。月島は南海幇と何かコトを構えていたのだろうか。しかしそうだとすると、グラスローズを訪れるのは不自然だ。しかし何にせよ、マリアに直接の関係があるとは思えない。彼女は責任を感じているようだが、この娘は何でも自分が悪いと思い込む癖がある。俺はマリアを慰めるように、その背中を軽く叩いた。
「まったく迷惑なヤツだ。心配しなくていいぞ。あいつなら適当にやり過ごすだろ」
マリアの表情は晴れなかったが、俺にはこれ以上、かける言葉が思い浮かばなかった。
月島と南海幇の間にトラブルがあったとすると、昨晩の銃撃戦はそれに関係している可能性が高い。銃撃戦というからには複数人が関係しているはずだが、月島の他には誰が関与しているのだろうか。
そういう風に考えていると、ドアの開く音がして、部屋に誰かが入ってきた。
「取り込み中だぜ」
俺はそう言って追い返そうとしたが、現れたのは意外な人物だった。
「兼城さん。何しに来たの?」
黄永福。いつも不健康そうな顔の男だが、今はそれに輪を掛けてゲッソリしていて、頭に包帯まで巻いている。
「近くに来たから寄ったんだよ。お前こそどうした。消されたって聞いたが」
俺の言葉に対して、黄は自嘲するように鼻を鳴らした。閉めたドアに背を預けたまま腕を組む。
「実際に消されるところだったよ。話すと長いんだけどね」
「話してみろよ」
黄が語るところによると、月島は公安に追われて貧民街に逃げ込み、公安から極秘裏に要請を受けた南海幇が、グラスローズに居ると密告のあった月島を確保しに向かった、ということらしい。
「なんだお前ら、公安と繋がってたのかよ。香港派か?」
俺にとっては意外な情報だったが、策謀渦巻く岱輿城市では、誰が誰と繋がっていても不思議ではない。黄は一旦それを肯定して、話を続ける。
「ボスの命令を受けた俺は、月島さんを連行して公安に引き渡すつもりだった。でも誰かがそれを妨害してきた。車でね」
「月島は死んだのか?」
「分からないね。少なくとも俺は殺してないよ。逆に頭を割られかけたぐらいでさ。死体は見てないから、その場は逃げたんじゃないかな?」
さっき電話が繋がらなかったのは、どうやらそういう理由があったかららしい。しかし月島のことだ、それぐらいの修羅場は難なく切り抜けて見せただろう。
「で、なんとか脳味噌ぶちまけずに済んだ俺が目を覚ますと、死体が沢山あってね。詳しい説明は省くけど、公安の裏切りがあったらしいんだ。裏切りというかまあ、最初から、いつでも捨てられる駒みたいな扱いなんだろうけど」
それについては、まったくざまあみろと言う他ない。黄がこれほど萎れていなければ、実際に言っただろう。とにかく昨日の銃撃戦は、月島と公安のトラブルによって発生したものらしい。そしてとばっちりを食った形の黄は、現場からほうほうの体で離脱したということだ。
「で、お前はなんでここにいるんだ? 療養するならもっといいトコがあるだろ」
俺が尋ねると、黄は力なく首を振った。
「南海幇からも切り捨てられたんだよ。月島さんはかなりヤバい案件を抱えてたようだね。関係者は全員、こう」
黄は喉に手刀を当てた。切り捨てられて自暴自棄になっているからこそ、内部の事情もペラペラと話したのだろう。俺がマリアに目を遣ると、彼女はまた意味もなく申し訳なさそうにしている。
「だとすると、グラスローズもどうなるか分からんな」
「……そうかもね。多分もう、ヒットマンがここに向かってる」
俺は考えを巡らせた。早速、現場での判断が迫られている。
とりあえず、昨日何が起こったのかを調べる、という当初の目的は達成できた。しかし情報を総合すると、ここはもう少し欲張ってもいい局面だ。南海幇が香港派と繋がっているならば、ウチとしては一応、ヤツらを潰す理由になる。それに黄の話からすると、南海幇内部はもうグダグダになっている。大義名分の有無はともかく、攻撃するにはいいタイミングだ。
「オーケー。じゃあこうしよう」
俺は考えをまとめ、胸の前で両手を握り合わせた。黄に向かって言う。
「俺はこの店と、南海幇の縄張りを貰う」
黄は眉をひそめ、狂人を見るような目で俺を見た。
「それは好きにすればいいけど、代わりに何かくれるのかい?」
俺はポケットから車のキーを取り出して、黄に投げて寄越す。
「貸してやる。一旦安全な所まで避難しろ。あとで事務所に一報してやるから、迎えを待って、フィリピンに逃げろ」
「兼城さんは?」
黄が尋ねた。
「俺はここに残って、追ってきたヤツらを適当にぶっ殺す。あと、もう一つ条件だ。マリアを連れて行け」
傍らでマリアが肩を震わせた。
「兼城さん、私」
俺は彼女の言葉を制して説得する。
「実はヒロヤスがお前の為に貯めてた金がある。フィリピンに着いたら送金してやるから連絡しろ。黄に酷い目に遭わされたら、俺が追っかけて行って、コイツの金玉を引きちぎる」
実の所ヒロヤスの貯金なんてものはないが、金のないまま放り出せば、ここと変わらない境遇が待っている。それではあまり意味がない。
「とことんお人よしだねえ」
黄が言った。呆れているようにも思えた。
「とことん不公平なだけだ。これから来るマフィアどもは、残念ながら贔屓の対象外ってことになる。いいから早く行け」
黄とマリアを促す。彼女は五年前と同じような、子どもっぽい顔を涙と不安に歪めて、小さな声でありがとうと言った。フィリピンとて楽園ではないが、彼女自身が貯めた金と、俺が送る金を合わせれば、ここよりも多少ましな暮らしを送れるだろう。
マリアはしばらくためらいながらも、結局黄に連れられて部屋を出た。俺はそれを見送ってから、事務所に電話を掛ける。一つ目の要件は、襲撃に備えての応援要請。二つ目の要件は、黄とマリアのピックアップだ。
これで諸々の手配はオーケー。以降は楽しくも面倒な仕事だ。俺は鞄から、銀色に光るリボルバーを取り出した。




