脱出 -2-
大通りを走る我々の車は進路を北西に変え、港湾地区のすぐ近くまで来ていた。ジュリアに指示された合流地点まではあと一キロ程度だ。車と運転手の性能差によって距離を稼いだことで、目視できる追手は二両にまで減った。しかしその代わり、ヘリのサーチライトが増えた。
「船に乗るにしても、上と後ろの連中が厄介だな」
バックミラーを確認してから、私は言った。
香港と岱輿城市は別の国だ。だから外からの不審な船は非常に警戒される。許可を得ないでこっそり領海に侵入し、脱出するためには、レーダーなどの索敵を躱せるだけの、小さな船でなければならない。だとすれば、移動するのに最低限の人員しかいない可能性が高く、押し寄せる公安に攻撃されれば、我々を援護するどころではないだろう。
「ここまで来たら道も単純ですから、撒くのは難しいでしょうね。グロックの準備はオーケーですよ」
最悪、私と喬が足止めをして、陽花とジュリアだけを逃がすことになるかもしれない。それでもXリストさえ持ち出せれば、少なくとも無駄死ということにはならない。生け捕りにされ、政治的な取引で生還できる可能性がないではないが、今まで相手が示した行動から考えると、それは希望的観測に過ぎた。
そこまで想定したところで、私は自身の右手、中央街区の方向から、増援の車両が迫ってくるのを見た。我々が進もうとしている道に先回りする形で合流し、後ろの車両とで挟み撃ちにする作戦のようだ。
「全員つかまってろ」
進路を塞がれてしまうのは非常にまずい。私はさらにアクセルを踏み込み、ほとんど限界まで車体を加速させた。静かなはずの電気モーターが、過剰な負荷に唸りを上げる。
タイミングは非常に厳しい。果たして間に合うだろうか。ハンドルを握る手に汗がにじむ。
果たして我々は交差点を通過し、なんとか包囲を免れた……。私がそう思った瞬間、車を激しい衝撃が襲った。捨て身の加速をしてきた新手が、我々が乗る車の後部に衝突したのだ。
陽花かジュリアの悲鳴。強烈な横向きの慣性力が襲ってくる。車はスタントのようにスピンした挙句、横転して天地を上下させた。二回転してタイヤで着地する。
「まだだ!」
まだ走れる。私はシェイクされた脳を再起動させ、混乱した感覚と意識を手放すまいとするように叫んだ。ほとんど反射的に安全装置を解除し、エンジンの復帰を図る。
掛かった。やはりこれはいい車だ。
私はアクセルを踏み、ハンドルを操り、進路を塞ごうとする車両の間隙を縫うようにして無理やりに進路をこじ開けた。追手を撒くために道を外れ、西の海沿いに逃げる。頭を打ったらしい喬が呻き声を上げて悪態をつく。
再び加速した車は、車止めや路肩を無視して倉庫の立ち並ぶ区画をひた走る。酷い振動の中、私はハンドルにかじりつくような姿勢でコントロールを維持する。
やがて我々が乗る車は、港湾施設の多くある場所に入った。十数メートル先はもう暗い海である。私は岸壁のコンクリート上をドリフトして方向を変え、再び合流地点を目指す。
先ほどの事故で肉薄してくる追手は減ったが、残りもすぐに追いついてくるだろう。ヘリも依然として上空に在る。目的地まで、あと三〇〇メートル。
しかしあと少しというところで、助手席のジュリアが声を上げた。
「……いない?」
私も彼女が言う意味に気付いた。合流地点はもう目視できる場所にある。しかしそこに船の姿はない。
「……そんな」
喬も思わず言葉を失っている。船がないとなれば、もはや我々の行き場所はない。
「待って、あそこ!」
絶望が車内を包もうとしたとき、陽花が海側を指差して叫んだ。
そこに見えたのは、波間に揺れる船のライトだ。アレが手配されたものだろうか、と私が思った次の瞬間、船から何かが放たれ、我々の背後で鉄の貫かれる音が上がった。そして聞こえてくる急ブレーキと衝突音。
「何が起こってる?」
私は尋ねた。運転に集中しているので、あまり周りを見る余裕がない。
「分かりません。後ろで二台が停まりました」
「じゃああと一台だな。回るぞ」
私はブレーキを踏んでハンドルを切る。タイヤが悲鳴を上げ、車体が右に九十度回転した。もうこの荒っぽい運転に苦情を言う者はいない。車はちょうど、追手に対して側面を向ける形だ。操作盤で窓を全開にする。
「喬、撃ちまくれ」
「はいはいやりますよ」
窓が半開きの内から、私と喬は眼前の車に対し、死に物狂いで弾丸を送り込んだ。鼓膜を叩く乾いた銃声。海風と硝煙の混じったにおい。私はフロントガラスにいくつも穴が空き、撃たれた運転手の身体が跳ねるのを見た。追手の車両が進路を逸れ、我々が乗る車の後部を掠って停止した。
「よし、出ろ。走れ!」
私の弾倉はもう空だった。無用になったグロックを車に残し、我々は車を降りる。目前では、先ほど見かけた小型の高速艇が着岸したところだった。
背後からは別の追手が迫る。もはや反撃する手段のない我々は、一目散に船へと走った。銃声が上がる。撃たれた仲間はまだいない。
そしてなんとか辿り着いた船の上には、男が二人乗っていた。そのうち一人がこちらに手を差し出す。救援で間違いないらしい。
「良く生きてたな、嬢ちゃん方。とっとと乗りな」
白の混じる口髭を生やした浅黒い肌の男は、タイかベトナム訛りの英語を話した。私と喬は背後を警戒しながら、陽花とジュリアが船に乗るのを手伝う。最後に乗り込んだ私が見たのは、船の中央に備え付けられた重機関銃だ。先ほどはこれで、追手の車を撃ったのだろう。
「これで全員だな。ミン、出せ」
機銃の近くにいた男は、ミンと呼ばれる操縦士に声を掛けた。ミンは無言で船を操り、急速に岸を離れる。一拍遅れて、先ほどまで我々がいた場所に追手が到着した。銃を持った屍食鬼が何人も降りてくるが、船は既に拳銃が届かない位置まで到達していた。
我々の誰もが脱力し、無言で狭い床に座り込んだ。傍らでは先ほどの男が、しつこく追って来るヘリに機銃を乱射している。抗する武装を持たないヘリは、やがて旋回してシティへと戻って行った。
そして船は沖に向かい、岱輿城市の明りから遠ざかっていく。私が操縦士に水を求めると、彼は無言でペットボトルを投げて寄越した。
◇
岱輿城市を離れて数キロ。我々四人は、ようやく生還したのだという実感を持ち始めていた。
船で駆けつけてきた二人は、ドンとミンというベトナム出身の兄弟だった。機銃手がドンで、操縦手がミン。互いに良く似ているが、ドンは髭に白が混じっている。彼らジュリアと同様、グウィディオンの関係者であるらしい。
ミンは非常に寡黙な男で、我々を船に乗せてから一言も喋っていない。ドンは逆に饒舌で、先ほどから備え付けられている機銃の自慢をしている。一五〇年前に開発された機関銃だとか、未だ汎用性と信頼性で勝る製品は出てきていないだとか。
雑談する体力の残っていない我々はそれを聞き流し、しばらくぐったりしたまま海風に吹かれ、夜空を眺めていた。都市の光から遠いこの洋上、街中からでは考えられない数の星が見える。
「ああ、そうだ」
そのうちに喬が声を上げた。
「香港に着いてからでもよかったんですが、せっかくだから今のうちに話しておきましょう」
「何を?」
ジュリアが身を起こし、船の右舷側に背を預ける。
「Xリストを作ったであろう人物ですよ」
昆龍城に入った直後、喬は確かにそれを言おうとしていた。急迫の脅威が去った今、誰がXリストを作ったのかという疑問は、我々にとって最大の関心事だった。
「月島さん。夏大偉は知ってますか?」
私は疲れた頭で記憶を検索する。
「シティ警察の副長官か」
岱輿城市の警察組織では、長官の下に二人の副長官がいる。一人は警務や交通の部門を担当する、事務方寄りのポスト。もう一人は刑事と公安といった、実行部隊を掌握するポストだ。今喬が言った夏は後者である。
「五年前、夏は公安の部長クラスでした。当時はあまり気にしてませんでしたが、短期間で副長官に抜擢されたことを考えると、なんらかのきっかけで勢力を急拡大したんでしょう。その背景に、特殊部隊の創設があったのは間違いないです。屍食鬼と呼ばれる秘密の実力部隊が」
「夏大偉……」
陽花がその名前を、自分の中で反芻するように言った。
「その夏が、雷富城への造反を企図していると?」
ジュリアが尋ねる。造反といっても、選挙による政権交代は二十年以上おこなわれていないから、やるとすれば政敵を無理やり失脚させるか、監禁なり殺害なりをするということになる。
「もちろん、彼だけでは不可能でしょう。仮に一〇〇人の部隊を掌握しているとしても、シティには他に三〇〇〇人の警察官がいる。それより数は少ないけど、軍隊もちゃんといます。単独でクーデターを起こすのに、公安の手勢だけじゃ少なすぎる」
私が口を開く前に、陽花が答えた。
「他に協力者がいる?」
「その通り。そこで夏自身の政治志向が問題になってくるんです。立場上大っぴらにはしませんが、彼は『香港派』と呼ばれる政治グループと距離が近い。背後にいるのは華南軍閥です」
そこまで言われれば私にも解る。夏は華南軍閥の後ろ盾で、一足飛びに権力を奪取する。華南軍閥は傀儡政権を打ち立てて、岱輿城市を事実上の支配下とする。互いの利害が陰謀の内に合致するという訳だ。
単純に頭がすげ替えられるだけならば、市民にはあまり関係のない話である。しかしもちろん、そうはならない。
まず一つは経済の問題。今までは貧富の差こそあれ、岱輿城市のメタン産業で得られた富は、シティの税収として間接的に市民へと分配されていた。しかしシティが華南軍閥支配下の一地域となれば、間違いなく本土からの搾取に晒される。下層の市民はより過酷な貧困に沈むだろう。
もう一つは政治の問題。もともと岱輿城市が政治的な中立を保てていたのは、地政学上の重要な位置に在るからだ。華南軍閥がこの場所に手を出せば、南シナ海のパワーバランスは大きく揺れ動く。
誰かに奪われるなら我々が手に入れてしまおう。そう考える勢力が現れれば、最悪軍事介入という形で、シティが戦場になる状況まで想定される。そうなればあちこちに飛び火するのは必定で、下手をすれば中国国内の他勢力まで動きかねない。
そこまで話が大きくなると、もはや我々の手には負える問題ではなくなってくる。事態の重大さを改めて認識した我々は、次の言葉が思いつかずに押し黙った。
陽花も同じようにしていたが、彼女はその間、ずっと岱輿城市の方角を眺めていた。
「権力が欲しい人は、勝手に奪い合ったらいい」
しばらくして陽花がぽつりと呟いた。
「もう半年したら、私はまたシティに行く。お父さんが死んで一年経ったら、また花を供えに行く。お父さんの死体は帰ってこなかったから。何もないお墓の前で祈っても、意味がないから」
巨視的に見れば一つの死。しかし一人の娘にとっては、大切な父親の死。私には、政治的な動乱という大きなうねりを止めることはできない。しかし誰かがそれに巻き込まれ、バラバラになるのは防げるかもしれない。街を追われ、仕事を失った私にとって、それは自身を支える目的にもなるはずだ。
「そのときは俺も行こう」
ありがとう、と陽花は言った。
仮に陽花と袂を分かつにしても、泣き寝入りをするつもりはなかった。彼らには、私を舐めた代償を支払わせなければならない。安楽な執務室から引きずり出して、銃火入り乱れる現場の苛烈さを突き付けてやらなければならない。たとえ泥濘の中、血みどろでもがくことになったとしても。
私は疲れた頭で、自分なりの復讐に想いを馳せる。しかし当面は身体を休め、身の振り方について考えなければならない。
高速艇は暗い海を行く。香港に到着するのは、おそらく夜明け頃になるだろう。
お読みいただきありがとうございます。第二部はこれで完結です。
これまでの感想などいただけましたら嬉しく思います。
次回は幕間の短編を挟みます。6月12日より3日連続で更新する予定です。




