昆龍城 -3-
フロア北東の隅には、壁が四角く切り取られたような出入口があり、それは階段のある竪穴区画へと続いている。進むにあたっては、踊り場やステップの部分に置かれた雑多な資材や生活用品が邪魔であった。とはいえ、我々が非常階段に辿り着いた時点では、若干ながら足の踏み場ができていた。先ほど屍食鬼が騒がしく下を通過したため、逃げ出した住人がいるのだろう。
「これ、グロックですね。いい拳銃使ってる」
斃した屍食鬼から奪った拳銃を握り直して喬が言う。岱輿城市の軍や警察は、メタン産業から生じる税収に飽かせて、優れた装備を身に付けている。それが市民を守るためにのみ使われるならありがたいのだが、今は我々にとっての仇となっていた。
「人を殺すには軽すぎる」
ノリンコ同様、あまり私の好きな銃ではないが、贅沢は言っていられない。
「それはいいとして、そろそろ諦めてくれませんかね、ヤツら」
喬の足先に当たった空の缶詰が、派手な音を立てて壁に当たる。
「どうかな。Xリストは相当な代物らしい。それで、さっき言ってた屍食鬼との関連ってのは?」
「生きて帰れたら話しますよ」
一つ、二つと踊り場で折り返し、我々は三階に到達した。呼吸を整え、フロアに出る。
ここは玄関から入り込みにくい場所にあるせいか、店舗以外のコンコースにも多くの住居がある。空気はさらに重苦しく、混沌と荒廃が混じり合って下層よりさらに異質な雰囲気となっていた。住人の質も大分違うのかもしれない。彼らが普段何を食べ、どこで排泄しているのか、私には想像も付かない。
我々は好奇と敵意の混じった住人達の視線を感じつつ、フロアの中ほどまで進んだ。男二人だから、あまり干渉はしてこないのだろう。陽花とジュリアが長い時間うろつけば、どうなるか分かったものではない。屍食鬼を相手取るより危険が少ないとはいえ、あの二人は本当に、中央管理室まで辿りつけただろうか。
確かこのフロアには、映画館が入っていたはずだ。複数ある小劇場の一つに潜めば、敵の隙をつけるかもしれない。我々はいよいよ密林のようになった住居群を掻い潜り、なんとか壁際まで辿り着く。見上げれば、『GOLDEN THEATER』と書かれた看板があった。
まもなく、背後に不穏な気配。屍食鬼達も追いついてきたようだ。我々は急いで映画館に入り、ホールを横切り、魔窟の如き通路を進む。左右には番号が振られた、重そうな両開きの扉があった。それを体で押すようにして、我々は二番の劇場に入り込む。
深い紅色を基調とした内装。正面奥には大きなスクリーン。中ほどには二〇〇か三〇〇程度の座席がある。住人もおそらく同じぐらいいるだろう。しかしスクリーンは所々破れ、座席もスペースを確保するためにかなりの部分が破壊されてしまっている。
私はあたりを見回す。どうやら出入口は二か所あるようだ。天井の照明は点いていないが、足元の非常灯がぼんやりとした光を放っている。
場所も状況もいよいよ立て籠もり犯じみてきて、私は思わず苦笑いした。昔は追い詰める側で、犯人を射殺したことも一度や二度ではないから、ここで我々が死ぬとしたら、因果応報ということになるだろうか。
「どれくらい稼げましたかね」
「まだ五、六分だろ」
「中々、厳しいですね」
陽花が中央管理室に入ることができたとして、ネットワークを手中にするまで、まだ時間が掛かりそうだ。もう少しの間、相手を挑発しつつ逃げ回る必要があるだろう。
我々は出入口から遠い場所に潜み、再度銃撃戦の覚悟を固めていた。しかし三分、四分待っても、屍食鬼が突入してくる気配はない。我々はスクリーンを背にした状態で、先ほど入ってきた出入口と、もう一つの非常口を警戒し続ける。
捜索に手間取っているか、死傷者が出たための補充か。それとも本当に諦めたのだろうか。しかしわずかに芽生えた期待を裏切って、やがて両方の出入口から同時に、屍食鬼の隊員達が姿を現した。
出入口を封鎖する者、我々の捜索に回る者。少なくとも八人か十人はいるだろう。
暗視装置と都市迷彩服は変わっていない。しかし武器の変更があったようだ。構えからしておそらく、短機関銃。
「ちょっと洒落にならないですよ、アレ」
フルオート射撃で弾丸をばらまく短機関銃は、室内で特に大きな威力を発揮する。多少照準を外したところで、避けきれるものではない。
それに加え、屍食鬼達はその冷酷な本性を露わにし始めていた。
短い連射音。悲鳴。彼らは疑わしい人間を、我々だと確認することなく撃ち始めている。立ち上がって逃げようとする者も容赦なく的にされた。
これでは迂闊に動けない。かといって待っていれば、遅かれ早かれ発見されてしまう。戦うにしても人数の不利に加え、持っている武器の火力が桁違いだ。
状況は手詰まりに近い。私が何人道連れにできるか考え始めたとき、館内のどこかから、わずかにノイズ音が発せられた。続いて聞こえてきたのは、大音量のクラシック。
「なんだ?」
私は思わず呟いた。館内の音響設備から流れて来ているようだ。
「チャイコフスキーですかね」
屍食鬼達も突然の音楽に動揺を隠せない。隙はできている。だが形勢逆転できるかどうかはまだ怪しい。
多分、陽花がシステムを掌握して、ネットワーク越しに操作しているのだろう。しかし、この芝居がかった演出に何か意味があるのだろうか?
少しすると音楽が止まり、英語のアナウンスが聞こえてきた。
『Good Morning. 魂なき操り人形諸君』
声色は成人男性のようだが、注意深く抑揚を聞けば電子音声だと判る。それでも低くはっきりと、そして空間のあちこちから発せられるため、まるで頭に直接語りかけられているような錯覚を覚える。
次いで我々の背後でスクリーンが点灯し、大写しになった顔の画像が表示された。
それは壮年の男性であった。肌は人間離れして白く、立派な口髭を蓄え、わずかに紅の差した頬を持っている。私はその顔に見覚えがあった。ガイ・フォークスの面だ。
ガイ・フォークスは実在の人物である。十七世紀初頭のイギリスにおいて、宮殿内議事堂の爆破を目論み、絞首刑に処された反逆者。
イギリス文化が色濃く残る香港で、ある時期ブームになったイベントの一つに、このガイ・フォークスの面を被って通りを練り歩くというものがあった。
彼の仮面は匿名の抵抗者を示すシンボルでもある。ガイ・フォークスの行進は徐々に拡大して政治的な色を帯び、やがて民主化を求めるデモに発展する。しかし権力基盤の動揺を懸念した華南軍閥政府により、暴力と流血を伴って鎮圧され、ブームはあっけなく終息した。
そのような背景は、香港のみならず岱輿城市でもよく知られている。弾圧者としての公安を煽るにあたっては、悪くない人選と言える。
『昆龍城にようこそ。顧みられぬ人々が住む場所へようこそ。暗い泥濘の中へようこそ。しかし観光にしては物騒なものをお持ちのようだ。いつものように殺しに来たという訳か?』
声はどうやら屍食鬼達に向けられているようだ。陽花かジュリアが、リアルタイムで文字を打ち込んでいるのかもしれない。
『君達の迂闊で卑劣な上司は、今何をしている? 執務室でふんぞり返っているか、保身の為に奔走しているか。それともトイレで泣き叫んでいるのか? 屠殺前の豚みたいに』
目前の人間が言っているだけならともかく、館内に響く大音声。この場を掌握しているのだという心理的な揺さぶりは、たとえ相手が精強な特殊部隊であったとしても有効だ。
『弾倉が空になるまで撃ったところで、全員を殺せはしない。操り人形には解らないかもしれないが、憎しみを銃弾で消し去ることはできない。……中ばかり警戒していて大丈夫か? そこの君、後ろに鉄パイプを持った人間が見えないか?』
しかしこの機会をどう利用したものか。迷っていた私は、ふと尻ポケットに入れたままだった携帯端末の振動に気付いた。逃走と乱闘のさなかでも、運よく逸失しなかったようだ。
余裕のない状況下ではあるが、何か予感がして、私は端末を取り出した。画面を見れば、黒地のウィンドウに白い文字が次々表示される。どうやらなんらかの手段で、アプリケーションを介さず直接メッセージが送られているようだ。
『陽花が敵を攪乱中。合流地点の位置を送る』
それはジュリアからだった。彼女が我々をナビゲートしているならば、ガイ・フォークスで語りかけているのは陽花ということになる。
私は送られてきたワイヤーフレームの立体地図を確認する。合流地点としてプロットされているのは四階の一区画。おそらく中央管理室だろう。
『もう一度操り人形という単語が出たら、動き始めて。グッドラック』
私がメッセージを喬に見せると、彼は苦笑しながらも方針に同意した。
電子音声は続く。
『君達は今や一万の目と敵意に晒されている。少し冷静になればもう解るはずだ。帰還不能点は遥か後方に、破滅はほんの目前にある』
陽花の挑発は、既に明らかな脅迫へと変わりつつあった。
『君達は銃弾によってではなく、今まで虐げてきた怒れる人々によって、全身の骨を砕かれて苦しむことになるだろう。名誉ある戦いによってではなく、自らが犯した、愚かな罪の代償として。……ああ、ちょうどここは劇場じゃないか』
我々は銃を構え直し、いつでも動き出せる体勢を作った。
『操り人形には似合いの場所だ。死ぬまで踊れ』
言葉だけで何も起こらなければ、いずれただのハッタリであることが看破されてしまう。逆に言えば、ほんの少し刺激してやることで、パニックは大きく増幅される。我々は合図通り動き出した。壁沿いを進み、密やかに小劇場側面の出入口へと接近した。
『殺せ。奴らの銃は高く売れるぞ』
声が呼びかける対象を変えた。陽花は住人達を扇動するつもりのようだ。ガイ・フォークスの顔がスクリーンから消える。次に流れてきたのは、先ほどまで流れていたものよりもさらに低い複数の声だ。
『『『殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ』』』
まるで呪いか怨嗟のような合唱は次第に大きくなって、劇場全体を震わせ始めた。合成された電子音声だけではなく、それにつられて和する肉声もあるようだ。
どこかから空き缶のようなものが飛来して、戸惑う屍食鬼の一人に命中する。それを皮切りにして、いくつものゴミや瓦礫が投げつけられるようになった。
隊員が短機関銃を発砲する。しかしそれは指令を遂行するための冷静な行動ではなく、恐れに駆られてのものだった。確かに銃で撃てば、いっとき相手を怯ませることはできる。しかし同時に、自らが卑劣な侵略者であると肯定してしまったことにもなる。大勢が屍食鬼達を取り囲み、じりじりと輪を狭め始めた。
完全な無気力かと思われていた住人達だが、今は衝動を喚起され、群集心理によって暴力を発現させはじめていた。やがて廃材を持ち、屍食鬼に殴り掛かる者さえ出てくる。それは映画に出てくる生ける死体のようにも見えた。屍食鬼をゾンビに襲わせるとは、なんとも皮肉が効いている。
精鋭部隊とはいえ、人数が少なければ面の圧力に抗することはできない。そして暴徒に中途半端な攻撃を加えれば、余計に興奮は増し、混乱は大きくなる。
結局のところ、彼らは昆龍城という異界に深入りしすぎ、振る舞い方を致命的に誤ったのだ。
状況はある種地獄めいているが、脱出するには好機である。話したところで声は聞こえないだろうから、私は手振りで喬に合図した。群衆に混じり、彼らを押しのけ、袋叩きに遭っている屍食鬼の横をすり抜けて、再びフロアに出る。暴動じみた騒ぎによって、さすがにコンコースの住人も様子を見に来ている。これでまた一旦追手を遠ざけられたはずだ。我々は再び非常階段に戻り、四階のフロアを目指した。




