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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
電海のフラガラッハ
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岱輿城市 -3-

 死体を見た少女は小さな悲鳴を上げて、凍りついてしまった。私は彼女を、元来た路地に引き戻した。男が誰かに殺されて間もないならば、犯人がまだ近くにいる可能性があったからだ。自分の背中に、冷たい汗が伝うのが分かった。


 私は周囲の気配に気を配りつつ、善良な市民の義務として、携帯端末デバイスで警察に通報した。居住区アップタウンの路地裏で人が死んでいる。場所を伝えるまでもなく、じきに警官がやってくるはずだ。私は一度深呼吸し、少女にもそうするよう促した。そして警察の到着を待つ間、私は死体のそばに寄ることなく、周囲の状況を含めて観察した。


 まず男は完璧に死んでいる。そう判断できるのは、眉間を撃ち抜かれているからだ。被害者の頭周辺には、飛び散った後頭部の頭蓋骨や脳漿を含んだ諸々の破片があった。ただ男の胴体部分には他にも二、三銃創のような血の染みがあり、どれが致命傷かは判然としない。


 それらの銃弾も貫通したらしく、地面には身体から流れ出た血が広がっている。鼻腔にまとわりつくようなその臭いは、まだ風で散らされてはいなかった。彼が死んでから、まだほとんど時間が経っていないようだ。男の体型は平均的な日本人よりもやや小柄で、年齢は四十歳から五十代前半といったところだ。少女の言う『お父さん』で間違いないだろう。


 路地の左右は高い建物の壁に挟まれていて、前後の見通しも良くない。男と少女がここで襲われたのならば、なぜそもそもこんな場所に立ち入ったのだろうか? 私が怪訝に思っていると、視界の端に光を反射する金属片が映った。それは薬莢だった。しかし証拠品であるから、回収するわけにはいかない。


 傍目で判るのは、こんなところだろう。じっくり検分するのは危険だったし、またそうする動機もない。私は少女の視線を父親の死体から遮るように立ち、彼女を宥めながら、ようやく小さく聞こえてきたパトカーのサイレンに耳を澄ませていた。



「リーさん。少しトラブルがありました」


 その後、我々は到着したパトカーで、中央街区セントラルにある警察本部へと連行された。建物の中で聴取を受ける前、私は許可を得てリー女史に連絡を入れる。その時点で、約束の時間から五分が過ぎていた。


「すぐ近くまで来てたんですが。運の悪いことに、殺人現場に遭遇してしまったんですよ」

 パトカーが並び、薄いベストを着た警官が行き交う駐車場の隅で、私は周囲の耳目を気にしながら通話していた。


『殺人ですって?』

 相手の驚きも疑いも当然のことである。我ながら突飛なことを言っているという自覚はあったが、事実なのだから仕様がない。


『それは本当なんですか?』

「残念ながら、嘘の言い訳ではありません。犯人は現場にいませんでした。でもまだ近くにいるかもしれませんから、今日は外出を控えた方がいいでしょう……大丈夫ですか?」


 反応がないのが気になって、私は声の調子を落として相手の様子を確認した。殺人という言葉の暴力的な響きにショックを受けたのかもしれない。もう少し遠まわしに伝えるべきだったか、とも思ったが、次に発せられた言葉は、私の想定していないものだった。


『被害者は、日本人ではありませんか?』

 今度は私が言葉を失う番だった。シティの人種構成は多様性に富んでいるが、日本人の比率は1%に満たない。その多くが、海外赴任してきたビジネスマンやエンジニアで、強盗や殺人のような暴力事件に巻き込まれるケースは稀だった。そのような事件は普通繁華街(ニュー・ベイジン)貧民街ブロッサム・ストリートで発生し、被害に遭うのは大抵がロクでもない職業のシティ住民だ。


 つまり一つの殺人事件が発生した時、その被害者が日本人であることを疑うには、何か理由があってしかるべきなのだ。電話の向こうにいるリー女史は、明らかに心当たりがある、といった様子だった。


「あまり詳しいことは言えませんが、その通りです。何か知っているんですか?」

 何か考えているのか、また少し沈黙が挟まる。

『今日、お話ししようとしたことに関係があるんです。会う予定の友人と連絡が取れなかったので、まさか、と思って』


 この情報をどう解釈すべきか、相手にどう返答すべきか。しかし迷っているうちに、パトカーに同乗してきた警官が急かすような素振りを見せたので、私はやむなく会話を切り上げることにした。


「とにかく、これから事情聴取に応じなければなりません。終わったらまた連絡します」

 通話を終えた私は、警官の案内に従い、警察本部の庁舎へと足を踏み入れた。


 シティ警察三〇〇〇人の指揮所となる警察本部は、潔癖な印象を与える白く滑らかな外壁が特徴の十四階建てである。中国内戦の混乱期に比べて犯罪は減ったものの、依然としてシティにおける警察組織の役割は大きい。


 香港市警の伝統を汲む清廉な組織である、というのが表向きの顔であるが、実情はそれほど胸を張れるようなものではないということを私は知っている。探偵事務所を開く前、私はシティの警察官であったからだ。そして事情聴取の為にこれから向かう刑事部門こそが、私の古巣であった。


 私は先導する警官に付き従ってエレベーターに乗り、狭い廊下を通っていくつもある取調室の一つに入った。取り調べを受ける者に威圧感を与えるような、正方形の狭い部屋。窓は小さく、逃亡を防ぐ為完全には開かないようになっている。もっともこのフロアは地上六階にあるから、パトカーの上に落ちるのでもない限り、飛び降りれば致命傷は免れない。


 とはいえ今は通報者という立場であるから逃げる必要はなく、係員の態度もまだ比較的丁寧である。私は勧められた席に着き、事情聴取の開始を待った。


 やがて案内の警官と交代するようにして、聴取担当と記録担当の警官が入ってきた。記録担当といっても、録音から書き起こしまで自動でおこなわれるから、監視以外にほとんどすることはない。聴取担当の男性警官は私を見ると、少し驚いたような顔をしてから苦笑し、席に着いた。


「どうも、お久しぶりです。何をやらかしたんですか?」


 男性警官は、名を喬小龍チャオ・シャオロンといった。私は刑事だった頃、彼と一緒に働いていたことがある。頭も身体も機敏な人物だ。四つ下の後輩だったチャオと私で、いくつかの事件を担当したこともあった。初めて後輩ができた当時の私は少々張り切って、なにかと彼に世話を焼いた記憶がある。


 昔は人好きのする、愛嬌のある人物だったが、今は刑事として経験を積み、それなりの風格を身に着けていた。


「通報者だよ。今日は」

「失礼。ほんの冗談です」


 私が警察を辞め、探偵稼業を始めてからも、チャオと公私での付き合いは続いていた。しかし職業倫理上、警官が探偵と情報を融通するというのは望ましくない。だから私はあまり彼の迷惑にならぬよう、常にある程度の配慮をしていた。とはいえチャオも私から情報を得ることがあるから、彼にメリットがない訳ではない。


「気を使わなくていいから、いつもやってるように頼む」

「わかりました。では、始めましょう」


 権利の説明、聴取についての承諾、氏名、住所、職業の確認。このあたりは完全にお決まりの、事務的な手順だった。私が難なく受け答えしたあと、聴取は本題に入る。


「まず、被害者を発見した時の状況を教えて下さい」


 特に隠すべきような事柄はないように思えたので、私は見たままを正直に話した。依頼人の住居へ向かう途中に怯えた様子の少女を発見し、彼女の要請に従って現場に到着した。そこで死体を発見したので、警察に通報した。パトカーの到着までは現場の保存と少女の保護に気を配り、その場に留まった。チャオはメモを取りながら、黙って私の話を聞いていた。


「発見した際、被害者は生きていましたか?」

「確認はしていないが、完全に死んでいるように見えた。眉間を撃たれて」


 私は右手の中指で、自分の眉間に二、三度叩いた。チャオは酷い殺され方だ、とでも言いたげに眉をひそめ、小さく唸った。


「被害者と面識は?」

「全くない。娘さんとも。……一応、被害者の娘で間違いないと思うが」

「彼女は今、別室で保護しているそうです。当然ですがショックを受けている様子ですので、聴取もそうですがケアが必要でしょう。ここでは難しいですけどね。で、それは置いておいて」


 チャオは一旦手元のメモに目を落した。


「先ほど依頼人と言いましたが、この事件と関係ありそうですか?」


 彼の眼光が鋭くなり、顔には意地悪そうな微笑みが浮かんだ。多分、私の態度に引っ掛かりを覚えたに違いない。聞かれなければ答えないつもりだったが、無理に隠して心証を悪くするのも損だ。


「今日初めて会う予定で、本人について詳しいことは知らない。たださっき連絡したとき、日本人の友人と連絡が取れないと言っていた。レベッカ・リーという女性だ」

「連絡先は?」

「分かる」


 顧客の情報を漏らすのは多少気が引けたが、連絡先ぐらいは調べればすぐ判明することだ。チャオは私からリー女史の住所と連絡先を聞き出すと、一旦それを室外に伝えに行き、すぐに戻ってきた。


「ご協力感謝します。では、最初に話して頂いたことをもう少し詳しく……」


 私が知っている事実は多くなかったが、事情聴取はその後一時間続いた。身柄を解放されて警察本部を出る頃には、もう正午近くであった。


 一日の出鼻を挫かれた私はやる気を失ってしまっていたが、依頼人への報告を怠る訳にはいかない。リー女史に電話を掛けると、三コール目で彼女が出た。


「月島です。今、事情聴取が終わりました」

『そうですか、私の方にも、先ほど警察から連絡が来ましたよ』

「ご友人で間違いなさそうですか」

『確認はまだですが、多分間違いないでしょう』


 ショックを受けて混乱状態という様子でもなかったので、私は仕事について確認しておくことにした。


「私の身柄は、明日以降自由です。明確なキャンセルは今でなくとも構いませんので、落ち着いたら連絡を頂けますか」

『ええ。では後日、連絡します』


 通話を終えた私は、そのままトラムの駅に向かう。刑事時代に日常茶飯事だったとはいえ、比較的平穏な日常を送っていたここ二、三年、死体を見る機会はほとんどなかった。殺されたのが日本人であり、その娘である少女と話した身としても、今日の事件はあまり愉快なものではなかった。


 午前中にも関わらずどっと疲れを感じた私は、早々に自宅へ戻り、今日一杯を大人しく過ごすことにした。


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