糸 -4-
グラスローズに入って一時間ほど経っただろうか。午前零時ごろ、部屋のドアがノックされ、おずおずといった様子でマリアが入ってきた。
「月島さん。お客が来てる」
客という言葉に警戒心を呼び起こされ、我々三人は緊張で身を固くした。
「警察か?」
「違う。南海幇の人」
幇とは団体や結社という意味で、海虎一家の一家にあたるような言葉である。南海幇といえば、貧民街を勢力範囲に置く地元マフィアだ。グラスローズの実質的な所有者でもある。
「どうもぉ、月島大哥」
私が次の反応を返す前に、マリアを押しのけるようにして男が入ってきた。
「黄か」
訪れた南海幇の構成員は、名を黄永福という。痩せて青白い顔をした、いかにも不健康そうな人物だ。私とは同年代だが、黄はやや卑屈な態度で、私の名前に目上に対する敬称である大哥を付ける。
それでも、黄は幇の中堅に位置する立派なマフィアである。彼は五年前に起こった抗争でうまく立ち回り、海虎一家に潰滅させられた組織に代わるような形で、グラスローズとその一帯に南海幇の勢力を拡大することに成功していた。
「厄介ごとに巻き込まれてるんだって? 可愛い女性を二人も連れちゃって、案外隅に置けないね」
耳の早いことだ。黄はどこで知ったのだろう。彼のすぐ背後では、マリアが小さく首を振っている。彼女が積極的に注進したとは思えない。どちらにせよ、場所を選んだ私の判断ミスだ。ベッドがなくとも、そのあたりの廃屋に潜り込むべきだったかもしれない。
私はひとまず、相手の出方を窺うことにした。あからさまに敵対している相手ではないが、油断はできない。
「まあ、そんなところだ」
相手の言葉は肯定するが、詳しい説明は避ける。
「こちらもね。大哥がお困りとあれば助けるのにやぶさかじゃないし、ここにいると堅気にも迷惑掛かっちゃうからね」
黄は真意の読めない薄笑いを浮かべながら言った。
「顔、貸してくれる? ボスに相談してみようよ」
そこで私は、Xリストに南海幇の首魁である人物の名があったのを思い出した。リストはその存在を含めなるべく秘匿しておきたかったが、場合によっては交渉の材料になるかもしれない。どのみちここは窓のない部屋であり、脱出は不可能である。拒否や抵抗もあまり良い結果をもたらさないだろう。
「ああ、そうしよう」
私は陽花とジュリアを見遣り、今は従うよう無言で促した。
部屋の外に出ると、黄の他にも何人かの男達がいた。私の傍らで、陽花が小さく身震いする。半年前、黑色女人に拉致されたときのことを思い出しているのだ。
「安心しろ……と言いたいところだが、警戒しておいてくれ」
私は彼女にだけ解るよう日本語で囁くと、陽花は気丈な顔で小さく頷く。
「気を付けて」
グラスローズを出ようとする我々の背後から、マリアが消え入りそうな声で言った。
受付の女性に恨めしい視線を送りながら建物の外に出ると、玄関の前に三台、黒い車が停まっていた。我々三人は黄の運転する一台にまとめて乗せられ、その前後を別の二台が挟む形で移動するようだった。私が助手席、陽花とジュリアが後部座席に座った。
車は貧民街の暗い街路を行く。
「大哥、兼城さんはどうしてる? 海虎一家とは近頃あんまり関わりもない」
静かな車内で、黄がふと尋ねた。
「それなりに上手くやってるようだ。俺よりもよっぽど羽振りがいい」
「羨ましいことだね。ウチは最近青息吐息で、ボスも何か一発逆転を狙ってる。じゃなきゃこのまま窒息死だ、って」
黄は右手で自分の首を掴み、苦しむような顔をしてみせる。
やがて車は別の通りに合流した。直線に長い道路の先、赤と青のライトが見える。警察車両で間違いないが、通常の検問とはやや違う。
「避けられるか?」
聞いているのかいないのか、黄は答えない。
「おい」
「悪いね。俺も本当はやりたくないんだよ」
前を向いたままそう言った黄の横顔には、かすかに悲哀のようなものが浮かんでいた。Xリストがいつ時点のものだったかは分からない。しかしかつて貧民街で自由を謳歌していた男の手足には、もう強固な糸が結び付けられていた。
「月島さん」
後部座席で陽花が声を上げる。私は一瞬逡巡した。黄を無力化して車を奪うこと自体は可能だろう。しかし前後の車、そして警察の車両をどう捌くか。
しかし私が行動を起こす直前、今乗っている車両の前方を遮るようにして、横の通りから別の車が突入してきた。けたたましいクラクションが鳴り響く。南海幇の車列は、衝突を避けてその場に停まった。
「なんだ?」
黄が右の窓から顔を出し、前方を見ようとする。その一瞬の隙を突き、私は彼の肋骨側面に右拳を叩きつけた。
短い苦痛の呻き声が上がる、黄が咄嗟に頭を車内に戻したところで、私は彼の襟首と脇あたりを両手で掴み、今度は自分の方に引きつける形で、閉じたままの左窓に勢いよく衝突させた。鈍い音がしてガラスにひびが入り、黄の身体から力が抜ける。
「俺だってやりたくないよ」
それから私は陽花とジュリアに指示を飛ばし、ドアから車外に転がり出る。いつ銃弾が飛来してくるか分からないので、身を低くしたまま素早くあたりを窺った。
先ほど割り込んできたのは白いパトカーで、乗員はもう降りて銃を構えていた。私服の警官が二人。
「月島さん!」
警官の片割れが声を上げた。それは私のよく知る人物だった。七年以上前にコンビを組んでいた、喬小龍という若手刑事だ。
南海幇はおそらく公安と内通し、我々およびXリストを確保しようとしていたのだろう。しかしそれを良く思わない跳ねっ返りの刑事がいて、無茶な横槍を入れてきたという訳だ。一応は味方であると考えていた警察に妨害されて、マフィア達は動揺している。リーダーである黄も気絶してしまっているため、指示する人間もいない。
「敵なの? 味方なの?」
頭を手で庇い、姿勢を低くしたままのジュリアが言う。
「俺の知り合いだ。刑事だから公安とは違う」
組織として必ずしも味方とは限らないが、喬個人に関しては信頼できる。今この場を切り抜けるにあたって、彼らの存在は有利な要素だ。
しかし脱出の希望を掴ませまいとするように、道路の先にいた警察車両が動いた。
「喬。やっぱりヤツら公安だ」
背後を窺いながら、喬の傍らにいた警官が言った。次の瞬間、五十メートル以上先からマズルファイアが見え、喬のパトカーに弾丸が命中した。
加えて南海幇のマフィア達は反撃を決意したらしく、隠し持っていた拳銃を喬達に向けた。我々三人、マフィアが四人、喬とその相棒で二人、そしてまもなく公安が到着する。
陽花とジュリアは自分達の判断で、左側の歩道に退避した。私は背後からマフィアに組み付き、地面に放り投げて銃を奪う。私に気をそらされたもう一人が、喬に肩を撃ち抜かれる。
連続する銃声と怒号が、夜の貧民街に響きはじめた。
私は奪った拳銃で、残るマフィア二人を狙った。しかし公安の車両が二台、三台と展開しはじめ、一人撃ったあとは頭を下げざるを得なくなった。
そして降りてきた数人の公安によって、一斉に射撃がおこなわれた。喬は辛うじて伏せたが、相棒は間に合わず、銃弾を受けてその場に倒れた。私の近くに立っていた最後のマフィアも、頭に一発喰らったようだ。銃弾で砕けた頭蓋が、力を失った身体と一緒に地面にぶつかり、ぐしゃりと音を立てた。
遮蔽によって見えにくいが、車両から現れた人員は、全員がいわゆる台湾マスクと呼ばれる、黒い不織布のマスクを身に付けていた。意図的に個性が消された、不気味な集団だった。
私はハンドサインで喬に離脱を促した。敵は刑事さえ殺害するのを躊躇しない。こうなればもう一蓮托生だ。喬は倒れたまま微動だにしない同僚を苦々しい顔で見つめてから、彼の拳銃を回収して私に従った。




