糸 -3-
ホテルを脱出した我々は大通りを西に進み、貧民街に入っていた。このあたりになるとインフラの劣化が露骨になり、照明も少なくなってくる。繁華街とは違って大勢の客をもてなすような施設も少ないから、人通りもまばらである。
しかし住民が少ない訳ではない。居住区と商業地区を合わせたよりも多くの人間が、この地区にひしめいている。シティ人口六十万のうち、実に二十万がここで生活しているのだ。それはシティの経済的繁栄からはじき出され、暗い水底に沈滞している二十万であり、迫害や搾取、暴力的犯罪の対象として、痛めつけられている二十万でもあった。
今の時間ならば、大半の住民は粗末な住居で過ごしている。外に出ているのは、繁華街から迷い込んできた、隙だらけの酔客を狙っている少数の追剥ぎぐらいだ。
「これから行くところにホテルはあるの?」
普段、こういった場所に踏み入らないらしい陽花ほ、不安そうな顔で私に尋ねた。
「あるにはある。売春宿だがな」
「御用達って訳?」
ジュリアが揶揄するように言う。しかし事情はもう少し複雑だった。私は過去に想いを馳せる。
それは五年以上前のことだ。私がシティ警察を辞め、始めた探偵業にも少し慣れてきたころ、事務所に一人の若者が訪れた。少しあとに判明したことだが、彼は海虎一家という組織の末端構成員だった。当時の私は海虎一家を、最近シティに流入してきた犯罪組織の一つぐらいにしか考えていなかった。
依頼人のフルネームは忘れてしまった。彼は仲間からヒロヤスと呼ばれていた。ヒロヤスが私に依頼したのは、けちな犯罪の片棒を担ぐことではなかった。彼は一人の女性を探してほしいと、思い詰めた表情で言った。
その女性はマリアという名前の娼婦だった。当時は陽花と変わらないような年齢で、母親はシティに住む貧しいフィリピン人だった。父親は日本人だったが、マリアを認知しないまま母国に帰ってしまった。母親は早くに死に、マリアは生きるために娼婦になった。
ヒロヤスとマリアは出会い、彼は彼女に恋をした。ヒロヤスの稼ぎは多くなかったが、足繁くマリアのもとに通い、マリアもヒロヤスに好意を持った。しかしマリアはある日、忽然と姿を消してしまった。
私は貧民街を駆けずり回り、なんとかマリアの居所を突き止めた。彼女を囲っていたのは海虎一家と同じような日本のヤクザであり、何人もの女性を酷い環境で売春させていた。
当時の私は焼かないでもいい世話を焼き、結局事態はこじれにこじれた。最終的には海虎一家どころか地元マフィアまでを巻き込み、映画のような大立ち回りを演じる羽目になった。私が兼城と出会ったのもそのときである。
かなり多くの血が流れ、マリアを捕えていた組織は壊滅に近い状態になった。私はマリアを無事に連れ戻すことができたが、ヒロヤスは撃たれてあっけなく死んだ。
マリアは五年後の今でも、貧民街で春を売っている。
全部話せば長くなるから、私はこのエピソードの要点をかいつまみ、陽花とジュリアに伝えた。今から行くのはマリアがいる『グラスローズ』という名前の売春宿だ。
「月島さんは、女の人を助けるのが趣味なんだ」
陽花が言った。
「そうかもな。仕事でやるには割が合わない」
グラスローズには、事件以降も何回か訪れた。女を買うためではなく、マリアの様子を見るためだ。ここ最近はご無沙汰だったが、今回は図々しくも頼らせてもらうことにしよう。それに、今日以降はしばらく顔を見せられないだろうから、挨拶するにはいい機会だ。
大通りから一本裏に入ると、適当な廃材を組み合わせたバラック同然の掘立小屋や、古い観光用の施設を無秩序に改装した住居などが、身を寄せ合うようにして建っていた。この半ば見捨てられたスラムの中に、グラスローズがある。
それほど古くない記憶を頼りに、私はその建物に辿り着いた。多分、昔はポリネシア風の装飾が施されたビルだったのだと思うが、今は見る影もなく、まともに修繕する人間もいないまま、さらなる劣化を待つだけとなっている。
とってつけたようなネオンがピンクや紫に光り、露骨な淫靡さと退廃をまき散らすことで、四方から攻め寄せる絶望に辛うじて抗っていた。このあたりには、グラスローズ以外にもいくつかいかがわしい店があり、繁華街のそれとはまた異なった、独特の雰囲気を持つ盛り場となっている。
グラスローズが貧民街に立地しているからといって、働く娼婦の待遇は繁華街に比べて、必ずしも劣悪という訳ではない。偶然通りがかる客が少ない分、店の場所を知っている常連のような客が多いからだ。管理者によって稼ぎの上前をはねられるのは避けられないが、辻に立って襲われる危険を冒すより大分ましだと言えた。それでも安全ではないし、悲惨な境遇ということに変わりはない。
私はグラスローズの入口近くにいる用心棒に金を渡して、木に似せた素材でできた扉を開けた。入ってすぐの所にあるのは、これもまたピンクのライトで照らされた小さな待合室。あたりに漂う甘ったるい香りは、むせ返るような人間の体臭を、香水か何かでごまかしているせいだ。
「大丈夫なんでしょうね」
ジュリアは陽花ともども、私の背にくっつくようにして着いてきている。
「喰われたりはしないから安心しろ」
私はバーのカウンターに似た受付の奥で、気だるげに座っている女性に話しかける。彼女の年齢は多分四十歳ぐらいで、娼婦ではない。化粧は濃いが、ただの従業員だ。昔、乱暴な客に刃物で付けられた大きな傷が、左目の下から右の顎にかけて痛々しく残っている。
貧民街には、五十歳以上の娼婦も片目の娼婦もいるから、彼女が受付の従業員としてここにいるのは、なにかまた別の理由があるのだろう。彼女もまたマリアと同じように、何年も前からグラスローズで働いている。
「マリアは空いてるか?」
「二番の部屋にいるよ」
陽花とジュリアを身振りで促し、私は二階にある教えられた部屋に向かった。その左右にも別の部屋があって、防音性の低い壁からは絶えず嬌声が漏れている。陽花とジュリアの方を見ずとも、彼女らが顔をしかめているのが分かった。
私はノックをせず、黒い扉に白い塗料で二番と書かれた部屋に入った。ベッドしかない、本当に用を済ませるだけの狭苦しい場所だ。
マリアはベッドの上に膝を立てて座っていた。彼女ははじめ虚ろな感じで壁を見つめていたが、私を見るとほんの少し表情を明るくさせた。マリアの肌は褐色だが、顔立ちは日本人に近い。目はいつも潤んだようになっていて、事件から五年経った今でも、当時あった幼い感じがわずかに残っていた。
「久しぶり」
マリアはややかすれた声で言った。彼女が話す英語は少しつたない。後ろからついてくる陽花とジュリアを認識すると、姿勢をそのままに小首を傾げた。
「お友達?」
「そんなところだ。外で厄介ごとに巻き込まれた。少し部屋を貸してくれ」
グラスローズで一晩中女性と過ごすための料金は二〇〇ドル。そこから三割か四割が店の売り上げとなり、残りが娼婦の取り分となる。私が財布を取り出すと、マリアは逃げるようにして後ずさる。
「月島さんから、お金受け取れないよ」
「いいんだ。それと悪いが、何か飲み物を持ってきてほしい。そのあとは少し外してくれ」
私は押し付けるようにして、マリアに二〇〇ドルを渡した。私はマリアが恩に感じるようなことはしていないし、彼女には金が必要だ。マリアは固辞しようとしたが、最終的にはそれを大事そうに受け取った。
マリアは場所を譲るようにしてベッドを立ち、部屋から出て行った。私は床に座り込み、陽花とジュリアはベッドに腰掛けた。
「こうなることを予想していたか?」
私はジュリアを見上げるような格好で尋ねた。
「どういう意味よ」
「そのままの意味だ。社員の失踪に不穏なものを感じてここに来たんだろ?」
私はあくまで穏やかな声で言った。糾弾も喧嘩もするつもりはない。ジュリアはまだ黙っている。
「賢い人間は隠さないでもいいことを隠したがる。もし今の状況で君がそうしてるなら、自分の首を絞めている可能性があるぞ」
我々は少しの間押し黙った。そのうちマリアがボトルに入った飲み物を持ってきて、私とジュリアの顔を不思議そうに見比べた。しかし場の緊張を感じ取ったのか、すぐに退出する。
「別に悪気があって隠してた訳じゃないんだけど。……いいでしょう。話すわ」
ジュリアは少し声の調子を落とし、ゆっくりと語り始めた。
「まず、私達の会社について説明する必要があるわ。オートマタという会社は本当に小さなグループから始まったの。今の最高経営責任者と、レベッカの師匠筋にあたる技術者達が最初期のメンバーね」
リー女史の年齢が六十近くで、成長著しい新興企業としてオートマタの名前を聞くようになったのが十五年ほど前。だからオートマタの前身となる組織ができたのは、それよりさらに過去ということになる。
「今となっては詳しく分からないけど、金儲けは二の次で、人間の為に技術を使おうという思想が、彼らの根底にあったみたい」
「自動人形という社名には、今一つ合致しないな」
私は率直な意見を述べた。
「一般的な字義だとそうでしょうね。機械的な印象を与える」
ジュリアは否定しない。しかしそれについては説明を用意しているようだ。
「でも『Automata』の原義は、『自ら動く』『もの』。つまり自分の意思で動く人間ということよ。彼らはネットワークを進化させた。けれどネットワークが人々を支配することは望まなかった」
「結果はともかく?」
「結果はともかくよ。上場企業ともなれば理想だけを掲げる訳にはいかない。だからオートマタはその理念を経営から分離させた。オートマタは今なおそれに深く関与しているけれど、あくまで非公式のグループなの」
ここで彼女は少し言葉を切った。今更ながらためらっているような様子にも思えた。これから語られるのは、普段ならまず他人には知らせないような事実なのだろう。
「それが君と、その仲間が所属する組織か」
私が話を促すと、ジュリアは重々しく口を開いた。
「そうよ。私達は『グウィディオン』。知識ある者。オートマタの旧い意思を継ぐ者」
フラガラッハの由来はケルト神話だから、グウィディオンも同じようなものだろう。秘密結社らしい、気取った名前だった。謎の多いエージェントである朱道明もここの所属だとすれば、凡百の有志団体とは一線を画す、実際的な情報力と影響力を持った組織なのだろうと想像できる。
「それで、今回の目的は?」
「ここ最近、シティの中枢がキナ臭くなってる。岱輿城市が混乱すれば、香港周辺も酷く不安定になるでしょう。何が起こるにせよ、誰が雷富城を追い落とすにせよ、民主化が推し進められるとは考えづらい。それは私達にとっても、文字通り対岸の火事ではないのよ。今回の社員の失踪事件がそれに関連するものではないか、と私達は考えたの。だから調査が必要になった」
今回手に入れたXリストを見るに、その疑いは正しかったようだ。クーデターというほど暴力的ではないにせよ、近々大規模な政変が起こる可能性は低くない。そしてXリストは、そのイベントにおける重要なキーとなるはずだ。
しかし私はジュリアの言動に、わずかな反感を覚えた。彼女の話はあまりに高次元で、固い地面を這いずって暮らす一人一人を無視しているように思えたからだ。
「俺には自由意志の追求が、手放しに素晴らしいことだとは思えない」
私はかつて政府の意思を執行する刑事であり、今は自分の意思に従って探偵稼業を営む人間だ。私に限って言えば、昔より退屈ではあるが自由で気楽な生活を送っている。しかしシティに暮らす大多数にとって、自由は即ち幸福を意味しない。
「もちろん価値はあるだろうさ。だが自由を追求した先にあるのは、必ずしも理想郷じゃないんじゃないか? 権力に叩かれるか金持ちに絞られるか、烙印の名前が反逆者になるか無能になるかの違いだろ」
そう言ってから、私は少し調子に乗りすぎたかと後悔した。さすがに強く反論されると思ったが、ジュリアは意外にも眉尻を下げ、目を伏せた。
「そうね。私も自分が追われる身になって、袁が殺されて、この地区に来てそう思ったわ。権力の糸がついてない人間は、泥濘みに嵌っても自分でもがくしかない。……この街に泥濘みなんてなさそうだけど」
「罠や欲と言い換えれば、人が嵌まりそうなものはいくらでもある。汚くてドロドロしてるところも同じだ。簡単には見えないけどな」
ここまで話して、私は随分と辛気臭い雰囲気にしてしまったと反省した。ただ腹を割って話すことで、土壇場で意見が対立する事態を避けようとしただけなのだが。陽花はよほど退屈だったのか、もうごろりと横になって目を閉じている。そんな彼女の様子に毒気を抜かれ、私とジュリアも思想についての談議を取りやめることにした。
ぐっすり寝入ってしまう訳にもいかないが、体力の温存は今後の生死を分けるかもしれない。女性二人にベッドを譲り、私も身体を休めるべく床に横たわった。




