糸 -2-
そこは入って左に机と冷蔵庫、右にベッドがあるだけの簡素な部屋だった。床には毛羽立った灰色のカーペットが敷かれていて、奥には屋外に面した、大きな不透明の窓がある。天井にはLEDライトが四つ取り付けられていて、室内を無機的な光で照らしていた。
机の上にはノート型の中型端末が開かれている。その前に座る小柄な男が袁だろう。足元には黒いボストンバッグがあって、ここ数日で着脱したらしい衣服が盛大にはみ出ている。
「また妙な組み合わせのヤツらが来たな」
袁はこちらを向き、甲高い鼻にかかったような声で言った。データ通りの小男で、乱れた頭髪が不衛生な印象を与える。意気はともかく、表情には逃亡による緊張と疲労が色濃く浮かび、二十九という年齢よりかなり老けて見えた。
「袁剣峰で間違いないな」
私が念のため確認すると、袁は鼻を鳴らして脚を組む。
「そうだよ。本当に追手じゃないんだろうな」
「俺はただの探偵だ。誰に追われてる?」
「政府の連中だよ。秘密警察みたいな気味の悪い集団さ。おい、本当に俺を助けてくれるんだろうな?」
小男は猜疑心の宿った目で私を観察している。やはり袁を追っているのは公安で間違いない。
「口に気を付けなさい。こっちだってあなたのせいで追われる羽目になってるのよ」
横柄な袁の態度に、ジュリアがとげとげしい声を上げた。
「そんなのお前らの勝手だろうが。本社の秘書室付きだか何だか知らんが、偉そうにしやがって」
「あなた自分の立場が――」
「待って待って」
口論になりそうな二人を、陽花が押し止めた。自分のリュックから記録媒体を取り出し、腕を突き出して袁に見せる。
「これをあなたの部屋で見つけたの。Xリストって何?」
その単語を聞くと、感情的になりかけていたジュリアも、本来の目的を思い出したように一旦身を引いた。袁は目を細め、侮るように陽花を見ている。
「ここにはお父さんの、瀬田英治の名前があった。中のファイルにはαクラスと書いてあったけど、βもあるの?」
袁はああ、と声を上げ、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべた。
「そこに入ってるのはXリストの一部でしかない。他にβとγがある。一番大事なのはβクラスだ」
男の顔には相変わらず下品さが張り付いていたが、それでも次第に、情報を扱う者らしい真剣味のある表情が浮かんできていた。
「Xリストってのは」
袁はもったいぶるように我々全員を見た。
「政府の監視対象者リストだ。あるいは、暗殺さえ想定されているかもしれない。だが、おそらく政府の主流派から外れた連中が作ったものだ。俺もリストに挙がってる人間を色々と調べてみたが、αクラスはもう失脚して脅威でなくなったか、死んだか、拘束されている人間だろう」
「挙げられているのは、雷富城の抵抗勢力か?」
シティを市長として支配している男。私が彼の名を出して尋ねると、袁は首を横に振った。
「確かにそういう人間も含まれてる。だがリストの本質はそうじゃない。今証拠を見せてやる」
袁は自らの端末を操作し、ディスプレイを我々の方に向けた。中身が表示されたファイルはおそらくXリストだが、彼自身が先ほど言ったように、我々が手に入れたものよりも完全なデータらしかった。
「βクラスはおそらくまだ健在な、最重要の監視対象者達だ。先頭にある名前を見てみろ」
私はβクラスと題された表の、最上部に記された人物に注目する。そこには私の知る、いや、シティに住む者なら誰もが知っている男の名前があった。
雷富城。
「どういうこと?」
陽花はあまりピンと来ていないようで、私に解答を求める。
「これは確かにシティ政府内部のデータか?」
私が袁に確認すると、彼は自信ありげに肯定した。
「間違いない。出所は警察だからな」
この男は文字通り致命的に想像力を欠いているか、でなければ自殺志願者だ。同僚が巻き添えを喰ったことを知っているのかどうか分からないが、良心の呵責も持ってはいないだろう。
しかしこの際、袁のパーソナリティは問題でなく、罪を自覚させることにもさほど意味はない。それよりも、Xリストが政府内部で果たす役割を考える方が重要だ。
雷をトップに戴くシティ政府が、雷自身を監視の対象とする。これは一見矛盾するようでいて、ある場合を想定すれば矛盾しない。袁も想像しているであろうぼんやりとした関係図を、私は頭の中に描く。
「つまりこのリストを作った人物は、シティの政府内にありながら、雷富城への造反を企図している人物、ということになる。そして警察組織、特に公安に対して強い影響力を保持している」
「裏切り者ってこと?」
陽花の問いに、私は頷いた。
「公安なんてのはトップダウンの最たるものだ。命令系統に横槍を入れるのはまず不可能。末端に意思を伝えられるのは、公安の部長、局長、警察副長官、長官、あるいは雷自身の側近」
雷への造反者について候補を挙げるならこのあたりだ。最も下位の者であっても、シティの権力中枢に食い込む大物である。そしてそれはとりもなおさず、半年前の瀬田英治殺害に深く関与した人物ということでもある。陽花もそれを理解したのか、険しい顔をして何かを考えている。
「αクラスは過去の対象者。βクラスは最重要の対象者。じゃあγは?」
少しの沈黙を挟んだあと、陽花が袁に尋ねる。彼は端末を操ってページを下にスクロールし、今までのものよりも人数の多い名簿を表示させた。αクラス、βクラスに分類されるのが精々二十人程度だったのに対し、こちらは百を超える人名が列挙されている。表の上部にはγの字。
「γクラスはβよりも重要度の低い対象だ。さっき、瀬田英治が父だと言ったな。お前の名前は陽花か?」
この男が英治と親しい間柄だったとは思えない。私が端末を引き寄せてγクラスの名前に目を通すと、そこにはやはり陽花の名前があった。改めて見返すと、一部の政治家や裏社会の大物に混じってレベッカ・リーの名前も記載されている。彼女はβクラスに分類されていた。
「無理もないか……」
リー女史も陽花もフラガラッハに関与する人間だ。すなわち政府が管理するネットワークの敵となり得る存在である。監視対象となるのは当然の成り行きだった。
私はディスプレイを陽花の方に向け、本人にもそれを確認させた。彼女は今更驚いた風もなく、γクラスに連なる他の名前にも目を通している。
「ねえ、月島さんの名前もあるんだけど」
リストの最後まで辿り着いた陽花に指摘され、私も自分の名前を見出した。この半年間、公安の監視があったことは自覚していたが、改めてリストに載せられているのを突き付けられると、なにか妙な実感が湧いてくる。
「今回の件で昇格すれば、いよいよシティに残る訳にはいかなくなるな」
リストの要旨を把握した私は、端末から身を引いてベッドに腰掛ける。陽花も私の隣に座るが、ジュリアはこの部屋に腰を据えたくないといった様子で立ち続けている。
「それで、このデータは役に立ちそうか?」
私は脚を組み、ジュリアに尋ねる。
「強いカードになるでしょうね」
「おい」
袁が気に食わないといった調子で口を挟んできた。
「もう自分達のものみたいに言ってるが、Xリストは俺が命がけで手に入れたデータだぞ」
私は思わず心中でため息をつく。盗人猛々しいとはまさにこのことで、ジュリアに至っては怒りと軽蔑の表情を隠さなかった。感情的な言い合いになると面倒なので、私は目で彼女を制して説得を試みる。殴るのはまだ少し早い。
「これは政治的に価値のある情報だ。渡すのが惜しいのは理解できる」
言葉を切って、袁の態度をちらりと窺う。彼もやや冷静になったようで、破局はほんの少し遠のいた。
「だが高価な品も、売り捌くルートがなければ意味がない」
「どういう意味だ?」
私は普段、なるべく迂遠な言い回しをしないようにしているが、心理的な駆け引きが要求される場においてはその限りでない。権力や経済力の後ろ盾がない探偵業では、相手が喰い付きやすい比喩を用いたり、言葉を巧みに装飾したりすることで、交渉を優位に進めることも必要になってくる。時には完全な嘘を付くこともあるが、今はそこまでしなくてもよさそうだ。
「お前には買い手のコネがないだろう。行政庁舎の代表電話にでも掛けてみるつもりか?」
私の言葉に対し、袁は虚をつかれたように眉をひそめる。この技術者は営業の仕事に興味がなく、手に入れたデータでどうやって保身を図るか、ということまで考えが及んでいなかったようだ。誰か親切な人間が現れて、高値で買い取ってくれるとでも思っていたのだろうか。
袁の気分は愉快でないだろうが、それでも私の主張をある程度までは的を射たものだと判断したらしい。彼は彼なりの態度と言葉で、取引のテーブルに乗る姿勢を見せた。
「このデータを渡せば、お前らは何をくれるんだ?」
「船よ。あなたをシティから脱出させてあげる」
ジュリアが腕を組み、高圧的に言った。こうなれば交渉は決着したも同然だ。案の定、袁はやや苦々しい表情をしながらも、データのコピーを譲渡することに同意した。不利な条件を呑まされたと思っているのか、わざとらしいため息をついて立ち上がり、部屋の外へと向かう。
「どこに行く?」
「トイレだ」
Xリストを置いたまま逃げるということもないだろう。我々は部屋を出る彼を見送り、不満ではなく気疲れのため息をついた。
「アイツはクビよ」
額に手を当てたジュリアがうんざりしたように言う。
「それもいいだろう。辞令を受け取れるならな」
この場所でしばらく休憩するとして、四人で一緒はさすがに息が詰まる。私が受付で部屋を取ろうと立ち上がったとき、廊下の方で小さな叫び声が聞こえた。
次の瞬間、慌ただしい足音がして、袁が転がり込んできた。
「クソ、警察だ!」
私は咄嗟に腰を浮かせた。公安に先んじたのを幸運と考えるか、鉢合わせたのを不運と考えるか。ともかく休憩は後回しだ。袁の危機意識は子どもにも劣るが、部屋選びはそれほど悪くなかった。窓を開け、陽花とジュリアを放り投げるようにして外に出す。しかし当の袁自身はというと、未練たらしく貴重品を持ち出そうとしている。
「お前らが来なければ見つからなかったのに!」
この男はもうダメだ。今後協力的になるとも思えないし、連れて行っても足手まといにしかならないだろう。取引は反故になるが、命には代えられない。私はとっさに手を伸ばし、端末に挿さったままだった記録媒体を引き抜いた。そのまま窓枠に足を掛け、ホテルの外に脱出する。
建物を出れば、それほど多くないとはいえ人通りがある。距離を取って群衆に紛れられれば、相手を撒くのは容易だ。
私が陽花とジュリアに続いたタイミングで、部屋のドアが勢いよく開かれた音がした。走って宿から離れつつそちらを振り返ると、カーキ色のベストを着て、顔半分を覆うような黒いマスクをした人物が侵入してきている。
私と追跡者は、情けない姿勢で逃走を図ろうとしている袁越しに視線を交錯させた。詳しく観察している余裕はないが、どうも普通の公安ではなさそうだった。私は前に向き直り、背後から銃で撃たれないよう、姿勢を低くして距離を稼いだ。このまま貧民街に移動してしまおう。
背後から消音器を装着した銃独特の発砲音が響き、袁の情けない悲鳴が聞こえた。我々が急いで路地の角を曲がると、銃弾がすぐ横を通り過ぎ、外壁の樹脂パネルを削り取っていった。
袁は追いついてこなかった。撃たれて死んだか、捕まったか。良心の呵責がないではない。しかし完全なXリストのファイルが手に入ったのは大きかった。あとはなんとか船の到着を待ち、シティを脱出するのみだ。もっとも、それこそが最大の難事なのだ。夜はまだ始まったばかりである。




