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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
泥濘のオートマタ
26/60

糸 -1-

 ぬるく粘ついた夜気の中。足元にあるざらついた建材。我々はビルの屋上でしばらく身を潜めながら、姿の見えない追手を警戒していた。


 この間、ジュリアは協力者と連絡を取り、脱出船の手配を済ませた。ヘリでこの場所に乗り着けてくれるのが一番だが、あまり贅沢は言えない。


 時計を見れば、ようやく午後九時になろうかというところである。見張りの目をごまかすにしても、これ以上待ったところであまり意味はなさそうだ。我々はそろそろ、この場所から下りることにした。


 とはいえ、今いるビルの周囲には張り込みの人員がいるかもしれず、素直に玄関から出ていくのはリスクが高かった。幸い、ここは商業地区ダウンタウンの中でも特に過密な場所であり、建物同士の間隔は狭い。位置によっては隣に跳び移ることができそうだ。運よく、今いる場所と高低差のないビルが隣接していた。


「ちょっと、嘘でしょ」


 隣のビルに跳んで監視を躱すというアイデアを二人に話すと、ジュリアが強い抵抗を示した。確かに地上までは四十メートル近くあり、墜落すればまず死は免れない。怖いという気持ちはよく解る。しかし私は、現実的な判断としてこれが最も無難な経路だと彼女を説得した。


 跳ぶべき距離はせいぜい一メートル半。足場は安定しているし、今は風も強くない。建物の高さや女性の運動能力を加味しても、無茶な要求ではないはずだ。携帯端末デバイスで照らしてやれば、足元の安全もある程度までは確保できる。


「飛ぶのが嫌なら俺が投げ飛ばしてもいい。どっちにする?」


 時間は有限なので、少々強引に従ってもらうことにした。ジュリアはかなり嫌がったものの、最終的には案の必要性を理解したようで、盛大にため息をついたあと、諦めたような口調で跳躍に同意した。陽花の覚悟は比較的早く完了し、もう自分のリュックを向こう岸に放り投げようとしていた。


 なるべく安全な空の旅となるよう、私は最も跳びやすい場所を選ぶ。足元のコンクリートが崩れるということはないだろうが、万が一そうなら諦めてもらうほかない。


 手本を示すため、まず私が軽く助走をつけて跳んだ。踏み切り、着地ともに問題なし。私には走り幅跳びやパルクールの経験はないが、臆して失敗しなければ、陽花やジュリアでも十分な余裕がありそうだ。跳び移った側に危険な突起や障害物がないことを確認して、私は残る二人に合図を出した。


 二番目にはジュリアが跳ぶことになった。踏切と着地のどちらかでミスをしても、私か陽花でカバーできるからだ。彼女は二、三度深呼吸をしてから、覚悟を決めて助走に移る。その様子を見ていると、やはり少し酷だったかと思わなくもないが、普段はオフィスで優雅な情報収集をしているのだろうから、ときには怖い思いをしてもいいだろう。


 結局、跳躍自体は成功した。ただかなり手前で踏み切ったので、私はジュリアの身体が後ろに倒れて落ちないよう、腕を取って安全地帯まで引っ張らなければならなかった。


「なんて日なの」

 ジュリアは先ほどまでいたビルを振り返り、乱れた髪を整えながら悪態をついた。


「まだ準備運動だ。このあとは徒競走になるか、柔道になるか」

「気が重いわね」


 最後に陽花が跳んだ。彼女の身体は案外綺麗なフォームで弧を描いたが、逆に勢い余ってつんのめり、私が抱き留めるような格好になった。


「体育の成績もいいみたいだな」

「だからもう高校生じゃないって」


 終わってみればどうということはない。全員が無事、隣のビルに飛び移った。


 私は陽花の荷物を拾って彼女に渡し、屋上のふちを歩いて下へ降りる手段を探す。まもなく、先ほどのビルと同じような、古びた金属の梯子が見つかった。


 そして十分後、我々は足を踏み外しかけたり手を擦りむいたりしながら、なんとか地上への帰還を果たした。


 ◇


 商業地区ダウンタウンの地面に下り立った我々は、そこから駅の付近まで歩いていった。トラムは張り込みやカメラでの監視を考えて利用せず、代わりにタクシーを捕まえて、この時間に最も人出が多くなる繁華街ニュー・ベイジンへと向かう。


 我々は身体を休めるため、地区内のどこかに一定時間滞在するつもりだった。そして深夜ごろに貧民街ブロッサム・ストリートへ移動し、明け方まで潜伏する。そのあと工業地区メタン・コンプレックスを通り抜け、港湾地区ダイユー・ポートで船に乗るという予定だ。


 商業地区ダウンタウンから港湾地区ダイユー・ポートまで、一気に移動することも可能ではある。しかし早く到着したところで、手配した船が来ていなければ安全に脱出することができない。それに港湾地区ダイユー・ポートでは、部外者が身を潜められるような場所を探しにくいのだ。ブツ切りに移動した方が、追跡を躱しやすいという利点もある。


 タクシーに乗って五、六分。ほどなく我々は、繁華街ニュー・ベイジンの最も賑やかなあたりに到着した。上下左右のビルから、ネオンやLEDによる光と、電子音楽や機械音声が過剰に降り注いでいる。決して広くはない通りでは、大量の群衆がペンギンのようにひしめいており、真っ直ぐ歩くのが不可能なほどの混雑を呈している。何か特別な催しがある訳ではない。これが毎夜の光景なのだ。


 人々が繁華街ニュー・ベイジンを訪れる目的は様々である。レストランやバーで仲間と酒を飲む者、クラブや売春宿で欲望を発散する者、ただ単に狭小な住まいよりも公共の空間を好む者。美醜や貧富を問わず、この区画にはあらゆる欲求に応えるためのサービスが用意されている。行き交う人間の国籍、階層、年齢は様々で、私がジュリアと陽花を連れて歩いていても人目を引くことはない。


「今、俺達はユェンと同じ立場にある」


 我々ははぐれないよう、背と胸をくっつけるようにして移動していた。周囲に氾濫している様々な音で互いの声は聞き取りづらいが、私は道中で件のエンジニアを探すための方針を立て、なんとか二人に共有する。


「だから俺達にとっていい隠れ場所は、ユェンにとっても都合がいいはずだ。そういう宿を探せば、見つかる可能性も高い。表通りに面していないとか、外観がそれほど目につかないとか、一階の部屋や裏口があるとかだ」


「何日か前から潜伏してるなら、ベッドがあるような所でしょうね。安定したネット環境も」

 ジュリアは自分の声が喧騒に紛れないよう、私の耳元で言った。


 滞在できる場所は繁華街ニュー・ベイジンに数えきれないほど存在するが、純粋な宿泊施設はそう多くない。それに、このあたりで張り込みをしたり、行方不明者を探したりするのは、私にとって日常の業務と言ってよかった。個人的に長く過ごしたい場所ではないが、店舗の場所を含む地理はほぼ完全に把握していて、互いに情報の融通をする顔馴染みも多い。


 ジュリアが照会したデータによれば、ユェンの体格は平均的な成人男性よりかなり小さい。顔立ちも個性的で、他人と見間違える可能性は低そうだ。これで複数日の滞在となれば、従業員の印象にも残りやすいだろう。


 容姿や行動からすると、ユェンは比較的容易な捜索対象者ターゲットと言えた。それでも当然、悠々と調査する訳にはいかない。追手の危険があるかもしれない屋外にいる時間は、本来ならなるべく短い方がいいのだ。


 ユェンを探すのは、あくまでもXリストの情報を得て保身のカードにするため、失踪事件の真相を知って危機に対処するためである。それにかまけて脱出がおろそかになっては意味がない。


 我々は聞き込みをおこなうにあたって、リスクを減らすための決め事をしておくことにした。五件回ってユェンがいないようならば、諦めてその宿で休憩する。行動中にわずかでも追手の気配があれば、気付いた時点で人通りの多い場所まで離脱する。


ユェンさんはもう捕まってるかも」


 少し遅れていた陽花が、私に追いつきながら言った。我々は繁華街ニュー・ベイジンの中心地から離れつつあり、通りは先ほどまでよりも歩きやすくなっていた。


「その場合は仕方がない。どのみち自業自得だ」


 そして我々は周囲にいるかもしれない不審な人影に注意しつつ、妖しげな色のネオンが闇に浮かぶホテル街での人探しを開始した。


 ◇


 我々はユェンが滞在していそうな宿を訪れ、受付やオーナーに彼のことを尋ねてみたが、一件目、二件目はあえなく空振りという結果に終わった。


 気を取り直して三件目に目星をつけた宿は、盛り場からやや離れた場所にある、古びた四階建てのビジネスホテルだった。私は以前、何度か聞き込みに来たことがあり、オーナーの女性とは顔見知りより少し親しいくらいの間柄である。確か一泊の料金は四十ドルで、日本風のコンビニが近くにあるため食料品の調達が容易。オーナーは青島チンタオだかの出身で、誰に対しても気さくな人物、といったところだ。


 我々は念のため張り込みがないか確認してから、すりガラスの扉を開いてホテルの中に入った。それほど広くない受付周辺は、床の樹脂マットも壁のパネルも緑一色。壁に掛けられたディスプレイからは、次々に移り変わる山水画のようなCGが表示され続けている。


 私は受付カウンターに設置されたボタンで、奥にいるらしいオーナーを呼び出した。


「あら、月島さん」


 少しして受付に顔を出した気の良さそうな中年女性は、慣れた様子でにこやかに我々を迎えた。彼女はジュリア、陽花に目を移し、意味ありげな表情で私を見た。


「ご宿泊?」


 なにか誤解されたと感じたのか、ジュリアが横から口を挟んだ。

「いえ、違います。袁剣峰(ユェン・ジェンフォン)という男性を探しているんですが」


 彼女は携帯端末デバイスユェンの顔写真を表示し、オーナーに見せる。私は少し身を引いて、ジュリアのことを紹介した。


「彼女はオートマタ本社から来た人で、探してるのは支社の社員。四日前だか三日前だかに事務所からいなくなって、そのまま行方が知れない。身長が低くて、これくらいかな」


 私が自分の肩ぐらいの高さを示すと、オーナーは心当たりがあるような顔をした。

「夜遅くまでご苦労様ね。ええと、確かそんな人が」


 彼女は手元のタブレット型端末を操って、宿帳らしきデータを参照する。


「三日前に来てますよ。名前は微妙に違うけど、顔と身長はよく似てる。裏口に近い場所がいいって言って。変わった注文だけど、部屋は空いてたからね。ウチは前払いだし」


 部屋の選び方から考えても間違いない。我々は三件目にして運よく当たりを引いたようだ。


「その人は厄介なトラブルに巻き込まれていて、我々は彼を保護しに来たんです。取り次いでもらえませんか?」


 ジュリアが殊勝な態度でオーナーに頼むと、親切な彼女は本人に確認してみる、と請け負ってくれた。中央街区セントラルにあるような大きいホテルだと、顧客の情報を出すようなことはまずない。だからこういう個人経営の宿は、聞き込みという点で非常に楽である。


「ありがとう。悪いね」

 私が礼を言うと、オーナーは大したことではないという風に手をヒラヒラさせた。


「ところで、そこの可愛らしいお嬢さんは?」

 唐突に話を振られると、それまで黙って聴いていた陽花は、一瞬だけ私を見て答えた。


「助手です」


 真偽を確認するように、オーナーが私を見る。


「助手ですよ」


 私が曖昧に笑いながら答えると、オーナーは一応納得したように頷いた。給料こそ払っていないが、今の関係性としてあながち間違ってはいない。


 その後受付と客室で電話のやりとりがあり、滞在しているのがユェン本人であるという確認が取れた。まずは相手の警戒を解くために、ジュリアだけが客室へと向かう。私は少しの間邪魔させてもらう礼として、オーナーに五十ドル札を手渡した。彼女は一度断ったが、結局それを受け取った。


 しばらくして、私と陽花の同席をユェン了承させたジュリアが受付に戻ってきた。


「まったくふてぶてしいわ。ぶん殴ってやろうと思った」


 どうやらユェンは素直で従順な人物ではないようだ。交渉があまりに難航するようであれば、実際にぶん殴ることを選択肢に入れる必要があるかもしれない。


 私と陽花はジュリアに連れられ、これまた緑の、経年劣化でくすんだ暗い廊下を歩く。向かった部屋は、ユェンが好みそうな最上階でなく、一階の奥まった場所にあった。ホテルの入口を窺うことができ、なおかつ裏口にも近い。そして我々は不遜なエンジニアがいるであろう、小さな客室の扉をくぐった。


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