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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
泥濘のオートマタ
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失踪者 -4-

 失踪した四人の社員。その一人が事件の原因となったのではないかという仮定のもと、我々は商業地区ダウンタウンにあるユェンの自宅近くまでやってきた。このあたりに立ち並ぶアパートの賃料は多分私の住居と同じか、やや低いぐらいだろう。部屋の広さや質よりも、コストパフォーマンスや利便性を重視する人々が選ぶような住まいだ。


 我々は先ほどの事業所から十分ほど歩き、画一的なアパート群に埋もれるようにして存在する、不埒なエンジニアの住居まで辿り着いた。彼が住んでいるのは十一階建ての最上階。いくつも並んだ扉を横目に見ながら、廊下を歩いてユェンの部屋を探す。管理会社の許可は取ってあるので、玄関の鍵が開いていればもう入ってしまおうと思っていた。


ユェンとかいう人は高い所が好きなのかな」


 手すりから身を乗り出し、アパートの下を見ながら陽花が言った。こういう活発さは、年相応の少女という感じがする。


「馬鹿と煙は高い所が好きらしい」


 私と陽花が下らないことを言っている間に、ジュリアが目当ての部屋を見つけた。


ユェンは戸締りをせずに出かけたようね」

 扉のノブに手を伸ばし、鍵を確認したジュリアが言った。


「あるいは、ユェンのあとに侵入した人間が開けたのかもしれない」


 先行しようとするジュリアを制し、私が慎重に扉を開ける。チェーンは掛かっていない。内部に人の気配もない。


「とりあえず危険はなさそうだ」


 我々は開いた扉の隙間から、滑り込むように室内へと侵入した。薄暗い玄関を手で探り、照明をつける。


「ああ、汚いわね」


 あたりを一見したジュリアが呟いた。陽花も同じように嫌悪のこもった声を上げる。


 部屋はワンルーム。広さはせいぜい二十平方メートル程度だ。本来なら探索すべき場所は多くないが、どうにも物が散らばりすぎている。なにやら渋いような汗臭いような空気も漂っていて、お世辞にも居心地がよさそうだとは言えなかった。


 入ってすぐのキッチンには洗われていない食器が放置されていて、ゴミ箱や冷蔵庫の中からも何やら不穏な気配がする。その先にもシーツや衣類、スナックの包装やビニールの残骸、倒れたプラスチックの棚やよくわからない周辺機器の類が転がっていて、文字通り足の踏み場がないような状況である。それぞれが層を成していて、時期で分類できそうなほどだ。夏でもシティに虫が少ないのはまったくの幸いだった。


 私は床を占拠する邪魔なものを足蹴にしつつ、部屋の中央あたりまで進んだ。ざっと全体を見回して、不審な痕跡がないか確かめる。


 家具として置いてあるのはまずベッド、クローゼット、ソファとコーヒーテーブル。どれも安っぽい質感の量産品だ。それから部屋の隅に机と椅子があって、これには家主のささやかなこだわりが感じられる。少し前まではその上には端末が置いてあったのだろうが、今は取り去られているようだ。接続先を失ったコードやヘッドセットが、机上にうら寂しさを添加していた。


 しかし部屋の荒廃は、持ち主の怠惰によるものだけではないだろう。下手な空き巣の現場によくある、粗雑な物色の跡があちこちに見られた。


「ここも誰かが荒らしたんでしょうね」

 汚いものを避けるようにして立っているジュリアが、腕を組みながら呟いた。


「警察が来ていないはずはない。間違いなく警察が荒らしたんだ。公安の連中だよ」

「そんなに何でもかんでも公安が介入するものかしら。推理に私怨が入ってない?」


 もちろん恨みはある。しかし個人的な感情で論理を曲げるほど、私は冷静さを欠いた人間ではない。少なくとも今のところは。


「俺だって関わらなくていいならそうする。だがこの部屋の荒らし方は刑事じゃない。細かいことはどうでもよくて、とにかく目的達成を優先する公安のやり方だ」


 そう主張すると、ジュリアはそれ以上反論してこなかった。私に気圧された訳ではなく、シティの公安を相手取るリスクを考えているようだった。


「ねえ、これ一つ一つ調べないとダメ?」

 陽花がしゃがみ込み、散在する汚らしい物品に触れないようそれらを観察している。


 現在時刻は午後六時を回ったところで、既に陽が暮れかかっていた。この部屋をさらう場合、長ければ三、四時間は見なければならないだろう。こればかりは、陽花の知識や技術も役に立たなかった。


「目ぼしいものはもう洗いざらい持って行かれただろう。期待は薄いが、少しだけ探してみるか」


 ここで収穫なしとなれば、失踪事件の調査は振り出しに戻る。できることならば、なんとか些細な手がかりでも得ておきたい。


 陽花は机周辺の機器類、ジュリアはクローゼットやベッドの隙間、そして私は部屋の中でも一層汚いキッチンを探ることにした。十五分程度で何も見つからなければ、一旦撤収した方がいいだろう。


 私まず水回りを見る。シンクにはソースがこびり付いた皿や、弁当の空き箱が積まれている。五日、あるいは一週間近くは前のものだろう。近くにいると腐臭が漂ってきて気分が悪くなる。


 私はシンクから一時離れ、冷蔵庫を開けてみた。こちらは惣菜のポテトサラダがやや悪くなっているぐらいで、大したものは見つからない。ゴミ箱も同様だった。独居の男性にありがちな、不摂生な食生活が想像された。


 今度はシンクの下にある収納を覗いてみる。洗剤のストック、調味料、鍋の類が無造作に突っ込まれている。その中で私は気になるものを見つけた。コップ大のビンに入れられた、黒い粒胡椒だ。


「ジュリア。ユェンは料理が好きな人間か?」


 質問の意図が解らないジュリアは、苛立ったような声で答えた。


「知らないわよ。なんでそんなことを聞くの?」


 どうやら汚い部屋に、早くもうんざりしているらしい。


 私はキッチンを見回してみるが、胡椒を挽くためのミルがどこにもない。ビンの蓋を開け、手近な皿の上に中身を全部ぶちまけた。


 果たしてビンに入っていたのは、古くなった粒胡椒。そしてビニールパックに包まれた小さな記録媒体メモリだった。見つけてみれば稚拙で他愛無い隠し場所だ。


「おい、あったぞ」


 私はビニールパックの中から記録媒体メモリを取り出して二人の方に戻り、それを陽花に手渡した。端末を置くスペースを作るために、コーヒーテーブルの上にある邪魔なものを床に落とす。小賢しい偽装を施してまで隠した物品。何か重要なものが入っているに違いない。


 陽花がリュックから端末を取り出してテーブルに置き、側面のポートに記録媒体メモリを差し込んだ。一瞬読み込み音がして、中身が明らかになる。パスワードの掛かっていないそれの中にはたった一つ、『(エックス)リスト』と名付けられたファイルがあった。


「Xリスト?」


 私は思わず声に出した。これだけでは何が記されているのか全く分からない。私小説や家計簿の類ではなさそうだ。ファイルを開く前に、陽花が簡易なチェックで安全を確かめる。


「形式は画像ファイルだけど、内容は文書だと思う。変な仕掛けはないみたい」


 開いたとたんに妙なマルウェアが発動するという心配はなさそうだ。迷っていても埒があかないので、私は陽花に操作の続きを促した。


 ファイルを開いた次の瞬間ディスプレイに表示されたのは、一見してなんの変哲もない名簿だった。いや、それは名簿の体すら成していない簡素なものだった。表の上部にはただ『α(アルファ)クラス』と記されていて、その下には十数個の人名が羅列されているだけだ。連絡先も備考欄もない。


「これが、危険なデータ?」


 ジュリアが落胆したように呟いたとき、陽花が息を飲んでディスプレイを覗きこんだ。彼女の指は名簿の一部分を指し示していた。


「お父さんの名前がある」


 私は身を乗り出して注目する。そこには確かに、瀬田英治の名前があった。香港から岱輿城市ダイユー・シティに渡り、公安の手で殺された男。危険なサイバー兵器であるフラガラッハを開発し、それを元同僚のレベッカ・リーに託した男。彼の名前がこの名簿にあるという事実は、何を意味するのだろうか。


「これは社員のリストか?」

 私はジュリアに尋ねるが、彼女はかぶりを振った。


「多分、違う。少なくとも役員級の人間はいない」


 他の名前も一つ一つチェックしてみる。自信は持てないが、少し前の政治家や政府高官の名前があるような気がした。


「ここにある名前を詳しく調べて……」


 私がちらりとジュリアを見遣ると、彼女はなぜか緊張したように身体を強張らせていた。ジュリアの左手はソファの背もたれと座席の隙間にある。陽花も場の違和感に気づき、不安そうな顔をした。


 ジュリアの様子がおかしい理由はすぐに知れた。彼女はソファの隙間から、左手でゆっくりと豆粒大の黒い機器を取り出した。盗聴器だ。


「それとも、もう帰るか?」


 私は跳ねかけた心臓を無理に落ち着かせながら、不自然な沈黙が長く続かないよう、適当な言葉を続ける。


 もし来訪者がユェンの拉致に成功したならば、盗聴器などは仕掛けないだろう。一時逃亡したエンジニアが、もう安全だと誤認して戻ってくるか、貴重品なりなんなりを取りに戻ってくるのを期待したのかもしれない。そうなると我々は誤って網に掛かった外道の魚ということになるが、逃がしてもらえると思うのは楽観的に過ぎる。相手がシティの公安ならば尚更のことだ。


 なんにせよ、一刻も早くこの場を離脱する必要がありそうだった。


「ホテルに戻って、続きはまた明日かな」


 陽花がそう言ってそろりと立ち上がり、部屋の端に行って音を出さないようゆっくりと窓を開ける。


「……そうしましょう」


 張り詰めた空気の中、ジュリアも窓に寄る。平時に見れば笑いを誘うような三文芝居だが、事態は切迫している。我々が部屋に立ち入った瞬間から即時リアルタイムで盗聴されていたのだとすれば、今この瞬間にも公安の連中が扉を破り、部屋に押し入ってきてもおかしくはない。


 私は不可欠な偽装のため、敵と鉢合わせる危険を冒して玄関まで向かう。さも我々が玄関から出て行ったかのように扉を開け、その場で閉めた。それから足音を立てないよう戻り、陽花とジュリアに続いて狭いベランダに出た。無言のまま静かに窓を閉めた私は、大きく息をついた。


 もちろん、この場所で待機するのは阿呆のやることだ。我々が目指すのは屋上である。


 洋上に浮かぶ人工都市という性質上、岱輿城市ダイユー・シティは常に津波の危険を想定している。だからシティにある建物の屋上は大抵平たく、その場所へは比較的容易に上れるようになっている。陽花もそれを承知していて、だからこそ最初に窓を開けたのだ。


 幸いこの部屋はアパートの最上階で、登攀はさほど難しくない。ベランダの手すりにあたる部分に足を掛け、まず私が屋上へと到達する。次いでその場所から下に手を伸ばし、陽花、ジュリアを引き上げた。


 まだ無事は確信できないが、部屋を脱出したことでとりあえずの危機は遠ざかった。私の頭上には、商業地区ダウンタウンにあるビルのネオンで照らされた夜空があり、湿気を含んだ生温い海風が吹いている。我々は屋上の中央辺りまで進み、そこで改めて腰を下ろした。公安の連中が上ってこないか警戒しながら、しばし息を潜める。


 屋上の中央からは、ユェンの部屋に入った人間の気配を感じることはできない。だがそれは相手も同じことだ。万が一屋上を探された場合は、隣の建物に飛び移って逃げるか、追手をビルから突き落すしかない。


 十分、十五分。屋上に人が現れる気配はない。しかしまだ戻るのは早い。最低でも一時間は待った方がいいだろう。日中の炎天下ではないので、その気になればここで夜を明かすこともできる。ただ、この場所で追手をやり過ごしたとしても、それで万事よしと言うことはできない。


「部屋での会話を全部聞かれたとなると、まずいわね」


 ジュリアが膝を抱えた姿勢で座りながら呟く。まったく彼女の言う通りだった。音声を注意深く聞いてまともな推理を働かせれば、我々がXリストにアクセスしたこと、ジュリアがオートマタ社員であること、瀬田英治の娘がその場にいたことなどが容易に判明するだろう。


「まずいとも。家にも事務所にもホテルにも戻れない。引越しが必要どころか、しばらくシティからも離れたほうがよさそうだ」


 今や我々はユェンと同じく捕縛の対象となり、網で追い込まれる魚よろしく、シティを逃げ回らなければならなくなった。


「これからどうする?」

 周囲を見回しながら、陽花が言った。


「なんとか時間を稼いで港まで辿り着ければ、脱出はできると思うわ。でも定期船や飛行機は無理ね。伝手を頼ってチャーターしないと」


 ジュリアが答える。伝手の詳細は気になるが、私はもっと重要なことを尋ねた。


「何時間かかる」

「警戒網を掻いくぐらないといけないから、普通の船じゃダメ。手配してから香港からここまで……多分、八時間は見ておいた方がいいわ」


 現在時刻は午後八時ごろ。つまりは東の空が白むまで無事でいればいいということだ。もちろん簡単な仕事ではない。相手は一般市民を容易に抹消できるような権力と、十分な組織力を持っている。捕まれば命の保障はないから、投降するという選択肢ははじめからない。


 この場所では長い時間身を隠すことはできないだろう。それに朝になってからだと移動が目立つため、できるなら夜明け前に合流地点の近くまで辿り着いておきたい。さしあたり我々は中継地点として、もっと安全なシェルターを探すことに決めた。


繁華街ニュー・ベイジンを経由して貧民街ブロッサム・ストリートに向かおう。人間に紛れるのが得策だ」


 私の提案は、今いる商業地区ダウンタウンからシティを時計回りに移動し、中央街区セントラルを避けて港湾地区ダイユー・ポートまで辿り着くというものだった。


ユェンとかいう人は放っておいていいのかな」


 陽花の言葉で、私は改めて彼の存在を逃避行の中に位置づける。


「脱出が最優先だが、道中で一応探してみよう。ジュリアの友達が底抜けに親切ならいいが、土産はあった方がいい」


 同じくユェンを追っている公安とかち合う危険もあり、深追いはできない。それでもシティで失踪した人間は繁華街ニュー・ベイジン貧民街ブロッサム・シティに隠れていることが多く、片手間の捜索で発見できるかもしれない。


もう引き(ポイントオブ)返せない(ノーリターン)って訳ね」


 まだ少し覚悟を決めきれない様子のジュリアに対して、陽花がぽつりと呟いた。


「今更だよ」


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