復讐する者 -3-
我々はビジネスの終結についての話をするために端末を離れ、陽花も含めてテーブルに着いた。私の事務所では安全が保障できないので、ここで話ができるのは好都合だ。もっともこの場所はこの場所で盗聴されているかもしれないが、アメリカが私を害する理由は今のところない。紅茶のおかわりを持ってきた職員が出て行ってから、私は話を切り出した。
「まず、本日の午前中までで調査を終了とします。一昨日の午後から本日の午前まで、丸二日分で一〇〇〇ドル。それから別途経費」
私が提示した金額に対して、リー女史は困惑したように眉をひそめた。
「その金額ではあなたの働きに報いることができません。事務所の引っ越しも必要になるかもしれないのに」
もちろんそうだ。もし誰かに一〇〇〇ドルでマフィアと銃撃戦をしろと言われれば、私はその人物を即座に事務所から叩き出すだろう。しかし今回はあらかじめ決められた報酬で仕事をし、その過程で思いがけず危機が生じたのだ。だから私にこれ以上を請求する権利はない。
もし十倍の報酬を請求したとしても、リー女史はきっと払うだろう。しかしそれを許すようなことが続けば、いつしか私は依頼人の落ち度や自らの手柄を過大に算定して、自己利益を図ることに慣れてしまうに違いない。そして信頼やプロ意識を失い、腐った探偵もどきが出来上がる。
私は別に、探偵という仕事を高尚なものと考えている訳ではない。それでも一日五〇〇ドルとは私が決めた枠であり、箍であった。たとえそれが札束であっても、入る以上を入れれば容器は壊れる。
「これは私が守るべき倫理のようなものなので、曲げられません。規定以上の報酬は受け取れません」
強い口調で主張すると、リー女史はそれ以上食い下がってこなかった。
「ただ、その代わりにお願いしたいことが二つあります」
「なんでしょう?」
リー女史がやや身を乗り出した。自分の後ろめたさを低減するための要求ならば喜んでする、というような様子だった。
「一つは、真実を話して頂くことです」
「真実?」
私が提示した曖昧な要求で、リー女史は肩透かしを食らったような顔になった。ゆっくりと身を引いた彼女に向かって、私は頷いた。
「具体的には、あなたは最初からフラガラッハの存在を知っていたかどうか、ということです。私は、英治さんに対して積極的にフラガラッハを作るよう、あなたが働きかけたのではないか、とさえ考えています」
リー女史がわずかに目を見開き、陽花が不安そうに彼女を見た。
私の疑念に証拠はないが、根拠はいくつかある。
一つ目は規模。フラガラッハの研究は、他愛無い悪戯や実験といった小さな目的から明らかに逸脱している。戦術兵器の枠にすら収まらない。あらゆるものがネットワークに依存した昨今の社会では、先進国ならどこであっても、重篤な都市機能の麻痺を生じさせることが可能だ。明らかに一個人の意思のみで使用されることを想定していない。なんらかのまとまった勢力のために研究・開発されたものだ。
二つ目はリー女史と英治の関係。同じ企業の、同じ分野の専門職として働き、同じ思想を持つ同志。まして業界の先端を行く人物であれば、嫌でも噂は入ってくる。英治にとってリー女史は、何か困難があれば真っ先に力を借りたい相手のはずだ。
だからフラガラッハは既に利用可能な水準に達していて、そこに至って初めて明かすというのは不自然である。ここ数年会っていないとリー女史は話していたが、通信技術が広く普及した二〇七〇年代、それはなんの言い訳にもならない。
ただ、ここまでは何とでも言い訳できる。推論の上に想像を積んだ頼りない根拠である。しかし先ほど、陽花の脳波を使って研究データを閲覧した際、私は自分の考えをほとんど確信するに至った。
それが三つ目である。データそのものではなく、それを見たリー女史の態度だ。彼女はデータを一瞥して、それが本物であると確信したようだった。私が貨物船で起こったことを説明したとはいえ、今まで全く知らなかった研究なら、『そもそもそんなことが可能なのか』という思考から入るのが自然である。
しかし彼女の反応はそうではなかった。私にはそれが、何度か添削したレポートを最終的に確認するような振る舞いに見えた。つまり元々、研究の内容をかなり詳しくまで把握していたということだ。
もしリー女史が私の問いにNOを返すようであれば、このあたりの根拠について少し質問してみるつもりだった。しかしそれでも否定されれば、特別強く追及するつもりはなかった。しかし彼女はやや目を伏せて、自らの虚偽を白状した。
「あなたが言った通りです。私は『プレートメイル』のわずかな脆弱性を突くような兵器の構想を彼に話し、サイバー兵器の研究をおこなわせました」
「……そうですか」
「ただ、無理にやらせたという訳ではありません。彼は同意の上でそれを成し、私は必要な援助をしました」
「もちろん、そうでしょう」
私は彼女に気を使うつもりはなかったが、委縮させるつもりもなかった。これは単純に興味の問題なのであって、私は彼女を裁いたり糾弾したりしようとは思っていなかった。
「しかしあなたへの背信については、言い訳もありません」
結果としてリー女史は、私に十分な報酬を払えないことに加え、隠しごとをしていたという二重の負い目を背負うことになった。ただ、隠しごと自体ははじめから存在していたのだから、それが露見するかしないかという違いがあるだけだ。
「フラガラッハの威力を考えれば、あなたの嘘も悪意からのものではないのだと思います。そして私の仕事は全ての真実を明らかにすることではなく、報酬と引き換えに調査というサービスを提供することです。だから私は趣味でお尋ねしています。お答えいただいて感謝します」
彼女の罪悪感をフォローしてから、私は話を次に進めた。
「それでもう一つ。先ほど陽花さんとも話をしましたが、彼女はあなたのもとでプログラミングを学びたいと思っているようです」
私は一旦陽花に目線を送り、陽花は意思を確認するようにリー女史を見た。
「もちろんそれを受け入れるかどうかは、全くあなたに任されています。しかしもし陽花さんと暮らすならば、彼女が無茶をしないよう細心の注意を払って欲しいんです」
私がそう言うと、陽花は拉致の原因となった今朝の行動を責められていると感じたのか、気まずそうな顔をして下を向いた。
「心がけましょう。もしかすると最初から英治もそのつもりだったのかもしれません」
ただし、とリー女史は付け加える。
「私はこれからこの街を離れます。シティ政府や華南軍閥にとって、フラガラッハのデータを握った私は危険人物です。それに英治を殺したのがシティの公安なら、彼らが守る公共を享受したくはありません」
それは感情としても、現実としても妥当な決断だった。彼女には協力者がいて、資金も十分にある。仕事はどこでも需要のあるもので、勤務は場所に依存しない。路面を這いずって仕事を取っているような私とは違う。
「シティを離れて、どこへ?」
「まだ決めていません。住む場所も短期間に何度か変わるかもしれません。陽花、それでもいいですか?」
リー女史は気遣わしげに陽花を見た。陽花の顔には不安の色こそあったが、新しい生活が始まることに期待しているようでもあった。
「大丈夫」
陽花は力強く頷いた。リー女史も頷き返し、私の方に顔を戻した。
「急ですが、今晩には出発します。ここの職員が力になってくれるでしょう。さっきの彼も」
多分リー女史は英治が殺されたときから、シティ脱出の算段を立てていたに違いない。しかし先ほど彼女が言及した通り、今やレベッカ・リーはネットワークの心臓を握っている。誰もが彼女を確保したい。華南軍閥が英治を確保したがったように。
「安全策は十分なんでしょうか?」
私は懸念を示したが、女史には自信があるようだった。
「フラガラッハがあります。英治の研究が」
「フラガラッハを利用する?」
私は黑色女人の貨物船で発生した致命的な混乱が、シティ全域で起こるさまを想像して不穏な気持ちになった。それを感じ取ったのか、リー女史は弁解するように付け加えた。
「もちろん、当局の目をくらますだけの、限定的な利用に留めます。混乱は少なくて済むでしょう。ただ、今夜は停電に注意してください」
そう言われれば引き下がるしかない。せいぜい、データのバックアップを取っておくとしよう。
「では、今日はどこかのホテルで大人しくしています」
「領事館に保護プログラムを組んでもらうよう、相談してみましょうか」
厚意はありがたかったが、私はそれを丁寧に辞退した。
「ご心配なく。初めてのケースではありませんから」
あまり長居してもキリがないと思い、私は居心地の良い個室から出て帰途につくことにした。さしあたり報酬の一〇〇〇ドルを現金で受け取ったので、数日はホテルに滞在するつもりだった。その後に続く面倒な仕事や手続きは、明日以降に考えればいいだろう。
領事館の玄関まで、陽花が見送りに来た。
「落ち着いたら連絡するね」
ここ数日で目まぐるしく変わった彼女の表情だが、今は事件がひと段落してさっぱりとしていた。私はこの顔がいつか復讐に呑まれ、醜く歪まないよう願った。
「ああ。元気で」
私は手を差し出し、彼女の手を強く握った。
一つの仕事が終われば依頼人にも調査対象者にも『元』がつき、多かれ少なかれ過去の人になる。それは陽花にしても同じことだった。しかし仕事をきっかけとした出会いの中には、私の人生に様々な痕跡を残す体験もある。
私には、陽花とまた近いうちに会うだろうという予感があった。彼女の手を放して踵を返し、領事館の前でタクシーに乗り込む。
ホテルに到着したあと、私は兼城に電話を掛けた。世話になったささやかな礼として、今日起こるであろうフラガラッハによる停電について警告した。頭のおかしなヤクザは、なら花火をしようと誘ってきたが、私はそれをにべもなく断った。




