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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
電海のフラガラッハ
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岱輿城市 -2-

 翌日の午前七時半。自宅アパートの一室で目を覚ました私は、両手で一度、強く顔を拭ってからベッドを下り、白い床材の硬さを足裏に感じながら寝室を出た。南向きの窓を開け、人々の生活臭がわずかに混じった朝の空気を部屋に入れる。


 私が住んでいる部屋のグレードは、シティ基準で言えば中の上といったところだ。だが家賃を考えれば、アジア基準で下の上ぐらいの評価になるだろう。


 大抵のシティ住民にとって家は寝に帰るだけの場所で、だからこそ商業地区ダウンタウン繁華街ニュー・ベイジンの賑やかさがある。しかし私は過度の人ごみを好まないので、家で落ち着いて過ごせるよう、少々金を掛けてこの部屋に住んでいるのだ。


 窓から入ってきた空気を嗅ぐと、今日も蒸し暑くなるだろうという予感がした。亜熱帯気候の中にあるこの都市では、最低気温が十五度を下回ることはほとんどない。今は二月の下旬だが、ここ数日の陽気は四月のそれに近かった。


 私は窓を開け放したままキッチンでグラス一杯の水道水を飲み、もう一杯汲んで、ダイニングにある布張りのソファに深く腰掛けた。旧式のテレビを付けて、ニュースを確認する。


 二十一世紀前半。インターネットの隆盛によって一時は衰退したテレビジョン放送だったが、二〇七四年現在においてもある程度まではその命脈を保っていた。能動的に情報収集する意欲がない時や、漫然と市井のことを知りたい時に便利なメディアだ。


 しかしこれは私の考えであって、あまり一般的な認識ではないようだった。テレビから情報を摂取する者は特に若者の間で、怠惰な人間あるいは情報を取捨選択する能力がない者と見なされがちだった。


 だが朝から家に上がり込み、私の怠惰を糾弾するお節介な人間など居はしない。グラスの水を飲み、テレビ画面を眺めながら、私は脳と胃腸が動き出すのを待った。


 本日の天気、市長の政策、香港の株価指数、中東の内戦といったニュースが画面に流れ、次々に移り変わっていく。それらに対する無責任なコメントは、いつも根拠のない恣意的な見通しに満ち満ちていた。画面の中にも外にも、目新しいことは何もなかった。


 少しばかりそうして過ごしたあと、私は再びキッチンに立ってドライフルーツの入ったシリアルを用意し、ダイニングに戻った。気持ちに余裕がある時は、これに卵が付くこともある。生のフルーツは高級品だ。人工島であるシティに大規模な農地はなく、カロリーの割にかさばる果実は、船で運ぶにも費用が掛かる。


 朝食を食べ終えた私は、インスタントコーヒーを作ってソファに寝転がり、今日の行き先を携帯端末デバイスで確認した。リー女史が待つ居住区アップタウンは、この家がある商業地区ダウンタウンと隣接している。移動には三十分ほど見積もれば十分であることが分かった。


 私はそれから一時間ほどゆっくりしたあと、シャワーを浴び、髭を剃り、白いポロシャツと黒いチノパンツに身を包んだ。そして合皮の靴を履き、玄関ドアをくぐって、気温の上がりつつあるシティ市街に繰り出した。


 私の家と事務所がある商業地区ダウンタウンは、日用品や嗜好品を扱う小売店、落ち着いたレストランや喫茶店、その他地元企業の事務所などが多く存在する区画である。地面は耐食コンクリートで舗装され、表通りは所々青やオレンジなどでペイントされていて人目を惹く。


 通りの奥に入れば、日照を奪い合う樹木のように集合住宅が密集しており、私の自宅もその一つだった。地区全体では、確か十万からの人間が住んでいたはずだ。隣接した地区から多くの人が訪れ、多様な階層と出自の人々が行き交う活気ある光景が見られる。


 一般的な勤め人よりも遅く家を出発した私は、まず駅に足を向けた。シティにおける交通手段はおおまかに三つ。民間のタクシー、公営のバス、それから今私が使おうとしている、軽量軌道交通(LRT)、通称トラムだ。それら全てが、メタンガスによる火力発電で生成された電気で動いている。


 トラムとは、平たく言えば路面を走る電車だ。耐食コンクリートの車道中央に敷設された線路上を四両編成の車両が行き交う姿は、シティ市民にとって馴染みの光景である。四つの輪が結合したような形になっている路線図は少々複雑だが、計画的かつ効率的に配されたシステムは、第一に安価であり、時間あたりに来る本数も多く、なおかつ二回以上乗り換える必要がない、と様々な利点を備えていた。


 乗員はおらず、完全に無人で運行されている。全車両はネットワークで管理され、トラブルがあったときのみ、近隣から保守要員が駆けつけてくる仕組みになっている。トラムはシティ住民の重要な移動手段であり、私にとっても便利な乗り物であった。自家用車を使う人間はあまりいない。電気代はともかく、置いておく場所が少ないからだ。


 私が駅のプラットフォームに上がり、端末に決済用のカードをかざすのと、四両編成の黄色いトラムが停まり、入口を開くのがほとんど同時だった。私は滑り込むようにして、トラム車両に乗り込んだ。


 薄いグリーンに塗られたトラム車内には、左右の壁際に背を張り付けるようにして向き合う一列ずつの座席がある。その間のスペースには、乗客が掴むためのポールやつり革が配置されている。夜間には床に寝そべる酔客の姿が見られるが、これは保守要員による排除の対象となる。


 今は通勤のピークが過ぎた時間帯だが、座席は空いていなかった。トラムは音も振動もほとんど発生させず、出発を知らせる電子音だけを鳴らして駅を離れた。私の目的地は五つ先の駅である。


 移動中、内装の数か所に埋め込まれたディスプレイが流す広告を、私は立ったままぼんやりと眺めていた。シティ独立十五周年の記念式典が来年に迫っている、というニュースが報じられていた。


 よくよく考えてみれば、岱輿城市ダイユー・シティは、特殊な来歴を持つ都市である。十五年、あるいはもっと前のことを、私はぼんやり思い出していた。


 元々この都市は中国に属していた。二〇二〇年代、当時の中国政府は、経済の行き詰まりや国家全体を覆う閉塞感に喘いでいた。高い成長率によって正当化されていた統制社会は、民衆の不満によって軋みを上げつつあった。そんな折に発見されたのが、香港沖二〇〇キロの位置にある、大規模なメタンハイドレート鉱床である。埋蔵量は膨大で、幸運にもそれを利用可能とする諸条件が整っていた。


 間もなく、公共投資による景気浮揚、そしてエネルギー問題の解決を企図して、メタンの採掘や精製の施設を洋上に建造し、さらにはその産業を主軸とした都市を拓く、という岱輿計画ダイユー・プロジェクトが始動した。古代中国の神話から名前を取ったこの途方もない規模の計画は、国家の威信と命運の掛かった一大事業であった。


 そして二〇三六年、お得意の人海戦術と、湯水のように投入された資金によって、ダイユー・シティは計画の発表からたった八年で完成した。プラントが稼働し始めると移住が進み、シティの人口は右肩上がりに増加した。


 住宅や各種インフラが整備され、需要を見込んだ小売店や娯楽施設が建ち始めた。経済特区として国外の企業も多く誘致された。たった数年で、岱輿城市ダイユー・シティは都市としての体裁を整えていった。


 シティ本体の構造物は、繋ぎ合わされた膨大な数のブロックからなる巨大人工浮島メガフロートで、一辺二キロメートルの六角形を三つ組み合わせたような形をしている。円周約二十四キロ、面積は香港の3%に満たないが、人口密度は三倍以上、今では六十万を超える住民が、七つに分割された区画にひしめいている。


 上の六角形に港湾地区ダイユー・ポート居住区アップタウン、右下の六角形に商業地区ダウンタウン繁華街ニュー・ベイジン、左下に貧民街ブロッサム・ストリート工業地区メタン・コンプレックス、そしてシティの行政機能が集中しているのが、文字通り中央に位置する中央街区セントラルという区分けになっている。


 シティの歴史に話を戻すと、人工島と都市の建設自体は間に合った。しかし事業主である国家は既に手遅れだった。度重なる延命策・刺激策も、死にかけた巨龍を再び雄飛させることは叶わなかった。


 そして二〇五八年、地方での同時多発的なクーデターをきっかけにして、中華人民共和国で内戦が勃発する。さながら古代のように、複数の軍閥が割拠して中国共産党の影響力は急低下し、中国だった国は六つに割れた。


 しかしもうその頃にはシティの運営は軌道に乗り、当時の為政者である(レイ)富城(フーチェン)はその経済力を背景に自らの権力基盤を死守した。


 もとより各国の利害と思惑が渦巻く南シナ海上、中国をはじめ、東南アジア、日本、アメリカが巡らせる策謀の糸を渡り、掻い潜り、時には巻かれ、シティが事実上の独立宣言を出したのが十四年前。当時十九歳だった私も、その時のことはよく覚えている。


 ディスプレイに流れるシティの年表を見ながら回想の中にあった私は、目的地を告げるアナウンスで我に返った。気づけばトラムは港湾地区ダイユー・ポートを通り過ぎ、居住区アップタウンに差し掛かっていた。トラムを降りた私は時刻を確認するが、約束まではまだかなりの余裕があった。


 商業地区ダウンタウンほどではないにせよ、私にとって居住区アップタウンは慣れた場所だ。探偵に依頼できるだけの財力がある人間は、この地区に住んでいることも多い。居住区アップタウンが有する空間と金銭の余裕は、若干ではあるが文化の項目に振り分けられ、合理性と構造的強度に偏重した別地区の景色とは一線を画している。


 居住区という名前こそ付いているが、シティ人口の大半がこの場所に住んでいるという訳ではない。この地区の典型的な住民は、家族連れの官僚、エネルギー会社の社員、企業の経営者といった、シティでも平均以上に裕福な人々である。


 メタン採掘の現場で働く労働者や、小売店従業員、下級の技術者などは、商業地区ダウンタウンか職場近くの狭小な寮。ロクに仕事がないか、あってもまともではない場合は貧民街ブロッサム・ストリート、という具合だ。


 依頼人が居住区アップタウンに住んでいるのであれば、多分収入もそれなりに良く、常識もわきまえている人間である可能性が高かった。居住区アップタウンの住民は多くの税金を納めているからか、この地区のインフラもよく整備されている。広い路面に欠けやヒビはなく、夜になればLED街灯が明るい。生ごみを踏まないよう、足元に気を付ける必要もない。


 目的の住所は、駅から歩いて七、八分の場所にある。約束の時間よりあまり前に着いても礼を失するので、私はやや遠回りをして行くつもりだった。


 そんな私が彼女と出会ったのは、目的地の建物が見えてきた時だった。広い表通りを歩いていた私は、ふと細い横路に気配を感じた。そちらを覗きこむよう見ると、不意に十五、六の少女と目が合った。彼女は驚いたように肩を震わせて一歩下がったが、背後からも何か怖いものが迫っている、とでもいうように、その場に釘づけになってしまっていた。


 見たところ怪我をしている様子もなく、衣服の乱れもない。しかし彼女は混乱していて、また明らかに怯えていた。


「どうした?」

 私は日本語で彼女に問いかけた。外見や雰囲気から、もしかしたら日本人ではないかと予感したからだった。私の言葉に彼女ははっとした様子で、少し安堵した表情も見せたが、まだ落ち着くには程遠かった。


「お父さんが……」

 私がどうしたものか思案していると、彼女はかすれた日本語で呟いた。


「お父さんがどうしたって?」

「助けて、お父さんが……」


 精神的な緊張で舌がうまく回らず、彼女はパクパクと口を開閉させた。説明は要領を得ないが、彼女の父親に何かが起こったのは間違いなさそうだった。強盗に襲われたのか、事故で怪我をしたか、病気で倒れたか。厄介な出来事であるというのは明白だったが、ここで彼女を無視するほど、私は非情ではなかった。約束の時間に遅れた言い訳など、あとでどうとでもなる。


「落ち着いて。お父さんはどこにいる?」


 少女は喉を鳴らして唾を飲みこみ、意を決したように、私を横路の奥へと導いた。林立する高層アパートメント同士の距離は近く、横路や裏路地は表通りに比べて狭くて暗い。混乱していた割に、少女はよく道を覚えていて、我々は程なくして、車がようやく入れる程度の路地に出た。

 そこは現場と表現するのが適切だった。具体的に言えば、殺人現場だ。


 仰向けに倒れた中年男性の死体が、私の目前にあった。


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