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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
電海のフラガラッハ
19/60

復讐する者 -2-

 私は陽花ともども兼城に送られ、中央街区セントラルのアメリカ領事館までやってきていた。領事館の建物は小さなホワイトハウスといった風情で、大使館ほどの規模でないとはいえ、大国の外交施設に相応しい威容を備えていた。白い漆喰で塗られた外壁はシティにひしめくビルとは違い、見る人間に文化や歴史の重みを感じさせる。普段なら一介の探偵にはまず用のない場所で、門に近づくことすら躊躇われるような雰囲気があった。


 とはいえいつまでも屋外に佇んでいる訳にもいかない。守衛に名乗ると話は通っているらしく、すぐに門を開けてくれた。屋内から迎えの職員がやってきて、我々を案内する。


 小さな庭を横切って玄関をくぐると、室内からわずかに木の匂いがした。建材に使われているのは木に似せたパネルなどではなく、淡い褐色をした本物だった。


 入ってすぐの場所で、リー女史が待っていた。彼女は我々を認めると、二、三歩歩み寄って丁寧に頭を下げる。


「無事でなによりです。部屋を借りていますから、そこで詳しい話を聞かせてください」


 そう言うと彼女は陽花の手を取り、絵画の掛かった廊下を進んでいった。私はそれに付き従い、用意された広い個室に入った。


 そこは欧米の古風なダイニングを模したらしい部屋で、客人をくつろがせるために色々と細かい工夫が凝らされていた。磨かれた木材特有の柔らかい光沢があるテーブルや床は、普段から丁寧に掃除されているようだった。用意された肘掛け椅子は寝転ぶことこそできないが、私の体重を受けても軋み一つ上げないしっかりした造りである。リー女史は私の対面に腰掛け、陽花は私の左隣に座った。


「アメリカ国籍だったんですか? リーさん」


 私は周囲の調度に目移りしながら言った。部屋全体は古風だったが、隅に設置された中型端末パソコンだけが少し浮いていた。


「いえ。私の出身はシンガポールです。この場所は私が持っているコネクションの一つ、ということになるでしょうか」

「大層なものですね」

 それは皮肉ではなく、素直な感想だった。


「まず、改めてお礼をさせてください。陽花を連れて帰ってくれてありがとうございます」

「正直、ここにいるのが不思議なくらいです。自慢をする訳ではありませんが、それほど危険な状況でした。多分に幸運と、彼女が手を貸してくれたおかげです」


 私が陽花を横目で見ると、彼女は照れくさそうな顔をした。


「陽花が?」

「そうです」


 そして私は薄暗い通りで陽花を見つけ、黑色女人に拉致されてから、隙をついて拘束から脱し、銃撃に晒されながらも船から逃げ出すまでの経緯を説明した。フラガラッハのことも、私が数人のマフィアを撃ったことも、包み隠さず話した。途中で職員がやってきて、人数分の紅茶をテーブルに置く。私が話している間、リー女史は疑問を差し挟まず、終始神妙な顔で耳を傾けていた。


「シティの公安が英治を殺したのですね」

 女史は重々しい声で、確認するように言った。


「証言の疑わしさを差し引いても、それが最も整合性の取れた結論です。決定的な証拠はありません。犯人を捕まえることもできません。だから事件の調査という依頼については、今お話ししたことが精一杯の結果であり、報告です」


 私の言葉と、それで生じた思いを噛みしめるように、リー女史は額に手を当て、少しの間無言でいた。


「十分です。あなたは本当によくやってくれました」

「英治さんの研究成果は目の前にありましたが、さすがに回収する余裕はありませんでした。残念ですがこちらも、取り返すのは諦めた方がよさそうです」


 しかしこれについて、リー女史はいささかの失望も示さなかった。


「研究成果ですが、心配には及びません」

「もういい、ということですか?」

「違います。手元にあるのです。多分、あなた達がフラガラッハを解き放ったのと同じタイミングだと思いますが、私のアドレスに英治のアカウントからデータが送られてきました」


 私にとっては意外だが、よく考えればあり得ない展開ではない。つまり英治が持ち込んだファイルには、二つの仕掛けがなされていたということだ。一つは不適切なアクセス元を攻撃するためのもの。もう一つは本命のデータを避難させるためのもの。


「お父さんの研究がここにあるの?」

 陽花が身を乗り出して割り込むと、リー女史は頷きを返した。


「そうです。あなたのお父さんが遺した研究は無駄になりませんでした。ただ、少し問題があるんです」

 女史は一旦言葉を切って、落胆を示すようにため息をついた。


「データが高度に暗号化されているのです。その形式も厳重に隠蔽されていました。データにたどり着くこと自体は理論上可能ですが、相当骨が折れそうです」


 堅固を慎重でくるんだように守られたデータ。偏執的とも取れるが、フラガラッハの威力を目の当たりにした私には、それが無理からぬことに思えた。


 それから少し間をおいて、私は艦橋でパスワードの入力を強制された場面を思い出した。陽花が向かい合うディスプレイに現れたポップアップには、ある文言が記載されていた。


「『心を込めて入力すること』」

 私は思い浮かんだ言葉を、そのまま口に出した。


「何です? それは」

 リー女史が聞き返す。


「あっ」

 私が言った文章を聞いて、陽花も何かを思い出したように声を上げる。ただしその内容は私とは違うようだった。


「そうか。心、心だ」

「何が?」


 自分で言い出しておきながら、私も陽花が何を考えているのか分からなかった。しかし彼女は決定的な何かを思いついたという顔で、私とリー女史の顔を交互に見て、言った。


「暗号鍵」


 暗号鍵。私の乏しい知識によれば、暗号化されたデータを解読可能なものにするためのデータだ。せいぜい数十文字であるパスワードより遥かに複雑で、鍵を持たない第三者が解明するのは高い技術と非常な困難を伴うものとなる。


 陽花は自分のアイデアをうまく説明できないようで、頭の周囲で手を行ったり来たりさせた。


「なるほど」

 その様子を見ていたリー女史が何かに気付いたようで、助け船を出した。


「EEG。脳波による暗号鍵ですか」


「思い出したの。香港に居たときのこと。お父さんが私に変なヘッドセットをかぶせて脳波を取ったことがあった」


「そういう技術があるんですか」

 理解の追いつかない私はリー女史に説明を求める。


「技術自体は随分前からあります。しかし利便性に難があって、広く一般には普及しませんでした。それでも脳波は、一人の人間が持つデータとして最も複雑なものです。つまり、最上級の個人認証になり得ます」


 もし陽花の思い付きが当たっているならば、彼女こそがフラガラッハの本質に至る唯一の鍵なのだ。黑色女人ブラック・レディの連中は手法を誤ったが、限りなく正解の近くまで行っていたということになる。


 リー女史は厄介な問題を解決したとき特有の、満足そうな顔で腕を組んだ。


「この領事館でも、一部データの暗号化に脳波が利用されています。今からでも用意させましょう」


 リー女史が内線で専用ヘッドセットの手配を頼むと、しばらくして職員らしき男が部屋を訪れた。しかしそれは意外な人物で、私は思わず腰を浮かせた。ヘッドセットを小脇に抱えて登場したのは、つい先日事務所で遭遇した、シュと名乗る男だった。


「昨日ぶりですね。月島さん」

「なんでアンタがここに居るんだ?」


 私は不信感もあらわに、棘のある口調で言った。陽花が私と男の顔を心配そうに見比べる。


「私の身分は少々複雑なんです。少なくとも今はあなたの敵ではありませんから、どうぞ安心してください」


 彼は領事館の職員なのか、職員に偽装したエージェントなのか。シティ公安に所属しているのか、二重の身分を持つスパイなのか。あるいは、シュという名前すら偽名なのかもしれない。ただ何にせよ、この場で聞いても明かさないだろうし、深く詮索するのは彼が所属する組織の機嫌を損ねるだろう。


「知り合いでしたか」


 リー女史は意外そうな顔をした。私はまだ警戒していたが、少し冷静になって再び席に着いた。


「ちょっとした因縁があるんですよ。いけ好かない公安という立場でここに居るのでなければ、私には関係ありません」


「私の忠告は正しかったでしょう? だからあまり恨まないでくださいよ」


 シュはリー女史にヘッドセットを渡し、穏やかな声で言った。私が拒否を示すようにわざとらしく腕を組むと、彼は苦笑して部屋を出た。


「……気を取り直して、始めましょうか。鍵さえあれば、作業自体は全く単純です」


 女史は場を取り繕うように言うと、陽花を部屋の隅にある中型端末パソコンの前に座らせた。送られてきた研究データが入っているらしきフォルダを展開しようとすると、入力欄のない、真っ白なポップアップが現れた。


「危険はありませんが、ネットワークは遮断しておきます。では開きましょう」


 陽花が手渡されたヘッドセットを被る。それは丸くて白い、卵に似たヘルメットのようだった。


 ヘッドセットのわずかな駆動音が聞こえ、表面にある複数の小さなランプが青白く灯った。十秒ほどで読み取りが完了したらしく、ポップアップが消える。最も下層にあるフォルダが開かれ、『Fragarach』とだけ命名されたファイルが表示された。陽花が小さくため息をつき、リー女史が何かを悼むように目を閉じたのが分かった。


 女史がファイルを開くと、そこには専門用語ジャーゴンやプログラムコードの羅列があり、私にはさっぱり意味が理解できなかった。しかしそれを見た女史は、これがフラガラッハの研究データであるとすぐに判ったようだった。


「これが失われなくてよかった。英治が命を賭して私に届けようとしたものですから、大切にとっておきましょう」


 女史は誰に言うでもなく言うと、ディスプレイから私の方に振り返った。


「データの内容は、あとでじっくり読ませていただきます。お疲れでしょうが、少し今後の話をしましょうか」

「ええ、そうしましょう」

次回、第一部最終話です。

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