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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
電海のフラガラッハ
18/60

復讐する者 -1-

 兼城が運転する車は既に港湾地区ダイユー・ポートを抜け、工業地区メタン・コンプレックスに入っていた。黑色女人ブラック・レディの追手は見えない。なんとか撒いたようだ。しかし私と陽花は負傷と疲労で消耗しており、安全な場所での休息を必要としていた。


「足、見せてみろ」


 私は気掛かりだった陽花の怪我を診る。彼女の左足を持ち上げ、後部座席の上に乗せた。裂けた靴と血で濡れた靴下を脱がせて確認する。


 幸い、素人目に見てもそれほど重傷ではなさそうだった。骨も腱もおそらく無事だろう。弾丸はくるぶしの下を掠り、長さ四センチ程の裂傷を作ったのみだった。消毒して包帯を巻けば、すぐにでも歩けるようになりそうだ。


「ウェットティッシュ使っていいぞ。ゴミはそこのゲロ袋に入れろ」


 後部座席の様子をバックミラーで確認した兼城が言う。私と陽花は兼城が渡して寄越した円筒形のボックスから、何枚か引き出して傷口を拭う。我々の傷は深手ではないものの、出血はまだ続いていた。患部を圧迫し、止血を試みる。


「これからどこに行くの?」

 赤く染まったティッシュをビニール袋に入れながら、陽花が私に尋ねた。


「まずはリーさんに連絡を取りたいが、事態が落ち着くまで直接家に行くのは危険だ。警察もまずい。緊急事態だったとはいえ、何人かは確実に撃ち殺してるからな。俺の事務所や家も、黑色女人ブラック・レディの連中に場所を知られているはずだ」


 しかしそうすると行く場所がない。病院という手もあるが、警察に通報がいかない保証がなかった。私の行為だけならともかく、シティ公安の影がちらつく以上、それは避けるべき選択肢だった。


「しかたないなお前ら。ウチに来いよ」


 そんな様子を見かねたのか、兼城が助け舟を出した。ウチというのはすなわち、海虎一家の事務所ということだ。


「いいのか?」

「五年前の義理は消えちまった訳じゃない。それに敵の敵だってことになれば、邪険には扱われないはずだ。男臭いのは我慢しろよ」


 私は構わなかったが、ヤクザもマフィアも陽花にとっては似たようなもので、彼女が拒否する可能性もゼロではない。とはいえ我々と同じ日本人であるし、仁義を欠いたチャイナマフィアとの違いはあとで説明すればいいだろう。他に良い案もなかったので、私は兼城の提案をありがたく受け入れることにした。


 ◇


 警察の目を気にしながら、我々は商業地区ダウンタウンの一角にやってきた。私の探偵事務所が入っているのと同じようなビルに、海虎一家の拠点がある。しかし兼城が私を頻繁に訪れるのと違って、私がこの場所を訪れたのは実に五年ぶりであった。ビルの前には、あらかじめ兼城から連絡を受けていた若い構成員が待っていて、車から降りた我々を迎えた。


「兼城さん、お疲れ様です」

「おう。悪いけどシートの血を拭いといてくれ」


 構成員は糊の利いたワイシャツとスラックスに身を包んでいる。年齢は二十代の前半といったところだろう。礼儀を弁えていて、私に対しても丁寧に腰を折る。ジャージを着て繁華街ニュー・ベイジンを歩き回り、有利となるや人の顔を踏みつけるような黑色女人ブラック・レディの連中とは大違いだった。


 車の移動を部下に任せ、兼城は私と陽花をビルの中に導いた。フロアを進むときも、エレベーターに乗る際も、血濡れの私を堅気の人間に見られなかったのは幸運だった。私は床に血痕を残さないよう傷口をぐっと押さえつけたが、気持ちの方では警戒が解けて心底ほっとしていた。


 エレベーターで昇れば、ビル五階のフロアが丸々海虎一家の事務所になっている。しかしいかにも反社会勢力の拠点、といった雰囲気ではない。何も知らない人間ならば、旅行代理店の事務所と間違えてもおかしくないだろう。


 ライトで照らされた室内は明るく、半透明のパーテーションで区切られたブースがいくつもある。奥の方には、オフィス然とした事務机や中型端末パソコンが置かれたスペースさえあった。


 海虎一家はシティにいくつも拠点を持っているが、規模としてはここが最大だったはずだ。今も十数人の構成員が電話を掛けたり、ブースで何ごとか打ち合わせたりしている。全員が生粋の日本人という訳ではなさそうだが、明確な人種は識別できない。半分はスーツで、半分はもう少しラフな格好をしている。


「ここも少し変わったな」


 私は以前来たときを思い出しながら感想を述べた。昔はもっと全体的にコソコソしていて、薄暗い場所だった記憶がある。


「羽振りも良くなったからな。組織の運営が順調な証拠だ」


 兼城に挨拶する若手を横目で見ながら、私と陽花は案内されるまま、与えられた個室に入った。黒い本革のソファと艶のある木製テーブルが置かれた、応接室のような場所だった。


「とりあえず少し休んでろ。ちょっと色々済ませてくる」


 兼城はどこかから持ってきた白いタオルとミネラルウォーターのペットボトルを置き、部屋から出て行った。私はあたりに血を付けないようタオルで傷口を覆い、いかにも高価たかそうなソファに身を沈めた。喉が渇いていたので、五〇〇ミリリットル入りのペットボトルを手に取り、一気に飲み干す。陽花も水を手に取って、緊張を解いたような様子でソファに身を預けた。


 ようやく人心地がついた私に、ペットボトルの蓋を開けた陽花が問いかける。

「月島さんはこれからどうするの?」


「二、三日休んだら色々と面倒な手続きをして、探偵を続ける。君はどうする? 香港に戻るのか?」

 陽花はかぶりを振った。不安と決意が半々といった表情だった。


「分からない。分からないけど、もしできるならレベッカさんと一緒に居ようと思う」

「母親と暮らさないのか」


 差し出がましいことだとは解りつつも、私は彼女の前途を憂えずにはいられなかった。捕われていた貨物船で見せつけられた通り、彼女には強い意志と賢さが備わっている。そんな可能性を持った人間が、環境によって損なわれてしまうのは惜しい気がした。陽花は喉を鳴らして水を飲み、手の甲で口を拭った。


「お母さんはきっと私のこと好きじゃないよ。再婚してるかもしれないし」

「……そうか」


 両親が別れてからはほとんど連絡を取ってなかったというから、愛着もあまり残っていないのだろう。離婚に際して、親権が父親に行ったことを考えると、母親の方が陽花を捨ててどこかに行ってしまったようにも思える。陽花の家族関係にあまり深入りするつもりはないが、口ぶりからすると頼れる親戚もいないようだ。


「レベッカさんに弟子入りする。もっとプログラミングを勉強して、お父さんみたいなエンジニアになる」

「君の父親が……」


 この場に居たならば、まだそれを望んだだろうか。私はそう言いかけて思い留まった。死んだ人間は二度と現実に現れない。そして彼女の人生は、彼女の選択によってのみ形づくられるべきだ。もっとも、リー女史が彼女を受け入れるかどうかはまだ分からない。


「確かに生き残ったのは嬉しいし、月島さんには感謝もしてる。でも今回は逃げてきただけ。本当はもっと酷い目に遭わせてやりたかった。マフィアも、警察も。でも私はまだ弱いから、誰かに教えてもらって強くなりたい」


 それはひたすら復讐のために。無比の復讐者フラガラッハとなるために。


 彼女の肉体は貧弱でも、その才能はサイバー空間において、凡庸な兵器よりも大きな破壊をもたらしうるだろう。なぜなら瀬田英治は国家をも恐れさせるエンジニアで、陽花はその背中を追っているからだ。


「今回みたいなことは当分したくないが、探偵が必要なら手伝える。一日五〇〇ドルで、経費は別だ」

「そのときは、そうする」


 私は気のない口調で言ったが、陽花は存外強い返答を寄越した。


 依頼料のことを口に出した私は、今回の仕事で受け取る報酬のことを思い出した。今は調査を開始して三日目だから、事件がひと段落として、請求できるのは一五〇〇ドル。いや、一昨日の午後から今日の午前で計算すれば、たった一〇〇〇ドルということになる。味わった危険を鑑みれば、なんとも割に合わない仕事だった。


 私が収支を考えて鬱々としていると、部屋の扉が開いて兼城が戻ってきた。後ろからもう一人、若い構成員がトレーでコーヒーを運んできて、三人分をテーブルに置いた。


「落ち着いたか? 今、医者を呼んでる」


 部下が出ていくと、兼城は陽花に席を詰めさせて、私の対面に座った。


「お前の聞きたいことを当ててやる。『なんでお前があの場所にいたんだ』だろ?」


 私は兼城の顔を見ながら、熱いコーヒーを啜る。インスタントではなく、ドリップで淹れた香りの良いコーヒーだった。


「分かってるなら話が早い」


 私と兼城とのやりとりは別段緊張感のあるものではないが、陽花は会話の外側に身を置くことを決めたようだ。ソファの端に寄り、両膝を腕で抱える。


「殺されたエンジニア、つまりこの娘の父親だが、それについてはこちらも気には掛けてた。朝にお前から電話を受けた時点で、何か事態が動いたんだろうと思ったよ。そのあと何回かお前に連絡したんだが、繋がらないしな」


 そういえば、私の携帯端末デバイスは拉致された際に奪われたきりだった。あとで端末を借りて、データのバックアップを回収しなければならない。


「ウチの情報網はそれほど強力って訳じゃない。だが港湾地区ダイユー・ポートは俺達にとっても仕事場だ。派手な動きがあれば分かる。派手な……」


 そこまで言って、兼城はにやりと笑った。


「ヤツら相当慌ててたな。あのとき、中で一体何をしてたんだ?」


 真実を話していいかどうか、私は陽花に目線を送った。彼女は軽く頷いて同意を示し、自分のコーヒーに砂糖とミルクを入れた。


「フラガラッハだよ」

「フラガラッハ?」


 兼城は怪訝そうに聞き返した。彼がこの単語を聞くのは初めてのはずだ。知識不足の私ではうまく説明できる自信がなかったが、なるべく噛み砕いて伝えることにした。


「そういう名前のサイバー兵器だ。瀬田英治が研究していたことでもある。ブラック・レディの連中がそれを狙っていた。実際に欲しがっていたのは、その後ろにいる華南軍閥だろう。ヤツらは数日前に英治を襲撃して、データを奪った」


「英治を殺したのは黑色女人ってことか?」

「いや、最初は生きたまま捕まえるつもりだったんだろう。彼は警察が介入した際の銃撃戦で死亡した」


 このあたり、詳しい説明は省くことにした。どのタイミングで死んだかも、刑事と公安の違いも、兼城はさして関心を持たないだろう。


「なるほど。続けてくれ」

「で、今日の朝に陽花が事件現場に戻ったとき、運悪くブラック・レディの襲撃に遭った。俺もその場に居合わせて、一緒に拉致された」

「間抜けだな」

「黙って聴け」


 とは言ったものの、客観的に見ればやはり間抜けな絵面だった。兼城に忠告された直後のことなので、揶揄されるのも当然だ。もちろんそれも、生き残ったからこその感想ではあるのだが。


「拉致された先がダイユー・ポートの貨物船だ。拷問はされなかった。蹴られたり踏まれたりはしたが」

「最近のマフィアは骨がないな」


 私が裏稼業の人間であったり、陽花の自発的な協力がなかったりすれば、拷問は早々に選択肢となったはずだ。あるいは脱出が遅れていれば、無闇にいたぶられ、用済みとして葬られるような展開もあり得た。彼らに残虐行為を躊躇う理由はなく、必要とあればいつでもそうしただろう。ただ腕が立つかどうかという点において、骨がないというのは同感だった。


「ヤツらは陽花を協力させた。データに掛かっているパスワードを解除するために」

「うまく行ったのか?」


 兼城は結末を予見したように薄笑いを浮かべた。


「行かなかった。フラガラッハが暴走した。いや、正確には暴走じゃない。開発者が仕掛けた罠だったんだ」

「その混乱に紛れて脱出、と」


 兼城は簡単に言うが、私は道中で少なくとも六人を殺した。負傷者を入れればもっと多い。私や陽花が死にかけたという場面もいくつかある。


「それこそ映画スターみたいだな」

「いや。ただの人殺しだよ」


 私は脱力してソファにもたれた。改めて考えると中々の数だ。相手が相手だけに強い良心の呵責がある訳ではないが、おりのような不快感はしばらく続くだろう。


「そう卑下するなよ。ちゃんとヒロインを助けたんだから」

「だが、お前が来なかったら死んでただろう。俺も、陽花も」


 言外に感謝の態度を示すと、彼は迷惑そうな表情を作った。


「やめろやめろ。俺をいい人にするんじゃない。あの場所に居たのは監視の一環で、偶然お前が見えたから行っただけだ」


 大げさな身振りを示しながら兼城が陽花をちらりと見た。


「だそうだ」

 私も陽花に目を向けて言った。


「俺に感謝する必要はないが、この兄ちゃんには感謝した方がいい。傷だらけになってまで、連れて逃げてくれたんだから」


 その言葉に、陽花は深く頷いた。

「する」


「事情大体は分かった。ただ、アレだな」


 目の前のヤクザは私と同じようにソファにもたれたが、その顔はまだニヤついていた。


「やっぱり昔を思い出す」

 この男にとって、それは中々に大きな関心事であるようだった。

「……ああ、そうだな」


 ◇


 どうせ世話になるならとことんまでということで、治療と食事も施してもらうことにした。トイレに行き、シャワーを浴び、傷にガーゼと包帯を巻いてもらう。近くの中華飯店から出前を取り、腹を満たしたところで、ようやく日常に帰ってきたという感じがした。


 しかし私には、まだやるべきことがあった。本当ならもっと早く取り掛かるべきだったが、ついつい疲労にかまけてしまった。


 リー女史に連絡を取らなければならない。彼女の住居であれば派手に襲われるということはないだろうが、身辺に警戒するよう忠告も必要だ。私はまず端末を借りて、奪われた携帯端末デバイスのアカウントを停止した。


 そしてWEB上のストレージから、データをこの端末にインストールし直す。そこに登録してあった女史の番号を確認し、通話サービスで相手を呼び出した。音声のやりとりができるよう、使い慣れないヘッドセットを装着する。


『はい。どなたでしょう』


 少しして、訝しげな声のリー女史が電話口に出た。このタイミングで見知らぬ番号から電話が掛かってきたのだから、当然と言えば当然の反応だ。


「月島です。連絡が遅れて申し訳ありません。今は事情があって、別の端末から連絡しています」

『月島さん? 心配していました。陽花もまだ戻ってきていません』


 通話中に身体が自由なのは妙な感じだ。私はソファの上で身じろぎして、落ち着いた姿勢を探った。


 現在時刻は正午少し前である。陽花が出奔したという知らせを受けたのが朝七時前だから、リー女史は五時間以上、安否の判らない陽花を待っていたことになる。私にとってはあまりに色々なことがありすぎて、二日も三日も経ったような気がしていた。


「まず、陽花さんは今私と一緒に居ます」

『そうですか……。それはよかった。本当に』


 彼女は心からの安堵を感じているようだった。私と初めて会ったときに語られた英治の死は、あまりにもあっさりしすぎていた。しかし今、その娘が無事なことを知った彼女の態度は、思いがけず温かみに満ちていた。不安や緊張からの急な解放が、彼女の表面を覆っていた冷静さの殻を剥がしたのかもしれなかった。


『陽花の声を聞かせてください』


 私は事務所内をうろついていた陽花を呼び寄せて、ヘッドセットを渡した。陽花はリー女史に自らの無事と、私の活躍をごく短く伝えた。しばらく彼女に話させてから、またヘッドセットを受け取る。


「詳しく話すと長くなりますが、マフィアに拉致されて、そこから逃げてきました。今は知り合いに匿われています」

『あなたは無事なんですか? 怪我は?』

「無傷という訳には行きませんが、重篤ではありません。いっとき置かれた状況を考えれば、最善以上の結果だったと思います」


 命からがら私だけで逃げました。残念ながら陽花は死にました。そういう報告をする羽目にならなくてよかった。請求できる報酬が変わる訳ではないが、自信を喪失すると今後に響く。


 いや。確かにそれも正しいが、本質は別の所にある。


 きっと私は損得抜きに、心から陽花を助けたかったのだ。ここ数年の仕事で私が味わうことのできていなかった充足感は、困難を乗り越えたという事実だけでなく、自分の意思でそれを成したことによるものだろう。


『陽花を守って下さったんですね』


 だからこそ私はリー女史の労いも、素直に受け取ることができた。ただそれはそれとして、まだ少しばかりの懸念がある。


「ちなみに、まだご自宅に居ますか?」

『ええ』

「状況が落ち着くまで、その場を離れた方がいいと思います。私は携帯端末デバイスを奪われたので、そこのデータからあなたが辿られるかもしれません。嫌かも知れませんが、警察に事情を話せば保護してくれるでしょう」


 彼女は少し考えるような間を置いたあと、私の提案をやんわりと拒絶した。


『いえ、それについては警察以外の心当たりがあります。もしよければ、そちらで合流しませんか?』

「安全なら構いませんが、どこです?」


 次にリー女史が指定したのは、私にとって想定外の、しかしおそらくはどこよりも安全な場所だった。


『アメリカ領事館です』


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