黑色女人 -6-
甲板にはまだ敵の気配がある。艦橋に連行されてくる際に通った階段まで、この場所から二十メートル。今は遮蔽物の陰にいるが、階段までの空間は開けている。全力で走ったとしても、数秒は敵の銃撃に曝される恐れがあった。牽制に使える弾丸もあとわずかだ。
しかし瀬田英治を殺害した直後の振る舞いや、今までの交戦から考えて、マフィア達の戦闘力はそう高くない。数はともかく、射撃について専門的な訓練を積んでいる者は少ないだろう。追いつめられて肉薄されなければ、生き残る目は十分ある。
「さっきの階段まで走るから俺のあとに付いて来い。三で行くぞ。一、二の……」
三のカウントと共に、我々は物陰から飛び出して下層への階段に向かう。左舷方向を確認すると、また二人のマフィアがこちらに気付いた。私は走りながら左手だけで二発、牽制のために射撃する。命中はしなかったようだが、口汚い罵り声が聞こえてきて、相手が怯んだのが分かった。仲間に呼び掛ける声で、甲板上がにわかに騒がしくなる。しかし階段はもうすぐだ。
そしてまず陽花が階段に到達した。私は一瞬迷ったが、見えている敵を警戒するために彼女を先に行かせることにした。近付こうとした敵に、咄嗟の一発を喰らわせる。相手はその場に倒れて拳銃を落したが、遮蔽のない空間に身を晒すことになるため、取りに行くのは無謀すぎた。弾は惜しいが、今は諦めるしかない。
敵が接近を躊躇した隙を縫って、私も階段を下ろうとした。しかしその直後、階下から陽花の悲鳴が上がった。
まずい。跳ねあがる心臓を押さえつけ、急いで階段を駆け下りると、中甲板の床で倒れている陽花と男が目に入った。階段の途中で不意に遭遇した二人は、そのまま一緒になって階段から落ちたのだ。中甲板に降りた私は、意識朦朧で呻いている男の頭を蹴飛ばした。彼がうまくクッションになったようで、陽花のダメージは少ない。ぐったりした男を横目に、私は彼女の手を掴んで助け起こす。
「怪我は?」
「大丈夫。びっくりしただけ」
私は男の傍らに落ちていた拳銃を拾う。二発しか残っていない方は、念のため陽花に持たせることにした。彼女が少しでもまともに撃てるよう、ごく簡単なインストラクションを与える。
「撃つときは必ず両手で構える。腕を軽く曲げて銃を目の高さに。あとは反動に負けないよう踏ん張れ」
「分かった」
我々はさらに階段を下り、船倉へ向かった。階段がある場所と船倉は扉で仕切られている。しかし我々が行くと、ロックを示す赤色のランプが緑色に変わり、私が触れるまでもなく自動で扉が開かれる。
まったくの偶然だろうが、私は『お父さんが助けてくれる』という陽花の言葉を想起した。我々が扉をくぐると、それはビープ音を鳴らして再び固く閉ざされた。
船倉に出てみると、この場所も艦橋と同様、フラガラッハがもたらした混乱で満ち満ちていた。複数の警報が鳴り響き、赤、オレンジ、白といった光がデタラメに点滅している。
ネットワークに接続された車両が勝手に発進し、何かに衝突したような痕跡もあった。そして先ほど来たときと変わらず、多くの貨物で雑然としていた。死角が多く、何処に敵が潜んでいるか分からない。しかし隠れる場所が多いのは、我々にとっても好都合である。
甲板では我々が下層に向かったことがもう伝わっているだろうか。だとすれば時間を掛ければ掛けるほど不利になる。障害物が多いとはいえ、長さ五十メートルほどの狭い空間。逃げ回るにしても限界がある。
我々はどこかに潜んでいるかもしれない敵に姿を晒さないよう、貨物の間を縫うように進んだ。幸い、警報と警告灯が滅茶苦茶に作動しているおかげで、移動する姿も足音もそれほど目立たない。
しかし、船尾まであとほんの少しというところで、我々は足を止めざるを得なかった。
土嚢のように積み上がった麻袋を隔てた搬入口には、銃を構えたマフィアが三人、少しずつ距離を取りながら待ち構えていたのだ。その内一人は肥満気味のシルエットだが、私を足蹴にした男と同一人物かどうかは定かでない。彼らがその場を動く様子はなく、明らかにその場を守るという目的を持っているように見えた。搬出口から脱出するなら、この敵を避けて通ることはできない。
麻袋までは見つからずに進めそうで、これは内容物次第で銃弾を防ぐ楯として使えるだろう。そこまで行けば、敵までの距離が約八メートル。相手が多少動いても、安定して銃を命中させられる。残弾を確認すると、今持っている拳銃にはフルに装填されていて、短期決戦であれば弾数の心配をしなくてよさそうだ。
しかし先ほどの遭遇戦とは異なり、今度の相手は十分に警戒した状態である。たとえ不意打ちでも、反撃されずに三人を斃すのは困難だった。もし遮蔽を挟んだ銃撃戦になれば、我々はこの場に釘づけになってしまい、新手が背後から来れば為すすべはない。そして長引けば長引くほど、状況は致命的に悪化していく。
「ねえ」
私が脳をモーターのように回転させて現状を分析していると、横から陽花に肩を叩かれた。彼女がマフィア達の横にあるものを指し示す。
「アレ、撃ったら爆発しない?」
それは高さ五十センチぐらいのボンベだった。周囲が赤かったりオレンジだったりするので色が判別しづらいが、多分消火器だろう。
「いや、爆発はしない」
しないが、穴が開けば高圧ガスと消火剤が噴き出るはずで、目くらましとして利用できるだろう。シティ警察の制式拳銃なら、穴を開けられる可能性は五割。しかし今私が持っているノリンコで使用される弾丸は、貫通力の高い鋼製弾芯だ。信頼性はともかく、至近距離であれば防弾ベストをも貫通するこの銃は、警察官の間でも悪名が高かった。いけるかもしれない。
私はこれらの条件を踏まえて立てた作戦を、短く陽花に伝えた。
まず私がマフィアの一人を撃つ。陽花も撃つが、彼女が命中させることは期待しない。次に私が消火器を撃つ。うまく穴が開けば、白煙で敵の視界が遮られる。相手が混乱したところで遮蔽から飛び出し、射線を迂回して接近。近距離からの射撃か、格闘戦で残っているマフィアを無力化する。
搬入口と架橋の操作は、とにかくやってみるしかない。騒ぎを聞きつけて増援が来るかもしれないから、充てられる時間は戦闘開始から二分まで。そこまでやって開く見込みがなさそうなら、その場を離れて仕切り直す。
「操作盤は任せて。機械もちょっと勉強したの」
死傷の危険は常にあり、確実な要素は何一つない。それでもこれが、今できる精一杯の行動だ。しかし久しく味わっていなかったギリギリの感覚は、今この瞬間、熾火のように燻っていた私の情念を、激しく燃焼させる触媒となっていた。
作戦の成功率に想いを馳せている暇はない。ここからは時間との勝負でもある。合図と共に、我々は強襲を開始した。
まず狙うのは消火器のすぐそばにいる太ったマフィア。狙い澄ました一発は、あっけなく男の頭を撃ち抜いた。陽花も撃つが、これは壁に当たって火花を散らせただけだった。
銃の発射音とマズルファイアは、警報と警告灯の中でも感知できる。仲間を殺された残る二人のマフィアがこちらに気付いた。撃たれないよう陽花が頭を下げる。
私は見つかったことに動揺せず、次なる射撃で消火器を狙う。人体に比べて小さいが、この距離ならば当てられない的ではない。
命中。固定されているらしい消火器は、倒れずに消火剤を激しく噴出させた。風のない船倉内。白煙が辺りに充満し、マフィア達の姿が一時的に見えなくなる。
「今だ」
私と陽花は遮蔽を飛び出し、相手の射撃を避けるため、緩いカーブを描くようにしてマフィア達に接近した。
白煙が立ち込める空間の外側。私は見当を付け、先ほどまでマフィアが見えていた場所に四発五発と弾を送り込む。痛みによる悲鳴が一つ聞こえた。そして陽花に先行し、白煙が薄くなる前にその中へと躍り込んだ。
するといきなり、私の胸に男の肩がぶつかった。煙の範囲から出ようとした一人に衝突されたのだ。いきなり懐に入られた私は、よろめかないよう踏ん張り、相手の股に自分の右脚を差し入れた。そして内側から男の左足を刈り、上半身で勢いよく押す。
敵はその場でひっくり返り、金属の床に背中を打ちつけた。私はその場で持っていた銃を下に向け、胴体に二発の弾丸を放った。男の身体がわずかに跳ね、ピクリとも動かなくなった。
白煙がまた少し薄くなり、五、六歩先にもう一つ人影が見えた。私は被弾しうる面積を少なくしようと身体を斜めにし、右手だけで照準を合わせた。相手もまた私に銃を向ける。
二つの弾丸が発射されたタイミングはほとんど同時だった。重なった二つの銃声が船倉に響く。私は左肩に熱さを感じ、傷を負ったのが分かった。幸いにして致命傷ではない。私の弾丸は男の胸に命中し、一瞬遅れてその口から血を吐き出させた。
その場にいた最後の敵がゆっくり仰向けに倒れると、ようやく煙が散って視界が晴れてきた。私は念のため、三人全員が死んでいることを確認し、落ちた銃から弾を補給する。
「大丈夫?」
身をかがめていた陽花が咳き込みながら尋ねたので、私は撃たれた左肩を触ってみた。べっとりと血が付いているが、弾丸は肉を軽く抉っただけのようだ。
「問題ない」
我々は大きな搬入口の扉を見上げた。それはまだ固く閉ざされていて、勝手に開くという幸運は起きそうになかった。フラガラッハの気まぐれを長い時間待っている訳にもいかず、これについては自力で何とかするほかなさそうだった。私は陽花に操作盤を任せ、周囲の警戒を続けた。銃声は遠くまで聞こえなかったはずだが、増援が来るのは時間の問題だろう。
陽花が操作盤に向かい合い、じりじりと時間が過ぎる。私の興奮はやや落ち着き、代わりに緊張が頭をもたげてきた。脳と筋肉に集中していた血液が表皮に還流し、手首と肩の痛みが遅れてやってきた。
「ダメだ」
少しして陽花が苛ついたように呟いた。私は目論見が失敗に終わったのだと思った。あとは船倉を逃げ回るか、甲板から飛び降りてみるか。私が死ぬまでに何人かは道連れにできるかもしれないが、生きて捕まれば相当酷い末路が待っているだろう。
「ちょっと離れて」
私は悪い想像を膨らませていたが、陽花は諦めていなかった。先ほど教示された通りに銃を構え、操作盤の一部分を狙っていた。私はその有効性を疑いながらも、彼女の指示通りに距離を取った。
鋼製弾芯の弾丸が、操作盤を撃ち抜いた。次の瞬間、搬入口の扉が音を立てて動き始めた。屋外の光が船倉に差し込む。
私は驚きで言葉が出ず、思わず陽花の顔を見た。
「偶然じゃなくて、ちゃんと狙ってやったの。勉強したって言ったでしょ」
陽花は得意げな表情で言った。どういう仕組みかは解らないが、閉鎖を担う機構を破壊したのだろう。最大の懸念は払拭されたが、危機はまだ去っていなかった。架橋が完全に開き、通行可能となるにはまだ少し掛かる。私が船倉内側に向かって目を凝らすと、中央近くに数人の陰が見えた。
あと十数秒。時間を稼ぐ為、私は視界に入った相手に対して銃を乱射する。しかし遮蔽のない搬入口の前では、長く保たせることができない。かといって別の場所に隠れれば、再び搬入口に陣取られてしまう。敵から放たれた何発かが、私の足元や周囲の壁に着弾し始める。
「よし、行こう!」
陽花の合図と共に、私は船倉内に弾丸を送り続けながら後退する。ある時点で身を翻し、架橋を駆けた。
運の悪いことに、すぐ近くの岸壁に弾除けになりそうなものはなかった。右の方から車が走ってくるのがちらりと見えた。遮蔽か逃走に使えるかもしれないが、乗っているのが敵ならば非常に厄介な配置となる。
船倉内部から複数の発砲音。いつ背中を撃たれてもおかしくない。私が陽花の背中を庇う位置に移動しかけたとき、陽花の足に弾丸が命中した。
「あっ」
陽花は小さな悲鳴を上げて脚をもつれさせ、その場に転倒した。持っていた銃が回転しながら地面を滑っていく。私は立ち止まり、陽花を庇いながら再び応射を始めた。敵に優れた射手がいれば、すぐにでも命中させられそうなまずい位置だ。
「あともうちょっとだ。まだ走れるか?」
「大丈夫……」
彼女は左足に被弾したようだが、歯を食いしばって立ち上がりつつあった。重傷ではないが、全力疾走は難しいだろう。いい加減体力の消耗も大きく、状況は厳しい。
私の背後で先ほどの車が停まった気配がした。運転手らしき誰かが降りてきているが、目視する余裕がない。
そして次の瞬間、轟音が響いた。
それは拳銃の発砲音だったが、明らかに私や敵が使っているノリンコのものではない。私の背後で降車した誰かが発砲したのだ。しかし少なくとも、我々には命中しなかった。思わず振り返ると、細いサングラスをかけた大柄なヤクザが、車を遮蔽にして拳銃を構えていた。
「ボケっとすんな! 早く乗れ!」
兼城が撃っているのは、長大な銃身を持つ銀色の回転式拳銃だった。二回目の射撃は私にも見えた。マズルファイアと発射音は、まるで小さな爆発だった。その威力に度肝を抜かれたのか、敵からの銃撃が弱まる。
私は弾切れとなった拳銃を捨てると、陽花を半ば担ぐようにして肩を貸し、十メートル先の車までなんとか辿り着いた。
「助かった」
陽花を後部座席に放り込み、私自身も乗り込む。それを見届けると、兼城も運転席に着いた。車窓からもう一発、派手な銃声を響かせる。
「話はあとだ。逃げるぞ」
兼城はまだ硝煙を上げている拳銃を助手席に放り、サイドブレーキを解除して車を急発進させた。私と陽花は息をつく間もなく、強い加速度で座席に押し付けられる。兼城はよくわからない歓声を上げ、スタントさながらのドリフトでUターンした。そのまま工業地区に繋がる道路を南進する。
しかし近くにもう一つ、急発進したライトバンがあった。我々が乗っている車の横から衝突しようとして失敗し、背後から猛追してくる。
「ちょっとこれ貸せ」
私は助手席に手を伸ばして銃を取り、後部座席の窓から身を乗り出した。
「いいけど、落っことすなよ!」
その肉厚な回転式拳銃は、ノリンコの倍近くも重く感じた。口径も同じだけ大きいに違いなく、威力に至っては比べものにもならないだろう。
なんとか狙いを定め、撃つ。反動で銃口が跳ね上がり、掌が痺れる。口径が大きいだけではない。込められているのは強装弾だった。人間がこんなものを喰らえば、四肢が吹き飛んでもおかしくない。これは本来、熊や猪を撃つために使うような代物だ。
一発目は車のフロントガラス上部に命中し、大きな風穴を開けた。私が身体を支えながらもう一発撃つと、フロントガラス全部が粉砕した。運転手が負傷したか、ハンドル操作を誤ったかで、車体はスピンしながら遠ざかっていく。私は車内に身体を戻し、月島に苦情を言う。
「なんて銃使ってんだ。馬鹿か」
「うるせえ。これが男のこだわりだ」
他に追って来る車はない。黑色女人の連中は追跡を諦めたようだ。我々は命を拾ったが、兼城が来なければどうなったかは判らない。
「映画みたい」
大きな安堵のため息をついて、陽花が呟いた。
「そうだよお嬢ちゃん。事実は小説より奇なりで、映画よりエキサイティングなんだ」
兼城が冗談めかして言うと、陽花は小さく笑った。
「コイツは悪いヤクザだから、影響されない方がいい」
「なんて言いようだこの恩知らずめ」
我々はやがて港湾地区の端まで到達した。車が少し速度を落としたころ、陽花が私に右手を差し出した。
「……助けてくれてありがとう」
船からの脱出は、とても一人で成功させられるものではなかった。陽花の意思と度胸こそが、重要な局面での突破口を拓いてくれた。だから私は彼女のありがとうを素直に受け取るべきか、ほんの一瞬躊躇した。しかし今の私は謙遜さえ億劫なほど、体力と精神力を消費していた。
「ああ」
右手で陽花の手を握る。私の掌には手首の傷から流れた血がこびりついていたが、彼女はそれを見ても眉一つ動かさず、強く握り返してきた。小さな手の温かみは、生の実感そのものだった。しかしその時点で気が緩んだのか、私は自分の身体が感じる痛みや疲労、空腹なども思い出した。
今の私は、とにかく一刻も早く落ち着いた場所に行きたかった。肉体の訴えを紛らわす為に窓の外へ目を遣ると、遠く殺風景な工場群が、ゆっくり流れていくのが見えた。




