黑色女人 -4-
陽花に研究データ解析への協力を強要したあと、ドレスの女を筆頭とした三人は、何らかの準備をする為にコンテナから出て行った。私と陽花は小さなLEDライトだけが周囲を照らす、無機質な箱の中に取り残された。
マフィア達が去ってすぐ、陽花は私に背を向けて寝転がり、食いしばった歯の間から嗚咽を漏らし始めた。恐怖と、悔しさと、それらを押し殺していた怒りがないまぜになったような声だった。
「泣くなよ」
私は気の利かない言葉しか差し出せず、またそんな自分を呪わしく思った。それから警察時代に守れなかった、無力で善良な人々を想った。私も自身の無力が酷く悔しかったが、手足を縛るテープは依然強固だった。満身の力を何度込めてもわずかに延びたような気がするだけで、手首を抜くまでに少なくとも二、三日は掛かりそうだった。
陽花は長く泣かなかった。しばらくすると大人しくなって、鼻をすする音だけが聞こえるようになった。
「絶対に許さない」
鼻をすする音も聞こえなくなったあと、彼女はぽつりと、しかし海の底から響いてきたかのような、低く重い声で復讐を誓った。結局、父親を殺された怒りが、自らを脅かす恐怖に勝ったのだった。
その言葉には、私が思わず気圧されるような迫力があった。今の状態でそんなことが言えるのは、慣れないプログラミングを勉強してまで示そうとした、父親に対する愛ゆえか。それとも彼女が生来持ち、半生で培った意志の強固さゆえか。なんにせよ、思春期の少女という器に入れるには明らかに過大な感情が、今現在の彼女を支配しているようだった。
「奴らは、『瀬田英治を殺されたのは我々ではない』と言っていた。嘘かもしれないが、今まで調査したことからすると、その可能性も十分ある」
私は彼女が落ち着いたのを見計らって声を掛けた。発言の内容に特別な配慮があった訳ではない。いつ再び分断されるか分からない今、できる内に情報を共有しておくのがよいと思ったのだ。
「知ってる。最初に言ってたから。直接殺したんじゃなくても、アイツらがいなかったらお父さんは死ななかった。お父さんは優しかったのに。もういない。私は絶対にアイツらを許さない。殺してやる」
陽花は再び感情を高ぶらせ、声を詰まらせた。彼女の復讐にどうこう言うのは、私の仕事ではない。またしばらく時間を挟んで、話題を変える。
「言葉は解ってたのか。広東語も?」
「香港で暮らしてたから。英語も広東語も」
確かに触れる機会はあるだろうが、例え大人が必死に勉強したとしても、二つの外国語を習得するのはそれなりに大変だ。黑色女人の連中が簡単な単語でゆっくり説明するような親切をするとは思えないから、陽花の語学力はカタコト程度の理解ではない、一定の水準に達しているということだろう。よく考えれば天才エンジニアの娘であるから、頭がいいのは当然と言えば当然であるのだが。
「日本語しか解らないふりをすれば、月島さんに会えると思った」
「危ない橋を渡ったな」
私と合流できる見込みがあったとしても、そのまま殺されるリスクを考えれば、普通の神経でできることではない。初めて会ったときの印象からは想像も付かない、大胆な行動だった。
「私達、これからどうなるのかな?」
短い沈黙を挟んでから、まだ私に背を向けたまま、陽花は真っ当な怖れを吐露した。私は気休めを言うことも考えたが、どんな言葉も空虚になりそうでできなかった。
「良ければしばらくは重要人物として監禁、その後香港当局の監視下に入るってとこだろう。悪ければ海の藻屑かコンクリートの中だ」
陽花は黙ってしまったが、それはショックを受けてというよりも、具体的な情景が想像できないからであるようだった。
「お父さんは」
再び陽花が話題を変えた。彼女は少し迷ってから、私には奇妙と思えるようなことを語った。
「『コードには魂が宿る』っていつも言ってた。お父さんが、フラガラッハが助けてくれるかもしれない」
「なにか見込みがあるのか?」
「別にないけど……」
父親が魂を込めて研究したフラガラッハが、この窮状から自分を助けてくれる。荒唐無稽な想像だが、完全に絶望するよりはまだましなのかもしれない。だから私は、あえて彼女の希望的観測を否定しなかった。黑色女人の連中が言う『協力』がどういう行為を意味するのか分からないが、陽花とフラガラッハのデータが接触するタイミングが、脱出のチャンスとなる可能性は皆無ではない。
「復讐するなら手伝おう。手首が自由になればいいんだが」
「ありがとう」
彼女はようやく寝返りを打ち、起き上って壁にもたれた。その耳や鼻は泣いたせいで赤くなっていたが、横顔にはどこか吹っ切れたような表情が浮かんでいた。
「ああ、そうだ」
私は彼女に聞くべきことがあったのを思い出した。
「今更責めるわけじゃないが、あのときどうして現場に?」
それは陽花がリー女史の家を出て、英治の殺害現場に向かったことについての質問だった。私は彼女が負い目を感じないように言ったつもりだったが、やはり陽花は申し訳なさそうな顔をした。
「思い出したから」
彼女はそう答えた。
「父親のことを?」
「そう。お父さんが殺されたときのこと。急に頭に浮かんできて、いてもたっってもいられなくなった」
精神的外傷を受けた人間が経験するフラッシュバックか、それに類するものだと思われた。抑圧されていた記憶が噴出して混乱に陥った彼女が、突飛な行動に出たという訳だ。
「やっぱり公安が、警察が殺したのか」
「警察かどうかは分からない。制服は着てなかったから」
陽花はかぶりを振ったが、公安は普通制服を着ない。彼女の記憶は、先ほどドレスの女が言ったことを裏付けるものだった。
それから少しすると、外で閂を抜くような音がして、コンテナの扉が開いた。入ってきたのは四人のマフィアだ。
「来い」
彼らは私と陽花のもとに来て、足首を拘束していたテープをナイフで乱暴に切った。船内を担いで運ぶのは大変だからと、歩かせるつもりのようだ。
「立て。逃げようとすれば撃つ」
我々は強張った身体をなんとか動かして立ち上がり、指示に従ってコンテナを出た。
外は船倉のような場所だった。天井は五メートル以上で、広さを考えると小型の貨物船といったところだろう。周囲はコンテナの中よりも明るく、私は二、三度目を瞬かせた。しかし明るさに慣れてみれば、照明の光はそれほど強くない。
辺りを見回せば、灰色と緑に塗装された内壁が見え、天井にはたくさんのダクトが縦横に走っている。床には我々が入れられていたようなコンテナがいくつもあり、ある一角には積まれた麻袋やドラム缶もあった。見て内容物が分かるものはあまりない。もしかすると我々の他に拉致されている人間がいるかもしれないが、自由に探索できない今は知るすべもなかった。
私と陽花は腕を掴まれ、不自然な姿勢で連行されるままに船内を進んだ。先導する男が一人、私と陽花の腕を掴んでいる二人、後ろに見張りが一人。ちらりと見た限り、少なくとも前と後ろにいる男はノリンコ製の自動拳銃を持っている。
貨物の多い船倉を壁際に進むと、ある部分にスライド式の扉が付いていた。扉のすぐ横には掌大の操作盤と何らかの読み取り装置があり、この扉に電子的なロックが施されていることを示していた。マフィアの一人が手で扉を開く。今は自由に通行できるが、おそらく緊急時には閉じられ、区画を隔離できるようになっているのだろう。逃亡するにあたっては厄介な仕掛けだった。
扉の向こうには金属の階段があり、船倉から中甲板、そして中甲板から上甲板に続いているようだった。後ろから小突かれ、私は歩を進める。船倉を離れ、急な階段を十メートルは上らされたあと、我々は屋外の上甲板へと出た。
最後の一段を終えると、風で運ばれてきた潮の香りが私を迎えた。周囲の景色からして、場所はやはり港湾地区で間違いない。階段は船の中央右舷あたりに位置していたようだ。私と陽花が拉致されたときは確か晴れていたが、今は空を分厚い雲が覆い、辺りは薄暗かった。海からの風が強いせいで、気温よりも肌寒く感じる。
船は全長五十メートルほどで、甲板と船倉に車両やコンテナなどを積むことのできる、汎用性の高い船種であるようだ。貨物船というくくりで考えれば、やはり特別に大型という訳ではない。それでも構成員一〇〇名程度のマフィアが所有するものとしては、不相応に高価な代物である。例え中古品だったとしても、密輸や密入国の斡旋で得た利益だけで容易に購入できるとは思えない。
今現在、船は舳先を沖に向ける形で岸壁に係留されている。しかし上甲板から岸壁、あるいは海面まではどう見ても七、八メートル以上あり、飛び降りて即死はしないにせよ、とても無事に済む高さではなかった。岸壁は問題外として、海に落ちればまだましなのかもしれないが、銃で狙われた場合を考えると、それもあまりいい案とは言えない。
「妙なことを考えるなよ」
私の余所見は見張りの気に障ったようで、後ろから銃口で頭を突かれる。
「粗悪い銃なんだから暴発に気を付けろ。お前達のボスに怒られるぞ」
「うるさい。黙って歩け」
甲板にはいくつかの障害物があるが、構造物や貨物は船倉よりも少ない。艦橋は船尾にあって、どうやら我々はそこに連れて行かれるようだ。陽花は私に比べれば行儀よく、一言も発することはなかった。何か考えごとをしているようにも見えた。
十メートル以上はありそうな白い艦橋構造物には、監視のために窓が多くついている。下部はおそらく船室があり、最上部には艦橋、船のコントロールを担う施設があるはずだ。我々は目の前にある扉をくぐり、構造物の内部に入った。中にある長い階段を上ると、外から見たよりも広く思える艦橋の内部に出た。




