黑色女人 -3-
「あんまりいじめたら可哀そうよ」
挑発を主とした会話の途中、先ほどまで黙ってやりとりを見守っていたドレスの女が口を挟んだ。彼女が話すのも広東語だが、口調はスーツの男より幾分柔らかく、また余裕を感じさせるものだった。私から見えるふくらはぎは白く、細い。明るい場所で見ればそれなりに美しいと容姿であると想像できる。もっとも、マフィアの幹部にアプローチする男性が、そこまで多くいるとは思えないが。
「探偵さん。瀬田陽花と話した?」
先ほどはドブネズミ。今は探偵さん。私は彼らが尋問の態度と切り口を変えたのを感じた。しかしそれは追及の手を緩めたということではない。鞭の担当と飴の担当を用意して相手を揺さぶるのは、警察の尋問においても常套の手段だった。
「多少は。じっくりは聴かない。俺はカウンセラーじゃないからな」
私は警戒を解かず、口を滑らせないようゆっくりと答えた。
「彼女は何を話したかしら」
「何って、何を?」
「例えば、父親の研究についてとか」
彼らが一番聞きたいのは、このことだろう。しかし陽花も詳細は知らず、私は真実を答えようにも答えられない。サイバー兵器であるというのはあくまでも想像であって、根拠を問われれば話がこじれる。
「話した。しかし彼女自身も教えてもらえなかったそうだ。瀬田英治の専門性から言って、インターネットセキュリティに関するものだとは思うが」
このあたりまでは、妥当な推論だろう。
「レベッカ・リーからも?」
「聞いていない」
女は顎に手を当てて考え込むような仕草をした。相手の質問が途切れたので、私はこのあたりで少し探りを入れてみよう、という気になった。
「お前達が瀬田英治を殺したのは、研究成果を奪うためか?」
私がその言葉を口にすると、マフィア達が一斉に殺気立った。太った男が私の傍に来て、余計な質問への制裁として頭を蹴り飛ばした。拘束されているために、手で支えることも受け身を取ることもできない私は、側頭部を金属の床に打ち付けて呻いた。
「やめなさい」
ドレスの女が追撃を制すと、太った男は後ろに下がった。
「あなたに質問は許されていないけれど、誤解は解いておきましょう」
私は頭だけを動かして女を見た。その先の言葉は私が、もしかしたら、と頭の隅で想像していたものだった。
「瀬田英治を殺したのは私達じゃない。私達は彼に同行を願っただけ。彼を殺したのは」
ドレスの女はもったいぶって言葉を切り、私の反応を確かめるように目を細めた。
「シティ警察よ」
私もまた女の表情を窺った。彼らが真実を話している保証はなかったが、私にはそれが納得のいく告白であるように思えた。同行、という言葉のごまかしを差し引いたとしても。
英治の死体があった場所を挟んで双方にあった弾痕は、そこで小規模な銃撃戦があったことを意味していた。もちろん、黑色女人とその敵対組織が抗争したというケースも考えられなくはない。しかしそうだとすればもっと大々的に捜査がおこなわれているはずだし、敵対組織である海虎一家が何か掴んでいたはずだ。
それらがないというのであれば、多分マフィア同士の抗争ではない。もっともあり得そうなのは、黑色女人が瀬田英治襲撃の現場に介入し、最終的に現場を掌握したという状況だ。
動員された人数はともかく、練度と統制という点で言えば警察に分がある。小競り合いにおいては終始、警察が優位に状況を進めただろう。しかしその最中、瀬田英治は不幸にも被弾した。
劣勢だった黑色女人の側には、英治を回収する余裕がなかった。あるいは既に、必要なものを手に入れていたのかもしれない。華南軍閥の命を受けて、本土から逃げた瀬田英治が持つフラガラッハの研究データを回収する。それが黑色女人の、英治を拉致する目的だったに違いない。
短い銃撃戦のあと、現場を確保した警察と、撃たれた英治がそこに残された。その時点で彼は致命傷を負っていたかもしれないが、英治がシティに危険をもたらす存在であると知っていた警察官達は、念入りに止めを刺した。
英治を殺した警察官達は、まず間違いなく公安の連中だろう。刑事達には英治を殺す理由がないし、もしそうであれば喬が私に情報を提供するはずがない。密やかに死体を収容する用意のなかった彼らは、この殺人を政治的な手段で隠蔽することにした。
情報の断片を繋ぎ合わせ、事件のおおまかな輪郭を描いたところで、私は脱力感に襲われた。私の仕事は犯人を逮捕することではない。しかしシティ公安が犯人だとすれば、確かな根拠を掴む望みさえ、ほとんどないと言っていい。おそらくこうである、という推測を、リー女史に報告することしかできないだろう。もちろんそれには、この場所から生きて出られれば、という条件が付くのだが。
「あなたは核心までは知らないようだし、もう用済みでもいいんだけど」
LEDライトに照らされた女の表情が一瞬嗜虐的なものに変わり、すぐに戻った。この女もやはり、暴力的な世界に生きる人間なのだ。
「少し手伝ってもらいたいことがあるの」
女はそう言ってから、まだ背後に控えていた太った男に陽花を呼んでくるよう命じた。
とりあえず、陽花はまだ殺されていないということだ。私は身を起こし、再び脚を伸ばして長座の姿勢を取った。この格好は間抜けに見えるが、足首が固められているので胡坐を組むこともできない。
陽花は近い場所に監禁されていたらしい。ほどなく太った男の肩に担がれるような格好で運ばれてきて、私より幾分か丁寧に床に降ろされた。手足をテープで拘束されているが、見たところ酷い暴行は受けていないようだ。しかしゆっくりと身を起こした彼女の表情は、極めて不快そうだった。
「英語ぐらい真面目に勉強したらどうだ? そうすれば面倒がなくて済んだ」
陽花の様子を気にしていないのか、気付かないのか。スーツの男は椅子に掛けたまま、相変わらずの口調で言った。そして私に目を遣り、陽花を顎で指し示した。
「通訳しろ」
陽花は香港で生活していたから、広東語も英語もそれなりに操れるはずだ、と私は通訳の必要性を疑った。しかしなんにせよ、互いに目が届く位置にいるのは悪い状況ではない。
それに、私に命令を拒否する権利はなさそうだった。陽花が言った内容に嘘を混ぜることもできるが、私はそういう種類の腹芸があまり得意ではないし、看破された際の危険が大きい。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
私が陽花に声を掛けて頷き掛けると、彼女も頷きを返した。しかしその顔は険しく、悔しさをぐっとこらえるように歯を食いしばっていた。
「こちらをあまり間抜けだと思わないことだ。嘘を付けば殺す」
スーツの男は脚を開き、身体を前に乗り出す。尋問が再開された。
「お前と父親はなぜシティに来た」
「……友達に会うって」
陽花は少しためらってから慎重に口を開いた。このような場で恐怖に呑まれず、回答に思慮を介入させるのは難しいが、彼女はそれをしようとしているように見えた。
「レベッカ・リーか。面識はあるのか?」
「小さいときに一度だけ会った。でも、覚えてない」
男の眉間に皺が寄る。思うような回答が得られないせいか、早くも苛立ってきたようだ。ドレスの女はまだ静観していて、私と陽花の顔に動揺が浮かんでいないかを窺っているようだった。
「レベッカ・リーとお前の父親はテロリストだ。だから瀬田英治は香港から逃げて、レベッカ・リーと合流した。お前の父親が研究していたものは何だ?」
「お父さんはテロリストなんかじゃない」
「質問に答えろ!」
男の大声が狭いコンテナ内に響いて、陽花がびくりと肩を震わせた。肉体的な暴力こそまだないが、それを背景とした恫喝は人の精神を酷く揺さぶる。
「知らない。セキュリティの専門家なら、そんなに簡単に情報を漏らす訳ないでしょ」
陽花の声はまだ動揺していたが、その態度は怒りと反発に満ちたもので、私がリー女史の家で話したときとは大きく違っていた。その感情が相手に伝わらないはずはないが、私はあまり挑発的にならないように彼女の言葉を翻訳した。
「でも、名前だけは知ってる」
「哦」
スーツの男は目を細めた。
「フラガラッハ。Fragarachでフラガラッハ」
「どんな意味なの?」
興味を持った様子で、ドレスの女が割り込んできた。陽花は以前私にしたのと同じような説明をした。
「私達が確保したのは、その研究データね」
そう言ってから、女は私と陽花双方の反応を確かめるように間を置いた。彼らはフラガラッハの研究データを手に入れていた。そう聞いた私の心は騒がしくなったが、心当たりを悟られるのは望ましくない。
彼らは英治を生きたまま確保することには失敗したが、その研究データ、おそらくなんらかの記録媒体に入っているものを奪取するのには成功したのだろう。しかし強固なセキュリティが施されている、あるいは情報が暗号化されているといった理由で、内容の解析はまだできていないのだ。
「本国に行けば専門家がいるけれど、もう少し時間が掛かる。だからそれまでの間、協力してもらうわよ」
女は椅子から立ち上がり、悪意の透けた笑みで陽花に顔を近付けた。もはや華南軍閥が後ろ盾であることを隠そうともしなかった。
「拒否できないのは、もう解るでしょう?」




