黑色女人 -2-
銃で脅され拉致されるというのは、平均的な人生を送っている人間にはまず起こりえないイベントで、あまり平均的とは言えない人生を送っている私にとっても、最大級に危機的な出来事だった。車で運搬されている間も暴力的な死への恐れが、手足を拘束するテープと同じように私の心臓を締め上げていた。
それでもなんとか冷静さを保ち現状を把握するため、私は周囲の些細な情報に気を配っていた。
助手席のあたりでは、マフィアの一人が電話で誰かに指示を求めていた。詳しい内容はよく聞き取れないが、瀬田陽花の拉致に成功したという報告だろう。香港、という単語が聞こえた気もした。
道中にライトバンとすれ違った車の多くは、タイヤの音からして重量のある大型車両だ。だとすると、このあたりは港湾地区ということになる。工場で炉に投げ込まれてコンクリートの材料になるなどということはなさそうだが、これから一体どんな目に遭わされるのかについて、あまり明るい展望は抱けそうもなかった。
出発してから十分も経たず、車はガタつく路面を通ってどこか暗い場所へ入った。車が停まり、男達が降りる。まずは陽花を、次いで芋虫状態の私を運び出す。車外の空気はひんやりしていて、周囲から機械の稼働音がした。船の中ではないか、と私は考えた。
私の身体は三人に担がれて何メートルか運ばれ、やがて固い床に投げ出された。肩から落ちた私は、乱暴な扱いに対する抗議の呻き声を上げた。その声は籠もったように響き、私のいる場所がごく狭い空間であることが分かった。
ライトバンが去ってから、私の頭に被さっていた黒い袋が取り除かれた。周囲はかなり暗く、天井の位置にぶら下げられた懐中電灯型のLEDライトが、頼りない光を放っているだけだった。自分を囲んでいる壁の様子を見るに、ここはコンテナのようだ。今までの些細な手がかりからして、私が乗せられているのは、港湾地区に停泊している貨物船かなにかなのだろう。
「面倒を起こすなよ」
太った男がしゃがみこんだ姿勢で、転がっている私の頬に銃口を押し付けながら言った。
「どうせ逃げられねえんだ」
返事をしない私の態度が不満だったのか、太った男は私の側頭部をぐりぐりと踏みつけた。
「トイレぐらいは、行けるんだろうな」
私は軽口を言ったつもりだったが、太った男は少しも笑わなかった。
男はもう一度足に力を込めて私に屈辱を与えたあと、わずかに開いていたコンテナの搬入口から外に出て行った。私は手足を拘束されたまま、ひんやりとした箱の中に取り残された。
四肢の自由が利かないので、踏まれた側頭部をさすることもできない。私は身をよじって起き上り、ひとまずは冷たい壁に背をもたれかけさせて周囲を見回した。高さ二メートル半、幅二メートル半、奥行きはおおよそ六メートル。金属の壁で囲まれたこの狭い空間が、私の牢獄だった。
非常にまずいことになったのは明らかだが、私は一旦気持ちを落ち着けるため、深く呼吸をした。コンテナには最低限の通風機構があるらしく、窒息する恐れはなさそうだった。
しかし呼吸ができていても、いつ先ほどの男が乗り込んできて、私を殺してもおかしくはない。二、三分の命さえ危うい状況であることには違いなかった。絶望して全てを諦めたとしても、誰も責めないだろうというような窮状だった。しかし私はわずかでも希望がありはしないかと、自らの身体や周囲を調べ始めた。
銃で脅されてからここで運ばれるまでの間、私はかなり乱暴に扱われたが、幸いにして治療が必要なほどの怪我はしていなかった。せいぜいが擦り傷や痣ぐらいで、行動に支障が出るようなものはない。精神状態に関しては、気分こそ悪いが意識は清明。気付かれないうちに薬品を投与された、ということもなさそうだ。
ただ運動という点において、私はかなり不自由な状態に置かれていた。足首は丈夫なダクトテープのようなもので幾重にも巻かれており、刃物がなければ容易には解放できそうにない。手首は後ろで拘束されているため確認できないが、おそらく同じようなものだろう。
背後の壁には貨物用コンテナ特有の凹凸があった。壁の厚みを正確に知る術はないが、とても人力でなんとかできる強度ではない。
私はなんとか這いずって、先ほど男が出て行った方の端に移動した。仰向けで床から見上げたところ、壁面に取手のようなものは見当たらなかった。押せば開くようにはなっているはずだが、外側には当然閂か鍵が掛かっているだろう。
頭で何度か壁を叩いていると、強い力で一度、向こう側から壁が叩かれた。先ほどの太った男かどうかは判らないが、見張りがいるらしい。今はあまり挑発しない方がよさそうだ。
私はコンテナの中央あたりまで戻り、また頭上に目を向けた。LEDライトはごく簡単にぶら下げられているだけであるが、コンテナの用途を考えると、おそらくあとから取り付けたものだ。陽花を拉致監禁するために準備していたか、あるいは日常的に人を監禁するために使っているのかもしれない。
結局私は、現時点で脱出が不可能であることを認めざるを得なかった。そもそもコンテナの外にさえ出られない上、船の中に大勢のマフィアがうろついているのは確実だ。現状はできるだけ長く生き延びて、潮目が変わるのを待つしかなかった。
それ以上調べられそうなこともなかったので、私は冷たく金臭い床に再び身を横たえた。縛られた両手が邪魔で楽な姿勢が中々定まらず、何度も寝返りを打った。
不安と、恐れと、緊張が私の内にあった。しかし同時に微かな興奮が、腹の底から湧きあがってくるのも感じていた。日常と化した探偵稼業に埋没しかけていた熾火のような情念が、私の中で再び熱を持ち始めているのが分かった。
とはいえ、今はそれを持て余すほかない。もやもやとした気持ちのまま、私は昔を思い返し始めた。
十九歳で警察官になったころ、独立宣言を出したシティの治安はまだかなり不安定で、本土からの難民やそれをカモにする犯罪者で溢れかえっていた。日本人を両親に持つ、本来なら外国人である私が警察官になれたのも、このような情勢下で治安維持への強い要求があったからこそだった。当時の私は若く、死に物狂いで与えられた使命を全うしようとしていた。
警察官の仕事が激務であったのはもちろんだが、単純に肉体的な危険も多かった。組織全体で見れば負傷者はしょっちゅうで、殉職者さえ毎月のように出た。昨日言葉を交わした同僚が今日マフィアに撃たれて死んだ、という経験もした。私自身、死んでもおかしくないような危機に瀕したことが一度や二度ではない。
よくよく考えれば給与に見合うどころか、正気の人間が就く職ですらない。いくら治安が悪い街で、多くの若者を採用しているとはいえ、当時他にも仕事はあったはずだ。事実私はその後に警察を辞めているのだから、ずっと前からそれに気付いていたのだ。
しかし私は警察官、そして刑事としての仕事をしている中で、生の実感と高揚感を得ていたことは否定できない。それは危険に面したときにも、危険を克服する必要に迫られたときにも当てはまった。私は自分自身に、少なからずそういう性質が備わっていることを知っていた。
ただ、私に危険を好む傾向があって、今それが再燃しかけているからといって、現状具体的な助けになるとは考えにくかった。いつ殺されるか分からない状態で、暗いコンテナの中でみじめに転がっている様は確かに危険であったが、それは興奮を呼び起こすようなものではなかった。
私がこの場所に監禁されてから、十五分か二十分が経った。時計を見ることができないので分からないが、もっと短い時間だったかもしれない。私は外で人の気配がするのに気付き、それから間もなくコンテナの扉が開かれた。
長座の姿勢でいた私は、首を巡らせてそちらの方向を見た。入ってきたのは男が二人、女が一人。
一人はもはや見慣れた顔になった太った男で、彼の態度から見るに、他の二人は相当地位の高い人間であるようだった。彼らが私の方に近づいてくると、LEDライトがその姿を照らした。一人は黒いスーツに身を包んだ、官僚のような男だった。マフィアというよりは、昨日出会った公安の男に雰囲気が似ていた。
もう一人は黒いマンダリンドレスを着た女。三十歳手前の年齢と言われても信じられたし、それよりはるかに年上のような気もした。素性を読ませない、謎めいた雰囲気を持つ女だった。身体のラインを強調するような、この場にそぐわない格好を許されているということは、もしかするとスーツの男より立場の強い人物なのかもしれない。僅かに漂う甘い匂いは、彼女が付けている香水だろう。
スーツの男は上着のポケットから二枚のカードを取り出した。手に持ったそれの内容を、確かめるようにゆっくりと読み上げる。
「月島正悟。三十三歳、探偵業」
多分、私から奪った財布に入っていた身分証や登録証だろう。彼の口から出た広東語は、中国本土の人間らしいアクセントがあった。
「薄汚いドブネズミが」
スーツの男は私を心底見下したような表情で言った。
「マフィアに言われたくはない」
「自分の立場が解っていないようだな」
男は腰を曲げ、座ったままの私に顔を近付けた。
「海に沈められたいのか?」
それはなんとも創意のない脅し文句で、私は心底うんざりした。あまり面白い尋問にはなりそうもない。太った男がどこからか二人分のパイプ椅子を持ってきて、スーツの男とドレスの女がそれに腰掛けた。スーツの男は脚を組み、高級そうな靴の裏を私に見せつけた。熱を持ったコンクリートの上を歩いたり、雨の中を駆けずりまわったりしない人間の靴底だった。
「時間はたっぷりある。色々と訊かせてもらおう」
質問への回答にあたって、私が反骨心むき出しで真実を話すことに抵抗しても、あまり良い結果にはならないだろうと思われた。彼らは私の命を握っていて、その気になればいくらでも肉体的な苦痛を与えられるからだ。そうなれば、肩関節をねじられるぐらいでは済まないかもしれない。
だから私は、答えられることはある程度正直に答えることにした。もっとも彼らの目的は不明で、何が私にとって致命的な回答になるかは分からない。言葉は慎重に選ばなければならなかった。
拷問の可能性について思いを馳せたところで、近い場所にいるかもしれない陽花の安否が気に掛かった。しかし今それを言えば、回答を引き出すためのダシに使われそうだったので、私はあえて口に出さなかった。
「お前は誰に雇われた」
そして有無を言わせない口調で、スーツの男から最初の質問が投げかけられた。
「殺された瀬田英治の知人だ」
「レベッカ・リーだな。依頼内容は事件の調査か?」
彼らはリー女史を認識し、その名前を知っていた。黑色女人はやはり、ただの新興マフィアではないようだ。とはいえそれは既に覚悟していたことで、驚嘆に値するほどではなかった。
「生き残った陽花のお守りだよ。事件は警察が勝手に調べればいい」
ここでYESと答えるのは地雷であるような気がした。私が事件を調べていて、さらに警察と繋がっていることが判明すれば、おそらくは彼らの根城であるこの場所から出す訳にはいかなくなる。スーツの男は疑わしげな目で私を見て、フンと鼻を鳴らした。
「探偵風情がボディーガードの真似事か」
「仕事を選べるほど裕福じゃないんでね。はじめはマフィアに襲われる予定もなかった。同じ日本人だからというのもある」
「領分を見誤った結果が今この情けない姿だ。役割も果たせない無能め」
スーツの男は嘲笑する。事件に深入りしすぎたという点で、確かに私は分相応を踏み越えたのだろう。関わっている組織が強大すぎると身を引いていれば、少なくともしばらくは安全に過ごせていたはずだ。役割を果たせなかったというのもまさに事実であって、私には反論のしようがなかった。




