黑色女人 -1-
昨日は午後に会った公安に余分な神経を使い、私の機嫌は夜まで悪かったが、一晩眠れば緊張もある程度までは落ち着いた。長時間の調べもので生じた眼精疲労も、翌朝にはすっかり回復していた。しかし調べている事件の複雑さは、夜が明けても解消されないままだった。
ややこしい問題であっても、少し時間をおけば情報の断片が自然と繋がり、解決への糸口が見えることはよくある。ただこのときの私は、瀬田英治を殺した犯人や、英治が殺される原因について、まだすっきりとした関係図を描けないでいた。
現場に残った弾痕、英治の具体的な研究内容、マフィアが陽花を狙う理由といったいくつかの要素も、相互に関連付けられないままだった。それらの断片は脳裏の隅からこっそりと、私の次なる動向を窺っているように思えた。
調査開始三日目。普段より早く起床した私はキッチンで起きがけの水を飲み、ソファに座ってテレビを見ていた。天気予報が午後の空模様を伝えたころ、携帯端末が鳴り、音声通話のリクエストを知らせた。
仕事以外の用事であってもこの時間に電話が掛かってくることはほとんどなく、その音は私の胸を不穏に騒がせた。ソファから立ち上がってダイニングテーブル上にある端末を確認すると、リー女史の番号が表示されていた。私は端末を手に取り、チェアに腰を下ろして通話に応じた。
『早くからすいません』
私が電話口に出るなり、リー女史は早朝の非礼を詫びた。彼女の話し方は以前と同じように平板だが、その声色は今までにない焦燥と切迫感を孕んでいた。
「おはようございます。構いませんが、何かトラブルですか」
起きてすぐに対応を迫られるのは面倒だが、今は何があったのかという気掛かりが勝る。そして話された事実に、私は一瞬言葉を失った。
『陽花がいなくなりました』
どうやら悪い予感が現実のものとなってしまったようだ。朝から飛び込んでくるものとしては、なんとも重たいニュースだった。殺されたということはないだろうが、今まで得た情報が情報なだけに、色々とまずい状況が想像される。
「いつ?」
私の口調はついつい強く無遠慮なものとなった。緊急事態かもしれないとの思いは勿論だが、リー女史の不注意を責める気持ちもあった。だが、今彼女を追及したところでどうにもならない。
『私も今しがた起きて気付いたんです。ただ、朝のうちだと思います』
彼女は半ば弁解するように言った。
「持ち物はありますか」
『先ほど確認しました。そのままです』
私は寝起きの頭を強引に回転させる。計画的に遠出した、という訳ではなさそうだ。しかし建物のセキュリティを考えれば、アパートの敷地内で拉致されたとは考えにくい。
「昨日、彼女に変わった様子は? あるいは喧嘩をしたとか」
『ありません。穏やかなものでした』
そうなると、ちょっとした散歩のつもりか、衝動的な出奔か。前者であっても、家人に声を掛けずに外出するのは不自然だ。
「もし警察への連絡がまだならば、すぐにしてください。刑事情報課に喬小龍という男がいます。彼は信用できる」
『……分かりました』
この段になれば、警察に頼りたくないなどと言っている場合ではない。リー女史も、通報を拒否するほど頑迷ではないだろう。そしておそらくこの場合、普通に通報するよりも、事件の関係者にトラブルの可能性ありとして担当課に直接伝えた方が早い。
「リーさんはそのまま待機していてください。私は近辺を探します」
『陽花は大金を持っているわけではありません。遠くまでは行かないと思います』
「ええ、そうでしょうね」
外出先で誰かに連れ去られているのでなければ。私はそう言いかけたが、あくまで想像に過ぎない。喉まで出かかった言葉を飲みこんだ。
挨拶もそこそこに電話を切った私は、髭も剃らずに最低限外出の準備を整え、自宅アパートを飛び出した。陽花に何が起こったにせよ、今日は長い一日になりそうだ。臓腑を騒がす焦燥と共に、私は強く予感した。
私はアパートを出てすぐの大通りでタクシーをつかまえ、居住区に向かった。移動中も往来に陽花の姿がないか、忙しなく目を走らせる。しかし商業地区に彼女が来ている確率は、限りなく低いと考えられた。
陽花が行きそうな場所について、私に心当たりは一つしかなかった。彼女の父親、瀬田英治の殺害現場だ。
陽花は自分が事件当時のことを思い出せないことに焦れて、あるいは何かを急に思い出して、衝動的に現場へと向かったのかもしれない。もちろん、他の場所に行ったということもあり得るが、それは現場にいなかったときに考えればいいだろう。
タクシーが居住区に到着するまでの短い間、私は兼城に電話を掛けた。今の時刻は午前七時。兼城は夜型の人間なのでまだ寝ているかもしれないが、この後に及んで礼儀を気にするつもりはなかった。呼び出し音が二回、三回。兼城が電話口に出るまでの間、私は耳に当てた携帯端末の背を、無意識に持ち手の人差し指で叩いていた。
『もしもし』
「月島だ。朝から悪いな」
兼城は起きたばかりか、携帯端末の通知で目を覚ましたようだった。思い切りあくびをする音が電話口から聞こえてくる。
『いいけど、何?』
「例の娘がいなくなった。黑色女人に大きな動きはあるか?」
『ちょっと待ってくれ』
短い沈黙。陽花の安否は兼城に直接関係のないことだが、私の剣呑な口調を感じ取ったのか、ベッドかソファの上で姿勢を正したような気配がした。声の調子も変わる。
『誘拐されたのか』
「まだ分からない」
兼城は小さく呻く。あくびではない。
『昨日の夜まではないが、それ以降は分からん。動きの全部を監視してる訳じゃないしな』
現在事態が進行中で、まだ兼城まで情報が伝わっていないだけ、ということも考えられる。しかし少なくとも今は、彼から陽花の行方に関する手がかりは得られそうになかった。
「分かった。何かあれば教えてくれ、メールでも構わない」
タクシーが現場付近に差し掛かったので、私は一瞬電話口を押さえて運転手に停車を指示し、また通話を続ける。
『よく解らんが、そうする』
「頼んだ」
『お前も気を付けろよ。飯屋での喧嘩でかなり恨まれてるはずだからな』
先日の冗談めかした忠告とは違い、真剣味のある声だった。しかし兼城が察知したなにがしかの危険性を、このときの私はあまり深く考えなかった。
「ああ。だが、今更だな」
私は電話を切り、料金を支払ってタクシーから降りた。通勤の時間にはまだ少し早く、通りを行き交う人はまばらである。私がまず目当てとした場所はすぐに見つかった。明るい大通りにぽっかりと開いた都市の間隙。事件現場に続く横路への入口である。
一度目は陽花に導かれて、二度目は被害者の行動を想像しながら。そして今、私は三度同じ入り口から、瀬田英治の殺害現場へと向かった。
狭い路地に一足入ると表通りの平穏さは消え失せて、不気味な沈黙が私を迎えた。高層アパートに挟まれた空間は朝日が遮られて暗く、夜気を蓄えた路面の耐食コンクリートは気温の上昇を妨げていた。大股で歩く私の靴音が、左右にある外壁パネルで無機質に反響する。
二度三度左右に折れる道筋を数十メートル行くと、路地の出口が見えてきた。その先にある通りにはビルの隙間から朝日が差し込んでおり、白っぽい光が少女の立ち姿を照らしている。私には少女が陽花だと判ったので、思わず安堵のため息をついた。少なくとも、彼女はまだ生きている。
互いの距離はまだ少しがあり、陽花が私に対して横を向いているため詳しい様子は分からなかったが、彼女はどこか一点を見据え、直立したまま硬直しているようだった。
そのときの私は、先ほど兼城に忠告されたばかりだというのに、見えない部分に対しての十分な警戒を怠っていた。五体満足な陽花を発見したことに安心し、彼女の姿勢や表情に深く注意を払わなかった。私は小走りになるくらいまで歩調を速め、細い路地から英治の殺害現場である小さな通りへ出た。
左右の壁が途切れて私の視界が開けると同時に、陽花とは別の人影が目に入り、いくつかのことが同時に起こった。
まず、私の登場に気付いた陽花が、首をほんの少し動かしてこちらを見た。しかし彼女は声を上げず、その表情には驚きと苦さが混じり合ったような色があった。
彼女の近く、今まで私の死角になっていた位置には男が立っていた。彼の容姿を確認する前に、私の目線は男が両手で構えていた拳銃に吸い込まれた。
その黒く無骨な得物には消音器が取り付けられていて、銃口は陽花に向けられていた。拳銃を構えた男は当然私に気付き、やや意外な顔をしたが、一瞬あとには薄笑いさえ浮かべて目線を陽花に戻した。
この時点で、私は自身がかなり悪いタイミングで到着してしまったことを悟った。
「別動!」
また私が小路から身体を出した瞬間、すぐ左から広東語の警告が飛んできた。不意を突かれた私が思わず足を止めると、陽花を狙っているのとはまた別の男が、私に銃口を向けていた。彼我は三メートルも離れておらず、素人でも弾丸を命中させられる距離である。小路に戻ったとしても、無防備な背中を撃たれるのが容易に想像できた。抵抗はしない方がよさそうだ。
「手を頭の後ろにやって、膝をつけ。ガキにもそう伝えろ」
現状を切り抜けるうまい手も思いつかない。今は素直に従うしかない。私は両手を頭の後ろで組み、両膝を地面についた。
「月島さん」
陽花が怯えた様子で、かすれた声を出した。私は彼女を落ち着かせるため、ゆっくりと彼女に指示をした。
「話は後にして、とりあえず俺と同じようにしてくれ。まだ大丈夫だ。殺すつもりならもう撃ってる」
彼女は私の顔と自分に向けられている銃口を見比べ、大人しく指示に従った。
私が目だけで周囲を確認していると、近くで見張りをしていたらしい新手が二人現れた。どうやら、陽花に銃を向けている男がリーダー格であるようだ。リーダー格が二人に短い言葉で指示を飛ばすと、片方がどこかへ走って行き、もう片方がこの場に残った。
「また会ったな、日本人」
私に銃を向けている男が言った。私はそう声を掛けられて初めて、男の顔をしっかりと見た。悪意に顔を歪めるその太った男はおととい、私が中華飯店の裏で地面に放り投げ、腕を捻り上げて尋問した人物だった。
「英雄気取りをまたやりに来たのか?」
太った男は嘲るように言った。鬱憤のある相手の命を握る高揚に酔った男は拳銃を構えたまま、ゆっくりとした足取りで私に近づいた。反撃が不可能な位置関係ではなかったが、他の敵も、狙われている陽花もいる状況でそれはできない。私は男の挑発を完全に無視して、リーダー格の男に視線を向け続けた。
彼らが黑色女人の構成員達であるのは疑いようもない。現場にいる男達は全員、取ってつけたようなビジネスマン風の格好だ。繁華街で見たときはジャージのような服を着ていたから、そのときよりも幾分まともと言える。しかし所詮は付け焼刃のファッション。容貌に現れる育ちの悪さや品性の下劣さまでは隠せていなかった。
マフィア達は事件以降陽花を探していたのだから、極力目立つことがないよう、事件現場付近で待ち構えていたか、どこかからリー女史の住所を得て監視していたのだろう。
すぐに撃たなかったところを見ると、どうやら彼らが陽花を探していたのは、殺害するためではなく捕縛するためであるようだった。しかし銃に装着された消音器は、不測の事態における発砲の可能性を考慮してのものだろう。私が撃たれなかったのは幸運だったかもしれない。もちろん、次の瞬間にもそうされない保証はないが。
「何とか言え、この野郎」
太った男は黙ったままだった私の腰あたりを、靴のつま先で強く蹴った。大した攻撃ではないが、今は躱すことも防御することもできない。もし掴みかかってくれば、どさくさに紛れて指の一本でも折ってやろうかとも思っていたが、残念ながらそのような愚を犯すほど、男は興奮していないようだった。
「勝手なことをするな!」
リーダー格が一喝すると、太った男はすごすごと引き下がった。
「我々のことを調べていたのはお前だな。だが仲間がもう一人いると聞いてるぞ」
銃口と目線を陽花に向けたまま、リーダー格が私に尋ねた。
「おとといのことなら、アレは個人的な知り合いだ。ただ血の気が多いだけで」
兼城の素性を話したところで彼に直接の害が及ぶとは考えにくいが、洗いざらい話してやるのも気が進まなかった。
「……まあいい、あとでゆっくり聞かせてもらう」
余裕のある態度でリーダー格が言う。彼らは一体何を聞くつもりなのだろう。単純に自分たちを探っている輩に制裁を加えるつもりなのだろうか。しかしそれだと、陽花を探していたことの説明がつかない。
程なくして、先ほど現場を離脱した男が戻ってきた。その手には黒い袋とテープのようなものを持っていて、男の後ろからは七、八人が乗れそうな白いライトバンが着いて来ていた。彼らは我々を拉致して、どこかに連れて行くつもりのようだった。
銃で脅され、無力化された私は為す術なく袋をかぶせられ、身体を地面に押し付けられた。テープで後ろ手に拘束され、足首も固められる。衣服をまさぐられ、所持品を奪われた。
マフィア二人が芋虫のようになった私を運び、車のドアを開いて乱暴に後部座席へと放り込む。間を置かず、おそらくは同じような状態になった陽花が近くに積み込まれた気配がした。扉が閉まり、乗り込んだマフィア達と共にライトバンが発車する。私が袋をかぶせられてからここまで、二分も掛かっていない。非常に手慣れた犯行だった。
袋でほとんど視界を塞がれた私は、食品の包装や空き缶といったゴミが散らばる座席下の空間に転がっていた。そして床下の機構から伝わる僅かな振動を感じながら、なぜ自分が瀬田英治と同じようにならなかったのか、と考えていた。




