断片 -7-
喬を帰し、時刻は正午の少し前。私はリー女史に一報を入れてから自宅を出発し、彼女の住居へと向かった。昨日買った菓子を忘れずに持ち、三度目となる訪問の途上、私は誰かが自分を見ているような感じがして、神経質な気分になっていた。
事実監視の目があったのか定かではないが、結局表立った危険はなく、私は無事に居住区のアパートに到着した。以前訪れたときは堅苦しく感じたセキュリティも、今は頼もしく思えた。
私が部屋を訪れると、リー女史は初めて対面したときと同じような様子でソファに腰掛け、紅茶を飲んでいた。昨日と違うのは、彼女の脇にタブレット型の端末が置かれていることぐらいだった。
「こんにちは。陽花なら部屋に」
「ええ、ありがとうございます」
陽花に会うのはもちろんだったが、リー女史とも話しておきたいことがあった私は、彼女の対面に腰掛けた。
「紅茶は」
「お気遣いなく。少し、報告しておきたいことがあるんです」
私の口調から剣呑な雰囲気を感じ取ったのか、彼女は心持ち居住まいを正した。
「何か新しいことが判ったんでしょうか」
「まだ大半は憶測にすぎません。しかしこの事件は、思いのほかスケールの大きいもののようです」
「……詳しく教えてください」
もったいぶっても意味がないし、彼女はそこまでデリケートな配慮を必要とする人間には思えなかったので、私は率直な言い方で見聞きした事実を伝えることにした。
「黑色女人という犯罪組織が陽花さんを探しているんです。それに関連して、シティ警察の公安部門も動いています」
公安という言葉に、女史は強く眉をひそめた。本土で嫌な思い出があるに違いない。もっとも、公安警察に素敵な思い出がある人間などいないだろうが。
「黑色女人という組織については?」
「比較的新しい組織のようです。表向きの稼業は並の密輸組織と変わりませんが、華南軍閥の息が掛かっている」
公安、そして華南軍閥。胃もたれするような単語が彼女に染みこむのを待ってから、私はやや身を乗り出すようにして尋ねた。
「英治さんは一体、本土で何をしでかしたんでしょう?」
私はリー女史の顔に動揺が浮かばないかと窺ったが、その表情はむしろ平板だった。依頼人を揺さぶるのは不信を招きやすく、本来ならあまりするべきではない。しかしこれは私の安全に関わる問題でもあったので、彼女の意思に関わらず、秘密があるならばそれを知っておく必要があった。
「昨日も言いましたが、ここ数年は彼と顔を合わせてはいないのです」
彼女はかぶりを振った。私は姿勢を崩してプレッシャーを緩め、フォローするように言った。
「あなたや陽花さんに危険が及ばないか、という危惧があるんですよ。強盗や暴漢程度なら相手にしてみせますが、国家やそれに準ずるような相手だとそうはいきません」
「私もそこまでは期待していません。肉体的にはともかく、身辺が完全に無防備というわけではないんですよ」
一瞬ではあるが、そのとき女史が傍らのタブレットに目を遣ったのを、私は見逃さなかった。先日、彼女は自分が自由主義的な思想を持っていると話していた。思想を持っていただけでなく、何らかの実践をおこなっていたのであれば、彼女を支援する外部の協力者がいるということは十分考えられた。
「それならば安心です……多少は」
「でも、月島さん自身が調査を止めるとおっしゃるなら、それは仕方がありません」
その言葉はやや私のプライドに障ったが、口振りは別段、挑発しているという風でもなかった。
「いいえ、今のところ、そのつもりはありません」
私は穏やかな口調でそう返答した。
リー女史はそれ以上進んで話したがらず、私もうまい質問が思いつかなかったので、会話を切り上げてソファを立った。許可を得てから陽花が居る部屋に向かい、ドアをノックする。
「どうぞ」
陽花は一人掛けのソファに座り、小さなテーブルの上にある中型端末のディスプレイを見つめていた。彼女はヘッドセットを着けていたが、私が部屋に入るとそれを外して私に向き合った。
「こんにちは、月島さん」
「どうも。その後、調子は?」
「あんまり。お菓子、買ってきてくれました?」
陽花は昨日より、幾分元気を取り戻したように見えた。私は紙袋に入れた数日分の菓子を端末の横に置いた。彼女は中身を確かめては戻し、小さな袋入りのカラフルなグミを選んでテーブルの上で開けた。
「これ、こっちにもあるんだ」
彼女に勧められたので、私も一つ相伴に預かった。クエン酸の味がした。
グミを噛みながらも、私の念頭には事件のことがあった。もちろん陽花もそれを強く意識しているだろう。傷付いた少女を慰めるための会話をするのなら、もっと当たり障りのない話題はいくらでもあるし、カウンセラーでない私でもそれくらいの配慮はできる。
しかし互いに、探偵と被害者の肉親という立場の違いはあれど、ここ数日は事件のことばかり考えているのだ。この場でそれ以外の話をするのは、むしろ空虚で白々しい感じがした。
「昨日から事件を調べていて、色々な人に話を聞いてきた。お父さんのことも少し調べさせてもらった」
「何か分かった?」
陽花は明らかに、事件について知りたいという意思を持っていた。もちろん辛さを感じていないはずはないから、彼女がそれを強く示すようであれば、私は話題を移すのもやむなしと思っていた。
「英治さんを狙ったかもしれないヤツらが、君を探している。ブラック・レディ、という名前のマフィアだ」
マフィアに探されていることを知ると、彼女は年相応に怯えたような表情を見せた。黑色女人という名前自体には、覚えがないようだった。
「聞いたことない。その人達がお父さんを殺したの?」
「いや、まだはっきりとは言えない」
彼女は当然、自分が追われる理由も考えつかないようだった。私はこの方向で掘り下げるのを早々に諦めて、彼女の父親について詳しく尋ねることにした。
「君のお父さんは優秀な人らしい。でも殺される理由がよく分からないんだ。苦しくなったらすぐ止めていいから、英治さんについて教えてほしい」
彼女はソファの上であぐらを組み、一度唇を引き結んでから話し始めた。
「お父さんは昔日本に住んでたけど、私が生まれてすぐに香港で働くようになったんです。私は五歳になるまで日本に居て、そのあとお母さんと一緒に、お父さんの住んでる香港に引っ越しました」
海外で働く日本人の数は、ここ数十年で大きく増えた。国内経済があまりぱっとせず、待遇の良い仕事がないからだ。
「お父さんは家にはあんまりいなくって、お母さんはそれが不満だったんです。一生懸命働いてたから、仕方がないと思うんだけど。それで私が十歳のときに離婚して、そこからはお父さんと二人暮らしです。お母さんとは離婚してから二、三回あったぐらいで、そのあとはほとんど連絡を取ってません」
陽花の口振りは、どちらかといえば父親に同情的だった。
「お父さんは別に、私達に冷たいとかそういうことはなかったと思います。私が仕事について聞くと、楽しそうに教えてくれたし。でも最初は内容が難しくて」
難しい、という言葉に共感するように、私は相槌を打つ。
「だから私はプログラミングを勉強したんです。お父さんは喜んで、『お前には才能があるよ』って」
私は死んだ英治の顔しか見ていないが、彼が喜ぶとどんな表情になったのだろうか。二度と戻らない家族のことを、必要があるとはいえ陽花に想い出させていることに、私は今更ながら良心の呵責を覚えた。しかしまだ聞くべき重要なことが残っている。
「お父さんは近頃、何か個人的に研究をしていたかな。あるいは、別のことに没頭していたかもしれない」
大っぴらにできないようなことであれば、会社では作業しないだろう。陽花が父親の仕事に関心を持っていたのだとすれば、何か知っているかもしれなかった。彼女は腕を組み、分かりやすく考える仕草をした。
「研究はいつもしてた。内容も聞けば教えてくれたけど」
「けど?」
「最近やってたのは、聞くとちょっと嫌そうな顔だった」
普段してくれた研究の話を、そのときばかりはしたくなかったというのなら、娘を企てに巻き込まないための配慮だったのだろう。
「大事な研究だとは言ってたけど、詳しくは教えてくれなかった。でも一度だけメモか何かで、研究の題名? みたいなものを見たことがあるんです」
「その、題名は?」
私は会話が核心に触れつつある気がして、自分の表情が神妙になっているのが分かった。それは陽花も同様だった。
「『フラガラッハ』」
それは聞き慣れない単語だった。
「調べたから綴りも分かります。Fragarachでフラガラッハ」
彼女はアルファベットを一文字ずつ言ってみせたが、私には題名から具体的なものが連想できず、首を傾げた。地名にしても聞いたことがないし、人名にしても一般的なものではなさそうだった。
「聞き覚えがないな」
「これは剣の名前です。ケルト神話に出てくる剣で、回答する者とか、復讐する者とかいう意味があるみたいです」
おそらく、兵器についたコードネームのようなものではないか、と私は想像した。剣の名前がついているなら、防御システムなどではなく、攻撃能力のある兵器だろう。しかしケルト神話に由来する名前だとすれば、アジア諸国に配備された既存の兵器ではなさそうだ。
「ケルト神話についてはもうちょっと詳しく調べたんですけど、よく分かりませんでした。お父さんに隠しごとをしてるみたいで気が引けたので、それ以上は調べてません。隠しごとをしてるのはお父さんなんですけどね。……どうしました?」
私には神話の知識などほとんどなく、兵器やIT用語も人並みにしか知らなかった。しかしそんな私にも思い浮かぶ言葉があった。少し気を付けてネットワークにアクセスしている人間であれば、誰でも知っているような単語で、それもまた神話を名前の由来としていた。
トロイの木馬。
これはプログラムを実行した端末に悪意ある仕掛けを施す、マルウェアの一種だ。トロイの木馬は特定のプログラムではなく、ある働きをするマルウェアの種類を表わす名称で、コンピューターの黎明期から現在まで、一般のユーザーに忌み嫌われている。
フラガラッハも、対象の端末やネットワークに被害をもたらすマルウェア、いや、事件の重大性や関わっている組織の規模を考えれば、サイバー兵器と呼べるほどの存在なのだろうか? 英治がネットワークセキュリティの優れた専門家で、なおかつ現在広く使われているセキュリティシステムの開発に携わっていたほどの人物なのだから、それほどのものを作る技術は十分にあるはずだった。
鎧をも貫く剣。本当なのだとすれば辻褄が合う。しかしこの思いつきに、明確な証拠があるわけではない。誰かに話すのはまだやめておいた方がいいだろう。
「いや、なんでもない」
「怖い顔になってる」
私は無理やりに表情を緩め、渇いた口にグミを放り込んだ。
「お父さんには、誰か復讐したい相手がいた?」
ごまかすように私が尋ねると、彼女は眉をひそめて否定した。
「少なくとも私は知らない。お母さんの悪口だって言わなかった」
「……そうか」
「でも私にはいる。お父さんが殺されて、研究が無駄になったままなのは悔しい」
陽花は下を向いて言った。泣いてはいなかったが、その声には今まで見せなかった強い感情が滲んでいた。
私にもその気持ちは理解できる。彼女はまだ無力な少女で、復讐すべき相手は強大で危険な存在である可能性が高い。実行は無謀だが、考えるだけならば自由だ。恨むことで物事の折り合いをつけられることある。
我々は少しの間互いに何も話さずにいたが、そのうち陽花が顔を上げた。
「何か思い出したら教えます。協力できることがあれば」
彼女は一人になりたそうだった。私は申し出に礼を言い、部屋を出た。




