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電海のフラガラッハ  作者: 黒崎江治
電海のフラガラッハ
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岱輿城市 -1-

 挿絵(By みてみん)


 二〇七〇年代の各種メディアが評するところによると、二〇三〇年代、四〇年代の東アジアは再編の時代であり、五〇年代、六〇年代は混沌の時代であった。

 

 それらの期間において、東南アジア諸国は中間層の増加によって市場を拡大させ、周辺地域の経済を牽引する存在となった。日本とアメリカはそれぞれの原因で政治と経済の袋小路に迷い込み、国際社会における影響力を低下させつつあった。


 一時は世界の覇権をその手に掴もうとしていた中国に至っては、内戦によって瓦解の憂き目に遭っていた。二十一世紀の前半と後半で、東アジアはがらりとその様相を変えた。


 そして今は二〇七四年。停滞の七〇年代、と呼ばれる時代に入ってから五年目を迎えている。未来に対する明るい展望が失われ、形ばかり洗練された無機質が、人心の絶望を覆い隠す時代であった。


 しかし『停滞』というのは東アジア全体を指す表現であって、ここ岱輿城市ダイユー・シティでは少々事情が異なっている。香港の南二〇〇キロの洋上に浮かぶ巨大な人工島に築かれたこの都市は、海底にあるメタンハイドレート採掘と、その精製・加工・輸出による強い経済を頼りにして、辛うじて政治的混迷の荒海に浮かんでいた。


 シティの中心からやや東。セントラルと呼ばれる中央街区と、ダウンタウンと呼ばれる商業地区の境あたりに、ひとまとまりのオフィスビルが林立している。遠くから見ればそれなりに立派な建物群だが、近くに寄れば小奇麗とすら言い難い。


 かつて白かった外壁の樹脂パネルは色がくすんでいて、窓の周りを鮮やかに彩っていたオレンジ色のコーティングも色褪せつつある。シティではもっとも内陸の地点さえ海から二キロと離れておらず、潮風に強いはずの建材を使っても、その害を完全に取り除くことはできなかった。


 オフィスビルの周辺にある建物にしても、高さや劣化具合、デザインという点で似たようなものであり、ただでさえ狭苦しいシティの街並みを、いっそう息苦しいものにしていた。

 

 私は今、そのオフィスビルの一つに構えた事務所の中で、依頼人と対面して自らの仕事を報告し終えたところだった。四階フロアの一角にあるこの場所は、私が探偵家業を営む際の拠点となっていた。


「月島さん、この度は本当にお世話になりました」


 コーヒーテーブルを挟んで合成皮革のソファに座り、やや頭髪の薄くなった頭を丁寧に下げている依頼人は、四十代半ばの日本人ビジネスマンである。彼が今日会社に顔を出すかどうかは知らないが、長袖のワイシャツにネクタイ、スラックスという、典型的な上級ホワイトカラーの装いだった。


 あまり外に出る機会がないのだろうか、肌は青白く、不健康そうな脂肪が顔の周りに多く付いていた。喋り方や立ち居振る舞い全体にどこか事務的な印象を受ける人物だったが、これまでおこなってきた仕事上のやり取りには誠意があった。


 頭を上げた彼は、テーブルに置かれた報告書と、印刷した写真、それらのデータが入っている記録媒体メモリをまとめて鞄に入れ始めた。私はそれが終わるのを待ってから、穏やかな声で付け加えた。


「請求書は後程送らせていただきます。また何かあればご連絡ください」

「支払いは米ドルで?」

「ええ、米ドルでお願いしています」

 

 一時は国際決済通貨ハードカレンシーの仲間入りをし、シティでも流通していた人民元だったが、二〇五〇年代からは燃え尽きたように失速していった。内戦が勃発すると致命的なインフレが発生し、通貨の信用は地に落ちた。その途端、今まで人民元の下支えに協力していた各国の金融市場は掌を返し、堕ちゆく中国を次々に見限り始めた。


 通貨の下落が崩壊を招き、国家の崩壊が通貨の価値を損なう。それは巨大な渦潮に似た、脱出不可能な悪循環だった。やがて人民元は紙屑になり、今では投機の対象にすらならない。


 そのような経緯があるため、シティ住民はもはや人民元を信用していない。法定通貨は米ドルと香港ドルで、単純にドルと言った場合には米ドルを指す。基本的に米ドルさえあれば、生活にもビジネスにも困ることはない。五十年前ほどではないにせよ、軍事力ハードパワー文化発信力ソフトパワーを背景にしたアメリカの影響力は、二十一世紀後半の今においても強大だった。


 今回の仕事は一週間掛かり、三五〇〇ドルの収入になった。この期間と報酬額だけ知った人間には割のいい仕事だと思われることが多い。しかし依頼の頻度、事務所の維持費を考慮すると、そこまで余裕のある生活ではなかった。


 彼から依頼された仕事の内容は、ごくありきたりな浮気調査だった。十歳年下の妻が頻繁に外出していることを不審に思った彼が、私の事務所に連絡してきたのが十日ほど前。慣れない様子の依頼人が私を選んだ理由はごく単純に、シティでそれほど多くはない、同じ日本人であるから、というものだった。


尾行と張り込みによる古典的かつ地味な調査が一週間続き、その成果として、依頼人の妻が香港出身の若いビジネスマンと浮気をしていたということが判った。私はその証拠を写真に収め、報告書にまとめた。今しがた彼に渡したものがそれである。


 浮気調査は別に珍しい依頼でもなく、また今回の結果も特に意外性のあるものではない。登場する人物達にしても、取り立てて個性的というほどではない。私が扱うのは依頼された浮気だけであるが、家庭内で処理されるものもあれば、発覚せずに終わるものもあるだろう。他の国ではどうだか知らないが、この街ではそういう不誠実が、私の生活を一部成り立たせる程度には多いのだった。


 過密のストレスが人の放埓を促進するのかもしれないし、この街にモラルを低下させる何かがあるのかもしれない。あるいは単純に、いくら技術が発展しても、そういう人間の本性は変わらないというだけのことなのかもしれない。うんざりすることもないではないが、この仕事で食べている以上、無くなってしまえば困るのは私だ。


 ともかく、証拠を掴んだ依頼人は近々訴訟を起こし、妻や間男から慰謝料なりなんなりを手に入れるだろう。あるいは面倒を嫌って、適当に離婚の手続きをするのかもしれない。そこまで私は関与しないし、また顛末についての関心もなかった。私は成果と経費分の報酬を得て、またしばらく仕事を待つ生活に戻るだけだ。


 事務的な話をもう二、三したあと、依頼人は慇懃に礼を言って事務所から出た。私は彼に付き従い、エレベーターまで送る。結果が予期されていたものだったからか、既に夫婦仲が冷え切っていたからか、大きなショックを受けているようには見えなかった。


 結婚生活は上手くいかなかったかもしれないが、彼には金がある。シティでは金さえあれば、それなりの幸福が保障されるものだ。もっともそれは、物質的・相対的な幸福ではあるのだが。


「こういうことをしたら面倒になると、分からないんですかねえ」

 エレベーターが来るのを待つ間、階数の表示を見つめたまま、依頼人が呟いた。


「浮気をする女性の気持ちはよく解りませんが、小さなきっかけで不合理をしでかす人間は、意外に多いんだと思いますよ」


 まともに答える必要はないと感じながらも、私は控えめに考えを述べた。依頼人は納得したようなしていないような相槌を打って、到着したエレベーターに乗り込んだ。


 依頼人だった男が乗ったエレベーターの扉が閉まるのを見届けたあと、私は事務所の中へと戻るために踵を返した。同じフロアに入っているいくつかのオフィスは、大体がサービス業のものだ。まっとうな会社もあれば、いかがわしい商売をしているところもある。互いの関わりはほとんどなかった。


 私の事務所入口は、他所と同じ無機質な白いプラスチック製のドアである。その表面には文字が書かれた銀色のプレートが張り付けられており、この場所が探偵事務所であることを示している。


 事務所を開いてから六年経つが、文字もプレートもかなり薄汚れてきていて、そろそろちゃんと磨くか、新しいものに取り換える必要がありそうだった。ただそれは、今すぐでなくてもいいだろう。私はプレートの汚れに目をつぶり、屋内に戻った。


 昼間のうちは、私が不在でも玄関ドアの鍵を掛けないことにしていた。中が待合室になっていて、依頼人が入れるようにしてある。待合室に盗まれるようなものはほとんどない。辛うじて価値があるのは、古びたソファと、腰までの高さがある観葉植物、そしてそこに仕掛けてある、室内監視用の隠しカメラぐらいだった。


 待合室に入って左手には、事務室兼応接室として使っている部屋へのドアがある。不在時に施錠するのはこのドアだけだった。奥の部屋には応接セットと、窓際に木材の事務机と椅子、机の上に備え付けられた中型端末パソコンがある。


 事務所といっても、待合室とこの部屋があるだけで、あとはキッチンとトイレが付いている程度のものだった。広さはシティにおける平均的な一人暮らし用の住居とそう変わりない。私以外の従業員もいないから、居心地はともかくスペースは十分確保されている。もう少しインテリアに凝ってはどうか、というアドバイスを受けたことがあるが、私はこの簡素な仕事場がそれなりに気に入っている。


 玄関ドアから屋内に戻った私は、そのまま奥の部屋に入った。事務机の椅子に腰を下ろして中型端末パソコンを起動し、事務用のソフトを立ち上げる。資料や記憶が散逸しないうちに経費を計算し、ケースの記録を書くのが、仕事がひと段落したあとのルーチンであった。

 

 とはいえ計算は単純な足し算で、記録も誰に見せるわけではないから、必要最低限のことしか書かない。同じ依頼人からまた仕事が来るのでなければ、記録を見返す機会もまずない。


 書き終えたものを保存し、端末に表示された時計を見ると、もうすぐ正午というところだった。私が昼食について考え始めたところで、端末に表示された待合室のカメラ映像に人影が写った。来客である。大柄な男性で、趣味の悪いピンクのワイシャツと、黒いスラックスを身に着けている。客はそのまま、私がいる奥の部屋に繋がるドアをノックした。


「どうぞ」

 私が返答する前に入ってきた男は、よく見知った人物であった。


 兼城陣かねしろじん。年齢は確か三十四。身長は一八一センチある私よりもまだ少し高い。服の上からでも容易に判る筋量、短く刈り上げた髪、普段掛けているシャープなシルエットのサングラスは、彼の容貌をより攻撃的に見せていた。しかしこの男がそれを無自覚にやっているとは思えない。兼城は日本のヤクザを自称する、『海虎うみとら一家』という集団の構成員でもあった。


「サンドイッチ買ってきたけど、下の店ちょっと高くなったよな」


 ドア枠の上部に頭を擦りかけながら入ってきた兼城は慣れた様子でソファに座り、ビニール袋から二人分の昼食を出して、胸ポケットに入っていたサングラスと一緒にコーヒーテーブルに置いた。海虎一家の拠点が近くにあるため、彼は休憩と称してときおり昼食を摂りに事務所を訪れる。その際には決まって私の分も購入し、私が既に食事を済ませたか、不在の時には二人分を平らげる。


「コーヒーは?」

 私は兼城にそう尋ねながら、キッチンでインスタントコーヒーを作り始めていた。電気ケトルに水を入れ、用意した二つのマグカップに粉を入れる。私も兼城も、コーヒーに砂糖やミルクを入れる習慣はない。


 五年前、私は海虎一家にまつわる、ちょっとした事件に関わったことがあった。その時、共に危ない橋を渡ったのが兼城で、以降腐れ縁のような形で付き合いを続けていた。当初、私は彼が事務所に出入りすることに抵抗を覚えたが、兼城は依頼人に迷惑を掛けたり、仕事の邪魔をしたりするようなことはなかったので、そのままなんとなく交流をやめないでいるのだった。


「もらう」


 私は二つのマグカップに沸かした湯を注ぐと、それを奥の部屋まで運び、コーヒーテーブルに置いた。そしてサンドイッチの代金として、事務机に放ってあった財布から五ドル紙幣を抜き出し、兼城の前にあるマグカップの下に挟んだ。


 出入りするようになった当初は昼食代を受け取ることを渋った兼城だったが、私が譲らなかったため、今では金銭のやりとりで揉めるようなことはなくなった。兼城は紙幣をマグカップの下から抜き取って折り畳み、着ているワイシャツの胸ポケットへ無造作に突っ込んだ。


「昨日も喧嘩があったんだよ」


 包みを開き、サンドイッチを咀嚼しながら兼城は切り出す。彼が買ってきたサンドイッチには、やたら発色のいいチーズとハム、そして申し訳程度のレタスが挟まっていた。


 私は彼の対面に座り、湯気を立てるコーヒーを啜りながら、無言で続きを促した。兼城曰く、近頃海虎一家の主な稼業である密輸、密入国の斡旋などを巡って、香港系のマフィアと小競り合いが起きている、ということだった。


 喧嘩といっても素手の殴り合い掴み合いとは限らず、時には刃物や銃器を使った過激なものになる場合もある。市民にとっては迷惑な話だが、シティではそれほど珍しい出来事という訳でもなく、今のところ私の興味を引く話題ではない。


「だから最近何かと忙しくてさ。たまにはゆっくりバリ島にでも行きたいって思ってんだよ」

「廃業したらシティも少しは平和になる」


 私がそう返すと、兼城は大げさに肩をすくめてソファの背にもたれかかった。安っぽいビニール張りのソファは、兼城の体重を受けてギシリと軋んだ。


「冷たいなあ。もっと共感的に聴いてくれよ」

「俺はカウンセラーじゃないからな」


 以前聞いた話だと、兼城は日本の有名大学で学んでいたことがあるという。なぜ大学まで出てヤクザになり、さらにはこんな南の人工島までやってきているのか、私は知らなかったし、詳しく尋ねたこともなかった。しかし得られる金銭という点だけで考えれば、万年不景気にあえぐ日本でまともに就職するよりは、結果として正しい選択だったのかもしれない。


 学歴があるからか、兼城は組織でそこそこの立場にあるようだ。確かに彼は頭の回転が速く、忍耐力や判断力も優れている。ただ個人的なやりとりをしている私からすると、時折脳の回路がおかしくなっているのではないか、と思うことがあった。


 私はパサパサしたサンドイッチをコーヒーで胃に流し込み、ゴミを丸めてソファから立ち上がった。ここ一週間休みを取っていなかったから、兼城を事務所から追い出した後は、自宅に戻ってゆっくりするつもりでいた。


 しかし私がマグカップを洗いにキッチンへ行こうとしたところで、尻ポケットに入れていた仕事用の携帯端末デバイスが振動し、音声通話のリクエストが入っていることを伝えた。持ったマグカップを置いて画面を確認すると、見覚えのない番号である。通話に応じつつ兼城に目を遣ると、彼は心得たように短い休憩を終え、目と手だけで挨拶して出て行った。


「はい。月島探偵事務所の月島です」


 私は古い型の小さな端末を耳に押し当てながら、いつもそうしているように、まず英語でゆっくりと名乗った。シティの公用語は広東語と英語で、ビジネスの場面では英語が多く使われるが、不特定多数を相手に仕事をするならば、広東語にも習熟しておく必要がある。


 私の場合は、相手が広東語か日本語で話す、あるいは英語以外の言語で話すことを要求するならば、それに応じて言語を変えることにしていた。日本語を母語とする探偵はおそらく私がシティ唯一で、全依頼の三割が日本人からのものだった。


『はじめまして。レベッカ・リーと申します』

 私の言葉に対して、相手は訛りの少ない流暢な英語で答えた。声音からして、中年の女性だろう。


「はじめまして。何かお困りですか?」

『トラブルというわけではありませんが、力になってもらいたいことがあるんです。私の住居に来て、話を聞いて頂くことは可能でしょうか』

 聞く者に頭と育ちのよさを感じさせる、落ち着いた話し方だった。

「構いませんよ、リーさん。早ければ明日の午前からでも」


 相手は少し間を置いて、明日の午前十時を約束の時間として指定した。次いで告げられた住所を、私は事務机上の紙片に書き写す。新しい依頼人の家は、シティ北部の居住区アップタウンにあるようだ。


「では、その時間に伺います。詳しい話はその時に」

『はい。よろしくお願いします』


 私は丁寧に通話を終え、端末をポケットに戻した。休暇は惜しいが、贅沢を言える身分ではない。せめて半日ゆっくり休もうと、私は奥の部屋に鍵を掛け、事務所を出た。道中、夜はある程度ちゃんとしたものを食べようと思いついたので、いくつかの食材を買い、事務所と同じ商業地区ダウンタウン内にある自宅へと歩いて帰った。


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