一ノ幕
遠く山の彼方から蝉の声が響く。雄蝉が雌を求めるその声は、目的を同じくする同胞達にも忽ち伝播し、遂に蛙の如き大合唱を生み出した。雲一つ無い青空の下で轟くそれを前に、大川正助は大きな眉を歪ませる。やがて彼の全身に脂汗が浮かび、身体中に蓄えられた黒い剛毛が褐色の肌に張り付く。太い指に挟まれた新聞が、俄かに湿り気を帯び始めた。
「ええい、暑い。クソッタレめ、まともに新聞も読めやしない」
そして、大川は手に持った新聞を部屋の隅へと乱暴に投げつけた。そんな彼の額には、青い血筋が幾つも浮き上がっている。茹だる様な暑さに耐えながら、大川は古い畳に散らばった今日の新聞を睨みつけた。明治二十九年七月二十八日、その日の新聞も彼の娘が勤める中村製糸所の事を何一つ触れていなかった。
この春十七歳になった大川の一人娘であるセツは、凡そ一年半前から大川が暮らす桑場村の外れの山奥にある中村製糸所に勤めていた。切っ掛けは二年前の清国との戦争の折、物価の上昇による家計の負担を賄う為だった。十年前に妻を亡くし、狭い家に独りとなった大川の元には、月に一度だけセツから僅かばかりの金と手紙が送られて来ていた。その度に何時も『父上私ハ故郷ニ帰リタイデス』と泣き言を漏らしていた娘に、大川はその都度『大川ノ娘タルモノ家ト御国ノ為ニ粉骨砕身働クベシ』と厳しく接した。そんな彼がセツと最後に顔を合わせたのは、半年前の正月だ。出稼ぎに遣る前と比べて幾分痩せ細った娘の姿を前に、流石の大川も気の毒に思った。これ以上自分の家の都合ばかりに振り回さず、セツの望む見合い相手を探してやらねば。そう思った矢先、セツからの手紙が途絶えた。
二月、三月と待っても一向に来ない手紙に、大川は痺れを切らした。父親に碌に手紙も寄越さないとは、どういう了見なのだ。そう考えていた大川だったが、彼の近所に暮らし、同じく娘を中村製糸所へ出稼ぎに出した夫婦も同じ事をぼやいた。そればかりか、中村製糸所で勤めている娘達が全員、誰も連絡を寄越さなくなったと、村中で話題となった。これには大川も疑問に思い、何度か中村製糸所へ足を向けたが、決まって門前払いを受けるのだ。『貴方ノ娘ハ此ノ大日本帝国ノ為ニ進ンデ奉公サレテイマスヨ』とは、白い肌をした製糸所のお役人が大川に言った言葉だ。細い体躯を誇りながらも、頬や手の甲等に醜い瘡蓋を浮き上がらせ、時に不気味な笑みを湛えた役人の雰囲気は、つと思い出すだけで大川の肌に鳥肌を浮かび上がらせた。
大川は、苛立ち紛れに脂の乗った顔を掻いた。鳥肌に混じって、黒い無精髭が彼の手をちくちくと刺激する。痛みとくすぐったさとの両方に顔を若干歪めていると、不意に家の門扉を叩く音が聞こえてきた。刹那、大川の身体が小さく上下する。
「御免下さい。何方か、居りませんか」
声は若い男のそれだった。大川の知る限り、村の人間の者ではない。こんな昼間から、一体誰だろう。大川は怪訝に思いつつ、戸口へと向かう。途中、土間に掛けてあった鍬を両手で掴む。もし戸口の先にいる男が製糸所の役人だったら、その白く不気味な頭を思いきりかち割ってやる。心の中でそう息巻きながら、大川は玄関の引き戸の取っ手を握ると、勢いのままに大きく横へ引っ張った。ぴしゃん、と甲高い音を立てた戸が俄かに古い家屋を揺らすのも構わず、大川は戸口の先にいる人物の顔を見遣る。
戸口の先に居た長身の男は、背筋を伸ばし凛とした面持ちで佇んでいた。彼が身に纏うシルクハットやスーツ、ズボンは漆黒のみを映し、スーツの内側には白いシャツを着込んでいる。茶色の革靴は手入れが行き届いているのか、陽光を微かに反射させていた。大川が男の身形をじっと観察していると、目鼻立ちの整った男の茶色い瞳が、大川の顔を見つめ返す。それと共に、肩先まで伸びた焦げ茶色の髪を吹き付ける微風に揺らしながら、男ははきはきと告げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。僕は衆議院議員の木山敦と申します。或る事情でこの桑場村を訪ねたのですが、慣れない土地故迷ってしまって」
無垢な笑顔でそう言うと、自らを木山と名乗った男はシルクハットを頭から外し、一礼する。そんな彼の顔は、大川と対照的に汗を一滴も浮かべていなかった。目の前で頭を下げたままの木山を前に、大川は訝しげに尋ねる。
「衆議院議員、だと」
はい。直ぐに頭を上げた木山が素早く応じるのを前に、大川は疑念を拭い切れずにいた。何故なら、彼が以前新聞で目にした帝国議会に関する記事には、少なくとも二十五歳にならない限りは衆議院議員になれないと明記されていたからだ。対する木山はと言うと、どう見てもまだ二十二、三歳位と思しき様子だった。衆議院の対である貴族院でさえも、条件によって差はあれど若くて二十五歳、或いは三十歳でなければならなかった筈だ。そう確信した大川は、眉間に深い皺を刻みながら木山に詰め寄る。
「笑わせるな、小僧。お前みたいな若いのが、この大日本帝国の衆議院議員だと。下らぬ冗談を吐くには二十年早いわ。ほら、とっとと帰んな、西洋被れの書生風情が」
物凄い剣幕で徐々に顔を近づける大川に対し、木山はゆっくりと頭を振りつつ取り繕うように返す。
「そう言われましても、事実ですから。それよりも、僕は。そう、中村製糸所への道を訊きたいだけですよ」
「何、中村製糸所だと」
中村製糸所と云う言葉を聞いた大川の動きがぴたと止まる。そんな彼を前に、木山は何度も頷きながら早口で応じる。
「そうですそうです。御存知でしょうか、最近中村製糸所で不穏な動きが在りまして。僕はそれを調査する為に、東京からここ桑場村まで来たんですよ」
鍬を握り、赤紫色に変色していた大川の手が徐々に白みを取り戻していく。やがて、大川は手中の鍬を戸口の傍に立て掛けた。小さく溜息を吐き、冷静さを取り戻すと、大川はゆっくりと口を開いた。
「成る程。お前さんがそこまで言うなら、製糸所の場所を教えてやる。その代わり、お前さんが中村製糸所について知っている事を詳しく聞かせて貰おうじゃねえか。まあ、ここじゃ何だ。どれ、上がんな」
「有難う御座います。では、お邪魔します」
木山は再び大川に軽く一礼すると、大川の家の敷居をまたぎ、土間へと入った。刹那、木山の顔に熱風が吹き付け、木山の口髭と顎鬚を俄かに湿らせた。
―――――
「そうでしたか。娘さんが」
古い畳の上に腰掛けながら、木山は正座したまま大川の話に相槌を打つ。対する大川は、膝を崩しながら卓袱台の上のコップに手を掛けると、そのまま中の麦茶を全て飲み干した。最後の一口を名残惜し気に嚥下すると、大川は小さく息を吐き出し、眼前の木山の姿を改めて注視する。大川は何杯目かも分からない麦茶を飲み干した所だが、木山はと言うと最初に用意した麦茶に一切口を触れなかった。自身が客である故に遠慮しているのかもしれないが、それにしては夏の昼間の暑さに全然堪えている様子が無い。木山の小脇に置かれたシルクハットやスーツ、多少日に焼けた肌に薄手の白いシャツ。どれを取ってみても、彼自身が汗をかいていた痕跡が全くと言って良いほど無いのだ。対する大川はと言えば、額から熱い汗が幾筋も流れ出し、目に入っては見る間に視界を曇らせた。彼が纏う茶褐色の和服はしとどに濡れ、肩から背中部分の殆どが変色していた。そんな次第であるから、大川は木山が先刻から一切口を付けない麦茶を自ら奪って飲んでやろうか、と心の内で画策していた。だが、そんな大川の心中に構う事無く、木山は言葉を続ける。
「何とも言い難いですが、矢張り中村製糸所で良からぬ事が起こっているのは確かなようですね。手紙を寄越さない女工達、異様に白い肌をした製糸所の役人。こいつァ何かありますぜ、間違いなく」
「なっ、お前さんもそう思うだろ。ところがよ、新聞が一向に取り上げちゃあくれねえんだ。何度も新聞社の連中に打診に言ったが、碌に耳も貸しやしねえ」
大川は口早にそう言いながら、脇目に先程自らが部屋の隅に投げつけた今日の新聞を盗み見る。木山もまた、そんな彼に倣って紙面が所々はみ出したそれを数秒間凝視した。そして、木山が小声で呟く。
「大川さん。もしかしたらその新聞社の連中、製糸所の奴等に買収されてんじゃないですかね」
「ばっ、買収」
大川が目を見開いて大声で叫ぶ。木山は、一度だけ小さく頷くと、俄かに興奮した大川を諭すような口振りで続ける。
「つまり、こういう事です。中村製糸所は、儲けの一部を新聞社へ横流ししてるんですよ。はっきりとは判りませんが、恐らく数千円、若しくはそれ以上と言った所でしょう。民間の新聞社に情報統制を敷くのは、そう簡単な事では無いでしょうしね」
す、数千円。自身の年収よりも遥かに巨大な金額を示唆され、大川は金魚のように口をぱくぱくと動かした。開いた口が塞がらない大川を前に、木山は縁側の先に広がる緑豊かな野山へと目を泳がせる。
「先の清との戦争を経て、政府内でも船舶や鉄鋼等の重工業へ力を入れようとする声が少しずつ高まってきています。ただ、日本の殖産興業は未だ産業革命の真っ只中にあります。これから先、製糸業を含めたありとあらゆる業種が、官営、民営を問わず競争を進めて行く。それに伴って利益も大きくなる。特に驚くような話ではありませんよ」
木山の解説を前に、大川は何度か瞬きを繰り返すと、大きく溜息を吐いた。そして、木山と同じく縁側の先にある外の景色へと視線を向ける。白い日差しが照り付ける外では、相変わらず蝉の鳴く声があちらこちらで反響していた。
「何か、あれだな。俺は生来の田舎暮らしだから、国政がどうのこうのはイマイチ分かんねえ。けど、そんな訳分かんねえ事情で俺の娘に何かあったんじゃ堪ったもんじゃない」
全くです。木山が一言だけ同意の言葉を述べ、大川は少なからず心が休まった感覚になった。心の内に抱えていた何とも言えない気持ちを他者に打ち明けたのは、一体何時以来だったろう。そう思っていた矢先、木山がシルクハットとスーツを手に、ヨッコイショと声を漏らしながら立ち上がった。何十分も正座をしていたが、特に足が痺れている様子を感じさせないままに。
「さて、僕はこれから中村製糸所まで行ってきます。大川さん、この度は御協力有難う御座いました。娘さんが大川さんの元へ帰って来られるよう、善処します」
そう言って、木山は深々と頭を下げた。大川もまたゆっくり立ち上がると、小さく頭を下げる。やがて木山は頭を上げると、直ぐにスーツを纏い、シルクハットを頭に被った。そのまま土間に出て、革靴を履こうとした所で、背後から大川の声が響く。
「待てよ、お前さん。俺も行くぜ、中村製糸所まで。あの白い肌した連中にもっぺん文句を言わなきゃ、気が済まねえ」
木山は、先程の声の主が立っている部屋へと顔を向ける。部屋の上に立っていた四十代の男は、若い男に向けて黄色い歯を見せながら不敵な笑みを浮かべていた。木山は、特に表情を作る事無くシルクハットのつばを両手で抑え込み、頭部により深く被せながらも応じる。
「いけませんよ、大川さん。これから先は僕の仕事ですから」
「仕事、ねえ。そう言う割には、なかなか道に迷うようだしなあ。何、実際に案内人が居てやった方が苦労しねえだろ。ボウヤ」
「失礼な。人をボウヤ扱いしないで下さいよっ」
木山が頬を紅潮させながら、声を張り上げる。そんな彼を前に大川はぷっ、と息を吹き出した。やがて、茹だるような暑さも忘れて、大川はその場で腹を抱えながら笑い声を上げる。
「そうやってすぐムキになるのが、餓鬼の悪い癖だぜ。衆議院議員だろうが何だろうが、お前さんは俺からしてみりゃ、ちょっと頭が良いだけの西洋被れのボウヤだ。とりあえず大人の言う事はちゃんと聞いといた方がいいぜ、木山さんよ」
そんな大川の様子を目の当たりにした木山は、顔の前に手を当てるとはあ、と深い溜息を吐いた。きっと止めようとした所で、彼は強引にでも付いて来るだろう。頭の中で容易に浮かび上がる構図を前に、木山はもう一度大きな溜息を零した。