車に撥ねられたので、今日会社休ませて下さい。
これは、以前勤めていた小さな会社での実話である。
そこはパート社員などを含めても然程大きくも無い、それでも外注とでも言うべき小遣い稼ぎの人達を多く抱える、とある地方では少しばかり知られた会社だった。
彼女は高校を卒業した後、何らかの専門学校を出、幾つかの職歴を経てそこへやってきた。
面接に訪れたのは二名。明らかに彼女の方が美しい……文字で履歴書を埋めていた。
求人の部署は私と同じ経理であったため、面接をした社長は私ともう一人の社員に履歴書を見せ、意見を求めた。
「この二人、どっちがいいと思う?」
私と同僚は迷わず美しい文字の彼女を選んだ。
もう一方の候補者は明らかに我々よりも年上であり、年増の後輩を敬遠したいとの思いも確かにあったのだが、何よりも文字の汚さが仇となったのだ。
後で他の社員たちの口に登ったのは「切った女性の方が社長の好みだった」と言う噂話だったが、これは全くのデマだ。
何故ならこの二人とも中肉中背……と言うか少々ふくよかであり、社長の好みは痩せ型の美人である。
つまりどちらの人物もこの条件に該当しないので、私たちに決定権を譲ったのだろう。
入社した彼女に仕事を教えるのは私の役目だった。それなのに、どうしても彼女の本当の名前を思い出せない。
昔の事だからとも言えるが理由は多分他にある。
それは、私が一人密かに彼女を“つてちゃん”という仇名で呼んでいたせいだろう。
命名の理由はかなり凄い。でも事実である。
“つてちゃん”は歩く時、自分で自分の足音に擬音を付けるのだ。常にという訳では無い、たまにではある、が歩く際に声に出してこう言う。
「つてつてつてつて……」
何のつもりなのかはよく分からない。
ただ、多分それが可愛いと思っているように見受けられた。両の手をペンギンの様に太もものあたりまでピンと張り、手首を10時10分位に曲げてちょこちょこと歩く。そして「つてつてつて」と声に出して言う。
断っておくが彼女は幼児では無い。人前で堂々と煙草をふかしていたのだから二十歳くらいだったと思う。エライものを見てしまった。
彼女の仕事ぶりは、特に優秀と言う訳では無いが普通。あまり熱心とは言えないが使い物にならないという程でもない程度。
だが、話題の豊富さは非常に優秀だった。休憩時間などにする話が激しくドラマチックなのだ。
それはもうドラマチック過ぎるほどに。
つてちゃんの彼氏を一方的に好きだった女が数十人の友人を引き連れて彼女の家にやって来て起こした騒動。
高校の頃に女の子から貰ったラブレターの事。
以前勤めていた場所での壮絶なイジメ。
後に知った事だが、それらの臨場感溢れる、描写の見事な話は彼女の創作である。
小説でも書けばいいのに……と今なら思うが、当時の私はその話を信じて彼女の波乱万丈の人生に同情を禁じ得ない善人だった。
しかし、段々と何かがおかしい事に気付いた。
いくらなんでも次々と波乱の恋愛事情が語られ過ぎる。お世辞にも美人ではない彼女を巡って繰り広げられるドロドロとしたドラマが多すぎる。いや、容姿の問題では無いが腑に落ちないのだ。
ご都合にも程があると思われるだろうが「事実は小説より奇なり」。実はその会社に出入りする信用金庫の若い男は“つてちゃん”の専門学校時代の同級生である。彼女が入社して間もなく信用金庫青年がそう言っていた事を思い出した私は「〇〇さんて、どんな人?」と彼に訪ねた。
「よくは知らないんですけど……気を付けた方が良いです」
よく知りもしないのに気を付けろと言っているのか、詳しく語りたくないというのかは分からないが、やはりスッキリしない人物のようだ。彼の眼がそう言っている。
私の心には疑惑の芽がむくむくと膨らんでいた。
そして決定的な事が起きた。ある朝出社時間を少し過ぎた頃、彼女から会社に電話があったのだ。
「お母さんが倒れたんです。今から救急車で運ばれるので休みたいんです!」
切羽詰まった声だった。
……それは大変だ、休みたいのも普通だろう。
だが、彼女の“お母さん”のパート先は取引先であり、その日は集金日。悪い事は出来ない。
集金に行った私は当然彼女の母親の容体を聞く事になる。
「〇〇さん、お加減はいかがですか? かなりお悪いのでしょうか」
同僚の母親なのだから、知らん顔は出来ない。流石にあの声は本当なのだろうと思った。
が、先方の会社では質問の内容が全く理解出来ない様子である。
「〇〇さんは出勤していますよ」
今度はこちらが唖然とする。3秒程は固まった。成程、これは今までの話も大方嘘だろう。
この日以前にも怪しい欠勤理由は何度もあった。それでも根拠も無く疑うのはよくないので「ホントかよ」と思っても口には出さなかったのに。
「おなかが痛いから休む」とでも言っておけば疑惑どまりであったモノを、何故ずる休みの理由までドラマチックにする必要があったのか……。
彼女の話は大抵第三者が出てくる大がかりな物であり、その事細かな描写がリアリティーを生むのだが、その分語り過ぎる故にピースが一つ欠ければ途端に真実が露呈する。
そして、タイトルのセリフを後日、本当に言ったのだ。
「出勤途中、車に撥ねられたので、今日は休ませてください」
たまたま電話に出た社長は、私たちに、
「車に撥ねられたから、休むって本人から電話」と苦笑いして言った。
私も、もう大抵の欠勤理由では驚かなかったが“これは秀逸”だ。むしろ座布団を追加してあげたい。
その後も性懲りもなく、お母さんが救急車で運ばれたと電話して来た事もあったが信じる事は難しい。
まるで狼少年のようだ……が少年が狼に食われたら寝覚めが悪いので結局は「お大事に」としか言いようがない。そんな諸々が普通になった。
その後、私はその会社を辞めたので彼女がどうしたかは知らない。欠勤の穴埋めはさせられたものの、別段それ程の被害も被っていないのでネタとしては悪くない話だった。が……。
後日、昔の同僚と話す機会があり、私はその同僚にとんでもない事を聞かされた。
「桐生さん(仮)〇〇さんとキスしたんだってね」
はぁ?? 何? 何だって? 誰と誰が?
そうだった! うかつだった! 私がいないのを良い事に!
羨ましい程の妄想力で一体何を吹聴して回っている!
私にも趣味が有るのだ! そんな見境なく無いんだ!!
嗚呼……どうかお願いします、信じないでください。
彼女の話しはまことしやかではあるけれど真実ではありません……。
皆さんも、虚言症にはご注意ください。
追記
車で撥ねられた翌日、彼女が元気に出社した事は言うまでも無い。
聞けば、停車している車とぶつかったというが、その真偽もまた謎である。
<車で人を撥ねる>ぶつかってはじき飛ばす。―出典・広辞苑―