三倍返しだ!
本日は三月十四日金曜日。
天気は曇り、昼から雨が降るらしい。
当校においては四日間続く期末考査の最終日となる。
今日は三科目。トリに一番重い数Bが残っていた。
我が校だけで見ると、期末考査の最終日で違いない。
しかし、全国的に見ると今日は特別なイベントが催されている日でもある。
そう、
――ホワイトデー。
先月十四日に行われたバレンタインデーのお返しをする日として知られる。
去年までは他人事であった。だが、今年は違う。
不肖私、東恭司郎。なんとチョコをもらってしまった。
正確には投げつけられただけであり、本体も妹が食べた。
それでも、もらった事実に変わりはない。
お返しはしなければなるまい。
作戦開始だ。
教室にたどり着くとさっそく標的を確認した。
一人。始業まで一時間以上あるため、まだ他の生徒は来ていない。
先月まで委員長と呼んでいた女生徒は机にノートを広げ読みふけっている。
委員長の名前は南だった。俺と同じで方角系の名字である。
下の名前は覚えていない。使う機会もないだろう。
さっそく例のブツを渡してしまおうかと思ったが、彼女はノートとにらめっこをしている。
邪魔するのもまずい。機嫌を損なわれるわけにいかない。
現時点では、一言声をかけるにとどめておこう。
「おはよう、南。今いいか?」
今月に入り、ようやくまともな挨拶ができるようになった。
今日は挨拶の一歩先に進まなくてはいけない。
「見てわかんない? 今、忙しいの。後にしてくれる」
ゆっくりと顔を上げた彼女は、不機嫌そうに俺をにらみ返す。
どうやら俺の判断は正しかった。すかさず用件を伝える。
「わかった、後にしよう。放課後つき合ってくれ。すぐ済む」
彼女は顔を伏せ、またノートと相対する。
視線は機械のような速さで紙面を走査していく。
どうやら相当集中していると窺える。
「渡したいものがあるんだ」
声による返答はない。
首が何度か縦に振られたので、それをもって了承した。
そして、テスト終了。
撃沈だった。おそらく赤点は免れるだろう。
平均点は無理だ。ベクトルの必要性を誰か俺に教えてくれ。
「ちょっと」
意気消沈していると声をかけられた。
見上げれば顔をこわばらせた南がいた。
「私に、用事が、あるんでしょ?」
そういえばそうだった。
でも、今はほっといて欲しい。
一番勉強した数Bが一番手応えがない。
多くの場合、努力は報われない。
また一つ勉強になった。
「部室に……行こうか」
ここでは話したくない。
「数B簡単だったねー」
「尾崎、今回めっちゃやさしぃじゃん」
「平均点70いっちゃうよぉー。こまるわー。ほんとこまるわー」
――とかほざく奴らの声をこれ以上耳にいれたくなかった。
ちなみに尾崎は数Bの担当教師である。顔と声が気に入らない。
階段を下りて部室に向かう。
俺は何も喋らない。喋る元気が残っていない。
南も黙って俺に付いてくる。彼女も駄目だったのかもしれない。
そわそわと落ち着かず、手と足を一緒に出していた。ナンバ歩きだろうか。
妹の可愛がっているハムスターのほうがよっぽど落ち着きがある。
部室の扉を開け、ストーブを点火、椅子に座るまでのルーチンをこなす。
南も手近な椅子に腰掛けた。寒いのか足が震えていた。
ただの貧乏揺すりかもしれない。
「南」
空気も落ち着き、ぬくもってきたので声をかける。
「な、なによ」
声はまだ震えている。
もう少し部屋が温もってからのほうがよかっただろうか。
いや、もう話を切り出した。勢いで済ませてしまおう。
「先月のバレンタインのお返しをしたい。もらってくれ」
「し、しし、仕方ないわね! 特別にもらってあげるわ!」
俺は机においた鞄に手を伸ばす。
中から目的のブツを取り出し、南に向く。
「南。手を出してもらえるか?」
彼女は手を差しだし、ゆっくりと手のひらを上に向ける。
俺は握っていたブツをその手のひらの上にやさしくのせた。
それを見た彼女は一瞬だけ顔を喜ばせ、すぐに眉根を寄せる。
「……なにこれ?」
「見ればわかるだろ。チ○ルチョコだ」
俺がホワイトデーのお返しに選んだものはチ○ルチョコ。
非常に経済的だ。
「えっ?」
「三倍返しの法則に倣って、正しく三つだ」
そう。
しかもチ○ルチョコが三つ。計30円。
南の手のひらの中に「我こそは」と三つの立体が鎮座している。
一つでは物足りなくても、三つあれば頼もしく感じる。ふしぎっ。
「いや。うん。そうだけど、なんで……」
「南はミルクが苦手と聞いたからな。コーヒーとオレンジ、それに抹茶だ。気に入らなかったか?」
南の好みは、彼女の友人である佐藤に聞いておいた。
黒と橙、それに緑のパッケージ。
抜かりない。
「いや、味の話じゃなくて。どうしてチ○ルチョコなの?」
「嫌いか?」
おかしい。
佐藤は確かに南はチ○ルチョコが好きだと話していた。
いったい何が気に入らないのだろうか。
「そうじゃなくて! こういうのは気持ちでしょ! それがチ○ルチョコ三つっておかしいと思わないの!?」
そもそも俺がもらったのは融けたチ○ルチョコ一つだ!
それに気持ちが大切だと言うのなら、別にチ○ルチョコで問題ないだろう!
しかも三つだぞ。三つ! お前のほうがおかしいだろ!
――と思っていても言うことはしない。
手の早い南のことだ。
暴力に任せてくるとわかりきっている。
俺も日々学んでいるのだ。
だから、こう言おう!
「わからないのか、南?」
俺は呆れた顔を作り、逆に問いただす。
「な、なにがよ?」
「よく見ろ。そのチ○ルチョコの一つ一つは確かに小さく見窄らしい。だが――込められた気持ちは何よりも大きい。お前ともあろうものが気付かないと言うのか」
ハッとした様子で南は手のひらをみつめる。
「ま、まさか……。この気持ちエネルギーは!」
気持ちエネルギーってなんだ? 頭大丈夫か?
冗談で言ったんだが、彼女は本当に気持ちとやらが見えているのだろうか。
まあ、無理もない。俺の言ったことは嘘じゃないからな。
彼女に送ったチョコは昨日の昼休憩に購買で買った。
カゴに入れられ、一個10円だ。
来月からは消費税アップの影響で11円に値上げするらしい。
カゴの上にはポップが出ており、こう書かれていた。
『一粒一粒に気持ちがこもってます!』
おそらく店頭のおばちゃんが手書きしたものだろう。
買ったときににこにこ喜んでいたからな。
つまり、南の持つチョコには確かに気持ちが込められているのだ!
俺の気持ちはほぼ皆無だが……。
「ごめん、恭司郎。私が間違ってた」
己の非を認め謝ってくる。
彼女のこういう姿勢は素直に評価したい。
俺は何も言わず、「気にしないでくれ」と首を横に振る。
これで一件落着、
「お願いがあるんだけど」
――にはならなかった。
これはいけないパターンだ。
前回もこれでやられた。
警戒を最大レベルに引き上げる。
俺の中に「南をだました」という良心の呵責が躊躇いを生んだ。
判断を鈍らせてしまった。「それは聞けない」とすぐさま答えられなかった。
「――食べさせて、くれにゃぃ」
だから、彼女に続きを言わせてしまった。
語尾は弱く、尻切れ蜻蛉だったが俺は聞いてしまった。
彼女の顔は真っ赤になっている。ストーブの火力が強すぎるだろうか。
「何を?」
断る、と即答すべきだった。
ここに食べさせるものなどチョコ以外に有りはしない。
聞き返した時点でそれはオーケーという空気になってしまっている。
彼女は手のひらを俺へと差し出す。
その上にはチョコ三つ。
「自分で食べればいいじゃないか」
言えた。
なんとか絞り出せた。
これに反論できるか、南よ?
彼女は何も言わず、チョコの包装をはがす。
やはり温度が高くなっているのかチョコの表面が融けていた。
コーヒー味だ。俺は苦いから好きになれない。
そして彼女はチョコを指に挟み、
「喝っ!」
「うぇ! どぅゎ!」
突如の大声に身を竦ませた俺の口に異物が押し込まれた。
まるで見えなかった。気付いたら南の手が俺の口元に伸びていた。
彼女の指に挟まれていたチョコはすでに消え、俺の嫌いな苦味が口内に残る。
「食べさせてあげたんだから、お返しをしてくれてもいいんじゃない?」
食べさせてあげた?
笑いが出る。食べさせられた、だ。
しかも苦手なコーヒー味。抹茶味がよかった。
「しかも私のチョコを上げたのよ。わかる?」
「わからん」
「いいから一つくらい私にも食べさせなさい。減るもんじゃないからいいでしょ」
チョコは間違いなく減る。
第一、お前のチョコをお前がどうしようがお前の勝手だ。
俺がお前にチョコを食べさせる理由にはならない。
その後もあーだこーだと言い合った。
どうやら南には確固とした意志があるようで退く気はないと見える。
いったい何が彼女をここまで頑なにさせるというのか。
俺の方がアホらしくなってしまった。
そうだ。
チョコを手に持って口に入れるだけ。
意固地になるほうが馬鹿げている。
大人の態度で相手をしよう。
「わかった。わかったよ、南。ほら、チョコを出せ」
「わかればいいのよ」
自信満々に言うので、ちょっとイラッとした。
「それでどっちだ。抹茶か? オレンジか? もういっそ両方にするか?」
「りょ、両方で!」
そうかいそうかい。
俺は手近にあったオレンジ味を手に取る。
包装を剥がし、チョコをつまみ、南の口に近づける。
「おい、もっと口を開けてくれ」
南は「はわはわはわわ」と唇を痙攣させている。
これではチョコを口に入れるという、要求を達成できない。
「う、うん……」
彼女は口を大きく開き、目を閉じる。
別に目を閉じる必要性はないんだが、好きなようにやらせておこう。
瑞々しい唇の先には、赤く健康的な舌、白く整った歯が、おっとこれは……。
「南」
「なによぉ」
「右上の奥歯に虫歯が見られる。歯医者に行った方がいい」
「はよ、食べさせろや」
目がキッと見開かれ、ぎょろりと睨まれた。
ちょっと怖かった。
「じゃあ行くぞ」
「う、うん。きて……やさしくしてね」
再び目を閉じた彼女の口内を見ていると遊び心が沸いた。
喉の手前に口蓋垂、俗に言うのどちんこが見えたのだ。
彼女の口元で片手を広げ、その上にチョコを置く。
そして、片方の指をチョコの手前で丸めた。
デコピンの要領でチョコを弾き、口蓋垂に当てようという試みだ。
「あーん」と言いつつ狙いをつける。
準備よし。いくぞ。
「ま、まだ、クァ」
「あっ」
南が待ちきれず顔を動かした。
同時にチョコは弾かれ、彼女の前歯に直撃。
カキンと小気味よい音を立て、チョコは床に落ちた。
彼女も変な声をあげたが、聞かなかったことにしておこう。
「ちょっと何してんの?!」
「すまん、緊張して歯に当たってしまった」
言いつつ、落ちたチョコを拾い、そのまま彼女の口に入れる。
三秒以内だからセーフだろう。
「ん、甘ひ……でも、なんかじゃりってするような」
「床に落ちたときに埃が付いたかもしれん」
ブワァッと南は口からチョコを噴き出した。
弾丸状となったチョコに回転が加わり、俺の制服に突き刺さる。
殺られたかと思った。それほどの回転と速さを持っていた。
角度がもう少しきつかったら本当に刺さっていただろう。
もしかしたらベクトルはこういうときに使うのかもしれないな。
「おぉい、キョウシロォ。どういうことだぁ?」
返答は極めて注意深く行わなければならない。
誤れば死ぬ。
「俺も緊張してな。汗で指を滑らせたんだ。南に喜んでもらいたい一心だったんだよ」
「そ、そうなの?」
「もちろんだよ」
ちょろいな。これで納得するとは。
落としたチョコを口に入れた理由にはまるでなってないというのに……。
「気を取り直してもう一つの方にいこう」
「う、うん」
抹茶味の包装を取り、指で挟む。
今度こそ口蓋垂に当てようと思ったが、南のトロンとした目が開かれている。
諦めて、そのまま口に入れることにした。
「指を噛むなよ」
「噛まないわよっ!」
そうだろうか。
事あるごとに噛みつかれているから信用ならん。
ゆっくりチョコを口元に近づけていく。
彼女の吐く息が指をくすぐる。
「ん……」
俺の指にあったチョコは、彼女の歯に奪い取られた。
そのまま口内に入り、舌に運ばれていく。
「うまいか?」
「うん……甘くて、ちょっぴり苦くて、恭司郎のあ、じ、フ、フヴァア!」
溶け出しそうな彼女の顔は、急に歪み始めた。
「お、おい南――」
「な、なひこえ。あ、うぇ、ふぃ……ファ!」
おそるおそる声をかけてみると、彼女は口からチョコを吐き出した。
おかしい。チョコに細工はしていない。異物が混入していたか。
それとも購買のおばちゃんの気持ちが大きすぎたのか。
「こへまっひゃじゃなひ!」
「え、何だって?」
「これ、抹茶じゃない!」
彼女は吠えた。
何を言ってるんだか。
頭の次は舌までイカレちまったか。
俺は机の上に置いておいたパッケージを手に取る。
“わさび”
大きくこう書かれていた。
なんということだ。これは傑作。
俺は笑って南に外装を見せつける。
「わさび味らしいぞ」
南もつられて笑い出す。
「アハハハハハ、わさび味って」
「俺も初めて見た、フハハハハ」
部室に二人の笑い声がこだまする。
「歯ぁ食いしばりな。キョーシロゥ君よぉ」
突如、真顔に戻った南。
気付けば横目に影が映り、俺の足は重力から解放された。
受け身を取ることもなく俺は床に仰向けとなる。
先月と何も変わらぬ天井が俺を見下ろす。
窓の外を見れば雨が降り始めている。
傘を持ってきて正解だった。
南はさっさと部室を出て行った。
テストでどっと疲れた。
俺も帰ろう。
下駄箱で靴を履き替え、玄関を潜る。
見覚えのある後ろ姿が見えた。雨雲を見上げている。
どうやら彼女は傘を持ってきておらず、立ち往生しているようだ。
君子危うきに近寄らず。彼女から距離を取り、傘を広げる。
外への一歩を踏み出せば、雨が傘を打ち付ける。
雨と傘が奏でる音は嫌いじゃない。
「ちょっと」
不協和音がした。
振り向いちゃだめだ。
先に進むと決めたんだ。
もう――俺は振り返らない!
「止まれ」
ドスの聞いた声だった。
背中に尖った物を押し付けられている。そんな錯覚。
「こっちを向け」
ゆっくり振り向くと、声とは裏腹に笑顔が眩しい南がいた。
「南じゃないか。どうしたんだ」
俺はここでようやく気付いた体で声をかける。
「傘を忘れたの」
「雨はいつか止むさ」
「早く帰りたいの」
「誰だって家は恋しいものだ」
「誰かが余計なことに付き合わせなければ、雨が降る前に帰れたのに」
「そんなことだってある。人生だもの」
「けっきょくチョコも食べそびれたたし……」
「自業自得という言葉を君に贈ろう」
「傘を渡しなさい。さもなくば――」
彼女は拳を見せつける。
「前にも言ったはずだ。テロには屈しない、と」
「ほう」
「傘はやらん。だが、半分貸すのはかまわんぞ」
「へっ?」
彼女は間抜け声を出す。
「聞くところによると、南の家は駅への道沿いだったな」
「う、うん」
「俺は電車だからな。途中だというのなら送ろう」
「え、えっ、で、でもそれって相合い傘じゃ」
馬鹿なことを……。
「小学生じゃないんだ。そんなことで冷やかす人間なんていないだろ」
「いや、だって、そんな、それでも」
くどいな。
さっさと決めろ。時間の無駄だ。
しゃあない、こちらから発破をかけてやろう。
「なんだ南、臆したか?」
「い、いいの? 周りに誤解されるかも」
「問題ない。俺と南だぞ。誤解されるわけがない」
「そ、そうね。そうよね。ふふっ」
彼女は気持ち悪い息を吐いた。
ようやく決心したようで傘に入ってくる。
「もうちょっとこっちに傘よこしなさい」
「馬鹿を言うな。もっと寄れば良いだろう」
「は、恥ずかしいの。あんたがこっちに来ればいいじゃない」
「じゃあ、そうしよう」
「えっ、ひゃ!」
けっきょく雨の音は良く聞こえなくなってしまった。
でも、こんな喧騒も悪くない。
そんな日だった。