ななっ!
たっぷりと数秒の間が空いた後に、魔王がようやく呆けた返答をした。そりゃそうだろうと言いたくなるほどあっけなく馬鹿らしい理由に、魔王は呆気に取られてしまう。と、同時に懐かしくも思える"おねしょ"という単語が、ゆうちゃに結び付けられた瞬間、大きな落胆を隠しきれなかった。
手に持っていた書類をバサバサッと音を立てながら足元に落とし、体がカクンッと大きく横倒しになりかける。何とか体勢を立て直したものの、予想外過ぎる出来事に、魔王は悶絶しかけた。
「ゆうちゃが……おねしょ……?」
「はい」
「……ベッドの中から出てこないというのは……?」
「よほどショックだったらしく、大泣きして布団の中に引きこもっておいでです」
「……なんでそれを早く言わなかった?」
「魔王様のお手を煩わすのはいかがかと思いまして」
「……現状も変わらないのかい?」
「そうですね。布団から引きずり出そうとしたメイドが、勇者様に触れてしまい、すでに五匹ほど消滅しました」
「……だから……それを早く言えっ!!」
おねしょ一つにどんだけの魔族が犠牲になってんだよ。ある意味復活を遂げた魔王は、即座に立ち上がると、はずしていたマントも身につけないまま慌てて執務室を飛び出した。
実は、これが結構な一大事で事件になりうる事なのだ。
魔界に存在する魔族の数は常に一定でなければならない。
魔界の大地は魔王の力が張り巡らされているが故に、魔界そのものが魔王と言っても過言ではない。
どこかで魔族が還ると、どこかで魔族が生まれてくるという均衡が保たれている。ソレを定めているのが魔王という存在だ。魔族が消滅するということは文字通りで、代わりの魔族がどこかで生まれることがない。消滅というものは滅多にと言うより"ありえない"ことではあったが、唯一ソレを成し遂げる存在が"勇者"であることをすっかり失念していた。
まぁ、要約するとつまり、魔族の数が減るのだ。
魔族の数を一定に保つのは魔王の役目であり、魔王でなければ出来ない所業。例え少数であったとしても、魔界から魔族が消滅して数を減らされるのは均衡が傾く原因になりかねない。
第一、ゆうちゃのおねしょが原因で魔族の数が減りました、などと魔界の住人に報告できるわけもなく。
だからこそ魔王の慌て振りは当然なのだが、メイドは相変わらず冷静に――否、腹を抱えてクスクスと笑いながらその様子を見送ったのだが。
今一度確認しよう。
メイドはドSである。
自分が愉快な思いをするためならば、魔界の均衡などどうでもいいらしい。
まさにドS。
目の前で自分の部下が消えたという事実を、冷静な態度で魔王に報告したのは、そういった理由しか考えられないのだ。
あんな風に慌てた様子の魔王を見るためだけに、このような状況の報告を先延ばしにしていたとなれば、これはもうドSの領域を超えて非道だ。ひとしきり笑ったメイドは、ようやく冷静さを取り戻しながら、ゆっくりと魔王の後を追うように執務室を後にした。
◇◆◇
「……アレかい?」
少しだけ額に汗を浮かべて肩で息をしながら尋ねてきた魔王に対し、そこに留まっていたメイドは戸惑った表情を失わないままコクリと深く頷いた。同じ城内とは言え、執務室よりかなり離れた場所に与えたゆうちゃの寝室まで、魔王が全力疾走したとなれば、当然城内にいた魔族達は驚きを隠せない。
どんな状況に陥ってもいつも冷静沈着な魔王が、城内を全力で駆け、額に汗を流してたどり着いた先がゆうちゃの寝室となれば、騒然として当たり前だろう。
けれど魔王はそんな魔族達の驚きには目もくれずに、ようやくたどり着いた先で、思ったよりも酷い状況になっている寝室内に唖然としていた。
「びえぇぇぇっ!!!」
けたたましい声で泣きわめく丸みをおびた布団がそこにはあった。大きなベッドの片隅で丸くなっているソレから視線をそらさぬまま、今一度傍に控えていたメイドに尋ねる。
「……あの布団が膨らんでいるのがアレか?」
「……あの、はい……」
しどろもどろになりながらメイドが答えると、魔王はふぅと大きなため息を漏らした。ベッドの周囲を取り巻く魔族達が魔王が歩み寄ると道をあけていく。
ベッド際まで歩み寄ったはいいが、魔王もゆうちゃに触れることは許されない。しかし今は布団の中に隠れてその姿が見えないため、もしやと思いつつ静かに手を伸ばす。
「魔王様! いけません!」
魔王の唐突な行動を静止しようと周囲の魔族が声を荒げるも、魔王の掌は丸みを帯びた布団に触れた。
「ゆうちゃ。出ておいで」
軽くゆすって見せれば、中から一際大きな咽び声が響き渡った。
「びえーっ!! 来ちゃらめなのっ!! ゆうちゃわるいコなのーっ! びええぇぇぇっ!」
一切触れることが許されないと思っていた魔族達は、主である魔王が布団に触れても平気そうにしていることに気が付きホッと胸をなでおろす。
そういう事かと納得したのは半数で、いまだに手を触れたままでいる魔王を咎めようとしたのは残りの半数だ。
ここで連中は知ってしまったのだ。
直接肌に触れなければ消滅することはないという事を、魔王は証明してしまった。それはある意味ありがたいことではあるが、自分達が仕える主自ら危険を冒しているのはいただけない。
周囲の小さな静止に耳を傾けずに、魔王は布団から伝わる温もりを静かに心のうちでかみしめた。
「ゆうちゃ、泣いていてはダメだよ。メイドが困っているだろう?」
「ゆうちゃわるいこなのーっ! うえぇぇっ!」
いっこうに泣きやむことを知らないゆうちゃが、またいつ暴れ出すかなどわからない。実際に五匹が不要に触れてしまったために消滅してしまったのを、ここに居る連中は目前にしてしまっている。
魔王が傷を負う事になれば誰も素直に魔王の命など聞かず、ゆうちゃのその小さな体を剣で貫いてしまうだろう。ピリピリとした空気の中、布団の中にこもりきりのゆうちゃが知る由もなく、びーびーと煩く泣きわめいている様子に、魔王すら困り果て始めた。
「ゆうちゃ。幼少の頃なら僕だっておねしょをしたよ?」
「ふえぇぇっ……ふぇ?」
唐突な魔王のカミングアウトに周囲は驚いた。布団の中にいたゆうちゃも同じだったらしくもぞりと布団が動いたかと思えば、魔王も自然と体を後ろに引いて見守る。越えてはならない一線を魔王自身もしっかりと理解しているらしいことに、周囲は安堵した。
もぞもぞと動いた布団の塊は、その端を見つけるとぐちゃぐちゃになった泣き顔をぴょこりと覗かせた。目の前に居る魔王の姿を認めると、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら顔だけを出して見上げる。
「……ほんと?」
「ホントだよ? そこにいるメイド長に聞いてみるといい。僕の幼少時代をよく知っているからね」
恥ずかしがりもせずに少しだけ肩をすくめた魔王がそう告げながら、入り口近くに立っていたメイド長を見つめると、ゆうちゃもその視線をたどって同じ魔族の雌に行きつく。
「……ほんと? まおーもおねしょしていたの?」
にわかに信じがたいと言った表情でコテンッと首をかしげて尋ねてくるゆうちゃにたいし、メイド長は凛とした態度で微笑んだ。