さんっ!
「れも……ゆうちゃ、まおーたおすの……。キョーカイのひとにメッされるの……」
「うん、そうだね。でもゆうちゃ。それは、ゆうちゃが大きくなってからでもいいんじゃないかな?」
「おーきく?」
「そう。ゆうちゃが僕くらいに大きくなっても、ゆうちゃはゆうちゃだろ? ゆうちゃが大きくなったら、僕も相手ができる。協会の人間に怒られてしまうなら、ゆうちゃは僕を倒すまでここに居たらいいんだよ。そしたら、協会の人間にも怒られず、ゆうちゃはゆうちゃのままだよ?」
最後に「ねっ?」と呟きながら少しだけ首を傾けて見せると、ゆうちゃは納得したような表情を浮かべたがすぐに表情を曇らせる。
「ゆうちゃはおーきくなってもゆうちゃ? つよいまま?」
どうやら自分が弱くなることを危惧したらしい。今のゆうちゃにどれだけの力量があるかは分からないが、自分を強いと思っているあたりいかにも世間知らずの子供らしい。嫌味ではなく愛らしいといった意味でだ。そんな心配をしているゆうちゃに対し、魔王はククッとノドの奥で笑いながら解決策を提示した。
「ではここで全てを学ぶといい。勉学も剣術も、好きなだけ僕が教えてあげよう。僕が相手を出来ない時は、他の魔族に習うといい」
「ほんと?」
「うん、本当だよ。だから、しばらくここにいて? 僕とおしゃべりしたり、遊んだりしょう」
「でも、ゆうちゃ、まおーたおしていいの? ゆうちゃ、まおーたおすの」
「もちろん。でもね、僕もゆうちゃに簡単に倒されるわけにはいかないんだ。だからその時は、僕も全力で相手をしよう」
魔王の言葉に、ゆうちゃの瞳が大きく揺れ動いた。全てが確信に変わる瞬間――ようやくこの幼子を説得することに成功したらしい。
まだだ――まだダメだ。
今この湧き上がる喜びを表情に出してしまえば、確実にゆうちゃは警戒心を強めるだろう。先ほどよりも増して警戒心を強め、魔王の言葉に耳すら傾けなくなる。自分でも信じられない行動を起こした魔王は、自嘲したい気分だったのだ。純粋に目の前にいるゆうちゃという存在に興味が沸いたのだ。
今この玩具を壊してしまうのは惜しい。
ふと、魔王の瞳がゆうちゃの手に握られている聖剣を映した。それとほぼ同時に、ゆうちゃの手からスルリと聖剣が離れ、絨毯の上にガシャンッと重い音を立てて落ちる。
ゆうちゃが完全に戦意を喪失した瞬間だった。泣いたことで紅潮しているぷくぷくの頬と、まだ潤みを残している瞳を魔王に向けゆうちゃは静かに口を開く。
「……ゆうちゃ、ここにいていい?」
ようやく自分を受け入れてくれたことに、今度こそ喜びを隠し切れなかった魔王は、満面の笑みを浮かべて「もちろん」と頷いた。
「……あの、ゆうちゃ……ごめんなしゃいするの……」
「僕にかい?」
もじもじとしながらゆうちゃが発した意外な言葉に、今度は魔王が目を見開く。謝るべきは自分の方なのに、まさか先を越されてしまうとは思わなかったのだ。
「ゆうちゃ、まおーにひどいことしたの……まおー、ごめんなしゃい……」
ふにゃりとゆうちゃの顔が歪み、再び泣きそうになるのを堪えているのを見て、魔王はまた微笑ましいものを見たと感銘を受ける。ひどいことをされた覚えはないのだが、ゆうちゃが反省したがっているのをわざわざ否定するのもおかしいだろう。
「うん、いいよ。だって僕達は友達だろう?」
「ともらち……」
不思議そうに魔王を見上げるゆうちゃの反応に、違和感を得たのは言うまでもない。幼い頃、人間界と魔界の違いについて学ばされたことがある。それと同時に人間と魔族の違いもしっかりと勉強し、それなりに自分は知識をつけてきたと魔王は思っていた。
人間というのは"友達"というものを大切にするという。魔族の間では"友達"という言葉は使用される試しがない。それは"友達"という文化が魔族の中に存在しないからだ。魔王は人間が"友達"という単語を好むと思い、ゆうちゃにそう提案した。言うなれば"同盟"のようなものだろうと考えていたのだが、ゆうちゃの反応を見る限りあまりいい関係を築く言葉ではなかったのだろうか。けれど、ようやくゆうちゃの表情が輝き出し、嬉しそうに魔王を見つめるくりくりとした瞳に魔王は少しだけ驚いた。
「ともらちっ! ゆうちゃとまおーともらちっ! ゆうちゃ、はじめてともらち!」
興奮冷めやらぬ様子で、「ともらち」と連呼し続けているのを見ると、どうやらお気に召したらしい。なるほど――この子は友達という存在を今まで知らなかったのか。単語の意味は分かっている様子で安心した。この幼いながらもよく話す年頃のゆうちゃに一人も友達が居なかったという状況を、このときの魔王は疑いもしなかった。
文化の違いと友達という認識の違い――そこですれ違いが生じていることに気が付くことが出来たなら。
「そうだ、僕達は友達になった。だから喧嘩しても仲直りしなければいけないんだよ」
「なかなおり?」
「そう、仲直り。ゆうちゃは仲直りしたくない?」
穏やかなまま魔王が尋ねると、ゆうちゃはぎゅっと自分の手を握り締めながら必死に訴えてきた。
「しるっ! なかなおりしる!」
「あははっ、じゃあ仲直りだね」
つたないゆうちゃの言葉を聞いて、魔王は思わず笑い声をあげながらその訴えを受理した。マントの隙間をぬって手を差し出すと、ゆうちゃはその大きな手をジッと見つめる。
「ゆうちゃ。握手をしよう。僕達の友情の印と仲直りの記念に」
ようやく差し出された手の理由を理解したゆうちゃは、もみじに似た小さな手を差し出してニッコリと微笑みながら魔王に差し出す。魔王は自分の鋭く尖った爪で、ゆうちゃの柔らかな肌を傷つけないよう、慎重にその手を握り締めたのだが。
「――っ!」
握り締めた瞬間、魔王は掌に走った激痛に思わず握手した手を振りほどいた。勢いはなかったものの、ゆうちゃと魔王の手が握手をしてから、わずか数秒も経たぬうちに離れてしまったことは、ゆうちゃを驚かすのに充分な材料となっただろう。マントの中に手を引っ込め、激痛を耐えるよう顔をゆがめた魔王に対し、ゆうちゃは首をかしげながら心配そうに見つめた。
「……まおー?」
魔王に何が起こったのかまでは理解していないらしい。それなら気付かせないほうが良いだろうと、魔王は歪めた表情を無理矢理笑顔に変えて、ゆうちゃを見つめる。
「っなんでもないよ、ゆうちゃ。さあ、早くしないとせっかく用意してもらったお茶が、冷めてしまうよ? お菓子もちゃんと残っている。一緒に食そう」
「うんっ! ゆうちゃ、おかしたべゆっ!」
魔王の言葉を鵜呑みにし、ゆうちゃは他のメイドに誘導されながら、部屋の隅に用意されていたスペースへと駆けて行く。それを見届けながら立ち上がった魔王に対し、隣でお菓子の入った器を持ったまま待機していたメイドが声をかけてきた。
「いかがなさいましたか、魔王様?」
その気遣いを聞いた魔王は、フッと自嘲するように微笑むと、再びマントから己の手を出して、先ほどゆうちゃと握手をした掌に視線を落とす。近づいてきたメイドがその掌を覗き込むように見つめると、ようやく状況を掴んでハッと息を呑んだのが分かった。
「……どんなに幼くても、勇者は勇者なんだね」
呟くように口からこぼれた言葉に、メイドは別に待機していたメイドに治療薬を持ってくるよう指示する。お茶のスペースで待っているゆうちゃには聞こえぬよう気遣ってくれたのは、魔王もありがたかった。
幼いからといって油断してしまった自分が悪い――と、魔王は自嘲した。
見つめる己の掌には、ゆうちゃが触れた場所だけ皮膚がただれ、火傷を負った跡のようになっている。
決して触れられぬ、自分とは対となる存在。
これで充分だ。
この子は正真正銘、勇者ということになる。
それでもしばらくは退屈な思いをせずに済みそうだと、魔王は近い未来を期待した。