にっ!
普通の人間なら魔王の存在を見た瞬間、震え上がって立ちすくむ。その体から無意識に放たれる禍々しい邪気を浴びて意識を手放すのだ。魔族でさえ人間と同じような反応を示すモノもいるのに、目の前に居る幼児は惚れ惚れとした様子で見つめるだけで、気を失うような前兆は見られない。
――ふむ、勇者と名乗っているだけのことはある。
と、魔王は静かに笑みを浮かべながら思った。ゆうちゃもまた勇者らしい姿をしているのだが、さすがにこの幼い容姿には似合わないと思う。目の前に現れた当初から勇者という勇敢な立場とは結び付けられない幼さだったが、そこはあえてスルーしよう。
人間で言えば齢三歳から五歳の間と言ったところだろう。舌足らずな言葉遣いからそれくらいだと認識する。燃え上がるような赤毛はショートボブでところどころに寝癖のようなものがぴょこぴょこと跳ねているのも愛らしい。くりくりとした瞳は大地に広がるあざやかな森のを彷彿させる緑。
ぶかぶかな甲冑を身につけ重たそうに聖剣を引きずる姿に、戦意など沸き起こるはずもない。きっと年頃の勇者ならば似合うのだろうが、ゆうちゃが持ち合わせているものは全て大きなサイズで合わない様子だ。せめて体に合わせて作ってもらえばよかったのに――勇者なのだから、それくらいのワガママは言えると思うのだが。
しかし、そうでないあたりが目の前にいるゆうちゃらしいと魔王は笑った。
「新しいお菓子手に入ったんだけど、一緒に食べるかい?」
何はともあれ、目の前にいるゆうちゃをお茶に誘わなければ始まらない。そう思った魔王が少しずつ歩み寄りながら尋ねると、ゆうちゃはちょっとだけ構えた後にお菓子という単語に釣られたようにピクンッと体を反応して見せた。
「むっ、むむっ! おかちでゆうちゃをちゅろうとはっ!」
「ああ。いらないのなら、僕が食べてしまおう。無理に誘う必要などないからね?」
「あうっ! た、たべないっていってないもんっ!」
「では食べるか?」
「うぅ……でも、ゆうちゃ……まおーたおさなきゃいけにゃい……」
「そうだったね。僕を倒しに来たんだよね?」
もう少し――そう思いながら、魔王はようやくたどり着いたゆうちゃの前で座り込み視線を合わせようとするが、やはりゆうちゃの方が小柄で見上げる形となってしまう。
間近で見るとますます小さい。そして何より愛らしい。クリクリとした大きな緑色の瞳を向けて、ぷにぷにとした赤い頬は指先で突っつきたくなる。ぷよぷよの手に握り締められている聖剣は似合わず、ほわんっと揺れる赤色の髪。
――撫で回したい。
そう思わずにはいられないほど愛らしいゆうちゃを見つめ、魔王は自分の頬を赤く染めた。
「ゆうちゃ……まおーたおしにきたのっ!」
「うん。でも僕は、君とやりあう気はないなぁ。というか、そんな気にならないよ」
「むきゅーっ! ゆうちゃつよいコらもん!」
「はいはい」
――あーもう、可愛いっ。
思わず魔王がゆうちゃの目の前でほのぼのと微笑むと、ゆうちゃは納得いかない様子で愛らしい頬をぷくっと膨らませた。
「なっ、なれなれちくちないでくだしゃいっ!」
「あははっ、ごめんごめん」
どうしても警戒心を弱めないゆうちゃに、魔王は軽く謝ってみせる。まるで子猫のように「うー」っと唸り続けるゆうちゃの態度に悩んでいると、救いの声が聞こえてきた。
「魔王様。お茶のご用意が出来ました」
「ゆうちゃ、お茶用意できたって」
「むきゅー! どーせドクいりで――」
「そんなむごい事しないよ」
これが他の誰かならそういう殺し方もいいかもしれないなと魔王は思った。というより、メイド達にお茶の準備などさせる手間など掛けさせぬまま、その場で即座に斬り捨てるだろう。
魔王を名乗っている分、様々なことをやってきた。それでこそ言葉に表せないほど残酷なことを幾度と重ねてきたのだが、なぜかゆうちゃにはする気など起きない。ゆうちゃぐらいの魔族の子供に、酷い扱いをしたこともあるはずなのに……と、魔王は過去の自分を振り返った。
「そ、そんなこといって、ゆだんさせようと――」
「あっそ。じゃあ僕だけで食べよう。あのお菓子。魔界では特許出願中でなかなか手に入らないんだよね」
「むにゃー! まままっ、まつですっ! ゆうちゃ、たべないっていってないもん!」
「じゃあ食べるの?」
「うぅ……た、たべたいけど……ゆうちゃ、まおーにおかしもらったら、キョーカイのひとにおこられる……」
「あと三十秒。もちろん魔界の暦で」
「にゃっ!? まま、まってまって! ゆうちゃ、キョーカイのひとにイイっていってもらってっ!」
「あと十秒」
「むきょー!」
こういうときは押しが肝心らしい。
先ほどまで見せていた警戒心はどこへやら。ゆうちゃの頭の中はお菓子で一杯になっているらしく、あわあわと一人で慌てながら、自分だけでは判断できない状況に涙を浮かべ始める。こんな幼い子が勇者として魔王の前に立つのは、あまりにも異例だ。
異例というより前代未聞――長生きしてきた魔王も、生まれて初めての経験だ。実際、長い年月を魔王として過ごしてきた本人にとって、これが何度目の勇者の登場になるだろうと思い返すだけでも面倒な作業だが、自分の目の前に勇者として現れた人間はこれが初めてではないのだ。
だからこそ、こんな幼い勇者に興味が沸いたわけだが。
「ゆうちゃ、早く決めないと本当に僕が食べてしまうよ?」
魔王はそう言いながら立ち上がると、お茶を用意してくれたメイドを指先で呼び寄せた。メイドはそれに応えるようにお菓子が入った器を持ったまま歩み寄る。少しだけ距離を置いて立ち止まったメイドが持つ器から魔王が一つだけお菓子を摘むと、ゆうちゃの前にちらつかせた。
「ほら、美味しいお菓子だよ」
イタズラ心が芽生えた魔王が、お菓子を摘んだ手をゆっくりと左右に動かしてみる。するとゆうちゃはポカーンと口を開けたまま、そのお菓子の動きを視線で追っていた。
……実に分かりやすい。
こういう子に限って誘拐されやすいのではないかと魔王はまた余計な心配をしてしまう。知らない相手にお菓子を貰っても付いて行ってはいけないというのは、この子に通用するだろうか? この様子だとお菓子をあげると言われる前に自分から要求しそうだ。
「食べるかい?」
再度、魔王が少しだけ首を傾げてそういうと、ゆうちゃはハッとしながら、ヨダレが垂れそうな口元を袖で拭ってみせる。
が、視線はお菓子。ゆうちゃの中で大きな葛藤があるらしい。
理性か本能か。がんばれゆうちゃ。
「ゆ、ゆうちゃ……ま、まおーたおしゅのっ!」
理性勝利。
「あっそ、じゃあ僕食べちゃうね」
ゆうちゃの決断を聞いた魔王は、指で摘んでいたお菓子をヒョイっと自分の口に投げ入れた。同時にゆうちゃの絶望的な表情が視界に入り、思わず口に入れたお菓子を噴出しそうになるのを堪える。魔王がモグモグと口を動かせば、ゆうちゃの顔が次第に歪み始め、その大きな瞳の目じりに涙が浮かびだす。
「うっ……うぅっ……」
必死に下唇をかみ締めて涙がこぼれるのを我慢しているようだが、その様子さえ愛らしくて仕方がない。涙がこぼれそうでこぼれない――このギリギリのラインを、魔王は思わず楽しんだ。
「ゆうちゃ、泣いちゃう?」
「っ……ゆ、ゆうちゃ……つよいコらもっ……にゃかにゃ……にゃかにゃいも……っ」
「……じゃあ、もう一つお菓子食べちゃおうかな?」
「ぴきょっ!?」
「こういう美味しいお菓子って、やっぱり独り占めしたいよねぇ」
「ふぇっ……」
「手に入れるの大変だったから、しばらく僕も食べられないだろうし」
「うぇっ……」
「ま、ゆうちゃが一緒に食べてくれないなら、僕だけで食べてしまおう」
「っ……びえぇぇえぇえぇぇっ!」
あ、泣いちゃった。
「びえぇえぇっ! ゆうちゃのっ! ゆうちゃのおかしたべたぁっ!」
突然、爆発したように泣き始めたゆうちゃに魔王はさすがにやり過ぎたかと反省する。ずっと今までのやり取りを見ていた家臣達は、ゆうちゃが泣き出すか出さないか、ハラハラと見守っていたのを魔王は知らないだろう。
お前らちゃんと魔族として使命を果たせ。
誰もツッコミの入れない状況なのはゆうちゃを弄ぶ筆頭が魔王だからに他ならないのだが。
「ゆうちゃのおかしらもん! ゆうちゃもたべゆもんっ! うえぇぇっ!」
「最初からそういえばよかったのに……」
泣き顔もまた愛らしいと思いながら、魔王が再びゆうちゃのまえに膝をついて座り込むと、自分の責務を全うしようとした幼くも勇敢な子は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、必死に袖で拭いながら泣き止もうとしていた。
「ゆう、ゆうちゃっ……くっ……ゆうちゃのおかし……ひくっ……」
「ゆうちゃ。聖剣なんて離してしまいなさい。ゆうちゃの可愛い手に聖剣なんて似合わないよ?」
「うぇっ……れも……ゆうちゃっ、まおーたおさなきゃいけなっ……ひぅっ……」
「そうだね。ゆうちゃはそういう立場だね」
「ゆ、ゆうちゃ……うぐっ……ゆうちゃ、まおーとなかよくしちゃ……らめなんらもっ……ひくっ……」
必死に泣き止もうとしているも、ゆうちゃの中ではまだ葛藤が続いているらしい。こんな幼い子が自分の使命を全うしようと必死なのに、ふざけてしまったことに反省する。ゆうちゃが目の前に現れた瞬間こそ、何をふざけた真似を――とすら思ったのだが、これはしっかりと向き合い応えてあげるべきなのではと思い始めた。
「でもね、ゆうちゃ。僕はゆうちゃと仲良くしたいなぁって思っているんだよ?」
思わず呟いた言葉だったけれど決して嘘ではない。ゆうちゃも魔王の言葉に驚いたのか、すでにびしょ濡れになった袖で目を擦りながら顔を上げた。
「……ふぇ?」
「僕はね、ゆうちゃと戦いたいと思わないし、傷つけたいとも思っていないんだ。僕が、そう思っていることは分かってくれるかい?」
誰にも聞かせたことのない穏やかな声で、言い聞かせるように紡ぎ出した魔王の言葉に、ゆうちゃはまっすぐに魔王の瞳を見つめたままコクリと頷いてくれる。
素直な子だ。
魔王は柔らかく微笑みながら続けて言った。
「だからね、ゆうちゃ。僕と友達になろう」
「……ともらち?」
「そう、友達」
突然、湧いたように出てきた提案に、ゆうちゃのくりくりとした愛らしい瞳が一段と大きくなったのだった。




