じゅうっ!
「どっち? どっちがだいじらの?」
じぃっと自分を見据えてくるゆうちゃに、魔王はぐぐっと息を呑んだ。
「……ど、どっちも、大事、かなぁ?」
額に冷や汗を浮かべながらようやく絞り出した答えに、ゆうちゃは一気に機嫌が悪くなった。
「よくばりさんっ!」
「えぇっ!?」
これほどまでに間抜けな声を上げた魔王はなかっただろう。眉尻をこれでもかと言うくらい下げて困惑している魔王に対し、ゆうちゃは大理石でできた黒いテーブルをぺしぺしと叩く。
「どっちかえらばなきゃだめなのっ!」
「ど、どっちかって……」
「いっこだけだいじ! じゃなきゃ、メッ!」
「……ど、どっちかって言われてもな……」
ぷんぷんとその怒りをあらわにするゆうちゃに困惑しきりの魔王を見つめ、また例のガーゴイル達がヒソヒソと会話した。
「……こんなに悩んでる魔王様初めて見たぞ」
「普段ならココで苛立って、相手斬っちゃうのにな」
「敵だと思って、余計なことをしたら食ってやろうかと思ったが……」
「……案外、面白いな」
くそっ、誰でもいいから助けろ!
後ろに控えているメイド長は我慢ならないと言ったように完璧にこちらに背を向けて悶絶している。
ようやく運ばれてきた食事にゆうちゃの機嫌が少しだけよくなったように思えたものの、いまだにぷんっとそっぽを向いてしまう始末。
メイド長はようやく笑いがおさまったのか、振り返って静かな口調でゆうちゃに告げた。
「……っくくっ……ゆ、勇者様」
「らに?」
むすぅっとしたままのゆうちゃが不貞腐れた様子でちろりとメイド長を見ると、メイド長は一つ咳払いをして改める。
「魔王様がお困りになっているのはわかりませんか?」
窘めるように告げられた言葉に対し、ゆうちゃはハッとした表情を浮かべ、ようやく前を向き直ったものの納得がいかない様子で視線を漂わせている。
「……まおー、こまってる……わかる」
理解はできているけれども納得が出来ないと言った様子のゆうちゃに、メイド長は続けた。
「魔王様にとって、勇者様も執務も両方大切なのです。勇者様にもそれはお分かりのはず。なぜそんなに一つにこだわるのですか?」
そうだ、そもそもなぜ一つにこだわるのか。
最初からソレを問えばよかったのだが、メイド長の笑いのツボからなかなか抜け出せなかったためにそこへ至らなかった。確かに、とメイド長の言葉に納得した魔王が、目の前に並べられた食事にチラリと視線を落としながらもすぐにゆうちゃを見つめなおせば、ゆうちゃはモジモジとした様子でそれを口にした。
「……だって、いっこだけだいじにしなきゃ……りょうほうともなくすんだもん……」
唐突に突き付けられたゆうちゃの常識に魔王は驚いた。
「……ゆうちゃ……」
「いっこだけにしなきゃ、りょうほうだめになるんだもん……キョーカイのひとがいってたの。ひとつまもるためになにかギセイにしなきゃだめなんだって」
「……協会の人間が?」
ポツリと問えばゆうちゃがコクリと頷くことでそれを肯定した。
協会――それは魔族が対峙する最大の組織。
どの国にも侵されず、干渉せず、その分野において有能な人間だけを集めた、魔王討伐のためだけに築き上げられた魔族にとって忌まわしき集団。
人間界の各国から名だたる武将達が勇者を名乗る際に許しを請うのが協会だ。そして勇者になりうる存在を育成するのも。
どの国もこぞって魔王討伐を目論み、その栄誉ある立場になるため力を持つ人間達が勇者として送り込まれてきた。そのたびに魔王は仲間を引き連れた勇者の一行を心からもてなしてきたのだ。
が、今回魔王の前に現れたゆうちゃは、その協会自体が送り込んできたのだという。
「ゆうちゃも、みんなまもるためにギセイしたもん」
先ほどの勢いはどこへ消えたのか、ゆるゆると語るゆうちゃの態度があまりにも不可解で、自然と眉間にシワが寄る。
「犠牲? 何を犠牲にしたの?」
静かに確認するよう魔王が厳かな声で尋ねても、ゆうちゃは臆する事なく逆にここにきて初めて戸惑いの色を浮かべながらもポツンっとその事実を口にした。
「ぱぱとまま」
初めて聞くその名前は、おそらくゆうちゃにとって特別なものなのだろう。ソレが何であるか誰よりも早く理解したのはメイド長だった。
「勇者様のお父様とお母様……ですか?」
家族と言う概念を持たない魔族でも、父親と母親という言葉の意味は理解している。それはつまり、魔族にとって魔王そのものだ。
メイド長の問いに対し、ゆうちゃは視線をあげないまま力なく頷いた。
「きょーかいのひとがいったの。ゆうちゃがゆうちゃになるために、ゆうちゃはぱぱとままと、ばいばいするの。ぱぱとままは、えんえんってないてたけど、でもゆうちゃがゆうちゃになることよろこんでた」
きゅっと唇を噛みしめたゆうちゃは何かを我慢するように、まるで自分に言い聞かせるようにそう言って。
「……ゆうちゃの、ぱぱとままは……どうしたんだい?」
ふんわりと湯気の立つ食事を目の前にしても、気になるのはそちらで。
魔王の言葉に初めてゆうちゃが過敏なまでにビクリと体を震わせたものの、膝に据えていた両手がギュッと握りしめられたのは魔王の死角になっていたために気づくことなどできなかった。
「……ぱぱとままとばいばいしたの。ゆうちゃがゆうちゃになるまえ。ぱぱとまま。さいしょはゆうちゃとばいばいするのいやだっていったの。そしたらきょうかいのひとたちが、ぼうをもってぱぱとままをたたくの。ぱぱとまま、いたいいたいって。でもゆうちゃをはなさなかったの」
呂律のまわりきらない幼いゆうちゃが、懸命に自分の知る言葉で自分の生い立ちを伝えた。
「ゆうちゃ、ぱぱとままがいたいいたいするのいやだったの。だからゆうちゃはゆうちゃになるっていったの」
――この幼い体に背負ったモノは、思っていたよりも重いものだった。
「……ゆうちゃ……それでも君は、協会の言いつけでここに来たよね? ゆうちゃは、協会に言われて僕を倒しにきたんだよね?」
確認するように魔王が悲痛交じりの声で尋ねれば、ゆうちゃは膝の上で握りしめていた手を強くして頷いた。
「きょーかいのひとさいしょこわかったの。でもゆうちゃがゆうちゃになるっていったら、みんなやさしくしてくれたよ?」
ぱっとはじけたように顔を上げたゆうちゃの表情は酷いものだった。
泣くまいと必死に笑みを浮かべてみせるものの、その身に背負った辛さは計り知れない。それでも笑顔を心がけるゆうちゃの姿に、魔王はただ目を細めるしかない。
「おいしいものたくさんたべて、かっこいーおようふくきせてくれた! せーけんもくれたの! ことばもおしえてくれた! けんのつかいかたも! ゆうちゃ、すごいの!」
辛さよりも喜びを必死に伝えようとするも、歪んだ笑顔からはその嬉しさが伝わらない。それどころか気丈なまでにふるまうこの小さな体のどこにその強かさを備えていたのか、それすら見えなくて。
「……ゆうちゃは、ひとりでココまで来たのか?」
新たに投げかけられた疑問に、ゆうちゃはえっ? と表情を変えた。今までの痛い笑みよりよほどいい。魔王の質問を脳内で反芻したゆうちゃはようやく理解したように答えた。
「とちゅうまできょーかいのひとといっしょ。でも、まぞくのとちにはいるまえに、きょーかいのひとはまぞくにやられちゃったの」
「……そうか」
一応、付き人は居たのだと少し安心した。
だがその様は報告は上がってきていないため、いささか妙だと眉をひそめる。ゆうちゃを目前としているにもかかわらず、自身の思案へと身を投じてしまった魔王に対し、ゆうちゃは不安気に魔王を見つめた。
「……まおー?」
おずおずと自分の様子を覗き込んでくるゆうちゃの姿に、魔王は我に返ってすぐに笑みを作った。
「……なんでもないよ。ごめんね。食事にしよう」
「うんっ! ゆうちゃおなかぺこぺこっ!」