いちっ!
さて、どうしたことか。
目の前で「うんしょ、うんしょ」と声をあげながら、必死に頑張っている幼児を、魔王はただ呆然と見つめていた。ぶかぶかの甲冑に身を包み、鞘に入ったままの剣を引きずりながら懸命に自分に歩み寄ってくるソレ。
「……なんだい? この生き物は?」
思わず魔王が呟けば、幼児は「むむっ」とうなりげて魔王を睨んだ。
睨んだのだがもちろん迫力はない。
むしろ萌えとか思った時点で魔王失格。
でも萌えるんだから仕方ない。
魔族が生息する世界――魔界を統べる魔王が住まう魔宮内において、謁見という制度はない。
魔王が存在する場所であるがゆえに安易に近づく阿呆は早々おらず、それは魔族にとっても命取りになる行為だ。稀に玉座を狙い魔王の首を狙う知能の低い魔族が存在しても、基本的に魔宮はいつでも誰でもウェルカム状態で門番や護衛と言った者が圧倒的に少ない。
本来は守られるべき立場にある絶対的存在の魔王の力が強すぎるからに他ならない。
どんな羽虫であっても魔宮に一歩足を踏み入れただけで、魔王は敏感にその気配を察知する。魔界であっても一歩外に出れば魔王というのは魔族に対しても畏れであり無意識に頭を垂れて崇拝すべき存在であるが故に、魔王は基本的に魔宮から出ない。
そのため暇を持て余した魔王は侵入者の気配を機敏に察すると、暇つぶしとばかりに玉座へ赴き呼びもしない客人を精一杯もてなすのだ。
今回もまた正門から堂々と登場した侵入者の気配を感じて魔王はピリリとした空気を己から発した。
普段であれば馬鹿な魔族が魔王の首を取らんと集団で押し寄せてくるものの、有り余る力を持つ魔王にとってそれは微々たるネズミが侵入してきたとしか思わない。
けれど今回の客人はただのネズミではない事を魔王はすぐさま察した。
己に匹敵するほどの圧倒的な力が魔宮に足を踏み入れた瞬間、退屈だった人生に気の利いたスパイスを送ってきた者が居たものだと密かにほくそ笑みつつ喜んだ。
久々に楽しむことが出来そうだとマントを翻しながら玉座の間に足を運び、やってくるだろう客人を楽しみに待っていたところ、ようやくやってきたのがコレだったのだ。
一体、この生き物はどうやってここまでたどり着いたのかとすら思う。ちゃんとした警備態勢がなされていないとはいえ、魔族が全くいないかと言えばはびこるほど居る。
特に力を持つ人型の魔族は魔王への忠誠心が強く、その身から無意識に発せられる魔力のおこぼれをあずかろうとうろついているはずだ。
こんな可愛い幼児だから危険性がないと判断したのかもしれない。
うん、きっとそうだ。
と、魔王は自身の中で結論付けたのだが。
「うぅ……せーけんおもくて……もてにゃいっ……」
高級絨毯に鞘を引きずった跡がついているけれど、むしろこの光景を眺めていられるなら安いもんだと思う。
「……うん、とりあえず、ココにたどり着くまで待っててあげるから、ゆっくりおいで?」
魔王の優しい心遣いに、幼児はまた「むぅっ」と唸った後に納得できないように叫んだ。
「むむっ! よゆーなかおをしていられりゅっ――」
……はて、どうしたことだろう。誰も口を挟んだ覚えはないのに目の前の幼児は言葉を詰まらせ、ウルウルと目を潤ませて「うぅっ」と声を零す。よほどのことがあったのか、苦しげな表情を浮かべた幼児に対し、魔王は思わず小さく首をかしげる。途端、幼児は自分の舌をベッと小さく口外へ出しながら涙目のままもう一度唸った。
「……ベロかんじゃった……」
痛かったらしい。
その様子を見ていた魔王は目を背けて口元を手で覆いながら、笑いをかみ締めているのだがその姿はどう見ても異様だ。
「ベロって……ベロって言ったよこの子……」
どうやら魔王のツボにストライクだった様子。
一体、どのツボを捕らえたのかは分からないが、諸君が感じたままの同じツボと考えていただきたい。
「……ククッ、で? この可愛い生き物なんだ?」
思わず脇で待機していた兵士の姿をしたガーゴイルに尋ねると、兵士は「はっ」と敬礼しながら答えた。
「勇者と名乗っております」
「勇者?」
コレが? と、魔王が思わず勇者と名乗る幼児を指差すと、幼児は潤んだ瞳をギッと睨みに変えてみせる。
再度言うが、その睨みに迫力はない。
個人差はあるが癒し、温もり、気分向上の効能が得られるということだけ明記しておく。
まるで温泉。ゆうちゃグッジョブ。
そんなゆうちゃを見て、魔王はひたすら悩んだ。
勇者の定義は自分が魔王だという理由から大体は理解していた。
理解していたのだが、目の前にいるゆうちゃは理解や知識の範疇を軽く飛び越えてしまった。もしくは自分の認識が甘かったのか。
「ゆうちゃをバカにちまちたねっ!」
突然、根も葉もない疑惑をかけられた魔王は思わず目を見開く。
「してないしてない。おーい、誰か、ゆうちゃにお茶を用意して」
「むむっ!? おちゃなんてちまちぇん! ゆうちゃはまおーをたおしに――」
「食の間でよろしいですか?」
ゆうちゃの言葉を遮るというより、存在自体を無視したようにメイドが魔王に尋ねる。その処遇にゆうちゃが再度涙目になったのは内緒だ。
「いや、ココで」
「かしこまりました」
ペコリと頭を下げてお茶の準備をするために退室してしまったメイド。それを見届けた魔王は「さて」と声を上げて、ようやく玉座より重い腰を上げた。
小さな勇者が思わず天を見上げたのも無理はない。勢い余って後ろに倒れそうになるほど顔をあげ、「ほわあぁ」と感心するような声がゆうちゃの口からこぼれてきたことに、魔王はクスッと笑みを浮かべる。
その反応は当然と言うべきか――魔王はどの魔族よりも素晴らしい体格を持っていた。
人間に近い姿をしているものの、人間には持ち得ないものが多く存在しているその姿。
ベルベット調の黒いマントに身を包み、銀色の艶のある長い髪がその上を波を打ちながら走っている。二メートル近い大きな体つきは人間そのものではあるが、引き締まった肉体は黒い衣類の下に隠れ、それをマントが覆っているため正確な目安はない。銀色の髪で覆われた頭部には左右対称に闘牛のような、美しくも鋼のように強い淡い褐色の角が生えていた。大きな先の尖った獣の耳がその角の下で小刻みに揺れ、玉座の肘掛に乗せられた手は大きく、長い爪を光らせている。あまり派手な装飾を好まない魔王ではあったが、生まれた時から持ち合わせたその姿だけで充分すぎるほどの威圧感を持ち合わせている。
魔王の鋭い紫瞳がゆうちゃの姿をとらえた。ゆうちゃはその瞳を食い入るように見つめ、口をあんぐりと開けたまま動かない。他の魔族よりも大きな体格を持っているのだ――幼児であるゆうちゃから見えれば、かなり巨大な生き物と対峙していることになるのだ。




