その2
ころりとドーンの大きな手のひらの中で銀の指輪が転がる。
「この指輪には精霊が封じられている」
ゆっくりとした説明は、風香の耳にもきちんと届いた。
同時通訳をしてくれる指輪は、どうやらドーンが手にしている時には風香の言葉をドーンへと翻訳して届けてくれているようだ。
「精霊……」
さらりと言われたが、なんだが乾いたものが風香の中を吹き抜けた。
封じられている――というのは、何かがひっついているという感じだろうか?
羽虫っぽいものが。
「われわれが使う魔法は、精霊魔法だ。精霊と契約し、対価を与え、その能力を貸してもらう。この指輪には精霊が封じられていて、主の命令の通りに動いている」
言いながら、ドーンは自らの手の平の上の指輪を掬い取り、風香の左手の薬指にすっとその指輪をはめ戻した。
「この指輪には、ここに戻る為の術印が刻まれていたのだろう。
だが……ひとつだけ判らないことがある」
ドーンはふっと視線を伏せた。
「この指輪があるというのに、何故、ヴィストは戻れるのに戻らなかったのか」
重苦しい言葉に、風香は指輪の輪郭をなぞりつつドーンの言葉に瞳を眇めた。
「戻る気に、なれなかったのか」
苦悩を滲ませるかのようなドーンの言葉に、風香は眇めていた瞳をぐるりと回し、天井を見た。
思い悩んでいる様子のドーンには大変申し訳ないが、祖父ちゃんが戻らなかった理由など簡単に推察できる。
「私が――」
苦悶の表情のハスキー犬のようなドーンの言葉を、思わず遮った。
「ものすごく深刻そうなところ申し訳ないですけど、単純な理由だと思います」
「風香?」
気げんな様子で視線を向けられ、風香は目元に掛かる髪をかきあげ、ふと苦笑を浮かべて左手を包むように祖父ちゃんの指輪をなぞった。
あの祖父ちゃんが自分の国にほいほいと戻らなかったその理由。
真剣に考えるのも莫迦らしい。
「だって、こっちには祖母ちゃんがいないから」
「ばあちゃん……」
「あ、この場合の祖母ちゃんは、祖父ちゃんの奥さんのタエさん」
タエさん、そう名前を風香が告げた時。
ふいに風香の指――薬指の指輪が熱を持ち、風香はその熱に慌てて指を凝視した。
『ヴィー』
その場に響いたのは、確かに祖母――タエの声で、風香は思わず指輪と、そして辺りとを確認するように視線をめぐらせた。
あわあわとまわりを見ても、勿論そこに祖母ちゃんの姿は無い。
ただ、淡く柔らかな声音が鼓膜を震わせた。
『ヴィー、おめさええ加減厠までこねでけろ』
……え、何これ。
『ヴィー、ほだらことせんとっ、せつねかっ』
「祖母ちゃんの声っ」
祖母ちゃんの――おそらく若い頃の祖母ちゃんの声が優しく、柔らかく降り注ぐ。
独特のお国訛りが、ちょっとだけ可愛らしくほほえましい。
驚愕に瞳を見開くと、ドーンが静かに応えた。
「この声の主が、ヴィストの妻――私の義姉か。指輪の中に生前の声を残し、ヴィストは大切にしていたのだろう」
その言葉に、風香はじわりと胸に漣がたつのを覚え、しんみりと指輪をなぞった。
祖父ちゃん、確かに頭おかしいくらい変な祖父ちゃんだったが、きっと心から祖母ちゃんのことを愛していたに違いない。
一人でこっそりとこの祖母ちゃんの言葉を耳にしながら、祖父ちゃんはきっと何度も何度も祖母ちゃんを呼び、一人寂しく――
『やめていうてるやろうが? なしてそげなことっ』
「……」
『ほっだらことっ』
「――」
風香の視線が大きく見開かれ、手の平の指輪がぷるぷると震えた。
『あ……っ、あ、やめっ、やめてけろっ』
「ちょっ、これどうやってとめるのぉぉぉ」
祖父ちゃん死にさらせぇぇぇっっっ。
大気圏に突っ込んで灰すら消滅しろっ。