その3
――本来であれば、ドーンに指輪のことを尋ねてみたかった。
たかが指にはめた程度で地球から「M69星雲」――便宜上――に飛ばしてくれた呪いの指輪。そして、今朝の状況からすれば、この指輪を身につけていると言語さえも超越するのだ。
「えっと、なんか所謂未来から来たナントカロボットが持ってそうな便利アイテムだよね」
左手薬指にはめ込んである指輪の表面をなぞりながらとぼとぼと歩いていると、風香はふっと自分の前に影が差すことに気づき、すいっとそれを避けようとしたが、避けた方向にソレが動く。
下げていた視線をあげた風香が目撃したのは、顔をしかめた横柄そうな男だった。がっしりとしたガタイで腕を組み、足を心持ひろげるようにして立つ様子はいじめっ子が通せんぼ状態。
眉間に縦皺が二つ。冷ややかなヘイゼルの眼差しに、瞳の色に似たさらさらの髪は後方に撫で付けられている。
……横柄なのは叔祖父だけで十分だのに。
「金」
ずいっと差し出された手の平に、風香は目を丸くした。
白手に包まれた手と、そしてむっつりとした男の顔とを見比べる。
風香は幾度かそれを繰り返し、
「すごい。身なりの良いカツアゲだ」
と、ぼそりと呟いてしまった。
そう、身なりはいい。
普通に中世を思わせるレース付きの無駄に装飾たっぷりのシャツにベスト、上着、首にはリボンタイまで巻かれている。
この世界ときたら、見ただけでは「中世に飛んじゃった?」と思わせるのだが、地球と確実に違うのは魔法が普通に存在している。
「誰がカツアゲだっ」
面前の青年は口元を引きつらせ、更に眉間の縦皺を深くする。
――うわ、カツアゲが翻訳されてる。
いったい現地の言葉ではどういう音なのだろうか。
なんだかどうでも良いところに引っかかった風香だった。
「ヴィスト、おまえ一週間で返すと言ったくせに一年も失踪しやがって! おまえのおかげで俺がどれだけ面倒なことになったか仔細もらさず日記に書き上げてるからなっ。音読させてやるから覚えていろ」
苛立ちを抱えていると思わしき青年は、突然ぐいっとその手を突き出し、風香の襟首を掴み上げた。
ってか、日記?
挙句、音読?
それってむしろ、自分の方が数倍恥ずかしそうなんですが。それに、なんという粘着質。
「今、まさに、返せっ」
――ってか、また祖父ちゃんかっ。
青年は片手で風香を締め上げ、もう片方の手で自分のポケットから一枚の紙を引っ張り出して風香の面前に突きつけた。
「借用書はきっちり有効だっ」
突き出された文面は――生憎と風香に読み取れるものではなかった。
奇奇怪怪な文様の連なり、そこではじめて風香は理解した。
うわっ、祖父ちゃんのナンデモ指輪ってば文字翻訳はしないっ。
へんなとこで不便っ。
手ぇ抜いてんじゃないよっ。
ぎりぎりと締め上げられながらおかしなところで冷静な風香だったが、面前の青年はチッと舌打ちした。
「噂通り、魔法の失敗で女になったみたいだな。身長も低いし、なんだよそのひょろっこい体に不自然なでっぱりは。
だからと言って俺が大目にみるとは思うなよ」
「クリストファー」
突然割って入った低い恫喝声に、横柄な青年はびくんっと反応した。早足でカツカツとやってきた声の主は、苛立ちもあらわに言い放つ。
「兄の借金なら私が払うと何度も申し入れている」
ぐいっと青年の手首を掴み、風香の背後から現れたドーンは強い力で風香と青年とを引き剥がし、風香をかばうように自らの肩を二人の間に押し入れた。
「俺が金を貸したのはヴィストだ。ヴィストに払わせるのが当然だろう。何より、人に金を借りておいて逃げたあげく、家に戻ったくせに俺に一言もないとはどういうことだ! ドーン、邪魔をするんじゃない」
叔祖父の背にまたしてもかばわれることに顔をしかめながら、風香は締め上げられてくしゃくしゃになってしまっていたシャツを手で直した。
口を挟んでいいものかどうか判らないが、二人の男がにらみ合っているのは――まんざら悪い構図ではない。
――私のために争わないで!
って、アホっぽい構図の上、争っているのは風香の為ではなく祖父ちゃんの為だが。
思わずこの場に祖父ちゃんがいたらと思うと腹立たしい。
もっとやれーの一言くらい、あのジジイは言うだろう。
とりあえずそんな糞ジジイは椎茸でも口に押し込んでおいたほうがいい。一生黙っていてくれるのであれば、更にピーマンも入れてやる。
バリエーションが増えたね、泣いて喜びやがれ祖父ちゃん。
「どうして兄が魔法の失敗で女になったなどという噂が流れているのか知らないが、コレはそもそもヴィストじゃない」
「人を謀っているのか?」
不愉快そうな眼差しがドーンではなく、風香を睨みつけてくる。
ヘイゼルの瞳には怒りがあふれ、風香はますます縮こまり、ドーンの上着の裾をひしりと掴んでしまった。
「こんなことで嘘をついても仕方ないだろう」
「そんなことで嘘をついても借金は帳消しにならないからなっ! ヴィストっ、貴様本当に近いうちに金を返しにこないと音読程度じやすまないような酷い目に合わすからなっ」
クリストファーと呼ばれた青年は、ずいっとドーンをよけて風香の肩口をぐいっと人差し指で押すと、ふんっと鼻息も荒く身を翻していってしまった。
「今の……なんですか?」
力任せに押された肩口の傷みに手を当て、顔を顰めながら――二人のやりとりには、思わずあっけにとられて口を挟みこめなかった風香だが、その背を見送りつつゆっくりとドーンへと問いかけると、面前の背中がくるりと翻った。
「そんなことより、おまえはいったい何をしているんだ」
「散歩ですよ、祖父ちゃん弟」
横柄で冷ややかな第二ラウンドの開始の合図に、先ほどまで母親の背に隠れる雛のように脅えていたことなど完全に忘れ、風香は鼻息も荒く受けて立った。